ドキュメント20min.「パンチパーマ史 〜時代を巻く者たち〜」 ― 2025-05-28
2025年5月28日 當山日出夫
ドキュメント20min. パンチパーマ史 〜時代を巻く者たち〜
パンチパーマについては、本格的に歴史を検証してみると、きっといろんな面白いことがあるにちがいない。WEBを検索してみると、いろいろとヒットするが、現代の再流行ということがメインのようだ。日本語版のWikipediaには、まだこれについての項目がないらしい。
この番組では、北九州の製鉄労働者から始まったということになっていたが、さて、どうなのだろうか。たしかに、汗をかくことの多い、労働者(男性)にとって、便利なものだったのだろう。
ビートルズが流行って、世の中の男性の髪の毛が長くなって、床屋さんの商売がなりたたなくなった……確かにこの時代は若い人はそうだったはずだが、すべての男性がということはなかったので、部分的に影響はあったはずだが、実際はどの程度だっただろうか。
パンチパーマが、実際にどのようにして作る(?)ものなのかは知らなかったので、なるほどそうしているのかと、これは面白かった。
しかし、男性のヘアスタイルの近現代史というのは、どれぐらい研究されている分野なのだろうか。
2025年5月26日記
ドキュメント20min. パンチパーマ史 〜時代を巻く者たち〜
パンチパーマについては、本格的に歴史を検証してみると、きっといろんな面白いことがあるにちがいない。WEBを検索してみると、いろいろとヒットするが、現代の再流行ということがメインのようだ。日本語版のWikipediaには、まだこれについての項目がないらしい。
この番組では、北九州の製鉄労働者から始まったということになっていたが、さて、どうなのだろうか。たしかに、汗をかくことの多い、労働者(男性)にとって、便利なものだったのだろう。
ビートルズが流行って、世の中の男性の髪の毛が長くなって、床屋さんの商売がなりたたなくなった……確かにこの時代は若い人はそうだったはずだが、すべての男性がということはなかったので、部分的に影響はあったはずだが、実際はどの程度だっただろうか。
パンチパーマが、実際にどのようにして作る(?)ものなのかは知らなかったので、なるほどそうしているのかと、これは面白かった。
しかし、男性のヘアスタイルの近現代史というのは、どれぐらい研究されている分野なのだろうか。
2025年5月26日記
ザ・バックヤード「京都鉄道博物館」 ― 2025-05-28
2025年5月28日 當山日出夫
ザ・バックヤード 京都鉄道博物館
録画してあったのをようやく見た。
私が昔から知っていることばいうと、ここは、うめこ、である。梅小路機関区の略称である。
蒸気機関車は、私が、高校生ぐらいのときまで実際に走っていた。京都近辺でも山陰線は、ながくSLであった。なんども乗っているので、はっきりいってあまりいい思い出はない。夏場、暑いのに、トンネルに入るたびに窓を閉めて我慢しなければならないのが、苦痛であった。山陰線に乗るとき、SLではなく、ディーゼル機関車だったりすると、ほっとしたというのが、体験的な記憶である。だから、蒸気機関車といわれて、郷愁を感じるということは、実はあまりない。
京都鉄道博物館として現在の形になる前に、子どもが小さかったころに、連れて行ったことは憶えている。
実際に蒸気機関車を動く状態で保存するというのは、とても大変なことだろうと思う。定期的なメンテナンスは欠かせないとして、部品はいずれ劣化するはずなのだが、そういう場合はどうするのだろうか。新しく作るとしても、たぶんそれを作る技術が継承されていないかもしれない。
昔の国鉄時代の営業にかんする史料が残されていることは、貴重である。昭和20年8月の広島支店の記録が、それまでの活版から、ガリ版に変わっていることは、象徴的である。こういうものはしかるべく残しておいてもらいたい。
昔、ここに行ったとき、御料車が展示してあったかと記憶するのだが、出てきていなかった。そのとき、連れて行った子どもが、これにはまったく興味を示さなかったので、そのことが印象に残って憶えている。まあ、御料車など、普通の子どもがみても面白いと思うものではないことは確かであるが。
2025年5月27日記
ザ・バックヤード 京都鉄道博物館
録画してあったのをようやく見た。
私が昔から知っていることばいうと、ここは、うめこ、である。梅小路機関区の略称である。
蒸気機関車は、私が、高校生ぐらいのときまで実際に走っていた。京都近辺でも山陰線は、ながくSLであった。なんども乗っているので、はっきりいってあまりいい思い出はない。夏場、暑いのに、トンネルに入るたびに窓を閉めて我慢しなければならないのが、苦痛であった。山陰線に乗るとき、SLではなく、ディーゼル機関車だったりすると、ほっとしたというのが、体験的な記憶である。だから、蒸気機関車といわれて、郷愁を感じるということは、実はあまりない。
京都鉄道博物館として現在の形になる前に、子どもが小さかったころに、連れて行ったことは憶えている。
実際に蒸気機関車を動く状態で保存するというのは、とても大変なことだろうと思う。定期的なメンテナンスは欠かせないとして、部品はいずれ劣化するはずなのだが、そういう場合はどうするのだろうか。新しく作るとしても、たぶんそれを作る技術が継承されていないかもしれない。
昔の国鉄時代の営業にかんする史料が残されていることは、貴重である。昭和20年8月の広島支店の記録が、それまでの活版から、ガリ版に変わっていることは、象徴的である。こういうものはしかるべく残しておいてもらいたい。
昔、ここに行ったとき、御料車が展示してあったかと記憶するのだが、出てきていなかった。そのとき、連れて行った子どもが、これにはまったく興味を示さなかったので、そのことが印象に残って憶えている。まあ、御料車など、普通の子どもがみても面白いと思うものではないことは確かであるが。
2025年5月27日記
時をかけるテレビ「写真の中の水俣〜胎児性患者・6000枚の軌跡〜」 ― 2025-05-28
2025年5月28日 當山日出夫
時をかけるテレビ 写真の中の水俣〜胎児性患者・6000枚の軌跡〜
録画してあったのをようやく見た。
私は、宮崎美子とほぼ同じころ、昭和30年(1955)の生まれなので、水俣病のことは、同時代のこととして、報道されていたことを憶えている。
見ていてもっとも印象に残ったのは、車椅子にのっている胎児性水俣病の人の前に現れた、外国からきた研究者が、自然にそのまえにかがんでひざまづいて握手していたシーンである。
こういう場合、相手と同じ目の高さで話をするというのが基本である……とは思う。だが、その一方で、それは、相手をかわいそうな人として見る視点(これはこれとして重要であると思うけれど)ともなりかねない。さて、どうするべきなのか、ということは、私としてはわからないままでいる。(一般に、看護とか介護とかの場面では、そうすることになるのであるが。)
昼間はパチンコ屋にずっといて、夕方になる居酒屋に行く。こういう生活を写すと、現代では、おそらく当時でも、批判的な目で見る人が、少なからずいることになる。好きでこういう生活をしているわけではなく、どうしようもなく、このような生活のあり方になってしまっている。仕事があるなら働きたい。だが、働ける場所がない。
このような人について、社会としては、保護、福祉、援助、ということで考えることになることになるが、その一方で、ある意味での無関心ということもあっていいのかもしれない。めくじらたてて批難することではない。しかし、サポートの窓口は、常に用意しておく。
だからといって、忘れてしまっていいということではない。今なお、その被害者の人びとがいるということは、常に意識の片隅においておくべきことである。
シンポジウムのタイトルのことが、問題となっていた。「調和」ということばが日本語訳のなかにはいっていないということが、問題視されていた。だが、これも、今日の視点から見ると、「産業」ということを最初に持ってきてあることが、問題になるだろう。産業と自然環境、人びとの生活、これが両立するかどうか、という方向に、ものを考える方向が変わってきている。
このような場合、当事者である人びとの言うことがすべて正しい、ということではないと私は思っている。だが、それは、その当事者の人たちが、自分の気持ちを十分に語ることが出来ている、ということが前提である。十分に語ることができていて、それでもなお、ことばにできない気持ちがあることについて、思いをいたさなければならない。
なお、水俣病について思うことは……昭和30年代から40年代のころ、日本の社会は大きく変わった。良くも悪くも、近代的で合理的になってきた。今日の価値観から見るならば、環境問題であり、人権問題として、とらえることになる。しかし、それまでの、(強いていうならばであるが)前近代的な地方の土着的な漁村の生活感覚からすれば、先祖代々からの普通の生活を保っていきたいという、非常に素朴な感情があってのことだと、私は思うところがある。「忘れられた日本人」としての生活感覚である。こういう感覚が、まだこの時代までは、この地域の人びとのなかには残っていたと感じる。それを、いきなり普遍化して、現代的な環境問題や人権問題で考えることには、私としては、いくぶんの違和感を感じるのである。
2025年5月25日記
時をかけるテレビ 写真の中の水俣〜胎児性患者・6000枚の軌跡〜
録画してあったのをようやく見た。
私は、宮崎美子とほぼ同じころ、昭和30年(1955)の生まれなので、水俣病のことは、同時代のこととして、報道されていたことを憶えている。
見ていてもっとも印象に残ったのは、車椅子にのっている胎児性水俣病の人の前に現れた、外国からきた研究者が、自然にそのまえにかがんでひざまづいて握手していたシーンである。
こういう場合、相手と同じ目の高さで話をするというのが基本である……とは思う。だが、その一方で、それは、相手をかわいそうな人として見る視点(これはこれとして重要であると思うけれど)ともなりかねない。さて、どうするべきなのか、ということは、私としてはわからないままでいる。(一般に、看護とか介護とかの場面では、そうすることになるのであるが。)
昼間はパチンコ屋にずっといて、夕方になる居酒屋に行く。こういう生活を写すと、現代では、おそらく当時でも、批判的な目で見る人が、少なからずいることになる。好きでこういう生活をしているわけではなく、どうしようもなく、このような生活のあり方になってしまっている。仕事があるなら働きたい。だが、働ける場所がない。
このような人について、社会としては、保護、福祉、援助、ということで考えることになることになるが、その一方で、ある意味での無関心ということもあっていいのかもしれない。めくじらたてて批難することではない。しかし、サポートの窓口は、常に用意しておく。
だからといって、忘れてしまっていいということではない。今なお、その被害者の人びとがいるということは、常に意識の片隅においておくべきことである。
シンポジウムのタイトルのことが、問題となっていた。「調和」ということばが日本語訳のなかにはいっていないということが、問題視されていた。だが、これも、今日の視点から見ると、「産業」ということを最初に持ってきてあることが、問題になるだろう。産業と自然環境、人びとの生活、これが両立するかどうか、という方向に、ものを考える方向が変わってきている。
このような場合、当事者である人びとの言うことがすべて正しい、ということではないと私は思っている。だが、それは、その当事者の人たちが、自分の気持ちを十分に語ることが出来ている、ということが前提である。十分に語ることができていて、それでもなお、ことばにできない気持ちがあることについて、思いをいたさなければならない。
なお、水俣病について思うことは……昭和30年代から40年代のころ、日本の社会は大きく変わった。良くも悪くも、近代的で合理的になってきた。今日の価値観から見るならば、環境問題であり、人権問題として、とらえることになる。しかし、それまでの、(強いていうならばであるが)前近代的な地方の土着的な漁村の生活感覚からすれば、先祖代々からの普通の生活を保っていきたいという、非常に素朴な感情があってのことだと、私は思うところがある。「忘れられた日本人」としての生活感覚である。こういう感覚が、まだこの時代までは、この地域の人びとのなかには残っていたと感じる。それを、いきなり普遍化して、現代的な環境問題や人権問題で考えることには、私としては、いくぶんの違和感を感じるのである。
2025年5月25日記
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