『豊臣兄弟』「墨俣一夜城」2026-03-02

2026年3月2日 當山日出夫

『豊臣兄弟』「墨俣一夜城」

墨俣一夜城……これは、伝説の領域のことなので、ドラマとしてあつかってもいいとは思うが、この回は、成功したといえるのだろうか。まあ、迫力あるシーンだったが。

この時代に、油をつかった、このドラマのような戦術がありえたかどうか、というのは、ヤボということなのだとは思う。ここを割りきって見れば、面白いと思う人もいるだろう。(揮発性のあるガソリンなどだったら、つまりこの時代の油では無理、ということぐらいは、思ってもいいだろう。)

しかし、私には、ここを割りきって、フィクションだからいいとするとしても、全体の流れが、今ひとつしっくりとこない。

墨俣一夜城がどうやって作ったものなのか。
実は、それはおとりであって、作戦の目的は別のところにあった。
しかし、その作戦の本命というところは、敵に見抜かれていた。(ここで、竹中半兵衛が登場。)

こういうことになるのだろう。

私が見ていて納得いかないのは、この時代を生きた人間としての、秀吉と秀長を、どんな人間として描きたいということなのか、ということが、伝わってこないからである。

従来の「太閤記」であれば、秀吉一人のこととして描くことを、弟の秀長をふくめて二人のこととして描くということになっている。二人の基本的な人間の違いがあり、そうであっても、兄弟の関係ということがあってと、錯綜するところがある。ここの部分が、なるほどそういうことがあってもいいと、納得できる描き方になっていない。

秀吉は、農民出身で、織田信長につかえて武士になり、今は侍大将ということになっている。農民出身ということで農民のことをどう思っているのか、武士とはどんな存在だと思っているのか、今ひとつ分かりにくい。現代だと、この時代の農民と武士の関係を、支配者と被支配者ということだけで考えることは、無理かもしれない。(歴史の結果として、検地があり、刀狩りがあるのだが、それにいたる布石が今から用意してあって描かれているとは、感じられない。)

秀長については、史料が少ない。だから、ウソはいくらでも書ける。しかし、このドラマの脚本は、ウソのつきかたが下手である。

ドラマの展開として、いわゆるドンデン返しが繰り返されても、それはそれでいいのだが、しかし、最後にはカタルシスがなければならない。それが、このドラマには、決定的に欠如している。

2026年3月1日記

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