『母の待つ里』(4) ― 2025-09-22
2025年9月22日 當山日出夫
『母の待つ里』 第四回
浅田次郎の原作は読んでいる本なのだが、第四回(最終回)になって、かなり改変してある。しかし、見ていて、小説としての表現と、テレビドラマとしての表現、それぞれにあっていいと思うし、違和感があるということにはなっていない。このあたりは、脚本と演出のうまさということになる。
これまでの回と違いを感じるのは、桜の花が出てきていないことである。第一回から第三回までは、桜の花が映っていた。満開の桜、桜吹雪などがうまく使われていたが、第四回になると、桜が一切映っていない。季節としては、まだ桜の咲く前の冬、三月のころ、という設定になるだろうか。
満開の桜は、死をイメージさせるものであるが、それを、これまでの回で使っておいて、最終回になってまったく出さないというのは、非常に意図的に、そのように作ってあるということになる。強いていえば、桜の花で、ちよの死を美化したくないということになると解釈していいだろうか。
また、文楽の人形も使っていない。これまでは、ちよの語る昔話(現在の一般のことばいえば、民話ということになるが、民俗学用語としては、このことばはもちいない)、を幻想的に文楽の人形で表現していた。桐竹勘十郎がたくみであった。この回で出てきた、ちよの語る話しは、伝承されてきた昔話というのではなく、実際の体験談(かもしれない)、ということになるので、人形を使わないことで、そのことを表現していたと理解していいだろう。
原作もそうだし、このドラマもそうなのだが、なんとなく柳田国男の『先祖の話』などにつらなる、むかしながらの死生観を感じるところがある。柳田の場合、はっきり祖霊ということをいっているのだが、現代のドラマとしては、そこをはっきりといいきることはない。しかし、死者の記憶を語り継ぐことの意味ということでは、かなり古風ともいえる死生観の表現になっているかと感じる。(ここのところも、かなり現代的にアレンジしてあるところにはなるが。)
思い出として語り継ぐべき死者としては、ちよ自身の体験もあるし、ちよのいる村をおとずれたカード会社の顧客であった人たちも、つぎに、ちよの記憶を語り継ぐことになる。
しかし、登場したカード会社の顧客であった人たちのことを、その死後に語り継ぐべき次の世代のことは、原作にも、ドラマにも、出てきていない。だから、最後の、中井貴一のバスの中の科白ということになるのかと思う。未来を語っているようでいて、どこか自嘲的である。自分はちよのことを憶えているのだが、次に自分の死後、自分のことを憶えていてくれる次の子どもたちの世代はいるのだろうか。
それは、子ども(血縁者)にかぎらない。擬似的な親子(カード会社のサービスの顧客で)であってもいいし、また、地域などの共同体であってもいい。しかし、そういうものが、もはや期待できない時代に今はもうなってしまっている……しかし、そうであってもなお、人間には故郷が必要であり、そこで待っていてくれる母をもとめるものである。
アルゴス(のこ)がとても可愛い。
そして、このドラマのいいところは、ちよの家のセットの説得力である。なんだかものがごちゃごちゃとおいてあるのだが、決して適当に並べたというのではなく、そこで生活している人がいて、自然とそうなっている、という雰囲気で、ものがいっぱいおいてある。このセットのいろんな小道具が作り出す雰囲気が、とても効果的である。こういうところに手を抜かないできちんと作るということが、このドラマをいいものにしている大きな要因である。
こまかなことだが、家の中の土間が、本物の土間として映っている。
2025年9月21日記
『母の待つ里』 第四回
浅田次郎の原作は読んでいる本なのだが、第四回(最終回)になって、かなり改変してある。しかし、見ていて、小説としての表現と、テレビドラマとしての表現、それぞれにあっていいと思うし、違和感があるということにはなっていない。このあたりは、脚本と演出のうまさということになる。
これまでの回と違いを感じるのは、桜の花が出てきていないことである。第一回から第三回までは、桜の花が映っていた。満開の桜、桜吹雪などがうまく使われていたが、第四回になると、桜が一切映っていない。季節としては、まだ桜の咲く前の冬、三月のころ、という設定になるだろうか。
満開の桜は、死をイメージさせるものであるが、それを、これまでの回で使っておいて、最終回になってまったく出さないというのは、非常に意図的に、そのように作ってあるということになる。強いていえば、桜の花で、ちよの死を美化したくないということになると解釈していいだろうか。
また、文楽の人形も使っていない。これまでは、ちよの語る昔話(現在の一般のことばいえば、民話ということになるが、民俗学用語としては、このことばはもちいない)、を幻想的に文楽の人形で表現していた。桐竹勘十郎がたくみであった。この回で出てきた、ちよの語る話しは、伝承されてきた昔話というのではなく、実際の体験談(かもしれない)、ということになるので、人形を使わないことで、そのことを表現していたと理解していいだろう。
原作もそうだし、このドラマもそうなのだが、なんとなく柳田国男の『先祖の話』などにつらなる、むかしながらの死生観を感じるところがある。柳田の場合、はっきり祖霊ということをいっているのだが、現代のドラマとしては、そこをはっきりといいきることはない。しかし、死者の記憶を語り継ぐことの意味ということでは、かなり古風ともいえる死生観の表現になっているかと感じる。(ここのところも、かなり現代的にアレンジしてあるところにはなるが。)
思い出として語り継ぐべき死者としては、ちよ自身の体験もあるし、ちよのいる村をおとずれたカード会社の顧客であった人たちも、つぎに、ちよの記憶を語り継ぐことになる。
しかし、登場したカード会社の顧客であった人たちのことを、その死後に語り継ぐべき次の世代のことは、原作にも、ドラマにも、出てきていない。だから、最後の、中井貴一のバスの中の科白ということになるのかと思う。未来を語っているようでいて、どこか自嘲的である。自分はちよのことを憶えているのだが、次に自分の死後、自分のことを憶えていてくれる次の子どもたちの世代はいるのだろうか。
それは、子ども(血縁者)にかぎらない。擬似的な親子(カード会社のサービスの顧客で)であってもいいし、また、地域などの共同体であってもいい。しかし、そういうものが、もはや期待できない時代に今はもうなってしまっている……しかし、そうであってもなお、人間には故郷が必要であり、そこで待っていてくれる母をもとめるものである。
アルゴス(のこ)がとても可愛い。
そして、このドラマのいいところは、ちよの家のセットの説得力である。なんだかものがごちゃごちゃとおいてあるのだが、決して適当に並べたというのではなく、そこで生活している人がいて、自然とそうなっている、という雰囲気で、ものがいっぱいおいてある。このセットのいろんな小道具が作り出す雰囲気が、とても効果的である。こういうところに手を抜かないできちんと作るということが、このドラマをいいものにしている大きな要因である。
こまかなことだが、家の中の土間が、本物の土間として映っている。
2025年9月21日記
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