よみがえる新日本紀行「ヘルンの面影 〜島根県松江〜」 ― 2026-04-04
2026年4月4日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「ヘルンの面影 〜島根県松江〜」
オリジナルは、昭和47年(1972年)である。
ちょうど私が高校生のころのことになる。このころ、小泉八雲の『怪談』は、普通に読まれる本だったと記憶している。今では、いろんな新しい訳が出ている。
松江における小泉八雲の足跡としては、知られているところを巡っている。城山稲荷、八重垣神社、月照寺、大雄寺、など。(これらは、『ばけばけ』にも出てきていた。)
昭和47年だと、まだ、子どものころの小泉八雲と遊んだ経験のあるおばあさんが存命だった。小泉八雲が、松江に来たのは、明治23年だから、ぎりぎりそういう人がいてもいい時代である。
このころは、まだ街中に下駄屋さんがあった。もう今の生活では、下駄は、ほとんど見かけなくなったものである。(別に下駄をはいて歩いてもいいのだが、外に出て、近所の草花の写真を撮るのには、サンダルで十分だし、下駄を穿いて、しゃがんで地面すれすれの花の写真を撮るのは難しい。それに、下駄では、自動車を運転できない。)
城山稲荷のところで、いい狐と、悪い狐、と言っていた。悪い狐は、狐憑きになる。狐憑きということは、今では、もう言わなくなった。これも、狐憑きについての研究が、私の学生のころにあって、農村地域における経済格差を反映したものである、という説が語られていたのだが、今は、どう考えられるのだろうか。
現代の部分では、小泉八雲と同時に、松江尋常中学校の同僚だった、西田千太郎の旧居のことが、大きくとりあげられていた。歴史的に見て、西田千太郎のような、地方知識人という存在が、日本の近代の社会の中ではたした役割ということがあるのだろうと思うが、どれぐらい研究されているのだろうか。東京などの都市部にいた、学校の教員だったり、ジャーナリストだったりは、多く資料が残っているのだが。
ちなみに、小泉八雲が熊本の五高の教師をしていたときの同僚であった、秋月悌次郎は、会津藩出身の漢学者ということになる。『八重の桜』では、忠義の念のあつい会津藩士ということで、出てきていた。このような人たちが、明治になってから、日本の各地で、学校(私塾をふくめて)で、どんなことを教えていたのか、知られるべきことかなと思う。
2026年4月1日記
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