『政治学の名著30』佐々木毅2017-01-02

2017-01-02 當山日出夫

佐々木毅.『政治学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063557/

ちくま新書には、『~~の名著30』というタイトルの本がいくつかある。そのうちの一つ。『歴史学の名著30』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年12月23日
山内昌之『歴史学の名著30』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/23/8286305

『歴史学~~』の方は、今では売っていないようだが、こちら『政治学~~』の方は、今もあるようだ。(こういう違いはどかからきているのか。著者の意向によるものなのだろうか。単に売れ方の違いなのか。)

古典的名著というべき本のブックガイドである。

「Ⅰ 政治の意味」では、
プラトン 『ゴルギアス』
マキアヴェッリ 『君主論』
ヴェーバー 『職業としての政治』

「Ⅷ 歴史の衝撃の中で」では、
福沢諭吉 『文明論之概略』
孫文 『三民主義』
ハイエク 『隷従への道』
アレント 『全体主義の起源』
丸山眞男 『(増補版)現代政治の思想と行動』

政治学についての本であるが、これは、私流に解釈すれば、ひろい意味での「文学」の範疇にはいるものと理解している。「ことば」によって、いかにして、その「思想」をつたえるか……これは、「文学」ということで理解する。狭い意味での小説とか詩歌とかだけが、「文学」であるのではないという立場で考えている。

このなかには、読んだことのある本もあれば、名前だけの本もある。これから、本を読んでいくガイドとして手元において眺めている。

その「まえがき」につぎのようにある。「政治学」の本を集めてあることの意義についてである。ちょっと長くなるが引用する。

 その際に大事なことは、政治についてどう考えるかが政治の現実を構成する要因である、という無視できない現実に思いを致すことである。これらの名著が単なる知的アクセサリーの域を遙かに超えて、まさに現実を支え、さらには新しい政治的な現実を生み出した原動力であったことを忘れてはならない。
(中略)
その意味で政治学の名著はシリアスに受けとめられなければならない。そしてシリアスなものをシリアスに受けとめる習慣をなくすことはやがて大きな災いの素になるであろう。

以上 p.13

このような筆者の意図に即してみるならば、バークの『フランス革命についての考察』などは、ただ保守主義の古典としてではなく、現に、アクチュアルに今の政治のあり方を考える立場から、吟味されて読まれなくてはならない、ということになる。丸山眞男の本など、まさに戦後政治の背景によりそって存在するといってもよかもしれない。そして、これからもそのように読まれねばならないであろう。

ところで、私は、自分自身のことを、これまで非政治的人間だと思って生きてきた。だが、この世の中で生きているという限りにおいて、まったく非政治的であるということは不可能であるということも、なんとなく実感するようになってきている。近代という時代、現代という社会のなかで生きているうえで、何を考えていくべきか、これから本を読みながら、自分なりに時間をつかいたいと思っている。今、自分が生きている、近代、現代、ポストモダンの時代とはいったい何であるのか、である。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

山内昌之『「反」読書法』2016-12-04

2016-12-04 當山日出夫

山内昌之.『「反」読書法』(講談社現代新書).講談社.1997

今では絶版のようだ。

著者は、言うまでもなく、現代イスラームの歴史、国際情勢についての専門家。そして、私の見るところで、現代におけるすぐれた人文学者であり、読書家でもある。いや、読書家などと言っては失礼にあたろうか。だが、著者の書いた書評の類は、どれも興味深い文章である。

ネットで検索して、古本で買って読んでみた。

読みながら付箋をつけた箇所。

「いずれにせよ、周囲とのやりとりで疲れたとき、歴史性と叙述性を兼ね備えた作品を読んでは気分を転換させたものです。とくに歴史と文学との間で感銘を受ける作品に出会ったことは、その後の私の進路に大きな意味をもちました。」(p.177)

として、あげてあるのが、大佛次郎の『パリ燃ゆ』と『天皇の世紀』である。

私は、『パリ燃ゆ』は、残念ながら読んでいない。『天皇の世紀』の方は、近年、(といっても、ずいぶん前になるが)、文春文庫版で出たのを、順番に読んでいったものである。(しかし、残念ながら、これも途中で挫折している。まあ、もともとが、未完の作品なので、いいかなとも思っているのだが。とはいえ、その冒頭の京都の雪の描写のシーンは、憶えている。)

『天皇の世紀』は、幕末・明治維新を描いた作品である。その関連で思い浮かぶのは『遠い崖』(萩原延壽)。これは、全巻買ってもっているのだが、まだ、手をつけていない。

ところで、『「反」読書法』は、上述の箇所のように著者の若い時の読書体験をつづったところがある。そのなかで、気付いたところ。

『パリ燃ゆ』を買ったのが、学生のときのこととして、その値段が、1400円であったとある。そして、

「岩波新書が百五十円の時代だったといえば、この本がいかに高価だったかをお分かりいただけるでしょう。」(p.178)

とある。

そうなのである。岩波新書は、昔は、150円均一だった。思えば、その当時、岩波文庫は、★の数で値段を表示していたものである。私の記憶にある、★ひとつの値段は、30円。

いまでも、手軽に手にとれる分量のすくない本のことを、「岩波文庫でほしひとつ分ぐらい」と、つい言ってしまうことがある。

ともあれ、『パリ燃ゆ』は読んでおきたい本のひとつ。今では新版が出ている。三巻になる。やはり三巻そろえると、岩波新書の一冊の10倍ぐらいの値段になる。それから、『天皇の世紀』も、再度、じっくりと読んでみたい。こんなことを思いながらも、今、興味があるのは、桜木紫乃の小説など。そして、その合間に、北原白秋や萩原朔太郎の作品を、パラパラとめくって懐かしんでいる。そんなこのごろである。

細谷雄一『歴史認識とは何か』2016-11-04

2016-10-04 當山日出夫

細谷雄一.『戦後史の解放1 歴史認識とは何か-日露戦争からアジア太平洋戦争まで-』(新潮選書).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/603774/

この著者(細谷雄一)の本については、以前にふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月14日
細谷雄一『安保論争』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/14/8131019

本としては、この新潮選書の方が一年はやく出ている。そして、一読した印象としては、『安保論争』で展開されている、筆者の、近現代史についての考え方を、ひろく述べているものになっていると感じる。

興味ぶかかったのは、冒頭。戦後50年の村山談話についてのこと。筆者は、どちらかといえば、村山談話には批判的なようである。その批判的というのは、その内容についてではない。そうではなく、そのような談話を出して、歴史観を国家の正面に掲げてしまったことの功罪についてである。

「歴史認識がそれぞれの国のアイデンティティと深く結びついている以上、そもそも国境を越えた歴史認識の共有がいかに難しいのかという意識が、おそらく村山首相には欠けていたのだろう。国家間の問題においても、十分は誠意を示せば決着がつくと感じていたのかもしれない。ところが歴史認識問題という「パンドラの箱」を開けた結果、むしろ中国でも韓国でも歴史認識問題を封印して、凍結しておくことがもはや不可能になってしまったのだ。」(p.29)

また、次のような箇所。

「戦争に勝利を収めた連合国は、戦闘の勝利を手に入れただけではなく、歴史の正義をも手に入れることができた。」(p.31)

そして、次のような指摘も重要だろう。

「戦争をどのように位置づけるかについて、第一次世界大戦後のドイツ国民は、イデオロギー的に分裂していた。そのような意味で、第一次世界大戦後のドイツと、第二次世界大戦後の日本には多くの共通点がある。」(p.32)

それから、次の箇所。

「日本の歴史教育におけるもう一つの問題点は、世界史の中に日本が出てこないということである。世界が出てこない日本史も問題だが、日本が出てこない世界史にも問題がある。」(p.62)

以上の引用は「序章」の部分からである。つづいて具体的な近代史の記述になる。そのなかで、たとえば、満州事変と国際連盟との関係などについて、世界史の視点から日本史の事件をみるべきことが、記される。

余計なことながら、ちょっと気になったことがある。この本の先行研究、参考文献のなかに、松本健一の名前が出てこないことである。近年の歴史学において、日本近代史を、世界史のなかで、あるいは、東アジア近代史のなかで論じようとした仕事を残した人であると、私は認識しているのだが、なぜか名前が出てこない。

歴史学、日本近代史専攻というわけではないので、学界事情にはうといのだが、どこかで、基本的に在野の人であった松本健一の仕事は評価しないという雰囲気があるのかな……などと思ってしまうのだが、どうなのであろうか。

ともあれ、この本『歴史認識とは何か』『安保論争』は、歴史叙述の着眼点としてきわだつものがあるし、そして、その叙述もうまい。今後の活躍に期待したい俊英というべきであろう。

半藤一利「歴史家としての心得」2016-11-03

2016-11-03 當山日出夫

半藤一利.『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫).文藝春秋.1996 (原著 文藝春秋.1992)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483043

この本で付箋をつけた箇所をつづける。

水戸光圀にふれたところで、以下のようにある。ちょっと長くなるが引用する。

「わたくしは近頃若いひとたちと話をしていて、かれらの歴史をみる眼のなかに、こうした”あたたかさ”や”人間らしさ”が失われていることを感じるのがしばしばである。奈良の古びて美しく残る風景や、奈良の大仏をみて若ものは「でもこの時代には天皇家と、その周囲の権力者だけが栄華な生活を送っていて、奴隷である農民を使役して人口二十万の奈良の都を作ったんですってね」と突然わたくしをおどろかすようなことをいう。/彼または彼女の頭では、二十万もの、当時の大都会に住んでいたもののほとんどが、苦役にあえぐ農民であったら、はたしていまに残る古びて美しい町を形成できたか、想像できないらしいのである。大仏をめぐる仏教文化の影響に考察は及ばぬのである。」(pp.277-278)

そして、このようにも語っている。

「歴史解釈の曖昧についていっているのではない。かつての日、わたくしたちが詰めこまれた皇国史観にかわって、戦後の民主主義教育で登場し、教えられている歴史の見方というものに、どれほどの違いがあるのか、についてやや疑義を呈したいのである。天皇制の代りに人民や民衆が振り回されることになっても、振り回される民衆とやらはそれまでの天皇制と同じで、〈歴史より歴史学〉を信奉する歴史家が、つくりあげた観念であることに違いはない。」(p.279) 〈 〉内は、原文傍点。

著者(半藤一利)は、昭和5年の生まれ。終戦のときは、中学生であった。このことについては、次の本にくわしい。すでにふれた本である。

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

このような時代に生きた人間ならでは、歴史観というべきであろう。絶対的な皇国史観を信じることもないし、かといって、逆に、絶対的な民主主義信奉者というわけにもいかない。どかかさめた眼で歴史をみている。

漱石について思いつくままに書いている気楽なエッセイであるが、このような箇所は見逃すことはできない。「歴史」と「歴史学」について、考える貴重なヒントになる箇所であると思って読んだ。実際にどのようであったの「歴史」とそれを解釈する「歴史学」、といえば、あまりに素朴な実在論であろうか。しかし、「歴史」にむかうとき、謙虚な実在論の立場を失ってはならないと思うのである。

山内昌之『歴史の想像力』2016-10-30

2016-10-30 當山日出夫

山内昌之.『歴史の想像力』(岩波現代文庫).岩波書店.2001 (原著 『二十世紀のプリズム』.角川書店.1999 再編集)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/7/6030480.html

著者は、イスラームが専門の歴史研究者であるが、それと同時に、すぐれた人文学者であると思う。さりげなく書いてあるが、次のような箇所。

「歴史と文学には大きな共通点がある。それは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼である。そして、歴史と文学は、〈叙述〉という表現手段が重視される点でも似通っている。」(p.214)

〈文学〉と〈歴史〉があまりにも離れすぎてしまった時代においては、貴重なことばといえる。一般的には、文学部に属する分野なのであるが、現在では、〈歴史〉を勉強する人間は〈文学〉を分からなくてもいいかのごとくである。また、〈文学〉の方でも、そもそも〈歴史〉とは何かと問いかけるというようなことは、なくなっているように思える。

たとえば、次のような指摘。

「もし辻邦生が歴史学者であったなら、どのような研究を仕上げたことであろうか。仮定とはいえ、どうしても想像してみたくなる問いである。その場合でも確実なのは、氏が歴史学者という狭いギルド的枠に留まらずに、大きなスケールの仕事を仕上げていたということだろう。」(p.51)

として、『背教者ユリアヌス』『西行花伝』『安土往還記』『嵯峨野明月記』『天草の雅歌』、などの作品名があがっている。これらの作品、私も、高校生のころに読んだものである。『西行花伝』は晩年の大作、これを読んだのは、出版されたときだったろうか。久しぶりに辻邦生の作品を読むという感じで読んだのを覚えている。ただ、私は、和歌という文学には向いていないのか、いまひとつ、理解が及ばなかったという気がしている。『背教者ユリアヌス』、出たときに読んだ。まだ高校生のころは「背教者」ということばの意味もろくに知らずに読んでいたのだが、今、読み返すとどう感じるだろうか。

いろいろ知的刺激に満ちた本であるが、次のような箇所は重要だろうと思う。付箋をつけた箇所。

「「イスラーム原理主義」という隠喩こそ、異文化理解の妨げになる「古い理論的鼻めがね」なのかもしれない。」(p.287)

(EUへの難民問題にふれて)「もとより、こうした試練から日本だけがひとり自由でいられるはずもない。実際、日本の歴史と社会にひそむ「単一民族国家の神話」は、二一世紀に向けて大きく揺らいでいる。日本人にしても、多民族の共存と調和の時代に新たに貢献することが迫られるであろう。」(p.265)

「小ぶりの歴史書再読のすすめ」の章。

「今の若い世代に勧めるとすれば、岩波文庫やちくま学芸文庫の百ページから百五十ページあたりの小ぶりの文庫本が適当だと思う。」

としてあげてあるのが、

郭沫若『歴史小品』
『ランケ自伝』
ハーバート・ノーマン『クリオの顔』
新井白石『読史余論』

これからの若い人にとっての読書案内としてもすぐれていると同時に、もう私のような年齢になって、昔読んだ本など再読したくなっている人間にとっても、有益である。

ただ、今、ちょっと調べてみたところ、みな絶版のようである。しかし、古本で手にいれることはむずかしくない。だが、これらの本がいまでは普通に売っている本ではなくなっていること、そのことは、現代の歴史学のみならず、人文学の状況……その危機的状況……をしめすものであると思う。『ランケ自伝』など、学生のころは、普通に買って読んだ本だと覚えているのだが。

そして、まさに、次の箇所はなるほどそのとおりと同意するところである。

「静かに机に向かって書物を繙く以上の喜びがこの世にあろうか。」(p.109)

天皇とポツダム宣言2016-10-27

2016-10-27 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

日本は、太平洋戦争(大東亜戦争)を、ポツダム宣言の受諾によって、降伏ということになった。そのとき、重視されたのは、国体の護持ということであったことは、知られていることである。国体の護持、つまり簡単に言い換えれば、天皇制をどうするか、昭和天皇はどうなるのか、といったことになる。

ところで、ポツダム宣言には次のようにある。

「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」

国立国会図書館 日本国憲法の誕生 憲法条文・重要文書
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

戦後の日本占領、憲法制定、天皇制をめぐっては次のような状況にあったと、半藤一利は書いている。

「いまや天皇退位は天皇の私事ではなく、まさしく戦後日本の運命を左右する根本の大事となっていた。特にアメリカでは最大の難問なのである。それで九月から十月にかけて、ワシントンの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会(とくに下部の極東小委員会)において、時をおかず天皇の身柄をいかにすべきかについての激しい討議がつづけられていたのである。/実のところ、彼らはジレンマに直面していた。公然と、軍国主義の源泉たる天皇制の全面廃止をうちだせないのである。なぜならポツダム宣言受諾をめぐって、せっぱつまったところで日本政府に、天皇制の将来は日本国民の自由意志にまかせると、アメリカは約束していた。「いまになって、信義にもとるようなことはできない」と、強硬論者はホゾを噛まざるを得ない。」(p.156)

この本、『日本国憲法の二〇〇日』は、憲法制定のプロセスをめぐる歴史を描いている。と同時に、戦後の天皇制のあり方について、どのような思惑が交錯したかをも、同時に書いてある。

いうまでもなく、現在の天皇は憲法によって規定されている。つまり、天皇制について議論することは、憲法について、その成立について、その正統性について、議論することにつながる。

日本国民の意思によって、憲法が制定され、その憲法には、国民の総意のもとに天皇の存在が規定されている……これが、タテマエの筋道ということになる。

少し前の国会で、首相がポツダム宣言をつまびらかに読んでいるか、いないか、ということが話題になったことがあった。

ポツダム宣言の受諾によって、日本が戦争を終結させ、その占領下にはいることになった。これは冷厳な事実としてうけとめなければならない。と同時に、そのとき、我が国の国体(強いていえば、天皇制)のあり方をめぐっても、なにがしかの方向性の取り決めがあった、これもまた事実とすべきことであろう。

であるならば、ポツダム宣言受諾を受け入れるならば、天皇制維持ということもまた、日本国民の選択としてあったのだ……このように理解することもできる。

天皇制の行方は、憲法の問題でもあるし、歴史的には、ポツダム宣言受諾の時点にさかのぼって考える問題であるように思う。

半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』2016-10-26

2016-10-26 當山日出夫

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

現在の憲法については、その成立をめぐって、また、改正をめぐって、様々に議論がある。それらのなかで、この本は、読まれていい本だと思っている。と同時に、天皇というもの……今上天皇は退位の意向をしめされているようだが……について考えるとき、憲法の問題とあわせて考えるべき視点を提供してくれる本だと思う。

著者(半藤一利)は、「歴史探偵」として多くの歴史にかんする著作を書いている。この本も、その「歴史探偵」の面目躍如たるところがある。この本には、主に、三つの視点がある。

第一には、客観的な歴史記述をする、一般の歴史家の視点。この視点から描かれる日本国憲法の成立過程は、他に多くある。特にきわだって新発見の史料があるというわけではない。しかし、それはそれとして、知られていることを、実に手際よく整理してしめしてある。

第二には、当時の世相の描写である。著者の使っている用語でいうならば、「民草」の視点であり、「B面」の歴史である。ここで、頻繁に登場させているのが、山田風太郎と高見順の日記。

山田風太郎の日記……その代表的なものは『戦中派不戦日記』だろう、講談社文庫版で新旧の版を持っている……それから、作家として名をなし近代文学史に足跡をとどめる仕事をしていた高見順。この高見順、その作品自体は、もう読まれないものになってしまっているようだが、文学史をたどるうえでは、その仕事は貴重である……これらの日記史料をつかって、当時の世相を描きながら、政府に対して批判的な視点のあったことをわすれてはいない。

第三には、著者(半藤一利)の視点である。終戦当時、著者は、新潟県の長岡に疎開してして、中学生であった。その当時の中学生の視点を解雇して、どのように時代の動きがみえたか記している。この箇所についてみれば、これは、これとして、貴重な史料になるだろう。

以上、主に三つの視点をおりまぜながら追っていく日本国憲法の成立は、ただの政治史としての憲法論ではない、面白さがある。だからこそというべきなのだろうが、上記のような三つの観点は大事かと思って読んだ。

で、なぜか出てこないなあ、と思っていたのが永井荷風である。その『断腸亭日乗』がこの本では、基本的に使っていない。しかし、一カ所だけに登場させている。なるほど、このことを荷風のことばをつかっていいたかったのか、という場面においてである。

日本国憲法は、「おしつけ」であったかどうか……論者によっては様々な議論があることは承知しているが、ともかく、実際の歴史的経緯は、どんなであったか、それをその当時の人びとはどううけとめていたのか、まず、そこのところを確認することが重要なのだと思う。

この本は、2003年の刊行であるが、その「あとがき」にこう記している。

「そしてわが日本である。基本の国家戦略をいまだうち樹てないままに、「新しい戦争」を、つまり「ブッシュ戦争を支持します」とただ恰好をつけていうのは、目をつむってテロのターゲットになることを覚悟した、ルビコン河をあっさり渡ったと同義になろう。あの日から五十七年、いまの日本の指導層のなかでは、すでにして「大理想」は空華に化しているのであろう。非命に斃れた何百万の霊はそれを喜んでいるであろうか。」(p.365)

そして、さらに、その後の日本は、現行の憲法の解釈を変更し、集団的自衛権というところにまで、時代は変化してきている。

私は、必ずしも現行憲法を不磨の大典として守り抜けというつもりはない。そのときの国際情勢のなかで、常に見なおされてしかるべきだと思っている。だが、それは、たえず歴史をかがみとして、どのようにして今があるのか、たえざる反省をともなうものでなければならないと思っている。この意味において、憲法成立の過程をわかりやすく説いたこの本は、読むに値する本の一つであると考える。

山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』2016-10-24

2016-10-24 當山日出夫

山内昌之.『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』(PHP文庫).PHP研究所.2014 (原著、『歴史の作法』.文藝春秋.2003 加筆・修正あり)
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-76243-2

このところ、山内昌之の本を読むことが多い。いろいろ理由はある。

第一には、イスラームが専門の歴史家であること。でありながら、日本はもとより、世界の情勢・歴史に通暁している、幅広い知見のもちぬしであるということ。このことについては、ことさらここに書くまでのことでもないだろう。

第二には、その歴史観に共感するところがつよい、ということがある。

この第二の点についていえば、本書では次のような箇所。

「現在の日本には、専門家たる歴史家でなくても、自分が過去と現在からオリュンポスの神々のように超然とし、戦争の責任問題や犠牲者の数といって微妙な事象さえ「客観的」に評価できると信じる人びともいます。」(p.16)

「日本の未来と歴史的進路について、文明論的な洞察と過去とのバランスがとれた対話を歴史学者に期待する市民がどれほどいるでしょうか。確かに、最近では格別に歴史的実証に努力してきたわけでもない歴史学以外の学者、はたまた作家や評論家までも、左右を問わず戦争責任や植民地支配に関わる歴史戦争の〈主役〉になっています。」(pp.26-27)

「しかし、いずれかは絶対悪の加害者であり、他方は絶対善の被害者というような解釈が歴史で果たして成り立つのでしょうか。逆に、絶対善の加害者と絶対悪の被害者という組み合わせも疑ってかかる必要があるでしょう。」(p.29)

「明治維新このかたの日本近代史をまるで悪の年代記と考える立場にしても、侵略戦争や植民地支配の負の現実を忘れがちな立場にしても、歴史の決定要因の複合性を解釈できない人びとが一部に見受けられます。」(p.30)

これらの引用にみられるように、歴史に対する専門家としての自負にうらづけられたバランス感覚が重要であると思う。

日本の近現代史については、歴史学の研究課題であると同時に、きわめて政治的な問題でもある。特に、近隣諸国のみならず、アメリカとの関係においても、近代史全体をみわたしての議論が必要になってきていると思う。

今のような時代、信頼して読むべき希有な歴史家の一人であると思う。

半藤一利『続・漱石先生ぞな、もし』徴兵逃れのこと2016-10-12

2016-10-12 當山日出夫

NHKで、『夏目漱石の妻』をドラマでやっているせいか、漱石関係の本を、手にとったりしている。そのなかの一冊、

半藤一利.『続・漱石先生ぞな、もし』(文春文庫).文藝春秋.1996 (原著、文藝春秋.1993)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483050

もういまでは売っていなようだ。

この本でちょっと気になって付箋をつけた箇所。漱石が、徴兵をのがれるために、戸籍上の本籍を北海道に移していた件について。このことについて、半藤一利は、つぎのように記している。

「前著(『漱石先生ぞな、もし』)で、記したように、日清戦争がはじまる以前は、なお兵役から免れる手段をとることが国家への反逆となるわけではなかった。徴兵猶予の道をさがすのは通常よく行われていたのである。すなわち福地重孝氏の著書によると、明治十年代には、それを証するような愉快な本が何冊も出版されている。」(p.106)

として、次のような本が記してある。

石井郁太郎『徴兵令――附のがれ法』明治十六年
近藤道治『徴兵免否註解――一名徴兵のがれ早わかり』明治十七年
中野了隋『徴兵心配なし』明治十七年
中井要平『新令・旧令 徴兵免否要覧』明治十七年

これらの本の典拠は、巻末の参考文献によると、

福地重孝『軍国日本の形成』(春秋社)

である。この本の刊行年は、1959らしい。(NDLによる。)

そして、上述のような本はあることは分かったが、読めるかどうか。国会図書館で検索をしてみると、次の本がオンラインで読めることが分かった。著者名で検索してみた。

近藤道治 改正徴兵令註解 : 一名・徴兵のがれ早わかり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797776

近藤道治 改正徴兵令免否註解 : 一名・徴兵のがれ早わかり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797803

中井要平 現行改正徴兵免否要覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797816

中井要平 新令旧令徴兵免否要覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797867

ともあれ、筆者(半藤一利)のいうとおり、明治のはじめのころまでは、徴兵から逃れることは、別に悪いこととはされていなかったようである。そして、いま、上記のような本は、国立国会図書館デジタルコレクションにはいっていて、オンラインで閲覧することができるようになっている。

たまたま都合でこの順番で書いてみたが、最初に出た『漱石先生ぞな、もし』については、改めて書くつもり。