『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その六)2017-07-06

2017-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月1日
『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/01/8607561

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

第4章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」

この章のポイントは次の二点になるだろう。立憲君主制のもとにおける天皇と、教育勅語における天皇である。

第一には、明治になってから、近代国家としての日本の統合のために、「基軸」となるものとして、天皇制が必要であったことの指摘である。これは、明治の近代国家の古さをしめすものではなく新しさをしめすものとしてである。

ヨーロッパの近代国家は、中世から「神」を継承してなりたっている。しかし、日本は、それをしなかった。いや、それをしようにも「神」が不在であった。また、仏教がそれにとってかわることもできなかった。廃仏毀釈のためである。その結果、

「ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」(p.216)

「日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。」(p.217)

近代における天皇には、二つの側面があったという。一つは、天皇機関説であり、もうひとつは神聖不可侵性である。この両者は両立し得ない。そして、この後者から導き出されたのが、教育勅語である、とする。

第二は、その教育勅語についてである。

「憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の基軸」に据えたことの論理必然的帰結でした。」(p.226)

その制定の経緯について解説して、

「道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、相対的超越者に移りました。」(p.237)

「こうして教育勅語は国務大臣の副署をもたないものとなり、それによって立憲君主制の原則によって拘束されない絶対的規範として定着するにいたったのです。」(p.240)

以上の二点のように、立憲君主としての天皇、それから、教育勅語の問題にふれて、さらにこうある。

「立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。」(p.241)

「相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇でした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」(civil religion)の要約であったといってよいでしょう。」(pp.241-242)

また、憲法は一般国民のあずかり知らぬものであっともある。大学教育前の段階で憲法教育はおこなわれなかったとして、

「大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。」(p.243)

その一例として、吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」も、多数の国民に広く影響のあったものではないと指摘する。(p244)

結果として、「日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。」(p.245)

そして、結論にはこのようにある……象徴天皇制の今後について、どのようにあるべきなのか、それは、天皇自らがどのように語りうることであるのか、また、それは、国民としてどうとらえるべきなのかが、課題であると(p.246)

つまり、この第4章から次のようなことが読み取れよう。

第一に、憲法(明治憲法)は、たしかに立憲君主制を規定したものであったが、それは、ある意味で、非常に近代的なものであった。

第二、大多数の国民にとって、日本のあるべきすがた「国体」をしめしていたのは教育勅語の方であった。

以上の二点を読み取るとするならば、例えば、昨今の話題になるようなことがら……憲法改正、それは、明治憲法の昔にもどすことであるのかもしれないという懸念、あるいは、教育勅語もいいところはあるのだから否定せずに現在でも継承すべきであるというような意見……これらの議論に、冷静な視点を提供してくれることなるだろう。

いたずらに明治憲法を悪の根源であるかのごとくみなすのもどうかと思えるし、一方で、教育勅語を復権させようという動きも、その成り立ちの本質を理解したうえでのことではないと批判することもできるだろう。

ともあれ、憲法と教育勅語をめぐる議論は、いまこそ冷静に考え直されなければならない論点であることは確かである。

『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)2017-07-01

2017-07-01 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月29日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/29/8606332

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

第4章を読みかけたところで、ふと付箋をつけた箇所について。この章は、近代の天皇制についての章なのだが、それにはいる前の前段階の議論で、ちょっと興味深い記述があった。

日本の近代を機能主義で説明しようとするとき、それに外れた人たちのことにもふれることになる。たとえば、

「森鴎外が一連の「史伝」で描いた江戸時代末期の学者たちの学問は、明治期の機能主義的な学問に対する反対命題でした。鴎外が「史伝」の著述にあたって、そのことを明確に意識していたことは明らかです。」(p.210)

つづけて、永井荷風におよぶ。1909(明治42)年の「新帰朝者日記」について、それを引用したあと、

「ヨーロッパには「近代」に還元されない本質的なものがあるという荷風の洞察は、後年文芸評論家中村光夫に深い感銘をあたえました。」(p.211)

ここを読んだとき、私の脳裏をよぎったのは、読んだばかりの、『日本の覚醒のために』(内田樹)である。

やまもも書斎記 2017年6月29日
『日本の覚醒のために』内田樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/30/8606943

この中の「伊丹十三と「戦後精神」」で、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に言及した箇所である。ここで、内田樹は、伊丹十三が、日本近代がとりこもうとしたヨーロッパにあって、その生活に密着したところにある職人たちの仕事にふれている。ヨーロッパの職人たちのわざこそ、日本の「伝統」とつながるものであると理解していると、私は読んだ。

たぶん、「近代」の日本というもののなかにあって、森鴎外、永井荷風、伊丹十三は、通底するものがあるにちがいない。さらには、内田樹にも。近代日本のモデルとなった西欧文化のなかに、機能主義的ではない文化的な伝統とでもいうべきものを見いだしている。

そして、さらに私見を書くならば、機能的ではない、人間の生活に根ざした文化的なものへの憧憬、これこそは、真性の「保守」の発想につながるものであろう。

伊丹十三をきちんと読んでおかなければならないと思っている次第である。また、荷風や鴎外も読み直してみたい。

追記 2017-07-06
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月6日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/06/8615164

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その四)2017-06-29

2017-06-29 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/24/8603198

第3章は、「日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか」。

この章は、わりと面白く読んだ。日清戦争以降、太平洋戦争(大東亜戦争)までの、日本の植民地統治の時代を、まったくネガティブにとらえるか、それとも、それは日本の歴史のあゆみとしていたしかたのないものであったと比較的肯定的にとらえるか、えてして、議論が極端にぶれがちなテーマについて、特に国家の制度設計の観点から冷静に記述してある。そして、この章は、そんなにふかくではないが、共通の文化的基盤というような観点からも記述がある。

まず、日本が植民地帝国へ踏み出したきっかけになった事件として、日清戦争後の、三国干渉が指摘してある。これによって、「自覚的な植民地帝国」への「内面的な動機」となったとある。(p.148)

いくつか興味深い指摘がある。

日本の植民地の特色として、「本国の国境線に直接する南方および北方地域への空間的拡大として行われました。」(p.151)

また、日本の植民地統治は、法的・制度的にどのようにおこなわれたかについて、伊藤博文は、統監が韓国のすべてを支配するようなことには反対の立場であったという(p.156)。そして、韓国の支配をめぐっては、軍と政府との間で、その影響力、支配力をめぐって、確執があったともある。

さらに、韓国併合後、その植民地というものの法的な位置づけついて、美濃部達吉の『憲法撮要』に言及してある。美濃部達吉は、植民地は、憲法のおよばない「異法区域」であるとしたという(pp.164-165)。

このあたり、日本の近代史を考えるうえで、美濃部達吉という人物がキーになってきている。

特に朝鮮・韓国については、「同化」政策が問題とされる。これについては、「教育勅語」による「同化」について、その当時においても否定的な見解もあったことが記される。

この本の記述が面白いと思って読んだのは、1930年代、つまり、昭和になってからの日本のとった国際政策……国際連盟からの脱退など……が、「地域主義」として、アメリカ、あるいは、ヨーロッパの「帝国主義」と対立するものであったという指摘である。日本のとったアジアを中心とする「地域主義」は、その当時のヨーロッパでの、「汎ヨーロッパ主義」をモデルとしてならったものであるという。つまり、「帝国主義」にかわる新しい概念としての「地域主義」ということになる。これが、後には、「大東亜共栄圏」という発想につながっていく。

ともあれ、戦前の日本の歴史をみるとき、それを「帝国主義」ということばでくくってしまうことへの問題点が指摘されていることは確かである(この本では、そのように直接的な批判のことばはないが)。明治から戦前までの日本の歴史について、細かに時代の潮流をおっていけば、画一的に「帝国主義」とひとくくりにすることはできない。

そして、太平洋戦争後、冷戦時代にあっては、アメリカにとって東アジアは、重要な地域であった。だが、その冷戦終了後は、また、別の意味で、東アジアの重要性がある。しかし、東アジアを統合する、そのような文化的基盤は、はたしてあるだろうか。これは、これからの日本、韓国、中国にとっての課題であるとしめくくってある。

この本の第三章の印象としては、明治時代から昭和前期まで、帝国主義の名のもとにひとくくり語られがちな時代について、細かにその時代時代の潮流のあり方を、特に、政治的な制度設計の観点から解説してあるところであろうか。また、この章では、東アジアに統合的な文化基盤があり得るのかという問いを発している。これに答えることは書いていないのであるが、そのような視点をもって考えなければならないということには、同意できる。

追記 2017-07-01
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月1日
『日本の近代とは何であったのか』(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/01/8607561

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その三)2017-06-24

2017-06-24 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月22日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601974

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

この本の第二章は、「なぜ日本に資本主義が形成されたのか」である。

結論的に感想を述べれば、この本は、この問いに対する答えになっていない。書いてあることは、日本の近代(明治から昭和初期)の経済政策史である。

日本の近代の経済にとって、「先進産業技術と資本と労働力と平和」が必要であった。そして、これらは、国家が作ったという立場をとる(p.86)。あくまでも、国家主導の資本主義の育成ということで記述してある。

まず、明治なってからの政治家として、大久保利通の経済政策がとりあげられる。そして、それを引き継ぐのが、松方正義であった。さらにその次に登場するのは、高橋是清である。最後には、井上準之助が登場して、そこで終わっている。

この章の最初の方で、スペンサーの社会学説についてふれてある。その次に、ウェーバーが出てくる。だが、この本では、ウェーバーにならって、日本における資本主義の「精神」を分析するということはやっていない。なんとなく肩すかしをくらったような気分になる。

ちょっとだけ、日本の「恥」の文化について言及がある。『菊と刀』である。だが、これでもって、日本における資本主義の「精神」を説明するということにはなっていない。

たとえば、

「権力による近代化の心理的促進要因となったのは何だったのか。それを一言でいえば、欧米先進国の文明の理想化されたイメージと対比して生じる、自国の文明への「恥」の意識です。」(p.88)

これは、為政者の意識の分析としては、ある程度いえることなのかもしれない。しかし、これをもってして、ウェーバーのいった資本主義の精神に代わるものとして、とらえるのは無理であろう。

私自身が、あまり経済に関心がないせいなのかもしれないが、この章はあまり面白くなかった。とはいえ、興味深かった記述もある。

日清戦争について、明治天皇はきわめて消極的、反戦的であったということの指摘。日本の近代が戦争の時代でもあったということをふまえるならば、明治天皇の平和志向の指摘は、注目されるべきかもしれない。

それから、教育にふれて、「良妻賢母」ということばは、中村敬宇がつかいはじめたとある。そして、そのつかわれはじめたときの意味としては、自立した市民としての女性という意味合いであったという。この指摘は興味ぶかいもおのであった。(p.104)

ところで、近代の経済史について、私が一番知りたいことは……地租改正のもっていた意味というか、その内実である。地租改正ということで、明治政府が安定した財源を得たということは、この本に書いてあるとおりだと思う。

だが、近世までの年貢にかわって、租税を納めるようになった、という学校教科書的なことから一歩ふみこんで考えてみるならば、江戸時代まで、年貢はどういう人たちが、どのように納めていたのか、ということが気になる。農民ではない、非農業民、商工業に従事するような人びと、あるいは、都市の住民は、どうだったのだろうか。

このあたりのことが一番気になるのだが、そして、その江戸時代の農業、商工業で働くひとびとのエトスが、日本なりの資本主義の精神につらなっていったのだろうと想像してみるのだが、そのあたりのところが、まったく触れられていない。

第一章の政治制度の近代を論じたところでは、近世にその萌芽的要因を探っておきながら、経済のことになると江戸時代のことは、まったく触れられていない。これは、歴史を描く立場として、どうかなという気がしないではない。近代の商工業の歴史は、明治になってからのこととして、江戸時代からは切り離してしまってよいのであろうか。

この第二章は、明治から昭和初期にかけての政府の経済政策史の素描として読めばいいのだと思う。

追記 2017-06-29
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月29日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/29/8606332

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その二)2017-06-22

2017-06-22 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月19日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/19/8600317

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

今日は、第1章「なぜ日本に政党政治が成立したのか」の章について見る。

まず問題意識として、日本における政党政治が短命に終わったことを指摘する。その上で、

「まず、それに先だって、そももなぜ日本に複数政党制が成立したのかという問題を取り上げることが必要だと思います。」(p.37)

「特に反政党内閣的であるといわれた明治憲法の下で、なぜ現実に政党内閣が成立したのか。この問題は非常に重要です。」(p.37)

そして、二つのことを考える必要があるという。「権力分立制」と「議会制」である。

明治の日本で、立憲政治がおこなわれた前提として、その前の時代のことを見るべきだとある。

「明治国家におってのアンシャン・レジーム、旧体制である幕藩体制の中に、それなりに明治国家体制の枠組みとしての立憲主義を受け入れる条件が準備されていたと考えるべきです。」(p.42)

江戸時代の幕藩体制の時代にあっても、合議制、権力分立(権力抑制均衡)、ということがあったと指摘する。

この指摘の中で、私が興味深く読んだのは、次の箇所。

ハーバーマスを引用して、

「政治的公共性は文芸的公共性の中から姿を現してくる」(p.51)

と述べている。その具体的な事例として、森鴎外の史伝『渋江抽斎』『北條霞亭』などをとりあげて論じてある。この箇所は、どちらかといえば「文学」の立場にたって本を読んでいる私などには、興味深いところであった。

「そこでは身分制に基づく縦の形式的コミュニケーションではなく、学芸を媒介とする横の実質的コミュニケーションが行われていたのです。」(p.57)

また、幕末になって、「公議」が重用になったと指摘する。

「つまり幕府側も反幕府側もそれぞれの政治的な存在をかけて、「公議」というものをそれぞれの存在理由としなければならなかったわけです。」(p.65)

これをうけて、明治になって明治憲法がができるわけだが、その明治憲法を見ると、明治憲法の権力分立について、

「権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす天皇大権のメダルの裏側であったのです。」(p.68)

「一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動していました。」(pp.69-70)

「明治憲法は表見的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的でした。実はその意味するとことは深刻でした。つまり、明治憲法が最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていたということを意味するからです。」(p.71)

「明治憲法は制度上は、覇府的な存在、要するに幕府的な存在というものを徹底して排除しながらも、憲法を統治の手段として有効に作動させるために、何らかの幕府的存在の役割を果たしうる非制度的な主体の存在を前提としなければならなかったわけです。」(p.72)

そして、その「主体」となり得たものとして、まず「藩閥」があり、次に「政党」であると述べる。

「藩閥が担ってきた体制統合の役割は漸次政党に移行していきます。その意味で政党は藩閥化し、また藩閥は政党化する。いいかえれば、政党が幕府的存在化する。」(p.75)

と結論づける。

以上のような筋書きなのであるが……政党が登場してきた経緯は理解できるとしても、複数政党が競って政権をになうようなシステムがどうしてできたのか、というあたりになると、今ひとつ説明不足な印象が残ってしまう。

74ページで、伊藤博文が立憲政友会をつくり、それに対抗する勢力が……と説明はあるのだが、これだけでは、最初の問題提起の答えとしては弱いように思える。日本の近代の政党政治は、まず政党というものができたことと、それが、複数できて競ったこと、このところに問題点があるのではないだろうか。

政党が政権を担うものとしてできたことと、それが、複数できたこととは、また、別の次元のことがらとして考えなければならないだろう。

このことの補足的な説明として、アメリカでの政党政治の事例があげてある。だが、政党が複数出来て政権を競うようになるメカニズムの歴史的背景は、アメリカと日本で同じというわけではないだろう。

第1章を読んでみて……問題提起は非常にいいと思うが、最終的な説明のところで、いま一つ説得力を欠くことになっているように、私には読める。明治の近代化の前段階として、江戸時代、それから幕末の状況に触れて、その中にすでに「近代」の萌芽があるとの指摘は納得できるものがある。しかし、明治になってから、日本における政党政治の歴史が、何故そのようなものであったかの説明としては弱いところがあるといわざるをえない。

追記 2017-06-24
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月24日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/24/8603198

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎2017-06-19

2017-06-19 當山日出夫(とうやまひでお)

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

日本の「近代」を考えるうえで、新書本として手頃な本が出たという気で読んでいる。個別的な議論や考証も重用だが、このように大所高所にたって、日本の近代を俯瞰的に考察するという仕事もあっていいと思う。

順番に読んでいってみようと思う。まずは「序章」から。

日本の近代が、西欧諸国をモデルとして構築されたものであること、また、そのきっかけになったのはアメリカによる開国の要求であった。そのアメリカも、また、英国から独立したという経緯がある。それをふまえて、

「現に幕末の日本で世界情勢に通じていた一部の知識人からは、米国は「攘夷」の成功的事例とさえ見られていましたし、非ヨーロッパ国家としてヨーロッパ的近代化の先行的事例を提供していたのです。」(p.3)

「日本の近代化の過程において、米国が日本に対して及ぼした独自の強い政治的文化的影響の歴史的根拠はそこにありました。」(p.3)

次に、「近代」を、ヨーロッパ、特に、英国において、どのようにとらえれていたかを、19世紀後半の英国のジャーナリスト、ウォルター・バジェットをたよりにして、考察していく。

バジェットによれば、「近代」とは、「議論による統治」であるという。

「バジェットはヨーロッパで生まれた「議論による統治」について、むしろ「前近代」と「近代」との連続性を強調し、時代を超えたヨーロッパの文明的一体性を意識的無意識的に前提としています。この点に関して、バジエットは世界における西と東との文明的断絶を強調しました。」(p.14)

このような認識をふまえて、日本は、特殊でもあり、また、ヨーロッパに似たところもあったという。

「法化された固定的な慣習によって拘束されることなしには、地域集団は真の民族となることはできません。また民族を存続させるものは、民族的同一性を保証するような慣習的規範の固定制であるからです。」(p.20)

また、次のようにもある、

「「議論による統治」の下での自由な議論は単に政治的自由のみならず、知的自由や芸術的自由の拡大をももたらします。」(p.27)

そして、この本では、

「バジェットの「近代」概念は、「議論による統治」を中心概念とし、「貿易」および「植民地化」を系概念とするものでした。これを通して、東アジアにおいては最初で独自の「議論による統治」を創出し、また東アジアにおいては最初で独自の「資本主義」を構築し、さらに東アジアにおける最初の(そしておそらく最後の)植民地帝国を出現させた日本の「近代」の意味を、以下の各章では問うていきます。」(p.31)

ということである。

以上のような立場に、私は全目的に賛同するというわけではない。バジェットの言っていることは、あくまでも英国におけるその時代の自己認識としてということとしなければならないと思う(この点については、著者も同様だろうと思う。ただ考察の手がかりとして便宜的にバジェットを用いてみたというところだろう)。が、ともあれ、この本は、読むにたえる本だと思うので、以下、各章ごとに読んでいきたいと思っている。

私は私なりに、自分が生きてきた「近代」という時代のことを考えてみたいのである。

追記 2017-06-22
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月22日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601974

『憲法サバイバル』加藤陽子・長谷部恭男2017-06-08

2017-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

筑摩書房から、ちくま新書の一冊として、この本が出たので読んでみた。四つの対談を編集したものなので、一日に一つづつ読んでいくことにする。まず、最初は、加藤陽子と長谷部恭男である。

加藤陽子、長谷部恭男については、以前にこのブログでも書いたことがある。たとえば、

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281

他にも触れたことがある。この対談でも、戦争とは、相手国の憲法を書きかえさせることに目的がある、との議論が両者の間で展開されている。この点について、さらに理解しておくためには、上記のところでとりあげたような、二人の書いた本を読んでおくべきかもしれない。

読みながら、いくつか付箋をつけたが、そのいくつかを引用しておきたい。

(長谷部)(大日本帝国憲法には)「天皇は全国家権力を掌握しているけれど、それを行使する時は自身がつくった憲法の条規に従う。この国家法人理論と君主制原理は、とても相性が悪いんです。」(p.20)

としたうえで、現在の憲法について、

「実は人民主権原理にも、同じような問題があります。人民は全国家権力・主権を持っているが、自らが制定した憲法の範囲内でのみそれを行使する。そんなことは本当に、理論的にあり得るのかということです。」(p.21)

と述べる。国民の主権ということは、今の憲法において当たり前のことのように思っているが、理論的に考えると、いろいろ問題をはらんでいるらしいことがわかる。といって、昔のように天皇主権にもどせばよいというものでもない。

それから、次のような発言も興味深かった。

(加藤)「つまり大日本帝国憲法というのは、究極の押しつけ憲法だと。」(p.28)

今の憲法についての改憲議論のなかに、GHQの押しつけ憲法だから改憲すべきだという意見もある。であるならば、その前の、大日本帝国憲法は、どうであったのか、考えてみてもいいだろう。

他にも、この対談で興味深い箇所がいくつかある。

憲法学という法律の学問分野は、意外と新しいのである、という指摘などは、憲法の専門家に言われてみて、なるほどそういうものかと思ったりする。また、憲法についての議論としては、美濃部達吉を非常に高く評価している。国家法人説、天皇機関説である。そして、今、その美濃部の著作を読もうとしても、全集、著作集のような形にはなっていないともある。そんなものなのかと思ってしまう。

ところで、どうでもいいことのようだが……加藤陽子は、山田風太郎が好きらしい。これはなるほどと感じる。特に、歴史、また、文学に関心があるのなら、その明治伝奇小説の一群の作品は、私は、高く評価されてよいと思っている。山田風太郎は、司馬遼太郎が描かなかった明治、近代日本というものを描き出した作家だと思う。

『うたごえの戦後史』河西秀哉2017-05-19

2017-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

河西秀哉.『うたごえの戦後史』.人文書院.2016
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b241570.html

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。ヒロイン・みね子たちの勤める工場には、合唱部がある。これには、社員は、なかば自主的に、なかば強制的に参加させられるようである。

はじめてみね子たちが、会社にやってきた時には、歓迎のコーラスがあった。「手のひらを太陽に」だった。それから、みね子たちも参加してうたっていた。ここでは、「トロイカ」が歌われていた。

私の世代(昭和30年生)では、さすがに、歌声喫茶の体験はないのであるが、しかし、歴史的な知識としては、そのようなものがあったことは知っている。番組でも、ナレーションで説明があった。

戦後、多くの「日本人」「国民」が歌をうたっていたといえるだろう。もちろん、学校での音楽の授業の延長ということもあるのかもしれないが、それだけではなく、職場などを単位として合唱団を組織するということが、ひろくおこなわれていた。

この本は、このような戦後の日本の合唱のありかたをあつかった本。

私が注目したのは、次の二点になる。

第一には、戦後の合唱ブームとでもいうべきものは、戦後になってから作られたものではなく、戦前からの連続性があるという指摘。太平洋戦争中、日本国民の一体感を高めるために、合唱がよくおこなわれていたという。この側面、戦前からの連続性のうえに、戦後の合唱をとらえる視点というのは、重用だと思う。

第二には、戦後の合唱の隆盛には、下から自然発生的に生まれた側面と、逆に、上から組織してつくった側面と、両方があるという指摘。これも、いわれてみれば、なるほどと納得のいくことである。ただ、自発的に始まったというものではないようであるし、同時に、上からの命令だけで組織されたというものでもない。両方の動きが相まって、合唱ということがおこなわれた。

本書の帯には、「民主主義はうたごえに乗って」とある。まさに、戦後日本の民主主義……みんなで共同してひとつの仕事をなしとげる……は、合唱に象徴されるといってもいいかもしれない。

以上の二点が、私が読んで特に気になったところである。そのほか、本書には、「うたごえ運動の歴史」とか「おかあさんコーラスの誕生」など、興味深い考察がなされている。

うたごえ運動……これはなにがしか左翼的なものではあるのだが……において、日本にもたらされたものとして、ロシア民謡がある、とある。「ひよっこ」でも、職場の合唱団では、「トロイカ」を歌っていたのを思い出す。番組のナレーションでは、シベリア抑留からの帰還者が、日本にもたらしたと説明があった。

日本でロシア民謡が人びとの合唱曲としてうたわれてきたその背景には、歴史的な背景があることがわかる。「トロイカ」は、私の子どものころ(小学校のころ)、よく耳にした記憶がある。この曲が日本で歌われる背景があることを知ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

さて、今、合唱はどうなっているだろうか。学校を単位としての合唱はいまだにつづいている。コンクールもある。だが、その一方で、音楽の享受という面では、限りなく「個」にちかづいているともいえそうである。iPodやスマホなどでひとりで聞く音楽が、今の音楽の聴き方の主流であろう。

この本は、合唱というものについて、それなりの歴史があるということを教えてくれるいい仕事であると思っている。

『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎(その二)2017-03-16

2017-03-16 當山日出夫

つづきである。

浅田次郎.『天子蒙塵』(第二巻).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062203708

やまもも書斎記 2017年3月15日
『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/15/8406288

この本を読みながら、おもわず付箋をつけた箇所。

「軍隊は戦争の記憶を喪った。」(p.79)

として、満州事変のころの日本の軍隊のことが書いてある。つづけて、

「幼年学校にも士官学校にも、政治学や社会学の科目はただの一時間もなく、さらには選抜された陸軍大学校卒業者の支配する軍隊に、良識など期待するべくもない。」(p.79)

これは、陸軍の中尉のことばとして出てくる。

なぜ、この箇所に付箋をつけたのか、それは、加藤陽子の本のことが念頭にあったからである。

やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

ここで、当時、四十歳代ぐらいの人間……社会の中核をになっている……は、なにがしか日露戦争の記憶をもっている人達であった。そのことが、満州事変から戦争の拡大につながっていく要因のひとつに考えるべきである、という意味のことがあった。佐官、将官クラスになれば、これはあたっていると思う。

だが、尉官クラスになれば、それより若い。士官学校を出たばかりの若手軍人が、逆に、日露戦争の記憶をもっていなかったということも、いえるだろうと思われる。

ここは、歴史の時代の流れのなかにおいて、日露戦争の戦争の記憶を継承している世代がどのようであって、逆に、それを持たない世代がどのようであるのか、歴史学の方面からの、検証が必要なことである。小説家・浅田次郎の小説において、若い中尉の意識を描いた部分と、歴史家・加藤陽子が、その著書で述べていることは矛盾することではない。どちらの方面に重きをおいて考えて見るか、その立場の違いである。

日本近代史を考えるとき、起こった出来事を年代順にならべるだけではなく、どのような生いたちを経てきた人間が、その時代をどうになって、かかわってきたのか、総合的に考える視点が重用であると思う。

歴史家の文学的想像力と、文学者の歴史観と、どちらがよいというものではなく、両者を総合してとらえるところにしか、過去を顧みて、未来を展望する道はないだろう。また、このように総合的に過去をふりかえる視点のもとに、現在の私たちのものっている歴史観、世界観が、どのような歴史的経緯をふまえたものであるのか、自覚的になる必要もあると思うのである。

戦争の記憶をどのようにとどめていくのか、あるいは、今の自分たちはどのような戦争の記憶をもっているのか……このようなことに自覚的である必要がある。このような視点から、浅田次郎の『帰郷』とか、加藤陽子の『とめられなかった戦争』は、読むにたえる価値のある本だと思う。

やまもも書斎記 2017年3月8日
『帰郷』浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/08/8396413

このような意味において、文学と歴史は連続するところがあると、私は理解している。

『とめられなかった戦争』加藤陽子(その二)2017-03-11

2017-03-11 當山日出夫

加藤陽子.『とめられなかった戦争』(文春文庫).文藝春秋.2017 (NHK出版.2011)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167908003

やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

つづきである。

著者(加藤陽子)の史料を読む感性に関心するところがある。たとえば、次のような箇所。第2章「日米開戦 決断と記憶」の冒頭、東条英機が陸軍航空士官学校を視察したときのエピソード。

東条英機が、「敵機は何で墜とすか」と質問したのに対して、生徒が機関砲でと答えた。それを東条は訂正して、「違う。敵機は精神力で墜とすのである。」と言った話し。

東条英機の精神主義を象徴するエピソードとして、よく歴史書、戦記などに引用、言及されるものである。このエピソードについて、著者(加藤陽子)は、このように述べている。

以下、引用する。

「しかし、この発言がなされた時期にも留意する必要があります。四四年五月といえば、すでに日本の敗色が農耕になっていた時期。」(pp.59-60)

として、具体的に状況を説明した後、

「そのような時期に発せられたこの言葉の背景には、どうしようもない彼我の戦闘力の差、つまりは国力の差に対するはっきりとした認識があり、そのような絶望的な状況を覆すにはもはや精神力に頼るしかないという、ある意味で悲鳴のような響きも感じ取れるのです。」(p.60)

このような箇所、史料に「ことば」として表現されているものの背景に何を読みとるか、どのような歴史的状況のなかでの「ことば」であるのかを理解しようとするか……これは、歴史家にとって、きわめて重要な資質である、と私は思う。

著者(加藤陽子)の専門は日本近代史であるが、もし、文学研究をやっていたら、あるいは、哲学の領域で思想史などをやっていたら、それはそれで、きわめてすぐれた研究者として仕事をすることになっただろうと、予想してもいいのではないだろうか。

最近、そのような加藤陽子の名前を見て、ちょっと驚いたことがある。それは、『「死の棘」日記』(島尾敏雄、新潮文庫)の解説を、加藤陽子が書いていることである。これは、加藤陽子に文学研究、史料(資料)読解のすぐれた資質をみこんだ、文庫編集部の慧眼というべきであろう。

この『「死の棘」日記』については、後ほど。