3か月でマスターする人体「(12)未来の私たち」2026-04-11

2026年4月11日 當山日出夫

3か月でマスターする人体「(12)未来の私たち」

最終回であるが、内容が盛りだくさんすぎる気がする。

私なりに整理すると、生命を共時的に見るか、通時的に見るか、という視点の問題かと思える。

共時的に見るならば、生命のメカニズム、それは、基本的には物質の化学反応ということの、非常に複雑で精緻な組み合わせということになるかと思う。生命とそうでないことの境目は、おそらく生命が生命として自律的に存在し続けるということのなかにあるのだろう。

通時的に見るならば、生命が、細胞を単位とするとしても、それはいずれは死んでいくのだが、そのコピーをどう残すかということになるだろう。そのコピーの残し方として、遺伝子というものを生み出すにいたったということであり、また、細胞が時間とともに特定の機能をはたすように変化していくということになる。

細胞の変化が、特定の機能へと変わっていく一方通行のプロセスを、逆にもどすことができるようになったのが、iPS細胞であるという説明は、これは非常に説得力があると感じる。

これを、生命が持っている本来の働きを見つけ出したことと考えるのか、あるいは、生命のありかたへの、人工的な介入であると考えるのか、ここから先は、かなり難しい問題かもしれない。

この回で、おそらく意図的に省いていた内容としては、意識の継承の問題。生命の単位……それを細胞で考えるとして、あるいは、生きものの形で考えるとして……の時間的な連続性、継承、ということがある。では、そこで、意識というものは、どうなるのだろうか。意識も、究極的にには、脳における化学反応のかたまりとして理解するか、あるいは、膨大な情報のかたまりとして理解するか、だろうと思うが、それは、なぜ同一の生命の中で連続しているのか、それは、異なる生命に継承することができるものなのか、ということが、問題としてあるだろう。

これは、手塚治虫の『火の鳥』で語ることのできるテーマであると同時に、現代では、AIの可能性として語らねばならなくなっているということもある。

2026年4月9日記

よみがえる新日本紀行「花祭り二十一郷 〜愛知県・奥三河〜」2026-04-10

2026年4月10日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行「花祭り二十一郷 〜愛知県・奥三河〜」

オリジナルは、昭和45年(1970年)である。

私の場合は、ということになるが……どうしても、折口信夫のことを思ってしまう。(半世紀前、慶應義塾大学文学部の国文科の学生で、折口信夫を読んだ。ただ、その後の自分の勉強としては、日本語の文字や表記についてという方向になったのだが。)

奥三河の設楽の花祭りは今でも継続していて、検索してみると、いろいろと情報が出てくる。しかし、今になって、観光客として見に行きたいとはまったく思わない。

見ながら思ったことは、今から一世紀ほどの昔、折口信夫は、花祭りを見て、何を感じていたのだろうか。その結果は、「全集」をひもとけば文章として残っていることであるし、また、その後の日本の民俗学や文学研究に大きな影響を与えたことでもある。

どうしても、並々ならぬ想像力、直感、ということを感じることになる。

ただ、番組として見ると、昭和45年の時代でも、奥三河の地域では、人口の流出があり、場合によっては、村落がダムの底にしずんだり、あるいは、村がまとめて廃村にして人が出ていくということがあった。

(近代になってから、いろんな事情があるにしても、村をまるごと捨てて廃村にした事例の研究というのは、どれぐらいあるのだろうか。こういうことは、これからの日本のことを考えるうえでも、重要な研究だと思う。)

それでも、昔ながらの様式で花祭りを守っていく人びとの姿の記録、また、その時代の農山村の記録として見ると、とても貴重である。特に、花祭りそのものよりも、番組の最後の方で出てきていた、山の中での仕事のこと……小屋の中での食事の様子とか、山から切り出した木材の運搬の様子とか……こういうことの方が、ある意味では貴重な記録かもしれない。花祭りが、どのような生活の中でうけつがれてきたのか、ということが重要なことである。ただ、その行事を残すだけではなく、その基盤として、人びとの生活と心性を考えることが大事だと思っている。男性が、シシの肉、と言っていたが、これはおそらくは鹿のことかなと思う。ナタで野菜を切って鍋に入れているのも、豪快である。ナタをこれほど切れるまでに研いで使うのは、よほどの熟練である。

現在では、花祭りも継続しているが、変わった部分もある。場所を固定して(昔は、家々のもちまわりだった)、準備の時間も長くとって、さらには、女性の参加も認めている。(昔は、女性が踊ることはなかったということでいいのだろう。)

2026年4月8日記

NHKスペシャル「富士山大噴火 迫る“灰色の悪夢”前編」2026-04-10

2026年4月10日 當山日出夫

NHKスペシャル「富士山大噴火 迫る“灰色の悪夢”前編」

前編を見て思うことを思いつくまま書いてみる。

碍子ということばを久しぶりに目にしたかと思う。昔は、普通の家でも、屋内の配線などで、天井裏などに使われていたものであるが、もうすっかり姿を消している。火山灰が雨にぬれると電気を通すので、碍子があっても漏電してしまう危険がある。そのため、電気を止めなければならない。これは、場合によっては、大規模に発生する可能性がある。

もしものときに必要となるものとしては、まず、電気である、というのが今の時代である。

そういえば……福島の原発事故をうけて、たかが電気、といった名言(?)があったが、実際に富士山の噴火をシミュレーションしてみても、再び、たかが電気、という人が出てくるだろうか。

雪が積もっても、とければH2Oである。しかし、降り積もった火山灰は、液体となってとけて流れるということはない。その処理の手間暇、コストは、膨大なものになるだろう。(これは、次回の後編のことなのかと思うが。)

スマートフォンも使えなくなる。基地局がストップしてしまう可能性がある。

だからといって、スターリンクということにはすぐならないのが、今の日本なのかとも思う。

自動車がEVなら非常時の電源として使えることは確かだが、こういうことは、今のハイブリッド車でも可能な車種があるはずである。なにも、富士山噴火などの災害にそなえて、EVに変える必要はない。いや、そもそも給電網がはたらかなければEVも無用の長物である。充電できなくなったEVはゴミ以下である。むしろ、ガソリンでもなんとかなるハイブリッド車の方が、非常時には強いというべきかもしれない。(これも、ガソリンの供給、道路の確保ということがあってのことになるが。)

停電でも電話は通じる、というのは私は知っていることだが(実際に経験したこともある)、今の時代になると、固定電話を持たない人が増えていることは、あらたな社会的な問題というべきかもしれない。

2026年4月8日記

どえらい大学「日本大学芸術学部」2026-04-10

2026年4月10日 當山日出夫

どえらい大学「日本大学芸術学部」

日本大学芸術学部には、一回だけだが行ったことがある。

非常にうまく設計されたキャンパスであると感じた。駅から歩いて行って、キャンパス内に入るとき、塀と門がない。道路から、連続するかたちでキャンパス内の広場につながっている。

しかし、キャンパス内に入ると、外とは違った空間に入ったと感じるようになっている。

私の考え方が古いのかとも思うが、大学というところは、外の世界(世俗の領域といってもいいが)とは、隔絶された、特殊な空間であり、そこには、外とは異なる価値観があって、異なる時間の流れがある、そう感じさせるところがなければならないと思っている。いいかえると、キャンパスは、その空間の魅力がなければならない。(こういう意味のことを、昔、語っているのが、夏目漱石の『三四郞』における東京帝国大学の描写である。)

多くの場合、大学のキャンパスには、塀があって囲ってあり、門がある。その門をくぐると……結界を越えると……そこには、外の世界とは違った価値観の世界がある。その門として印象的なのが、東京大学の赤門であり、慶應義塾大学の幻門である(もう、今では無くなってしまったけれど)。

一方で、現代の新しい考え方の大学キャンパスでは、意図的に、外の世界と連続するように作ってあるところもある。私は、こういうところは、好きになれないでいる。

日本大学芸術学部のキャンパスの場合、塀や門はないけれど、つまり、非常にオープンなのだが、その中に入ると、異次元の空間にはいったかのような印象がある。全体の設計が、非常に巧みであると感じたものである。

授業の現場で、アニメを作るのは、この大学ならではのことだろう。今でも、アニメの絵を描くのには、四角いA4ぐらいの紙で穴が空いているものを使う(専門的には、この紙には名前があるのだろうが)。これは、アニメ制作の現場で用いてきたものである。そして、オリジナルの絵を描こうとすると手描きであるというのは、やはり大事なことかとも感じる。ただ、それを、実際のアニメーションにするときには、今だったら、AIを使ったりすることになるかと思うが、番組の中では、こういうことは触れていなかった。

大学の中に劇場がある。こういう設備があってこそ、実際の仕事を学べるということである。それは、役者ばかりではなく、演出や、美術、小道具、照明や音響など、舞台にかかわるあらゆる領域で、実地に学ぶことができる。

番組の趣旨ではないかもしれないが、この大学を卒業した学生は、いったいどんなところに就職するのだろうか、ということが気になるところである。意外と、一般の企業が多いのかな、という気はしているが。

2026年4月7日記

映像の世紀バタフライエフェクト「昭和天皇 後編 現人神から象徴へ」2026-04-09

2026年4月9日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト「昭和天皇 後編 現人神から象徴へ」

前編と違って、この回で名前が出ていたのは、加藤陽子。

前編から見ていて、出てきていなかったこととしては、明治憲法の制約のもとでは、天皇はベトーと言えなかった……これは、通説ということになるかもしれないが、昭和天皇のことを考えるときには、避けてとおることはできないことにちがいないと思っている。歴史の仮定として、もし昭和天皇が、ベトー(否)と言っていたら、太平洋戦争は起こらなかった……かもしれない、ということはありうるだろう。だが、その場合には、天皇自らがよりどころとしていた、明治の帝国憲法の規定……天皇機関説になるが……に背くことになったはずである。

さらに、歴史のもしもとして、太平洋戦争の後に、昭和天皇が退位していたら、ということも考えられる。私としては、その方が、日本国と国民に対するけじめという意味では、すっきりしたものになったかもしれない。しかし、昭和天皇が、象徴と変わって、在位しつづけたことで、いわゆる戦争責任をせおったまま、昭和という時代とととも終わりになってしまったという気もする。

あるいは、戦後の歴史のなかで、退位した天皇、いや昭和上皇とでもいった方がいいか、をかつごうとするクーデタなどが、あり得たかもしれない。

ところで、現在の憲法学では、象徴天皇と、明治憲法における天皇(天皇機関説を採用するとして)は、どのような連続性/非連続性、を考えることになるのだろうか。

昭和天皇の大喪の礼のときのこととして記憶していることがある。それは、宗教と国家についての、とてつもなくくだらない議論である。鳥居があって神官の装束をした人がいると宗教儀礼であるが、それでなければ、宗教儀礼ではない……今から考えても、いや、この時代でも、普通に考えて、ものすごくくだらない議論であるのだが、昭和から平成になったときには、大真面目に議論されたことである。このとき露呈してしまったのは、日本という国家では、宗教ということが、本当に考えられてきていない、ということである。このまことにくだらない議論のあげくが、その後の日本社会の中で、おこった宗教がらみのいくつかの事件に繋がっているように思えるし、また、現代における、移民・外国人問題にもつながっていると感じるところである。

2026年4月7日記

ブラタモリ「皇居・江戸城本丸跡▼徳川幕府が築いた天下泰平の秘密に迫る!」2026-04-09

2026年4月9日 當山日出夫

ブラタモリ「皇居・江戸城本丸跡▼徳川幕府が築いた天下泰平の秘密に迫る!」

ブラタモリで皇居の中に入るといっても、そんなに特殊な場所まで入りこんだということではない。あまり一般には知られていないが、基本的にはオープンになっている部分、という理解でいいだろうか。

見ながら思ったことがいくつかある。

江戸城の石垣などが、天下普請ということで、大名たちに仕事をやらせたということである。それは、その賦役で、大名の経済力をそぐ目的ということだったのだが、しかし、お城の普請を、ひょっとすると敵になるかもしれないような大名にやらせるというのは、危険きわまりないことかもしれない。江戸城の石垣とか、門とか、通路とか、これらの情報ををさらけ出すことになる。軍事的な観点から見て、はたして大丈夫といっていいのだろうか。(この意味では、もう江戸城に攻め込んでくるような敵は、もういないはずだ、ということだったのだろうか。)

それから、知りたいのが、天守台などで使われているとてつもなく大きな石は、どうやってはこんだのだろうか。また、きっちりと組み合わせるために、巨大な石を加工する技術とは、どんなものだったのだろうか。

江戸城の天守は、火事で焼けたが、再建されなかったということの方が重要ということになるのが、今日の歴史学での考え方かと思う。巨大な天守を必要としない、江戸城であり、また、江戸幕府であり、江戸の街であった、ということになる。

2026年4月7日記

ドキュメント20min.「絶対に正体を明かさない画家 山本一雄」2026-04-09

2026年4月9日 當山日出夫

ドキュメント20min.「絶対に正体を明かさない画家 山本一雄」

見てまず思うことは、山本一雄という画家が、長島愛生園にいる、という情報だけで十分だと思うのだが、しかし、今の時代だと、どうしても最低限の説明は必要ということだったのかと思う。説明があって邪魔だということではないが、どれだけのことを説明的に語るかは、難しい判断かなとは思う。私は、長島愛生園というだけで、ほぼ事情は理解できるかと思うのだが、分からない人もいるにはちがいない。

面相筆は、細い線を描いたりするときに使う筆であるが、それで、油絵の具をこってりと塗り重ねるというのは、技法としても、かなり特殊なのかなと思う。油絵というのは、絵の具の盛り上がりが立体的である。絵画ではあるが、平面ではなく、立体(3D)である。作品全体の構図や色調もいいのだが、一つ一つの絵の具の盛り上がりが、描いている人の情念を感じさせる。

2026年4月7日記

世界のドキュメンタリー「見えない通信 暗号化アプリをめぐる攻防」2026-04-08

2026年4月8日 當山日出夫

世界のドキュメンタリー「見えない通信 暗号化アプリをめぐる攻防」

2024年、フランス、ベルギー、ドイツ。

まったく中立で透明な技術というのは、現実の人間の社会の中ではありえない。それを、どのように使うかを決めるのは、人間である。一般的にいえば、このようになる。

この場合だと、通信の自由と秘密ということと、犯罪の防止や捜査、ということの対立である。犯罪といっても、麻薬取引もあれば、テロもあることになる。タテマエとしては、通信の秘密を守るということは言っておきながら、それと同時に、通信の傍受、暗号の解読ということも、実際にはあると思っておいた方がいいだろう。

昔だったら、エニグマを破ったチューリングは英雄ということだったのだが、今では、どうだろうか。相手が誰であるかによって、その業績が判断されるということでいいのだろうか。

言うまでもなく、暗号の技術は、軍事や外交の重要な要素になっている。(だからこそ、最も大事なことは、直接、人と人があって話しをする。あるいは、クーリエということになる。)

ただ、言論の自由ということと、通信の秘密ということとは、必ずしも直接にかかわることではないかもしれない。まったく無関係ということではないが。ここのところが、最大の問題かとも思う。

麻薬犯罪の捜査だから、通信の傍受と暗号解読は正当なものであるとして、これが、テロや要人暗殺計画だったら、どうなるだろうか。また、もっと日常的なものとして、オンラインでのショッピングなどもある。

どのような立場や状況であるかによって判断は分かれることだろう。ただ、暗号を作ることと、それを解読することとは、一つのことの裏表であるといことは、たしかなことだろう。

2026年4月3日記

芸能きわみ堂「江戸の粋と熱気!舞踊「勢獅子」の世界」2026-04-08

2026年4月8日 當山日出夫

芸能きわみ堂「江戸の粋と熱気!舞踊「勢獅子」の世界」

江戸の街のお祭り(山王祭)を題材にして舞踊が作られるということ自体が、とても面白い。それだけ、山王祭が、江戸の人びとにとってポピュラーだったということでいいのだろうか。

強いていえば、江戸の人びとにとっての江戸の表象……ということになるのかもしれない。この意味では、浮世絵などの世界と通じるものがあったのだろう。

粋、という美的な感覚も、時代とともに変わってきているとは思うが、このような舞台の中で表現された美意識は、ある種の普遍的な性格があるといっていいかもしれない。舞台として、それだけ洗練されたものになっているという意味である。

場面として、曽我物語に題材をとったところがあった。曽我物語は、今では、一般にもう読まれない作品になっている。江戸の人びとにとっては、書物で知るというよりも、なんとなく日常の中で覚えていることなのだろう。今の時代に、太閤記を、書物の知識として知っている人は、たいていは、司馬遼太郎によるかなと思う。もう、吉川英治を読もうという人もいないだろう。でなければ、NHKの大河ドラマなどの影響である。

2026年3月30日記

サイエンスZERO「ヒトの医療研究がネコも救う! ネコとヒトの深イイ関係」2026-04-08

2026年4月8日 當山日出夫

これを見ていたとき(録画)、リビングのホットカーペットの私の隣では、我が家で飼っているうちの最も高齢のネコが、寝そべっていた。あまり外に出ないで、ほとんど家の中ですごしている。

むか~し、家の敷地の中で黒猫を二匹ひろった(ひろったとしかいいようがない)。まっ黒な二匹であったが、数年前、ほぼ同時に亡くなった。十数年以上は生きたことになる。獣医さんに長い間かよっていたが、腎臓の病気ということだった。

これも、今だったら、もう少し長生きできたのかと思う。

ネコとヒトとの関係で番組を作ってあったが、動物を実験用に使うのが普通なのから(マウスなど)、ネコの病気とヒトの病気と、相互に関連して、医薬品の開発などがあるのは、当たり前のことだろうと思う。むしろ、医学、獣医学、薬学、生命科学のいろんな分野の、情報の流れと、研究の組織のあり方の問題かもしれないとは思う。

(だが、これも、これから、AIが論文を読んでくれる時代になると、研究の異分野の知見を参照することは、容易になってくるということはあるかとも思う。)

抗ウイルス薬の基礎研究ということは、必要なことであるが、いつ起こるかもわからない次の感染症対策として、どこまでやれるのかということは、まさに、国力の問題だろう。だいたい基礎研究のほとんどは、(直接は)役に立たないということでいいと思うのだが、今は、大学も、稼げる大学でなければ生き残れないという時代になってきている。

2026年4月4日記