『豊臣兄弟!』「さらば半兵衛」 ― 2026-06-15
2026年6月15日 當山日出夫
『豊臣兄弟!』「さらば半兵衛」
裏切られるやつが愚かでバカなのである……というのは、そのとおりとしかいいようがないのだが、これまでの、このドラマのストーリーの展開からすると、なんとなく唐突な印象がある。おそらくは、この後の本能寺の変に向けての伏線とおもえば、そうかなと思うところでもあるが。
この回は、竹中半兵衛の死と、松寿丸のこと。どちらも史実としては、はっきりしていることであるとして、それを、無理にからませようとして、(私の目には)失敗しているようにしか思えない。
荒木村重もそうなのだが、この時代の国衆とか地侍というような人たちは、いったい何のために戦っているのか、武士でありつづけているのか。これを現代的な目で見れば、そのイエの存続をかけて、といっていいのかもしれない。このごろでは、「文明としてのイエ社会」ということは、さっぱり言われなくなってしまったが、私の思うに、日本の歴史や社会を理解するうえで、かなり有効な議論の一つであると思う。
生野銀山の銀で、つまりはお金で、調略するというのは、さもありなんと思うのだが、それならそれで、戦国の時代の、経済や商売などのことを、これまでにきちんと描いておくべきだったかと思える。ただ、お金(銀であり金であり)があったとしても、それで買える商品が流通していないと、何の意味もない。
松寿丸の一件は、秀吉と小一郎にとっては、主君の信長を裏切ることになる。これまでの、この二人の信長への忠誠心は、どのようなものだったか。ここで、あえて命令に背いてまで、黒田官兵衛を大事にしておきたかった、その理由が説得力を持って描かれているとは思えない。信長はそう長くは続かない。いずれ倒れるときがある。そのときのためにそなえて、黒田官兵衛との関係を維持しておきたかった、ということでもいいかと思う。
どのような「太閤記」を描きたいのかはっきりしないのだが、それでも、いわゆる司馬遼太郎的な戦国時代ではない。より先進的なもの、時代の先を見たものが、生き残る。時代の変化を読むことができないものは、ほろんでいくしかなかった。大雑把にいって、このような考え方で、斉藤道三・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、という流れを描いたのが、司馬遼太郎ということになると、思っている。
これまでのところ、信長も、また、秀吉と小一郎の二人も、時代の変化をいち早く先取りして動いているようには見えない。生野銀山を手に入れたことは、調略のための資金であったことになるが、それ以上に、経済的な実力をつけたことになると思うのだが、そうはなっていない。
どうせフィクションの戦国時代ドラマであるとして、これが、昔のドラマだったら、忍者が出てきて活躍したと思うのだが、このドラマではまったく出てきていない。別に出てこなくてもいいようなものかもしれないのだが、長浜の松寿丸をめぐって、忍者の暗躍ということがあってもいいし、これはこれで面白いドラマになるかと思ったりもするのだが、しかし、そうすると、視聴者から批判があるということなのかとも思う。
結局、光秀に裏切られることになる信長は、おおうつけ、ということになるのでいいかなと思うが、さて、これからどうなるだろうか。
2026年6月14日記
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