『チョッちゃん』(2025年9月29日の週)2025-10-05

2025年10月5日 當山日出夫

『チョッちゃん』2025年9月29日の週

蝶子たちは、駅前で食堂をはじめる。最初は、行商のおばさんたちのお昼のご飯を炊く請負の仕事だったのだが、それが、食堂(昔風の言い方をすれば、一膳飯屋)になり、お客さんがやってくる。

最初は、困っている人(昼ご飯の準備に困る行商のおばさん)を助ける親切心ではじめたことなのだが、それが、そのまま商売につながっている。人に親切にすることと、商売が、矛楯していない。こざかしく儲けようという気持ちではない。こういうあたりの描き方が、このドラマのいいところである。

みさ母さんも手伝おうとするのだが、見ていると、はっきりいって邪魔であるとしか見えない。それでも、この疎開先での慣れない商売をはじめたばかりの中に、みさ母さんがいることで、全体の雰囲気がなごむ。このドラマにとってとても重要な存在となっている。

そこに、神谷先生と安乃が来る。東京から北海道に帰る途中で、安乃が気分が悪くなって途中下車したのが、たまたま諏訪ノ平だった。安乃は、赤ちゃんができたようである。二人は、頼介の遺骨を運ぶ途中だった。フィリピンで戦死である。

神谷先生たちの話しを聴いて、蝶子やみんながしんみりとしているところで、富子おばさんが、ご飯のしたく、と言って席を立って行った。ただ、これだけのことなのだが、実にうまい脚本であり演出だと感じる。こういうときに、ただ悲しい表情をするだけではなく、それでも日常の仕事がある、ということであり、また、富子おばさんとしても、その場に居つづけるのがつらいということもあっただろう。このようないろんな人間の感情が錯綜するところを、何気ない日常的な科白と行動で、うまく表現している。

食堂にやってきた復員兵が、戦争で家族もなにもかもなくして、どこへ行くあてもないという。この時代、こういう復員兵が、決してめずらしくはなかった時代である。その復員兵が、ユーモレスクを口ずさむ。中国で、バイオリンの演奏を聴いて憶えたという。この話しをきいて、蝶子は、要にちがいないと確信する。ユーモレスクは、そう珍しい曲ではないと思うのだが、このドラマの中では、要所要所で、きわめて効果的に使われることになる。

役所の人がやってきて、許可がなければ食堂の営業はできないとされる。蝶子たちは困ってしまうことになる。が、ともかく、行商のおばさんたちのお昼ご飯を炊く仕事は続けることになる。

そこへ、産業組合の所長がやってきた。蝶子に見合い話である。この時代としては、戦争で家族を失ったり、まだ消息が分からなかったり、さまざまな事情をかかえた人が多くいた。その時代を思ってみると、蝶子のところに見合い話を持ってきたのは、善意である。これが、今の時代に作るドラマだったら、見合い話を持ってきた組合長を、女性の人権をないがしろにする悪人のように描いてしまうことになるだろう。

しかし、このドラマでは、そうなっていない。この時代における人間の善意のあり方の一つとして、戦後のころはこういう時代だった、という描き方になっている。いや、このドラマが作られた1980年代は、まだ、こういう描き方ができた時代だったということになるかもしれない。

無論、蝶子は、見合い話は断り、東京にもどる決意をする。そのための資金稼ぎに、行商の仕事を始めることになる。

戦後の時代、人びとが、どんな生活の感覚で生きてきたか、それを、人間の善意を肯定的に描くということになっている。だからといって、世の中に悪人がいないわけではないのだが、それを描いていないからといって、もの足りないという感じがまったくしない。こういう作り方ができているというのが、このドラマの魅力なのだろうと思う。

2025年10月4日記

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