100分de名著「アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち」 ― 2025-06-27
2025年6月27日 當山日出夫
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち
この月のような本の場合、それについて語ることは、どうしてもポジショントークになりがちなので、どのような歴史的文脈のなかで、この本が書かれて読まれてきて、その評価は、賛否をふくめてどうだったか、というようなことは語られることはないと思っている。だから、その語られた内容について、ことさら否定的なことを言おうとは思わない。だが、賛否のある作品であるということについては、きちんと言っておくべきだろうとは思う。
興味深かったのは、聖書を読むことを禁じられていたが、文字を覚えて、聖書のテクストを読むことが可能になって、それまで、音声言語で語られていた内容が、新たに文字を媒介として、まったく別のものとして出現する……これは、歴史的に見れば、カトリックの歴史のなかで、聖書が印刷された書物になって広く一般に読まれるようになって、プロテスタントの信仰がはじまる……このような流れを、あらためてなぞっているかのようである。
ただ、聖書のことばというのは、そもそも文字に書かれることを前提としていたのだろうか、という疑問もある。端的にいえば、イエスは文字を書いたのか、ということでもある。同じことは、仏教についても、イスラムについても、儒教についてもいえるはずである。啓典は、文字に書かれることによって啓典としての「権威」を得る、このようにいってもいいかもしれない。
その文字のテクストが、再度、音声言語として新たな価値を見出すようになる……このようなことを思ってみると、いろいろと考えるところがある。
2025年6月26日記
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち
この月のような本の場合、それについて語ることは、どうしてもポジショントークになりがちなので、どのような歴史的文脈のなかで、この本が書かれて読まれてきて、その評価は、賛否をふくめてどうだったか、というようなことは語られることはないと思っている。だから、その語られた内容について、ことさら否定的なことを言おうとは思わない。だが、賛否のある作品であるということについては、きちんと言っておくべきだろうとは思う。
興味深かったのは、聖書を読むことを禁じられていたが、文字を覚えて、聖書のテクストを読むことが可能になって、それまで、音声言語で語られていた内容が、新たに文字を媒介として、まったく別のものとして出現する……これは、歴史的に見れば、カトリックの歴史のなかで、聖書が印刷された書物になって広く一般に読まれるようになって、プロテスタントの信仰がはじまる……このような流れを、あらためてなぞっているかのようである。
ただ、聖書のことばというのは、そもそも文字に書かれることを前提としていたのだろうか、という疑問もある。端的にいえば、イエスは文字を書いたのか、ということでもある。同じことは、仏教についても、イスラムについても、儒教についてもいえるはずである。啓典は、文字に書かれることによって啓典としての「権威」を得る、このようにいってもいいかもしれない。
その文字のテクストが、再度、音声言語として新たな価値を見出すようになる……このようなことを思ってみると、いろいろと考えるところがある。
2025年6月26日記
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