ドキュメント72時間「のぞき坂 東京の急な坂道で」 ― 2025-05-31
2025年5月31日 當山日出夫
ドキュメント72時間 のぞき坂 東京の急な坂道で
この回の撮影は、スタッフも大変だっただろうと思う。あの坂道を何回も登ったり下りたりしたかと思う。
ただの坂道があるだけで、特に食べ物屋さんとか、お店とかがあるわけではない。その坂道を通って通勤、通学する人がいる。あるいは、坂道を駆け登ることでトレーニングをするスポーツ選手もいる。自転車で登る人もいる。(自転車で、あの坂道はかなりハードだろうと思うが。)
ただ通る人に話を聞くだけで、いろんな人がいることになる。見ようによっては、東京の現代の縮図というような面も感じられる。
アニメの聖地であるらしいのだが、私は、アニメはまったく見ないことにしているので(別に嫌いなわけではないが、そこまで見ている時間が無いだけである)、どういう作品にどのように使われているのかは知らない。しかし、坂道というのは、絵になる場所である、ということは確かである。
ちょっと気になったこととしては、教育にかかわる仕事について、綺麗に語りすぎであると思うところがあった。
この番組もいろんな企画があるが、こういう場所を探してきたというのは、慧眼であったというべきであろう。
2025年5月24日記
ドキュメント72時間 のぞき坂 東京の急な坂道で
この回の撮影は、スタッフも大変だっただろうと思う。あの坂道を何回も登ったり下りたりしたかと思う。
ただの坂道があるだけで、特に食べ物屋さんとか、お店とかがあるわけではない。その坂道を通って通勤、通学する人がいる。あるいは、坂道を駆け登ることでトレーニングをするスポーツ選手もいる。自転車で登る人もいる。(自転車で、あの坂道はかなりハードだろうと思うが。)
ただ通る人に話を聞くだけで、いろんな人がいることになる。見ようによっては、東京の現代の縮図というような面も感じられる。
アニメの聖地であるらしいのだが、私は、アニメはまったく見ないことにしているので(別に嫌いなわけではないが、そこまで見ている時間が無いだけである)、どういう作品にどのように使われているのかは知らない。しかし、坂道というのは、絵になる場所である、ということは確かである。
ちょっと気になったこととしては、教育にかかわる仕事について、綺麗に語りすぎであると思うところがあった。
この番組もいろんな企画があるが、こういう場所を探してきたというのは、慧眼であったというべきであろう。
2025年5月24日記
100分de名著「“谷川俊太郎詩集” (4)こころとからだにひそむ宇宙」 ― 2025-05-31
2025年5月31日 當山日出夫
100分de名著 “谷川俊太郎詩集” (4)こころとからだにひそむ宇宙
最終回の最後で言っていたことが興味深い。谷川俊太郎の詩を読むと人と話したくなる。それについて、若松英輔は、読書はもともと一人でするものだけれど、という意味のことを言っていた。
そのとおりかなと思うが、しかし、詩をふくめて文学というもの、あるいは、芸術というもの一般についてもいえることだが、それが、きわめて個人的なものになってきたのは、近現代になってからのことである……ごく常識的な見解ではあるけれど。昔、古代においては、芸術は共同体の中にうまれ、その人びとによって享受されるものであった。詩もそうであるし、とくに、芸能(音楽、舞踊、劇など)は、特にそうだろう。無論、詩人の一人の人間の心の中は、うかがいしれない個別の深みがあるにちがいない。だが、それが、何か形をとって表現されたとき、詩人をつつみこむ共同体の中に存在するものである。いや、そのようにしか存在しえない。詩人の詩的体験は、ほんの一瞬で、ことばにすれば消えてしまうものであるが、ことばにすることによって、共同体にうけとめられ、あらたに人びとによって、詩の世界が再構築、再体験されていく。
文学が文字に書かれるようになり、書物になり、個人の読書になり……その結果、作者と読者という関係の中で文学を考えるようになった。これが、近現代の文学や読書のあり方である。いわゆる読書史的な視点から考えるならば、こういうことができるだろう。逆に、古代については、芸能史(強いていえば折口信夫のような)の視点から考えることになる。
谷川俊太郎の死生観については、汎神論的仏性論……に通じるものがあるかと感じる。
2025年5月31日記
100分de名著 “谷川俊太郎詩集” (4)こころとからだにひそむ宇宙
最終回の最後で言っていたことが興味深い。谷川俊太郎の詩を読むと人と話したくなる。それについて、若松英輔は、読書はもともと一人でするものだけれど、という意味のことを言っていた。
そのとおりかなと思うが、しかし、詩をふくめて文学というもの、あるいは、芸術というもの一般についてもいえることだが、それが、きわめて個人的なものになってきたのは、近現代になってからのことである……ごく常識的な見解ではあるけれど。昔、古代においては、芸術は共同体の中にうまれ、その人びとによって享受されるものであった。詩もそうであるし、とくに、芸能(音楽、舞踊、劇など)は、特にそうだろう。無論、詩人の一人の人間の心の中は、うかがいしれない個別の深みがあるにちがいない。だが、それが、何か形をとって表現されたとき、詩人をつつみこむ共同体の中に存在するものである。いや、そのようにしか存在しえない。詩人の詩的体験は、ほんの一瞬で、ことばにすれば消えてしまうものであるが、ことばにすることによって、共同体にうけとめられ、あらたに人びとによって、詩の世界が再構築、再体験されていく。
文学が文字に書かれるようになり、書物になり、個人の読書になり……その結果、作者と読者という関係の中で文学を考えるようになった。これが、近現代の文学や読書のあり方である。いわゆる読書史的な視点から考えるならば、こういうことができるだろう。逆に、古代については、芸能史(強いていえば折口信夫のような)の視点から考えることになる。
谷川俊太郎の死生観については、汎神論的仏性論……に通じるものがあるかと感じる。
2025年5月31日記
100カメ「“朝ドラ”あんぱん 日本の朝に元気を届ける!舞台裏」 ― 2025-05-31
2025年5月31日 當山日出夫
100カメ “朝ドラ”あんぱん 日本の朝に元気を届ける!舞台裏
これまで「100カメ」では、大河ドラマの撮影現場はとりあげてきたが、朝ドラは初めてである。たしかに、100カメという取材の方法でないと作ることのできないテーマかもしれない。
興味深かったのは、撮影セットがある期間。スタジオの中につくるわけだが、それを使える期間が決まっていること。つまり、それに合わせて脚本を書かなければならない。同時に、脚本に合わせて、セットを維持して、必要が無くなったら、次のセットに変えなければならない。
この期間にかなり余裕を持って先を見通せないと、ドラマの進行に無理が生じることになる。結果として、無理な作り方をする。それを感じたのは、『虎に翼』の後半のあたりがそうだったし、『おむすび』でも終わりの方になると、なんかぎこちない展開になっているところがあって、たぶんセットを用意できるかどうかということに起因しているのだろうなあ、とは思って見ていた。
『虎に翼』は始めの方はきちんと作ってあった。最初の回の、寅子の部屋の本棚にあったのは、『放浪記』『女の一生』だったが、映ったのは一瞬だった。しかし、このような本を読む女学生であるということは、その後の展開に意味を持つはずだったが、残念ながら、かなり無理な方向に脚本が流れてしまっていた。終わりの方の星の家と猪爪の家の部分は、はっきり言って手抜きで作ったとしか感じられなかった。強いていえば、ストーリーの展開を、無理に限られたセットのなかに押し込んでいたと感じられたのである。(よく出来ていると思うドラマは、このセットのやりくりについてぎこちなさを感じない。)
『あんぱん』も、小道具などで、その時代……昭和の初めごろの高知の田舎町……の雰囲気を出そうとしていることは分かるのだが、しかし、今の多くの視聴者が感じるところと、私などが感じるところでは、かなりちがってきているところがあると思う。別に善し悪しの問題ではないが、昭和の戦前を舞台にしても、その時代の記憶がなんとなく残っているころと、希薄になってしまった現代とでは、画面からただよってくるものが自ずとちがってくる、これはいたしかたないことかとも思う。
『あんぱん』を見ていると、作っている側は頑張って作っていることは分かるのだが、それがドラマとして説得力のあるものになっているかどうか、見るものの共感をよぶかどうか、これは微妙なところがあると思っている。
ドラマのこれからで一番重要な部分は、嵩が出征して戦地でどのような体験をするか、という部分であるはずだが、はたしてこれはどう描かれることになるだろうか。
それから、方言指導の場面で、アクセント(番組の中ではイントネーションと言っていたが)について、説明するとき、標準的な日本語のアクセントの中では、このパターンと同じだから、という説明をしていた。これは、今でも、各地にいろんな方言がありアクセントの多様性はあるのだが、標準的な日本語のアクセントは一般に浸透しているということがあってのことになる。特に、俳優という仕事をするならば、まず標準的なアクセントで話せることが必須であるとも言っていいにちがいない。
2025年5月27日記
100カメ “朝ドラ”あんぱん 日本の朝に元気を届ける!舞台裏
これまで「100カメ」では、大河ドラマの撮影現場はとりあげてきたが、朝ドラは初めてである。たしかに、100カメという取材の方法でないと作ることのできないテーマかもしれない。
興味深かったのは、撮影セットがある期間。スタジオの中につくるわけだが、それを使える期間が決まっていること。つまり、それに合わせて脚本を書かなければならない。同時に、脚本に合わせて、セットを維持して、必要が無くなったら、次のセットに変えなければならない。
この期間にかなり余裕を持って先を見通せないと、ドラマの進行に無理が生じることになる。結果として、無理な作り方をする。それを感じたのは、『虎に翼』の後半のあたりがそうだったし、『おむすび』でも終わりの方になると、なんかぎこちない展開になっているところがあって、たぶんセットを用意できるかどうかということに起因しているのだろうなあ、とは思って見ていた。
『虎に翼』は始めの方はきちんと作ってあった。最初の回の、寅子の部屋の本棚にあったのは、『放浪記』『女の一生』だったが、映ったのは一瞬だった。しかし、このような本を読む女学生であるということは、その後の展開に意味を持つはずだったが、残念ながら、かなり無理な方向に脚本が流れてしまっていた。終わりの方の星の家と猪爪の家の部分は、はっきり言って手抜きで作ったとしか感じられなかった。強いていえば、ストーリーの展開を、無理に限られたセットのなかに押し込んでいたと感じられたのである。(よく出来ていると思うドラマは、このセットのやりくりについてぎこちなさを感じない。)
『あんぱん』も、小道具などで、その時代……昭和の初めごろの高知の田舎町……の雰囲気を出そうとしていることは分かるのだが、しかし、今の多くの視聴者が感じるところと、私などが感じるところでは、かなりちがってきているところがあると思う。別に善し悪しの問題ではないが、昭和の戦前を舞台にしても、その時代の記憶がなんとなく残っているころと、希薄になってしまった現代とでは、画面からただよってくるものが自ずとちがってくる、これはいたしかたないことかとも思う。
『あんぱん』を見ていると、作っている側は頑張って作っていることは分かるのだが、それがドラマとして説得力のあるものになっているかどうか、見るものの共感をよぶかどうか、これは微妙なところがあると思っている。
ドラマのこれからで一番重要な部分は、嵩が出征して戦地でどのような体験をするか、という部分であるはずだが、はたしてこれはどう描かれることになるだろうか。
それから、方言指導の場面で、アクセント(番組の中ではイントネーションと言っていたが)について、説明するとき、標準的な日本語のアクセントの中では、このパターンと同じだから、という説明をしていた。これは、今でも、各地にいろんな方言がありアクセントの多様性はあるのだが、標準的な日本語のアクセントは一般に浸透しているということがあってのことになる。特に、俳優という仕事をするならば、まず標準的なアクセントで話せることが必須であるとも言っていいにちがいない。
2025年5月27日記
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