東京国立近代美術館「高畑勲展」に行ってきた ― 2019-08-01
2019-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)
先週、東京に行ってきた。立川の国立国語研究所で開催の「東洋学へのコンピュータ利用」(第31回)に参加、発表のためである。発表なので、前日から行くことになる。
朝、病院に行く用事があって、それからそのまま駅にむかった。昼前の新幹線に乗って、東京駅についたのが昼すぎ。東京駅で昼食をとってから、地下鉄に乗った。東西線の駅をめざす。東京駅からだと、丸ノ内線で大手町まで行って乗り換えてもいいのかもしれないが、これは乗り換えが面倒である。東京駅から、直接東西線の駅まであるいた。竹橋で降りる。東京国立近代美術館で開催の「高畑勲展」を見るためである。
東京国立近代美術館をおとずれるのは、久しぶりである。平日の昼過ぎの時間であったが、その割には人がおおかっただろうか。といっても、行列ができるほどではない。ゆったりと全体の展示を見ることができた。
「高畑勲展」を見ておきたいと思ったのは、ちょうど今、NHKの朝ドラで『なつぞら』を放送している。日本のアニメーションの草創期に活躍した女性の物語である。アニメーションの制作とはどんなものなのか、そして、それについて、どのような資料が残されているのか、見ておきたいと思った。
展覧会を見ての印象は、まさにテレビのドラマのとおり……というのが正直なところである。アニメーションの絵を描く紙の大きさ、それから、上部に開けられた三つの穴……四角、丸、四角……これら、まさにテレビのドラマに登場してくるとおりであった。(これは、そのように考証して作っているのだから、そうなるのは当然なのかもしれないが。)
高畑勲というと、映画『火垂るの墓』が有名だが、それ以外にも多くの作品を作っている。『狼少年ケン』もそのひとつであることを知った。これは、私が子どものころ、テレビで放送していたのを見たのを憶えている。
そして、展示全体をとおしてのメッセージとしては……アニメーションは思想を語ることができる、ということである。そのようなものとして、アニメーションが今の日本の文化としてある。この展覧会が、東京国立近代美術館というところで開催になったことの意義は大きなものがあるといえるだろう。
ただ気になったこととしては、展示されている絵などはどのように保存されているのだろうか、ということ。アーカイブズとして、きちんと資料群ごとに整理されているのだろうか。また、劣化しないように中性紙の保存箱に入れられているのだろうか。このあたりは、展示からはうかがうことができなかった。しかし、できれば、貴重な文化遺産としてさらに後世にまで残してもらいたいものである。
見終わって、また東西線に乗って三鷹まで行った。三鷹で中央線に乗り換えて立川まで。宿ははじめて泊まるホテルだったが、迷わずに行くことができた。ただ、困ったのは、新しいホテルのせいかインターネットの接続がWi-Fiしかない。有線のLANが無い。私のつかっているノートパソコン(レッツノート)は、時々、無線を認識しなくなることがある。宿の部屋について、さっそくパソコンを起動してみたが、Wi-Fiを認識しない。何度か、再起動などくりかえしてみて、ようやくつながった。一時間以上かかってしまっただろうか。ともあれ無事にインターネットにつながってほっとしたのであった。
朝、病院に行く用事があって、それからそのまま駅にむかった。昼前の新幹線に乗って、東京駅についたのが昼すぎ。東京駅で昼食をとってから、地下鉄に乗った。東西線の駅をめざす。東京駅からだと、丸ノ内線で大手町まで行って乗り換えてもいいのかもしれないが、これは乗り換えが面倒である。東京駅から、直接東西線の駅まであるいた。竹橋で降りる。東京国立近代美術館で開催の「高畑勲展」を見るためである。
東京国立近代美術館をおとずれるのは、久しぶりである。平日の昼過ぎの時間であったが、その割には人がおおかっただろうか。といっても、行列ができるほどではない。ゆったりと全体の展示を見ることができた。
「高畑勲展」を見ておきたいと思ったのは、ちょうど今、NHKの朝ドラで『なつぞら』を放送している。日本のアニメーションの草創期に活躍した女性の物語である。アニメーションの制作とはどんなものなのか、そして、それについて、どのような資料が残されているのか、見ておきたいと思った。
展覧会を見ての印象は、まさにテレビのドラマのとおり……というのが正直なところである。アニメーションの絵を描く紙の大きさ、それから、上部に開けられた三つの穴……四角、丸、四角……これら、まさにテレビのドラマに登場してくるとおりであった。(これは、そのように考証して作っているのだから、そうなるのは当然なのかもしれないが。)
高畑勲というと、映画『火垂るの墓』が有名だが、それ以外にも多くの作品を作っている。『狼少年ケン』もそのひとつであることを知った。これは、私が子どものころ、テレビで放送していたのを見たのを憶えている。
そして、展示全体をとおしてのメッセージとしては……アニメーションは思想を語ることができる、ということである。そのようなものとして、アニメーションが今の日本の文化としてある。この展覧会が、東京国立近代美術館というところで開催になったことの意義は大きなものがあるといえるだろう。
ただ気になったこととしては、展示されている絵などはどのように保存されているのだろうか、ということ。アーカイブズとして、きちんと資料群ごとに整理されているのだろうか。また、劣化しないように中性紙の保存箱に入れられているのだろうか。このあたりは、展示からはうかがうことができなかった。しかし、できれば、貴重な文化遺産としてさらに後世にまで残してもらいたいものである。
見終わって、また東西線に乗って三鷹まで行った。三鷹で中央線に乗り換えて立川まで。宿ははじめて泊まるホテルだったが、迷わずに行くことができた。ただ、困ったのは、新しいホテルのせいかインターネットの接続がWi-Fiしかない。有線のLANが無い。私のつかっているノートパソコン(レッツノート)は、時々、無線を認識しなくなることがある。宿の部屋について、さっそくパソコンを起動してみたが、Wi-Fiを認識しない。何度か、再起動などくりかえしてみて、ようやくつながった。一時間以上かかってしまっただろうか。ともあれ無事にインターネットにつながってほっとしたのであった。
国立近現代建築資料館に行ってきた ― 2018-12-13
2018-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)
先週末、ちょっと所用で東京に行ってきた。(なので、国語語彙史研究会は欠席してしまった。)
日曜日のうちに夕方までに帰ればいいとい思っていたので、東京の中でまだ行ったことのないところに行っておくことにした。今回、行ったのは、湯島にある、国立近現代建築資料館である。
文化庁 国立近現代建築資料館
http://nama.bunka.go.jp/
宿はお茶の水であった。チェックアウトしてから、荷物をホテルにあずけて、地下鉄(千代田線)に乗る。新御茶ノ水駅から湯島まで一駅である。
国立近現代建築資料館は、旧岩崎邸庭園の中にある。休みの日は、旧岩崎邸庭園を通ってしかはいれない。旧岩崎邸庭園のチケット(400円)を買ってから、まず、建築資料館の方に行ってみた。
今開催しているのは、
明治150年 開館5周年記念企画
明治期における官立高等教育施設の群像
である。入館は無料。それから、図録も無料でもらえる。
建築関係の資料といっても、図面とかが主であるから、そんなに派手な展示ということではない。しかし、見ていくと、明治になって、日本の国家の近代化とともに、重要であったのが、高等教育。特に、旧制の高等学校、大学、である。それらの建築そのものが、近代を代表するものとなっている。
これらのうち今に残っているものはわずかである。私の身近なところでいえば、奈良女子大学の建物などがある。昔の、女子高等師範学校の名残である。
展示を見ていって、神宮皇學館がもとは官立の大学であったことに、改めて気付く。今は、私立の大学であるが、戦前までは、宮内省所管の学校だった。戦前のこの学校のことについては、『やちまた』(足立巻一)に詳しく書かれている。
やまもも書斎記 2018年3月19日
『やちまた』足立巻一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507
規模の大きな展示ということではないが、近代の建築資料のアーカイブズとして見れば、貴重な品々が展示されている。建築、建築史についての専門的知識がないので、今ひとつその価値のわからないところもあったりはするのだが、いい企画の展示だったと思う。
建築資料館を出て、旧岩崎邸の方に行ってみた。
日曜日のうちに夕方までに帰ればいいとい思っていたので、東京の中でまだ行ったことのないところに行っておくことにした。今回、行ったのは、湯島にある、国立近現代建築資料館である。
文化庁 国立近現代建築資料館
http://nama.bunka.go.jp/
宿はお茶の水であった。チェックアウトしてから、荷物をホテルにあずけて、地下鉄(千代田線)に乗る。新御茶ノ水駅から湯島まで一駅である。
国立近現代建築資料館は、旧岩崎邸庭園の中にある。休みの日は、旧岩崎邸庭園を通ってしかはいれない。旧岩崎邸庭園のチケット(400円)を買ってから、まず、建築資料館の方に行ってみた。
今開催しているのは、
明治150年 開館5周年記念企画
明治期における官立高等教育施設の群像
である。入館は無料。それから、図録も無料でもらえる。
建築関係の資料といっても、図面とかが主であるから、そんなに派手な展示ということではない。しかし、見ていくと、明治になって、日本の国家の近代化とともに、重要であったのが、高等教育。特に、旧制の高等学校、大学、である。それらの建築そのものが、近代を代表するものとなっている。
これらのうち今に残っているものはわずかである。私の身近なところでいえば、奈良女子大学の建物などがある。昔の、女子高等師範学校の名残である。
展示を見ていって、神宮皇學館がもとは官立の大学であったことに、改めて気付く。今は、私立の大学であるが、戦前までは、宮内省所管の学校だった。戦前のこの学校のことについては、『やちまた』(足立巻一)に詳しく書かれている。
やまもも書斎記 2018年3月19日
『やちまた』足立巻一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/19/8806507
規模の大きな展示ということではないが、近代の建築資料のアーカイブズとして見れば、貴重な品々が展示されている。建築、建築史についての専門的知識がないので、今ひとつその価値のわからないところもあったりはするのだが、いい企画の展示だったと思う。
建築資料館を出て、旧岩崎邸の方に行ってみた。
「藤田嗣治展」に行ってきた ― 2018-11-30
2018-11-30 當山日出夫(とうやまひでお)
京都に行ったついでに、ちょっと朝早く家を出て、岡崎によってきた。京都国立近代美術館での「藤田嗣治展」を見るためである。ウィークデーの朝のうちに行ったせいもあるのか、さほどの人ではなく、ゆっくりと見られた。
ちょうど今、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる。岩波文庫版の一二巻は読み終えた。残りは、集英社文庫版で二巻である。このプルーストが『失われた時を求めて』で描いたのは、一九世紀末のパリになる。藤田嗣治が、パリで活躍した時代からすれば、すこし前の時代になる。とはいえ、ほとんど同時代のパリの空気を共有していたといってよいであろう。
見ていて、日本をはなれ、フランスにおもむき、自分の作品を確立していく過程について、納得がいく。そのなかで、特に印象的だったのは、太平洋戦争中の作品。戦争画を描いているのだが、とにかく、暗い。藤田といえばまず思い浮かべる乳白色の明るい画風ではない。
独特の色彩感覚がある。が、見ていくと、いわゆるキュビズムの影響かと感じるところも無いではない。また、その人物画や静物画を見ると、確かにものの形態をとらえている、藤田の目を感じる。
久々に近代絵画というものを堪能した時間であった。
ちょうど今、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる。岩波文庫版の一二巻は読み終えた。残りは、集英社文庫版で二巻である。このプルーストが『失われた時を求めて』で描いたのは、一九世紀末のパリになる。藤田嗣治が、パリで活躍した時代からすれば、すこし前の時代になる。とはいえ、ほとんど同時代のパリの空気を共有していたといってよいであろう。
見ていて、日本をはなれ、フランスにおもむき、自分の作品を確立していく過程について、納得がいく。そのなかで、特に印象的だったのは、太平洋戦争中の作品。戦争画を描いているのだが、とにかく、暗い。藤田といえばまず思い浮かべる乳白色の明るい画風ではない。
独特の色彩感覚がある。が、見ていくと、いわゆるキュビズムの影響かと感じるところも無いではない。また、その人物画や静物画を見ると、確かにものの形態をとらえている、藤田の目を感じる。
久々に近代絵画というものを堪能した時間であった。
「明治の禅僧 釈宗演」 ― 2018-11-05
2018-11-05 當山日出夫(とうやまひでお)
今年は、釈宗演がなくなって100年になる。慶應義塾大学では、その展覧会があった。釈宗演は、慶應義塾の出身者でもある。
やまもも書斎記 2018年6月21日
「釈宗演と近代日本」を見てきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/21/8899338
慶應での展示は、塾員という経歴、禅僧としての近代日本に重点をおいたものであった。
「明治の禅僧 釈宗演」をやっているのは、花園大学歴史博物館。花園大学は臨済宗の学校である。そのせいもあるのだろう、慶應義塾とのかかわりの展示とはなっていない。そうではなく、臨済の近代の禅僧の一人としての釈宗演という位置づけであった。
また、釈宗演は、花園大学の前身である、花園学院の学長にもついている。円覚寺、建長寺の管長も歴任している。そのような、臨済の目でみた釈宗演の事跡をたどる展示になっている。慶應での展示とあわせて見ることによって、その生涯の全貌がかいまみられる。
この展示、前期・後期とわかれている。後期の方もみておかねばと思っている。
やまもも書斎記 2018年6月21日
「釈宗演と近代日本」を見てきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/21/8899338
慶應での展示は、塾員という経歴、禅僧としての近代日本に重点をおいたものであった。
「明治の禅僧 釈宗演」をやっているのは、花園大学歴史博物館。花園大学は臨済宗の学校である。そのせいもあるのだろう、慶應義塾とのかかわりの展示とはなっていない。そうではなく、臨済の近代の禅僧の一人としての釈宗演という位置づけであった。
また、釈宗演は、花園大学の前身である、花園学院の学長にもついている。円覚寺、建長寺の管長も歴任している。そのような、臨済の目でみた釈宗演の事跡をたどる展示になっている。慶應での展示とあわせて見ることによって、その生涯の全貌がかいまみられる。
この展示、前期・後期とわかれている。後期の方もみておかねばと思っている。
京都国立近代美術館「ユージン・スミス」 ― 2018-07-06
2018-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)
京都国立近代美術館でやっている「横山大観展」を見てきたのは、先週のことである。このとき、四階では、コレクション・ギャラリーの展示があった。その中に、ユージン・スミスの写真も展示されていた。
京都国立近代美術館でやっている「横山大観展」を見てきたのは、先週のことである。このとき、四階では、コレクション・ギャラリーの展示があった。その中に、ユージン・スミスの写真も展示されていた。
平成30年度 第2回コレクション展
http://www.momak.go.jp/Japanese/collectionGalleryArchive/2018/collectionGallery2018No02.html
ユージン・スミスの名前は知っている。日本で有名になっているのは、水俣の取材写真においてであるかもしれない。このユージン・スミスの作品を、京都国立近代美術館では、かなり収集しているとのことである。
今回、展示されていたのは、そのコレクションから、『ライフ』などで活躍していた時代の作品をあつめたもの。「カントリー・ドクター」「スペインの村」などの写真群が展示されていた。
見て感じたことを書いておけば次の二点になるだろうか。
第一に、その絵画的作風とでもいうべきものである。
明暗の対比、構図のとりかた、いかにも絵画的である。極端なたとえになるかもしれないが、レンブラントなどを彷彿とさせる、光の描写が印象的である。これは、モノクロ写真ならではの効果といえるかもしれない。また、構図の視点から見ても、これも、いかにも絵画的という印象をうけるものが多くあった。
第二に、にもかかわらず、写真としてのリアリズムである。
『ライフ』などで活躍した写真家として、写真のリアリズムから離れることがない。いや、リアリズムを追求するなかに、上述の絵画的な作風が枠組みとしてある、というべきだろうか。
以上の二点が、ユージン・スミスの作品を見ながら感じていたことであった。
絵画的な構図とか、リアリズムとか、現代の写真が、むしろ、忘れてしまったことかもしれない。写真が芸術であるとして、その原点がどこにあるかを強く印象づける作品群であった。横山大観を見た後であったので、より強くこのことが印象に残っているということなのかもしれない。
http://www.momak.go.jp/Japanese/collectionGalleryArchive/2018/collectionGallery2018No02.html
ユージン・スミスの名前は知っている。日本で有名になっているのは、水俣の取材写真においてであるかもしれない。このユージン・スミスの作品を、京都国立近代美術館では、かなり収集しているとのことである。
今回、展示されていたのは、そのコレクションから、『ライフ』などで活躍していた時代の作品をあつめたもの。「カントリー・ドクター」「スペインの村」などの写真群が展示されていた。
見て感じたことを書いておけば次の二点になるだろうか。
第一に、その絵画的作風とでもいうべきものである。
明暗の対比、構図のとりかた、いかにも絵画的である。極端なたとえになるかもしれないが、レンブラントなどを彷彿とさせる、光の描写が印象的である。これは、モノクロ写真ならではの効果といえるかもしれない。また、構図の視点から見ても、これも、いかにも絵画的という印象をうけるものが多くあった。
第二に、にもかかわらず、写真としてのリアリズムである。
『ライフ』などで活躍した写真家として、写真のリアリズムから離れることがない。いや、リアリズムを追求するなかに、上述の絵画的な作風が枠組みとしてある、というべきだろうか。
以上の二点が、ユージン・スミスの作品を見ながら感じていたことであった。
絵画的な構図とか、リアリズムとか、現代の写真が、むしろ、忘れてしまったことかもしれない。写真が芸術であるとして、その原点がどこにあるかを強く印象づける作品群であった。横山大観を見た後であったので、より強くこのことが印象に残っているということなのかもしれない。
京都国立近代美術館「横山大観展」を見てきた ― 2018-06-29
2018-06-29 當山日出夫(とうやまひでお)
京都国立近代美術館で開催の「横山大観展」に行ってきた。
梅雨というのに暑い日だった。地下鉄の東山から美術館まで歩くだけで、汗みずくになってしまった。眼鏡に汗がついてしまった。午前中に行ったのだが、かなりの人であった。このごろ、どの展覧会に行っても、人が多い。これはこれで、美術館の運営上しかたないことなのかもしれない。が、横山大観は、ゆっくりと見たい気がする。
横山大観は日本画家である。そのなかで、新しい技法、テーマを追求していった様子が、年代順に展示されていた。見ていって感じたことは、確かに、大観は、新たな画題を追求していったと思うのだが、それを見て、我々のものを見る感覚が影響されて変わってくる、という気はあまりしなかった。むしろ、伝統的な、画題、見方、描き方を尊重していたように感じたのであった。(そのなかにあっても、斬新な工夫を見ることはできるのだが。)
まったく個人的な思いを記せば、ある絵画が、ものを見る感覚、風景の見方を変える……このことについて、私が、一番つよく感じているのは、岸田劉生の作品においてである。その代表作の一つ、「道路と土手と塀(切通之写生)」である。これは、WEBで見ることができるようになっている。
東京国立近代美術館
岸田劉生 道路と土手と塀(切通之写生)
http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat03.html
そうはいいながら、やはり横山大観の畢生の作である「生々流転」には、感動を覚える。長大な巻物のなかに、風景が流れていく。それを見ていくと、自分が、その流れる風景の中に溶け込んでいくような感じなる。
「生々流転」は、たしか東京国立近代美術館に展示されていたのを、若いとき……東京に住んでいたとき……何度か、眼にしたかと覚えている。この作品をみて、横に長い、巻子本という形式を採用することによって、季節と自然の流れを表現することができていると感じる。ここには、独自の自然観とでもいうべきものがある。このような自然の見方があったのか、表現の方法があったのかと、気づかせてくれる。
美術、芸術とは、それまで目にしてきたこと、体験してきたことを、新たな視点、感覚で、再発見をうながすものであると思う。無論、その作品によってはじめて体験する感動というものもある。その一方で、これまで目にしてきた風景や自然について、新たな面目を提示してくれる、新たな目で「風景」を見る自分を再発見させてくれるものでもあろう。芸術による風景の発見といってもよいだろうか。この意味で、特に「生々流転」は、近代日本において、一つの「風景」を示してくれている作品であると思う。
総合して考えることは、やはり横山大観という画家は、日本の近代を生きたということが実感できる展覧会であった。
梅雨というのに暑い日だった。地下鉄の東山から美術館まで歩くだけで、汗みずくになってしまった。眼鏡に汗がついてしまった。午前中に行ったのだが、かなりの人であった。このごろ、どの展覧会に行っても、人が多い。これはこれで、美術館の運営上しかたないことなのかもしれない。が、横山大観は、ゆっくりと見たい気がする。
横山大観は日本画家である。そのなかで、新しい技法、テーマを追求していった様子が、年代順に展示されていた。見ていって感じたことは、確かに、大観は、新たな画題を追求していったと思うのだが、それを見て、我々のものを見る感覚が影響されて変わってくる、という気はあまりしなかった。むしろ、伝統的な、画題、見方、描き方を尊重していたように感じたのであった。(そのなかにあっても、斬新な工夫を見ることはできるのだが。)
まったく個人的な思いを記せば、ある絵画が、ものを見る感覚、風景の見方を変える……このことについて、私が、一番つよく感じているのは、岸田劉生の作品においてである。その代表作の一つ、「道路と土手と塀(切通之写生)」である。これは、WEBで見ることができるようになっている。
東京国立近代美術館
岸田劉生 道路と土手と塀(切通之写生)
http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat03.html
そうはいいながら、やはり横山大観の畢生の作である「生々流転」には、感動を覚える。長大な巻物のなかに、風景が流れていく。それを見ていくと、自分が、その流れる風景の中に溶け込んでいくような感じなる。
「生々流転」は、たしか東京国立近代美術館に展示されていたのを、若いとき……東京に住んでいたとき……何度か、眼にしたかと覚えている。この作品をみて、横に長い、巻子本という形式を採用することによって、季節と自然の流れを表現することができていると感じる。ここには、独自の自然観とでもいうべきものがある。このような自然の見方があったのか、表現の方法があったのかと、気づかせてくれる。
美術、芸術とは、それまで目にしてきたこと、体験してきたことを、新たな視点、感覚で、再発見をうながすものであると思う。無論、その作品によってはじめて体験する感動というものもある。その一方で、これまで目にしてきた風景や自然について、新たな面目を提示してくれる、新たな目で「風景」を見る自分を再発見させてくれるものでもあろう。芸術による風景の発見といってもよいだろうか。この意味で、特に「生々流転」は、近代日本において、一つの「風景」を示してくれている作品であると思う。
総合して考えることは、やはり横山大観という画家は、日本の近代を生きたということが実感できる展覧会であった。
東京国立博物館「帝室博物館総長森鷗外の筆跡」を見てきた ― 2018-06-23
2018-06-23 當山日出夫(とうやまひでお)
2018年6月9日の語彙・辞書研究会の次の日、帰るまえに寄ってきたのが、東京国立博物館である。ちょうど、「帝室博物館総長森鷗外の筆跡」の展示をやっているので、それを見てきた。
一室だけのこぢんまりとした展示である。また、展示されているものも、博物館の業務上の記録書類のようなもので派手さはない。きわめて地味な印象の展示である。だが、博物館の歴史、また、そこにいた森鴎外という人物のことを考えるには、きわめて興味深い展示であった。
東京国立博物館
就任100年 帝室博物館総長森鷗外の筆跡
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1916
面白いと思ったのは、鴎外の花押である。閲覧した書類、書跡などに、鴎外は花押を記している。いや、逆に、花押のある書類などを探してきて、展示してあったというべきだろうか。見ていくと、鴎外は、博物館の収蔵品のあり方について、いろいろ思いをめぐらしていたことが見てとれる。
そして、この帝室博物館の時代は、晩年の鴎外の、いわゆる史伝ものが書かれた時代でもある。鴎外の史伝……その代表作は『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』などであろうが……が、どのような生活、仕事を背景として生まれたのか、このような観点から見ると、非常に興味深いものがあった。
鴎外の史伝などは、本は持っている。読んだのもある。「全集」「選集」もそろえてある(岩波版)。これからは、おちついてじっくりと史伝を読んで時間をすごしたいものである。
東京から帰って、『渋江抽斎』(岩波文庫版)を読みかえしたみた。『伊沢蘭軒』『北条霞亭』など、読んでおきたい。
2018年6月9日の語彙・辞書研究会の次の日、帰るまえに寄ってきたのが、東京国立博物館である。ちょうど、「帝室博物館総長森鷗外の筆跡」の展示をやっているので、それを見てきた。
一室だけのこぢんまりとした展示である。また、展示されているものも、博物館の業務上の記録書類のようなもので派手さはない。きわめて地味な印象の展示である。だが、博物館の歴史、また、そこにいた森鴎外という人物のことを考えるには、きわめて興味深い展示であった。
東京国立博物館
就任100年 帝室博物館総長森鷗外の筆跡
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1916
面白いと思ったのは、鴎外の花押である。閲覧した書類、書跡などに、鴎外は花押を記している。いや、逆に、花押のある書類などを探してきて、展示してあったというべきだろうか。見ていくと、鴎外は、博物館の収蔵品のあり方について、いろいろ思いをめぐらしていたことが見てとれる。
そして、この帝室博物館の時代は、晩年の鴎外の、いわゆる史伝ものが書かれた時代でもある。鴎外の史伝……その代表作は『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』などであろうが……が、どのような生活、仕事を背景として生まれたのか、このような観点から見ると、非常に興味深いものがあった。
鴎外の史伝などは、本は持っている。読んだのもある。「全集」「選集」もそろえてある(岩波版)。これからは、おちついてじっくりと史伝を読んで時間をすごしたいものである。
東京から帰って、『渋江抽斎』(岩波文庫版)を読みかえしたみた。『伊沢蘭軒』『北条霞亭』など、読んでおきたい。
「釈宗演と近代日本」を見てきた ― 2018-06-21
2018-06-21 當山日出夫(とうやまひでお)
先日、東京に行ったのは、語彙・辞書研究会(53回、2018年6月9日)で発表するためである。そのついでというわけではないが、発表なので前日から行って、慶應義塾大学で今やっている「釈宗演と近代日本」の展示を見てきた。
釈宗演と近代日本-若き禅僧、世界を駆ける-
http://www.art-c.keio.ac.jp/news-events/event-archive/shaku2018/
https://www.keio.ac.jp/ja/news/2018/6/18/27-44913/index.html
釈宗演という名前は知っていた。漱石関係のものを読めば名前が出てくる。特に、『門』で描かれた鎌倉での参禅の様子など、自身の体験をもとにしたことであるらしい。その時に、漱石研究として名前の出てくるのが、釈宗演である。
その釈宗演は、安政6年(1859)、福井に生まれた。三井寺で倶舎論を学び、その後、円覚寺で、洪川宗温に参禅。印可をうける。明治18年(1886)、慶應義塾に入学(無論、この当時は、福澤諭吉の時代である)。その後、セイロンに行く。円覚寺の管長に就任。明治26年(1893)、アメリカのシカゴ万博にあわせて開催された万国宗教者会議に日本代表として参加。
世界に、「禅」(ZEN)をはじめて紹介した人物ということになる。
展覧会は、その生いたち、修行の時期のことから、慶應義塾在学の時の資料、また、その後の、世界での活躍の様子など、様々な方面にわたる資料の展示であった。
私もとおりいっぺんの知識は持っていたが、展覧会を見て、これほどまでに多彩な活動をしたのかと、認識を新たにした。
見て思ったことのいささかでも書いておくならば……日本近代の宗教、なかんずく仏教の近代化とは何であったのか、そこのところが今ひとつ分からなかったというのが正直なところ。それは、釈宗演の次の世代の仕事ということになるのであろうか。たとえば、禅であれば、鈴木大拙など。
また、今回の展覧会で大きく扱われていたことに、日露戦争での従軍がある。従軍布教師として、大陸にわたっている。このことを、現代の価値観から批判することはたやすいかもしれない。が、それよりも、慶應義塾で学び、その当時の世界を見ていた釈宗演にとって、日露戦争は近代の日本において、避けてとおることのできな大きな出来事であったことを理解しておくべきだろう。
どうでもいいことかもしれないが、参禅者の名簿があって、夏目漱石の名前があった。それには、北海道平民と書いてあったのに眼がとまった。漱石は、本籍を北海道に移していたのであった。
個人的な思いを書けば、慶應義塾の出身者の中に、釈宗演という人物がいたことは、もっと知られていいことだと思うし、また、仏教、禅の近代ということについても、さらに研究が進むことを願っている。
なお、カタログを売っている方の会場には、僧侶の方がいた。話しをちょっと聞いてみると、円覚寺から派遣されてきているとのことだった。
先日、東京に行ったのは、語彙・辞書研究会(53回、2018年6月9日)で発表するためである。そのついでというわけではないが、発表なので前日から行って、慶應義塾大学で今やっている「釈宗演と近代日本」の展示を見てきた。
釈宗演と近代日本-若き禅僧、世界を駆ける-
http://www.art-c.keio.ac.jp/news-events/event-archive/shaku2018/
https://www.keio.ac.jp/ja/news/2018/6/18/27-44913/index.html
釈宗演という名前は知っていた。漱石関係のものを読めば名前が出てくる。特に、『門』で描かれた鎌倉での参禅の様子など、自身の体験をもとにしたことであるらしい。その時に、漱石研究として名前の出てくるのが、釈宗演である。
その釈宗演は、安政6年(1859)、福井に生まれた。三井寺で倶舎論を学び、その後、円覚寺で、洪川宗温に参禅。印可をうける。明治18年(1886)、慶應義塾に入学(無論、この当時は、福澤諭吉の時代である)。その後、セイロンに行く。円覚寺の管長に就任。明治26年(1893)、アメリカのシカゴ万博にあわせて開催された万国宗教者会議に日本代表として参加。
世界に、「禅」(ZEN)をはじめて紹介した人物ということになる。
展覧会は、その生いたち、修行の時期のことから、慶應義塾在学の時の資料、また、その後の、世界での活躍の様子など、様々な方面にわたる資料の展示であった。
私もとおりいっぺんの知識は持っていたが、展覧会を見て、これほどまでに多彩な活動をしたのかと、認識を新たにした。
見て思ったことのいささかでも書いておくならば……日本近代の宗教、なかんずく仏教の近代化とは何であったのか、そこのところが今ひとつ分からなかったというのが正直なところ。それは、釈宗演の次の世代の仕事ということになるのであろうか。たとえば、禅であれば、鈴木大拙など。
また、今回の展覧会で大きく扱われていたことに、日露戦争での従軍がある。従軍布教師として、大陸にわたっている。このことを、現代の価値観から批判することはたやすいかもしれない。が、それよりも、慶應義塾で学び、その当時の世界を見ていた釈宗演にとって、日露戦争は近代の日本において、避けてとおることのできな大きな出来事であったことを理解しておくべきだろう。
どうでもいいことかもしれないが、参禅者の名簿があって、夏目漱石の名前があった。それには、北海道平民と書いてあったのに眼がとまった。漱石は、本籍を北海道に移していたのであった。
個人的な思いを書けば、慶應義塾の出身者の中に、釈宗演という人物がいたことは、もっと知られていいことだと思うし、また、仏教、禅の近代ということについても、さらに研究が進むことを願っている。
なお、カタログを売っている方の会場には、僧侶の方がいた。話しをちょっと聞いてみると、円覚寺から派遣されてきているとのことだった。
奈良国立博物館『春日大社のすべて』に行ってきた ― 2018-05-19
2018-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)
ちょっとついでもあったので、奈良国立博物館に行ってきた。『春日大社のすべて』の展示を見るためである。創建1250年記念特別展、である。
春日大社の博物館での展示といえば、すこし前に、東京国立博物館でもあった。これも、たまたま東京に行く用事のあった時だったので、行ってきた。その時のことを思い出してみるのだが、それぞれに特徴のある展覧会になっていると思う。
言うまでもないことかもしれないが、奈良国立博物館は、春日大社のすぐ近くにある。今回の展示でも、春日大社の宝物のいくつかが展示されていた。ただ、私は、文字が書いてあるもの……典籍、古文書などになるが……にしか、基本的に興味がない。というよりも、見て分からない。
そうはいっても、今回の奈良国立博物館で興味深かった点をあげると、次の三点ぐらいだろうか。
第一に、春日大社それ自身で持っている、伝来してきている宝物の多いことである。これと比べてみるのは、伊勢神宮なのだが、伊勢神宮に行っても、古代・中世から伝来してきているという宝物を見ることは、ほとんど無いようだ。これは、持っていても見せないだけのことなのか、あるいは、そんなに数多くのものが伝来してきていないのか、どうなのだろう。
かなり以前に、神宮徴古館に行ったことはあるのだが、はて、どうだったであろうか。近年では、せんぐう館にも行った。こちらは、宝物というよりも、式年遷宮にまつわる品々の展示である。
第二に、今の春日大社の地に神社が造営される以前、その土地において行われていた祭祀の遺跡・遺物などの展示があったこと。これは、面白いと思った。春日大社は、今年で、創建1250年になる。が、その創建の前から、何かしら霊的な土地として、人びとの信仰の場所であったのであろう。
第三に、やはり中世以降の神仏習合にまつわる文化財の数々。春日大社の信仰も、興福寺をふくめて、仏教とのかかわりを考えることになる。いや、神仏習合の状態だったからこそ、多くの宝物が伝来してきており、現代にいたるまで信仰の流れがある、と見るべきなのであろう。
以上の三点が、展示を見て感じたことなどである。
総合して感じるところは、以前に見た東京国立博物館での展覧会の時よりも、今回の奈良国立博物館の展覧会の方が、規模こそ小さいかもしれないが、古代から中世にかけての春日大社の信仰のひろがり、淵源、とでもいうべきものを、よく示していたのではないだろうか。
なお、展示品の中で特に興味深かったのは、弓。『伊勢物語』に出てくる歌。「梓弓 ま弓つき弓 年を経て わがせしがごと うるはしみせよ」。この歌に歌われている「あづさ弓」「つき弓」の実物があった。この歌について、というよりも、この歌をふくむ『伊勢物語』第二十四段については、毎年の日本語史の講義で触れることにしている。文字社会の成立という話題のときに、この段について話す。(何故、女性は最後に歌を血で書き付けて死んだのだろうか。)
春日大社の博物館での展示といえば、すこし前に、東京国立博物館でもあった。これも、たまたま東京に行く用事のあった時だったので、行ってきた。その時のことを思い出してみるのだが、それぞれに特徴のある展覧会になっていると思う。
言うまでもないことかもしれないが、奈良国立博物館は、春日大社のすぐ近くにある。今回の展示でも、春日大社の宝物のいくつかが展示されていた。ただ、私は、文字が書いてあるもの……典籍、古文書などになるが……にしか、基本的に興味がない。というよりも、見て分からない。
そうはいっても、今回の奈良国立博物館で興味深かった点をあげると、次の三点ぐらいだろうか。
第一に、春日大社それ自身で持っている、伝来してきている宝物の多いことである。これと比べてみるのは、伊勢神宮なのだが、伊勢神宮に行っても、古代・中世から伝来してきているという宝物を見ることは、ほとんど無いようだ。これは、持っていても見せないだけのことなのか、あるいは、そんなに数多くのものが伝来してきていないのか、どうなのだろう。
かなり以前に、神宮徴古館に行ったことはあるのだが、はて、どうだったであろうか。近年では、せんぐう館にも行った。こちらは、宝物というよりも、式年遷宮にまつわる品々の展示である。
第二に、今の春日大社の地に神社が造営される以前、その土地において行われていた祭祀の遺跡・遺物などの展示があったこと。これは、面白いと思った。春日大社は、今年で、創建1250年になる。が、その創建の前から、何かしら霊的な土地として、人びとの信仰の場所であったのであろう。
第三に、やはり中世以降の神仏習合にまつわる文化財の数々。春日大社の信仰も、興福寺をふくめて、仏教とのかかわりを考えることになる。いや、神仏習合の状態だったからこそ、多くの宝物が伝来してきており、現代にいたるまで信仰の流れがある、と見るべきなのであろう。
以上の三点が、展示を見て感じたことなどである。
総合して感じるところは、以前に見た東京国立博物館での展覧会の時よりも、今回の奈良国立博物館の展覧会の方が、規模こそ小さいかもしれないが、古代から中世にかけての春日大社の信仰のひろがり、淵源、とでもいうべきものを、よく示していたのではないだろうか。
なお、展示品の中で特に興味深かったのは、弓。『伊勢物語』に出てくる歌。「梓弓 ま弓つき弓 年を経て わがせしがごと うるはしみせよ」。この歌に歌われている「あづさ弓」「つき弓」の実物があった。この歌について、というよりも、この歌をふくむ『伊勢物語』第二十四段については、毎年の日本語史の講義で触れることにしている。文字社会の成立という話題のときに、この段について話す。(何故、女性は最後に歌を血で書き付けて死んだのだろうか。)
「至宝をうつす」京都文化博物館 ― 2017-12-28
2017-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)
ようやく冬休みで一息つけるかという感じになってきたので、半日、京都まで行ってきた。京都文化博物館の「至宝をうつす」の展覧会を見るためである。
コロタイプ、それもカラーのコロタイプ印刷・複製という技術をもっているのは、今世界で、京都の便利堂だけになってしまっているとのこと。その便利堂の技術とはどんなものか、それによって文化財、特に古典籍・古文書・絵画などの複製の作成は、どのような意義があるのか、という展覧会であった。
今では消失してしまった文化財、それが、写真がとってあって、カラーで複製をつくることができる。この事例として展示してあったのは、法隆寺の壁画、それから、高松塚古墳。これらのもとの姿を見ようとおもうと、今では、カラー複製にたよることになる。
展覧会を見ての印象としては、学術的な利用などで読むための資料としては、冊子体の複製本の方が便利である。だが、現物がどんなであるか、それを感じ取ろうと思うならば、不便ではあるが、巻子本の複製の存在意義がある。また、上述の法隆寺の壁画、高松塚古墳などは、その実際の絵画の大きさというものも、重要な要素である。
法隆寺の壁画は、思いのほかに大きいという印象。逆に、高松塚古墳は、小さいと感じた。このようなことを直に感じるためには、実物大のカラー複製の存在意義というものがある。
そして、このような複製の基本になっているのが、文化財の写真撮影。法隆寺の壁画のガラス乾板は、重文指定になっている。だが、高松塚古墳を写したカラーフィルムは、文化財指定になっていないようだ。これは、今後、文化財としてしかるべく保存する必要があるのではないかと思われる。
ところで、コロタイプ印刷の複製は、私が学生のころからよく勉強に利用したものである。だが、そのとき、先生からの注意事項として、コロタイプは、その印刷の版をつくるときに人為的に手を加えることがあるので、あまり信用してはいけない、ということを教わっている。
ともあれ、今回の展覧会のカラーコロタイプ、それから、今の主流である高精細のオフセット印刷、さらには、デジタルでのアーカイブ、これら、各種の技術をつかって、文化財の研究、保存、教育ということがなされていくことになる。おそらく、これからの時代、高精細のデジタル撮影、あるいは、スキャンということが、技術の核になっていくことだろうと予想している。
ただ、コロタイプだけに限って考えるのではなくて、これから使えるようになるであろう各種のデジタル技術によって、文化財の研究や教育がどのようになっていくか、総合的に考えることがもとめられるだろう。この観点からは、コロタイプは、限りなく、実物に近いところにある技術である。これから、この技術と、最新のデジタル技術の組み合わせによる、文化財の研究・教育が課題であると思った次第である。
ようやく冬休みで一息つけるかという感じになってきたので、半日、京都まで行ってきた。京都文化博物館の「至宝をうつす」の展覧会を見るためである。
コロタイプ、それもカラーのコロタイプ印刷・複製という技術をもっているのは、今世界で、京都の便利堂だけになってしまっているとのこと。その便利堂の技術とはどんなものか、それによって文化財、特に古典籍・古文書・絵画などの複製の作成は、どのような意義があるのか、という展覧会であった。
今では消失してしまった文化財、それが、写真がとってあって、カラーで複製をつくることができる。この事例として展示してあったのは、法隆寺の壁画、それから、高松塚古墳。これらのもとの姿を見ようとおもうと、今では、カラー複製にたよることになる。
展覧会を見ての印象としては、学術的な利用などで読むための資料としては、冊子体の複製本の方が便利である。だが、現物がどんなであるか、それを感じ取ろうと思うならば、不便ではあるが、巻子本の複製の存在意義がある。また、上述の法隆寺の壁画、高松塚古墳などは、その実際の絵画の大きさというものも、重要な要素である。
法隆寺の壁画は、思いのほかに大きいという印象。逆に、高松塚古墳は、小さいと感じた。このようなことを直に感じるためには、実物大のカラー複製の存在意義というものがある。
そして、このような複製の基本になっているのが、文化財の写真撮影。法隆寺の壁画のガラス乾板は、重文指定になっている。だが、高松塚古墳を写したカラーフィルムは、文化財指定になっていないようだ。これは、今後、文化財としてしかるべく保存する必要があるのではないかと思われる。
ところで、コロタイプ印刷の複製は、私が学生のころからよく勉強に利用したものである。だが、そのとき、先生からの注意事項として、コロタイプは、その印刷の版をつくるときに人為的に手を加えることがあるので、あまり信用してはいけない、ということを教わっている。
ともあれ、今回の展覧会のカラーコロタイプ、それから、今の主流である高精細のオフセット印刷、さらには、デジタルでのアーカイブ、これら、各種の技術をつかって、文化財の研究、保存、教育ということがなされていくことになる。おそらく、これからの時代、高精細のデジタル撮影、あるいは、スキャンということが、技術の核になっていくことだろうと予想している。
ただ、コロタイプだけに限って考えるのではなくて、これから使えるようになるであろう各種のデジタル技術によって、文化財の研究や教育がどのようになっていくか、総合的に考えることがもとめられるだろう。この観点からは、コロタイプは、限りなく、実物に近いところにある技術である。これから、この技術と、最新のデジタル技術の組み合わせによる、文化財の研究・教育が課題であると思った次第である。
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