名将たちの勝負メシ「小泉八雲」2026-05-04

2026年5月4日 當山日出夫

名将たちの勝負メシ「小泉八雲」

『ばけばけ』関連の番組ということになる。

ラフカディオ・ハーンがアメリカにいて、いろんな職業を転々としていたことは知られている。このころ、料理の本も書いている。

ガンボ、というのは、クレオール料理ということだったが、いろんな民族が一緒になっているということでいいだろう。ザリガニを食べる文化があって、お米を食べる文化があって、こういう料理になったのかと思う。味付けがシンプルという印象はある。

日本で、八雲が好んだというマグロのへそ。心臓である。小泉八雲が日本にいたころ、マグロという魚はどうだっただろうか。江戸時代までは、さして高級な魚ではなかったことは、よくいわれている。その心臓の部分を焼き鳥のようにして食べるというのは、海辺の料理料理という感じである。

私が見ていて興味深かったのは、小泉八雲とセツの手紙。ヘルンさんことばで書かれている。表記はカタカナである。カタカナは、日本語の側からみれば、英語の表音表記に適していたということになるだろうし、英語の側からみれば、小泉八雲が覚えることができたのがカタカナということになるだろう。

カタカナには異体字が少ない。ひらがなのように変体仮名で書かれていて読めないということが、あまりない。それでも時代による変化はある。画面に映っていた範囲で観察すると、「ネ」のカタカナ字体として、「子」が使われていた。これは、かなり近年まで使用されていたものである。

2026年5月1日記

『太平記』「危うし足利家」2026-05-04

2026年5月4日 當山日出夫

『太平記』「危うし足利家」

日曜日の昼間に『太平記』と『豊臣兄弟』を続けて見ていると、私の感覚ではということになるが、『太平記』の方がずっと面白い。動乱の時代に生きる人間、権謀術数の中に生きる人間、というのは、こういうものだよなあ、とつくづく思うところがある。

強いていえば、『豊臣兄弟』は、表現が過剰なのである。登場人物がどう思っているか、どう感じているか、それは見るものの想像力で感じることであって、無理矢理、演技や演出や台詞で説明的に描くものではないだろう。(こういうのが、分かりやすいと好きな人もいるかとは思うけれど。)

父親の貞氏(緒形拳)が、寡黙ながら非常に存在感がある。発想が古めかしいと言われればそれまでなのだが、やはり男は黙っている方がいい。(こういうのは、このごろだと「正しくない」と批判されるのだが。)

この回でも、藤夜叉たちの旅芸人の一座が出てきている。鎌倉の幕府の内紛劇を、武士ではない社会階層の人から見ればどうなのか、という視点の設定がある。

2026年5月3日記

『豊臣兄弟!』「小谷落城」2026-05-04

2026年5月4日 當山日出夫

『豊臣兄弟!』「小谷落城」

前半に戦国時代のあれこれ……武田信玄の死亡のこと、三方ヶ原の戦い、足利義昭の追放、朝倉氏一乗谷のおわり、など……を詰めこんでおいて、後半で小谷城の落城のこと、その中で、市と浅井長政、藤吉郎と小一郎、これをじっくりと描こうというのは、分かる。映像の作り方としても、前半部分が、とにかく短いカットでめまぐるしく切り替えながら進めていって、小谷城のところで、比較的長いカットでじっくり見せる、こういう意図で演出したことは、そうなのだろうと思う。

だが、これが成功したかどうかとなると、私は、共感しない。

特に、日曜日のお昼に、『太平記』の再放送と『豊臣兄弟!』を続けて見ると、そのドラマの作り方の違いが、大きく感じられる。『太平記』では、落ち着いた演出と台詞でありながら、それぞれの人物像と、歴史の中での役割ということを、描いている。ここには、見るものが、想像力をはたらかせて見る余裕がある。

しかし、『豊臣兄弟!』は、見るものが、想像力をはたらかせる余地を与えない作り方をしている。こういう方針は、私は、あまり好きではない。

短いカットを次々と切り替えて見せる合戦シーンなど、なぜこの登場人物は戦っているのだろうか、戦いながら何を思っているのだろうかと、見るものが、想像する余地をあたえないように作ってある。演出の意図は、分かるつもりでいるし、また、映像としても非常にきれいなのだが、見ながら考える、想像してみる、という部分がないドラマは、つまらない。

小谷城の落城のところになると、逆に、台詞や演技が過剰である。感情の表現が強すぎるし、また、台詞も説明的でありながら、いったいどういう思考回路なのか分からないところもある。そして、そこで表現されている感情が、兄と妹、夫と妻、義理の兄と弟、というような人間関係で、いかにも現代的なのである。戦国の武将だったら、こうだったかもしれない、という一種の古めかしさというところがない。これは、意図的に、こういう脚本にしてあるのだろうが、戦国時代ドラマとして見ると、私は、共感するところがない。もう、コントをやっているとしか思えない。そこには、戦国武将の心性を感じるところがない。義理と人情ということになるが、これを、落城する小谷城でやっても、どうかなと思うだけである。

小谷城落城ということで、このドラマの年間の前半の見せ場が終わったということなのだろう。オープニングも、次週の予告も省略だった。紀行はあったけれど。

『豊臣兄弟!』のこれまでを振り返ってみるとであるが、始まったときは、藤吉郎と小一郎が、異なるキャラクターであることを強調していた。しかし、その後の流れの中で、だんだん二人の違いがなくなってきた。もう今では、二人の片方がいなくても十分になりたつドラマになっている。何のために、これまでの「太閤記」とは違って、小一郎という人物を主人公に持ってきたのか、意味がなくなっている。

最初の方では、ドラマの中で、銭が多く出てきていた。戦国時代ドラマで、具体的に銭が登場することはあまりなかったかと思うので、このドラマは、かなり斬新な視点で、戦国時代を描くのかと期待していたのだが、これは、まったく裏切られた。銭で敵方を調略するというようなこともあっていいかと思うのだが(これも、無用な戦闘を避けるための知恵であるが)、それでは、人間の心(忠誠心)をお金で買うのか、と批判されることになるのかもしれない。でも、それでいいではないかとも、私は思う。利害損得であり、あるいは、一族の生き残りでもあり、いろんな要素があって、戦国の武将も動いていたはずである。「自分の一族ファースト」であって、何が悪いのだろう。そのような戦国武将をたくみにたばねて味方につけていったのが、藤吉郎であり、小一郎であっていいのかとも思うが、今からドラマの歴史観の路線変更は難しいだろうか。

たぶん、次の見せ場は、本能寺の変ぐらいのことになるだろう。

百姓出身の藤吉郎と小一郎という設定であるのだから、当時の百姓である階層の人びとには、天下統一の過程が、どう見えていたのか、このあたりを、最新の歴史学の研究を踏まえて描くことも出来るかもしれないとは思うが、どうなるだろうか。

2026年5月3日記