『べらぼう』「灰の雨降る日本橋」 ― 2025-06-30
2025年6月30日 當山日出夫
『べらぼう』「灰の雨降る日本橋」
この回の演出は、大原拓なのだが、よほど暗い画面が好きと見える。それで悪いとは思わないのだが、日曜日の昼に、『八重の桜』の再放送から続けて見ていると、画面の暗さが、より際立っている。
吉原の誰袖の出てくるところとか、日本橋の丸屋の店内での蔦重とていのシーンとか、とにかく画面が暗い。まあ、だからこそ、誰袖(福原遥)やてい(橋本愛)の魅力が引き出せているともいえるのだが。
浅間山が噴火した。歴史のこととしては、浅間山の噴火、天明の飢饉、というようなことがあって、最終的に田沼意次の時代は終わることになる。浅間山の噴火のときに、江戸でも灰が降ったことは、たしか記録にもあったことだと覚えているが、実際には、どのようなことだったのだろうか。番組の終わりの紀行のときに、この災害のことでもとりあげるかと思っていたが、そうではなかった。
灰が降って、雨樋がつまらないように防ぐというのは分かることなのだが、屋根瓦を動かしても大丈夫だったのだろうか。この時代、実際に江戸の人たちが、どんなふうに対策を講じていたのか、史料は残っているかと思うが、気になるところである。
灰の降った日本橋の町の様子を、上から俯瞰して撮る、というのはまさに現代の技術ならではのドラマの演出かと思う。
うつせみは無事だったろうか。
降り積もった火山灰を川に捨てて大丈夫だったのだろうか。
最終的に、蔦重は、ていと祝言をあげることになる。これが吉原の座敷での盃ごとであったが、実際はどうだったのだろうか。演出の都合でこういうことになったのかとも思うが、ここは日本橋の丸屋の店であった方が、自然であったような印象でもある。鶴屋が祝いに暖簾を持ってくるのも、同じ日本橋の町内であった方が、自然かもしれない。悪所とされた吉原に、わざわざ祝いの品を持っていくということが、脚本で言いたいことかとも思ったりもするが。
祝言のシーン。ていは白無垢だったが、髪にさしていたかんざしは鼈甲だった。見た目には地味だが、とびっきりの贅沢である。
浅間山の噴火の灰の処理のとき、遊びにする……ということを蔦重は言っていた。これは、このドラマの展開としては重要なキーワードであるにちがいない。そして、私として気になるのは、「遊び」といったときに、『手鎖心中』(井上ひさし)の最後のところの登場人物の台詞が、どうしても思いうかぶ。言うまでもないが、『手鎖心中』は、蔦重の時代の戯作者たちを描いている。このドラマの脚本が、井上ひさしの小説を知らずに書いているとは思えないのだが、はたして、「遊び」ということが、これからどういう意味をもってくるのだろうか。
2025年6月29日記
『べらぼう』「灰の雨降る日本橋」
この回の演出は、大原拓なのだが、よほど暗い画面が好きと見える。それで悪いとは思わないのだが、日曜日の昼に、『八重の桜』の再放送から続けて見ていると、画面の暗さが、より際立っている。
吉原の誰袖の出てくるところとか、日本橋の丸屋の店内での蔦重とていのシーンとか、とにかく画面が暗い。まあ、だからこそ、誰袖(福原遥)やてい(橋本愛)の魅力が引き出せているともいえるのだが。
浅間山が噴火した。歴史のこととしては、浅間山の噴火、天明の飢饉、というようなことがあって、最終的に田沼意次の時代は終わることになる。浅間山の噴火のときに、江戸でも灰が降ったことは、たしか記録にもあったことだと覚えているが、実際には、どのようなことだったのだろうか。番組の終わりの紀行のときに、この災害のことでもとりあげるかと思っていたが、そうではなかった。
灰が降って、雨樋がつまらないように防ぐというのは分かることなのだが、屋根瓦を動かしても大丈夫だったのだろうか。この時代、実際に江戸の人たちが、どんなふうに対策を講じていたのか、史料は残っているかと思うが、気になるところである。
灰の降った日本橋の町の様子を、上から俯瞰して撮る、というのはまさに現代の技術ならではのドラマの演出かと思う。
うつせみは無事だったろうか。
降り積もった火山灰を川に捨てて大丈夫だったのだろうか。
最終的に、蔦重は、ていと祝言をあげることになる。これが吉原の座敷での盃ごとであったが、実際はどうだったのだろうか。演出の都合でこういうことになったのかとも思うが、ここは日本橋の丸屋の店であった方が、自然であったような印象でもある。鶴屋が祝いに暖簾を持ってくるのも、同じ日本橋の町内であった方が、自然かもしれない。悪所とされた吉原に、わざわざ祝いの品を持っていくということが、脚本で言いたいことかとも思ったりもするが。
祝言のシーン。ていは白無垢だったが、髪にさしていたかんざしは鼈甲だった。見た目には地味だが、とびっきりの贅沢である。
浅間山の噴火の灰の処理のとき、遊びにする……ということを蔦重は言っていた。これは、このドラマの展開としては重要なキーワードであるにちがいない。そして、私として気になるのは、「遊び」といったときに、『手鎖心中』(井上ひさし)の最後のところの登場人物の台詞が、どうしても思いうかぶ。言うまでもないが、『手鎖心中』は、蔦重の時代の戯作者たちを描いている。このドラマの脚本が、井上ひさしの小説を知らずに書いているとは思えないのだが、はたして、「遊び」ということが、これからどういう意味をもってくるのだろうか。
2025年6月29日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/06/30/9785818/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。