「もしものプライス あの歴史全力で見積もってみた!」2024-04-03

2024年4月3日 當山日出夫

もしものプライス あの歴史全力で見積もってみた!

テレビの番組表でたまたま見つけたので録画しておいた。なかなか面白かった。まあ、どこまで信用できるかということについては、疑問に思わないでもないが、しかし、江戸時代の参勤交代がいかに大変なことであったか分かる。

仙台藩の場合、参勤交代の片道だけで、だいたい数億円の費用がかかったということでいいのだろう。そして、帰りの道中もある。さらには、江戸の藩邸の維持費用その他、経費は膨大なものになったと考えられる。

このあたり、日本の近世史研究では、どのように研究されているのだろうか。最新の歴史学の知見も知りたいところである。

参勤交代があることで、道中で落としてくれる金をめあてにしていた小藩があったというのは、面白い。

ともあれ、参勤交代ということで、日本中の交通、通信のインフラ整備、また、道中での様々な消費活動、さらには、江戸と地方の往復による人とモノの様々な交流、これらを総合的に考えるならば、決してマイナスばかりだったとはいえないことになる。

近世の封建制度の歴史のみならず、経済、文化、社会、広範囲にわたって考える価値のあることになる。

少なくとも数百人規模の集団が道中を旅したことになる。その旅行のプランをたたて実行するという実務能力もまた、歴史的に評価していいのではないかと思う。

番組の中に出てきていた、甲冑を作る職人。いまでも作る人がいるということに、ちょっと驚いた。修理をする人はいるだろうと思ってはいたのだが。

2024年3月31日記

「舟を編む ~私、辞書つくります~」(7)2024-04-03

2024年4月3日 當山日出夫

舟を編む ~私、辞書つくります~ (7)

ドラマのなかで、「遣らずの雨」が出てきていた。今では、普通に使うことばではない。ことばとしては知っていたが、その使用例に実際に接したのはひょっとすると、始めてかもしれない。このことばを憶えたのは高校生のときである。NHKの夜のドラマで、『若い人』を放送したことがある。石坂洋次郎の小説が原作である。主演は松阪慶子。北海道の女学校の生徒の役である。ヒロインの名前は江波恵子。ドラマのなかで「やらずのあめ」と言っていたのを記憶している。ただ、このことばは、原作なかには出てこない。原作の小説は、だいたい一〇年おきぐらいに読み返すことにしている本である。今まで何度か読んできている。

テレビを見ていて(録画であるが)、久しぶりに、『若い人』のことを思い出した。

辞書のデータ整理にXMLを使うのは、常識のうちだろう。ただ、データがXMLで記述されている、あるいは、マークアップされているからといって、そのまますぐにデジタルの辞書になるわけではない。そのデータの加工の手間暇も辞書の制作コストのうちである。

このドラマで言うデジタルの辞書とは、どんなものなのだろうか。ジャパンナレッジのようなWEB版課金システムなのか。そのアクセスのためのキーが、紙の辞書と一緒についてくるということであるのか。あるいは、DVD版、USBメモリ版のようなパッケージなのだろうか。大漢和のように。このあたりのことが明確にならないと、ただデジタルの利便性と言っても、はっきりしないところがある。

紙の辞書はもうからないかもしれない。では、デジタル辞書ならもうかるかというと、どうだろうか。自前でサーバを管理運営するのは、かなりコストがかかるだろう。ならば、ジャパンナレッジに乗り込んでしまおうというのが、現実のデジタル辞書の世界であるようにも思える。

それから、製紙の用語として、a価、b価とあったが、なるほど、こういうところに使うのかと思ったところでもある。これは、Lab系の色彩表示の方法である。(これについて書くと、かなり色彩学の専門的な議論になるが。)色彩をあつかうには、RGBよりも、Lab(L*a*b*)の方が扱いやすいし、ヒストグラムを作ると、三次元空間に立体的に把握することができる。

余計なことかもしれないが、雑誌がWEBになってRGBだから色が表示できると、ドラマのなかであったのは、ちょっと短絡的である。厳密には、ディスプレイの機能、画像データの作り方によって、扱えるRGBは同じではない。PCで見ることが前提ならば、sRGBということになると思うが。

この先、このドラマがどの方向に向かうかは分からないが、デジタル辞書の良さの一つは、ユニバーサルデザインに向いていることである。たとえば、紙の重い辞書を、身体に障害のある人が使うにはハードルがある。また、視覚障害のある人のためには、デジタル版が必須といっていいだろう。こういう側面も、デジタルの辞書の利点として、考えるべきだと私は思っている。

2024年4月1日記

「古代メキシコ 失われた文明の謎」2024-04-02

2024年4月2日 當山日出夫

フロンティア 古代メキシコ 失われた文明の謎

マヤ文明については、その名前を知っているぐらいである。学校の教科書に出てきていたのを憶えている。スペインにほろぼされた、中央アメリカの古代文明というぐらいの認識でいた。

正確な天文の知識を持っていたことが分かるという。また、それが、古代におこった日蝕に関連するらしい。考古学的な発掘から、古代の人びとの世界観はどんなものだったか、考えることになる。

発掘された人骨から、DNAを分析することは、現在では普通に行われることになっているかと思うのだが、これも近年になって手法が進化している。その人のDNAの全貌を解読することも可能になる。

それによって、古代メソアメリカの文明をになった人びとがどこからやってきたのか、たどることが可能になる。生贄が行われていたが、その生贄になった人びとと、支配層であった人びととの関係も明らかにすることができる。DNAとしては、ことなる集団ということらしい。

年縞を調査することによって、古代の気象が分かる。メソアメリカ文明が衰退した時期は、大きな気候変動があった時期ということになる。

この番組は、人文学と自然科学と、両方の視点を融合させようとして作っているようだ。人間にとって文明とは何か、問いかけるところがある。

ところで、番組の最初の方で出てきていた、一次文明。古代に、その地域独自に花開いた文明である。マヤ文明もそうだし、メソポタミア文明などもそうである。では、これらの文明をになった人びとは、どこから来て、そして、どこに行ったのか……たぶん、地球規模でのホモ・サピエンスの痕跡とDNAの調査から、総合的に考える、そのような学問の時代が、もうそこまできている。あるいは、すでに始まっているということになるのだろう。そしてそれは、旧来の「人種」とか「民族」とかの概念に根本的な変革をせまるものになるだろう。その学問的成果をどう考えるかは、社会の問題でもある。

スペインがアステカから持ち去った金は、ローマの教会で装飾に使われている。これを見て、文明の歴史は、そう簡単に白黒つけられるものではない、と語っていたのが印象に残る。

番組の内容とは関係ないかもしれないが、三方五湖にある年縞博物館には行ってみたいと思う。ここでは、過去七万年の年縞を見ることができる。ホモ・サピエンスの歴史である。

2024年3月30日記

ザ・バックヤード「東京動物専門学校」2024-04-02

2024年4月2日 當山日出夫

ザ・バックヤード 東京動物専門学校

こういう学校があることを、この番組で初めて知った。いわれてみれば、動物園の飼育員さんたちは、どういう教育をうけてその職についているのだろうかと思う。

二八〇種の動物がいる。ちっちゃな動物園より数が多い。そのすべての動物の飼育を体験しないといけない。

まず留意しなければいけないことが、動物は危険なものであるということ。ホワイトタイガーを飼っているのも、そのためだという。

試験として、餌作りがあるというのは面白い。マニュアルを見ながらやっているのかと思っていたのだが、そうではなく、動物ごとに決められた食材があり、それを切る大きさも決まっている。それを暗記していないといけない。

薪割りもする。ロープも結ぶ。畑で農作業もする。動物の飼育にかかわるあらゆることを学ぶことになる。

この番組は、次年度も続くようだ。続けて見ることにしようと思う。

2024年3月30日記

「中島みゆき 〜映像に命をふきこむ歌〜」2024-04-01

2024年4月1日 當山日出夫

NHK MUSIC SPECIAL 中島みゆき 〜映像に命をふきこむ歌〜

テレビで歌番組を見ることはほとんどないのだが、これは録画しておいて見た。四月から「新プロジェクトX」の主題歌が、再び「地上の星」が使われることをうけてのものであろう。

番組の内容としては、これまでの中島みゆきの歌のなかから、テレビドラマの主題歌として作られたものを、順番に紹介するということであった。

私は、中島みゆきのアルバムCDは、全部持っているつもりでいる。少なくとも今手に入るものは買ってある。すべてWalkmanに入れている。形式はFLAC。

どの歌も常日頃からなじんでいるものばかりである。

このような形で、ドラマの主題歌となった曲を続けて聞くと、やはり中島みゆきの歌にある、「抵抗の精神」とでもいうべきものを感じる。時流にながされず、自分のあり方を見つめる姿勢というべきだろうか。それから、自分のアイデンティティを求めてさすらうこころ、というべきだろうか。

「地上の星」もいいが、私としては「ヘッドライト・テールライト」の方が好きである。

なお、私が最も好きな中島みゆきの曲は、「肩に降る雨」である。この曲を好きだという人は、どれほどいるだろうか。

2024年3月29日記

『光る君へ』「進むべき道」2024-04-01

2024年4月1日 當山日出夫

『光る君へ』第13回「進むべき道」

この回で、紫式部は彰子と出会ったということになる。女房として出仕するのは、もっと後のことになるが。

やはり気になったのは、文字のこと。

文字が読めないばかりに子どもを売ることになってしまった、ということなのだが、この場面で出てきた文書は、漢字カタカナ文であった。常識的な日本語の文字と表記についての知識としては、この時代、一〇世紀の末、まだこのような形式の文書が一般に書かれたとは考えにくい。このあたりは、ドラマとして見ておけばいいということなのだろうが。

また、まひろは、市井の人びとに文字を教えようとしている。平安時代、京の都とはいえ、一般庶民が文字の読み書きを必要としたとは、思えないのであるが、このあたりはどうだろうか。また、『源氏物語』に出てくる、貴族ではない一般庶民の姿は、かなり見下した価値観で書かれている。まあ、これは、『源氏物語』の読者である上流の貴族層の意識を反映したものということになるのかもしれないが。

リテラシー、読み書きが出来ることが幸福である、というのは、あまりに近代的な価値観であるかもしれない。

仮名の練習として、「あめつち」が登場したのは妥当というべきか。

倫子は、道長が持っていた文を見つける。それは、昔、まひろが道長に送った漢詩を書いたものである。それを見て、倫子は、女性が書いたものではないか、と言っていた。筆跡を見て、書き手が男性か女性か判断したことになる。

昔、学生のころ、古文書学の授業で先生が言っていた。文書の文字を見て、それが男性が書いたものか、女性が書いたものか、判断できなければならない。現在、書いた筆跡で男女を論じようものなら、批判的な目で見られかねない時代なのであるが、しかし、筆跡の男女差というのはあってもおかしくはない。(ワープロやスマートフォンで文章をつづる現代でも、その用語、用字、文体などから、書き手を判別することは出来る可能性がある。)

ところで、このドラマを見ていて思うことの一つとして、宮中の天皇の玉座がちょっとショボいような気がしてならない。画面で見るかぎり、兼家の住まいの方が、天皇よりも豪華である。さて、実際に平安時代の宮中で天皇は、どんなふうにしていたのだろうか。

平安時代の貴族の婚姻のシステムは、どうも分かりにくい。そこに、安易に現代の男女の感情を投影してみるということは、避けるべきことかもしれない。いや、そうではなく、どのような婚姻のシステムであろうと、男女の愛憎の気持ちは普遍的なものである、と見ることもできるのだが。だからこそ、『源氏物語』が今にいたるまで読み継がれているのである。

それにしても、定子が出てくるとどうしても「ていし」と読んでしまう。たぶん、見ている人のかなりがそうかもしれない。彰子は、私の頭のなかでは「しょうし」である。

2024年3月31日記

「プロジェクトX」2024-03-31

2024年3月31日 當山日出夫

NHKが「新プロジェクトX」を放送するという。その特番もあったりするので、録画しておいて見たりしている。

かつての「プロジェクトX」は、そう多く見たということではない。何年前になるだろうか、その中から選んで再放送した時は、見ることにして見ていた。

いろいろと視聴者から人気のある回というのがあるようだが、私が見た範囲で一番記憶に残っているのは、炊飯器の開発の物語である。

炊飯器は、日本の人びとの生活を大きく変えた。それまで基本的に薪で御飯を炊いていたのが、電気で炊けるようになった。これは、主婦の家事を劇的に変えたことになる。昭和三〇年代のことになる。

今、もし、ゼロから炊飯器を開発するとするとどうするだろうか。釜で御飯を炊くのが先にあるとするならば、その過程での熱の加わり方、釜の内部での温度変化などを計測して、それを再現するように作る……おそらく、普通の人ならこう考えるだろう。たぶん、昔もそのように考えたにちがいない。しかし、それを実行する人はいなかった。

炊飯器を商品化したのは、東芝であった。だが、それを開発したのは、町工場であり、その開発のための実験データをとったのは、その町工場の奥さんだった。

こういうものを作るためには、このようなデータが必要になる。ならば、そのデータを計測し集める。この当たり前のことを実践しただけのことになる。だが、この当たり前のことを、実際に行うのは、かなり難しい場合がある。手間暇、予算、人的資源などの要因がからむ。

これは、私が、分野としては人文学における日本語研究ということになるが、研究者のはしくれとして生きてきたから思うことかもしれない。まだ分からないことがあるとして、それを明らかにするのは、こういう調査をすればいい、それは分かっている。しかし、誰もその調査に着手しようとしない。このような事例は多くある。当たり前に、こうすれば分かるはずだということが、なかなか分からないでいることがある。

炊飯器の開発に、大発見があったということではない。強いていえば、サーモスタットの開発が同時にあったことぐらいかもしれない。実験に従事した奥さんが病気で亡くなったということは、確かに悲劇的なことではあった。

だが、私が何よりも感銘を受けたのは、こういう手続きをすればいいという当たり前のことを実際にやってみるということである。これは、技術開発のみならず、学問研究の分野でも同じだと感じるところがある。

炊飯器の回は、是非、再放送してほしいと思う。

2024年3月29日記

『ブギウギ』最終週「世紀のうた 心のうた」2024-03-31

2024年3月31日 當山日出夫

『ブギウギ』最終週「世紀のうた 心のうた」

終わった。『ブギウギ』は、おそらく近年の朝ドラのなかでは傑作として残ることになるだろう。

このドラマの魅力は、なんといっても、ステージのシーンにあった。歌も踊りも見事であったというほかはない。また、福来スズ子の半生を描いたドラマとしても、笠置シズ子の人生をなぞっていることにはなるが、波瀾万丈であり、そして、人情味にあるストーリー展開であった。ともかく、歌が好きだった少女が、歌手として大成して、人びとに愛されるスターになるまでの道のりを、その当時の世相とともに、じっくりと描いていた。

まあ、強いていうならばであるが……芸能の世界を描いているのだが、そのブラックな側面については、ふれることがなかった。まあ、これは、朝ドラとして作っているので、こうなるのだろうと思う。

義理と人情の物語であったと、最後まで見て思う。

最後の回で、指揮者として映っていたのは、服部隆之。ドラマの音楽担当の人が出演することは、過去にもあった。たしか、『あまちゃん』『ひよっこ』がそうだったかと記憶するが、どうだったろうか。

最終回の最後が「完」でなかった。

さて、次週からは、『虎に翼』である。これも見ることにしよう。

2024年3月30日記

「進化する西之島 未知の大地への挑戦」2024-03-30

2024年3月30日 當山日出夫

フロンティア 進化する西之島 未知の大地への挑戦

これは面白かった。

西之島の噴火のときのことは、ニュースで見て知ったかと憶えている。しかし、この島で、生態系がリセットされて、そこで生物学の新たな研究が始まっていることは、この番組で知った。非常に興味深かった。

世界中にこのような島はどれくらいあるのだろうか。たまたま日本の領土としてあって、気候としても温暖な地域になる。多くの生物が生息できる条件はあるかと思う。ここで、火山の噴火で生態系がゼロになってしまって、そこにどのような鳥とか昆虫がやってきて、生態系を作っていくことになるのか、とても興味深い。

まずやってくるのが鳥である。それから、昆虫もやってくる。(番組では触れていなかったが、これらにともなって微生物もやってきているのかと思うが、どうなのだろうか。)

人間が立ち入ることができない(危険なので)、ロボットを作って、ドローンで運んで、サンプルを採取する。そして、またドローンで運んで持って帰る。まさに今の時代ならではの研究方法である。

たぶん、この島の研究はずっと続くに違いない。いや、続けてこそ価値がある。一〇年とか二〇年とかで結果の出るような研究ではない。このような研究を手助けしてこそ、学術の支援の意味がある。なんとか継続的に研究できる環境をととのえていくことが非常に重要である。

この研究にどんな価値があるのか……それは、何よりも面白いからである。これ以上の余計なこと、どんな役にたつのかといった議論は無用であると確信する。ま、結果的に何かの役にたつことはあるだろうが。

2024年3月29日記

「ディープフェイク リアルが揺らぐとき」2024-03-30

2024年3月30日 當山日出夫

フランケンシュタインの誘惑 ディープフェイク リアルが揺らぐとき

生成AIの利用によるフェイク画像・動画については、最近になってよく報道などで接するようになった。テレビなどで伝えられるとき、よく観察してみなければならない、といった稚拙な反応が多かった。人間の目で観察してフェイクだと分かるようなものは、そのうちすぐに新たな技術でクリアされてしまうのは、当然のことである。なんというか、日本のマスコミの感覚の鈍さという印象を持ったのを憶えている。

今では、AIが内部でどのように活動しているのか、それを作った人間にさえ分からないという時代になろうとしている。フェイク動画を見破るAIを開発することは可能であるかもしれないが、そこでは、もはや何を根拠にフェイクである、いや、本物である、と判定したのか、その根拠さえ人間には分からない。

そして、本物かフェイクか分からないということは、本物を伝えようという人間の営みを根底からくつがえす。昨年のイスラエルとハマスとの紛争のときのSNS画像をめぐる混乱は、いまだ判定がつかないという。これでは、いったい何を信用したらいいのか、分からないことになる。おそらくは、これが一番おそろしいことであるかと思う。

テクノロジーと人間社会の問題は、古くて新しい課題ではある。しかし、AIの発達は、ここにきて新たな段階を迎えていることを認識しておく必要がある。

思い起こせば……つい、二〇年ほど前のことになるだろうか、写真がデジタルになったころ、デジタル写真はフォトショップで自由に加工できてしまうから、写真として信頼できないという意味のことが言われていたことがあった。今から思えば、なんとも牧歌的でのどかな議論であったと思える。

このような時代になったからこそ、自分で本を読み、自然とふれ、人と話す……この当たり前のことの重要性を、つくづくと感じることになる。とはいえ、自分自身にとってのリアルとは何であるのか、これはこれでかなり難しい問題をはらむ議論ではあるにちがいないが。

2024年3月26日記