『うたごえの戦後史』河西秀哉2017-05-19

2017-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

河西秀哉.『うたごえの戦後史』.人文書院.2016
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b241570.html

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。ヒロイン・みね子たちの勤める工場には、合唱部がある。これには、社員は、なかば自主的に、なかば強制的に参加させられるようである。

はじめてみね子たちが、会社にやってきた時には、歓迎のコーラスがあった。「手のひらを太陽に」だった。それから、みね子たちも参加してうたっていた。ここでは、「トロイカ」が歌われていた。

私の世代(昭和30年生)では、さすがに、歌声喫茶の体験はないのであるが、しかし、歴史的な知識としては、そのようなものがあったことは知っている。番組でも、ナレーションで説明があった。

戦後、多くの「日本人」「国民」が歌をうたっていたといえるだろう。もちろん、学校での音楽の授業の延長ということもあるのかもしれないが、それだけではなく、職場などを単位として合唱団を組織するということが、ひろくおこなわれていた。

この本は、このような戦後の日本の合唱のありかたをあつかった本。

私が注目したのは、次の二点になる。

第一には、戦後の合唱ブームとでもいうべきものは、戦後になってから作られたものではなく、戦前からの連続性があるという指摘。太平洋戦争中、日本国民の一体感を高めるために、合唱がよくおこなわれていたという。この側面、戦前からの連続性のうえに、戦後の合唱をとらえる視点というのは、重用だと思う。

第二には、戦後の合唱の隆盛には、下から自然発生的に生まれた側面と、逆に、上から組織してつくった側面と、両方があるという指摘。これも、いわれてみれば、なるほどと納得のいくことである。ただ、自発的に始まったというものではないようであるし、同時に、上からの命令だけで組織されたというものでもない。両方の動きが相まって、合唱ということがおこなわれた。

本書の帯には、「民主主義はうたごえに乗って」とある。まさに、戦後日本の民主主義……みんなで共同してひとつの仕事をなしとげる……は、合唱に象徴されるといってもいいかもしれない。

以上の二点が、私が読んで特に気になったところである。そのほか、本書には、「うたごえ運動の歴史」とか「おかあさんコーラスの誕生」など、興味深い考察がなされている。

うたごえ運動……これはなにがしか左翼的なものではあるのだが……において、日本にもたらされたものとして、ロシア民謡がある、とある。「ひよっこ」でも、職場の合唱団では、「トロイカ」を歌っていたのを思い出す。番組のナレーションでは、シベリア抑留からの帰還者が、日本にもたらしたと説明があった。

日本でロシア民謡が人びとの合唱曲としてうたわれてきたその背景には、歴史的な背景があることがわかる。「トロイカ」は、私の子どものころ(小学校のころ)、よく耳にした記憶がある。この曲が日本で歌われる背景があることを知ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

さて、今、合唱はどうなっているだろうか。学校を単位としての合唱はいまだにつづいている。コンクールもある。だが、その一方で、音楽の享受という面では、限りなく「個」にちかづいているともいえそうである。iPodやスマホなどでひとりで聞く音楽が、今の音楽の聴き方の主流であろう。

この本は、合唱というものについて、それなりの歴史があるということを教えてくれるいい仕事であると思っている。

『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎(その二)2017-03-16

2017-03-16 當山日出夫

つづきである。

浅田次郎.『天子蒙塵』(第二巻).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062203708

やまもも書斎記 2017年3月15日
『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/15/8406288

この本を読みながら、おもわず付箋をつけた箇所。

「軍隊は戦争の記憶を喪った。」(p.79)

として、満州事変のころの日本の軍隊のことが書いてある。つづけて、

「幼年学校にも士官学校にも、政治学や社会学の科目はただの一時間もなく、さらには選抜された陸軍大学校卒業者の支配する軍隊に、良識など期待するべくもない。」(p.79)

これは、陸軍の中尉のことばとして出てくる。

なぜ、この箇所に付箋をつけたのか、それは、加藤陽子の本のことが念頭にあったからである。

やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

ここで、当時、四十歳代ぐらいの人間……社会の中核をになっている……は、なにがしか日露戦争の記憶をもっている人達であった。そのことが、満州事変から戦争の拡大につながっていく要因のひとつに考えるべきである、という意味のことがあった。佐官、将官クラスになれば、これはあたっていると思う。

だが、尉官クラスになれば、それより若い。士官学校を出たばかりの若手軍人が、逆に、日露戦争の記憶をもっていなかったということも、いえるだろうと思われる。

ここは、歴史の時代の流れのなかにおいて、日露戦争の戦争の記憶を継承している世代がどのようであって、逆に、それを持たない世代がどのようであるのか、歴史学の方面からの、検証が必要なことである。小説家・浅田次郎の小説において、若い中尉の意識を描いた部分と、歴史家・加藤陽子が、その著書で述べていることは矛盾することではない。どちらの方面に重きをおいて考えて見るか、その立場の違いである。

日本近代史を考えるとき、起こった出来事を年代順にならべるだけではなく、どのような生いたちを経てきた人間が、その時代をどうになって、かかわってきたのか、総合的に考える視点が重用であると思う。

歴史家の文学的想像力と、文学者の歴史観と、どちらがよいというものではなく、両者を総合してとらえるところにしか、過去を顧みて、未来を展望する道はないだろう。また、このように総合的に過去をふりかえる視点のもとに、現在の私たちのものっている歴史観、世界観が、どのような歴史的経緯をふまえたものであるのか、自覚的になる必要もあると思うのである。

戦争の記憶をどのようにとどめていくのか、あるいは、今の自分たちはどのような戦争の記憶をもっているのか……このようなことに自覚的である必要がある。このような視点から、浅田次郎の『帰郷』とか、加藤陽子の『とめられなかった戦争』は、読むにたえる価値のある本だと思う。

やまもも書斎記 2017年3月8日
『帰郷』浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/08/8396413

このような意味において、文学と歴史は連続するところがあると、私は理解している。

『とめられなかった戦争』加藤陽子(その二)2017-03-11

2017-03-11 當山日出夫

加藤陽子.『とめられなかった戦争』(文春文庫).文藝春秋.2017 (NHK出版.2011)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167908003

やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

つづきである。

著者(加藤陽子)の史料を読む感性に関心するところがある。たとえば、次のような箇所。第2章「日米開戦 決断と記憶」の冒頭、東条英機が陸軍航空士官学校を視察したときのエピソード。

東条英機が、「敵機は何で墜とすか」と質問したのに対して、生徒が機関砲でと答えた。それを東条は訂正して、「違う。敵機は精神力で墜とすのである。」と言った話し。

東条英機の精神主義を象徴するエピソードとして、よく歴史書、戦記などに引用、言及されるものである。このエピソードについて、著者(加藤陽子)は、このように述べている。

以下、引用する。

「しかし、この発言がなされた時期にも留意する必要があります。四四年五月といえば、すでに日本の敗色が農耕になっていた時期。」(pp.59-60)

として、具体的に状況を説明した後、

「そのような時期に発せられたこの言葉の背景には、どうしようもない彼我の戦闘力の差、つまりは国力の差に対するはっきりとした認識があり、そのような絶望的な状況を覆すにはもはや精神力に頼るしかないという、ある意味で悲鳴のような響きも感じ取れるのです。」(p.60)

このような箇所、史料に「ことば」として表現されているものの背景に何を読みとるか、どのような歴史的状況のなかでの「ことば」であるのかを理解しようとするか……これは、歴史家にとって、きわめて重要な資質である、と私は思う。

著者(加藤陽子)の専門は日本近代史であるが、もし、文学研究をやっていたら、あるいは、哲学の領域で思想史などをやっていたら、それはそれで、きわめてすぐれた研究者として仕事をすることになっただろうと、予想してもいいのではないだろうか。

最近、そのような加藤陽子の名前を見て、ちょっと驚いたことがある。それは、『「死の棘」日記』(島尾敏雄、新潮文庫)の解説を、加藤陽子が書いていることである。これは、加藤陽子に文学研究、史料(資料)読解のすぐれた資質をみこんだ、文庫編集部の慧眼というべきであろう。

この『「死の棘」日記』については、後ほど。

『とめられなかった戦争』加藤陽子2017-03-10

2017-03-10 當山日出夫

加藤陽子.『とめられなかった戦争』(文春文庫).文藝春秋.2017 (NHK出版.2011)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167908003

加藤陽子の本については、すでに何度かとりあげている。

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年7月10日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』松岡洋右のこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/10/8128707

そして、今回のこの本(文庫版)は、以前、2011年に、NHK出版から、『NHKさかのぼり日本史 ②昭和 とめられなかった戦争』のタイトルで出ていたもの。HNK版も買って読んだが、文庫本になって出たので、改めて読んでみた。

著者(加藤陽子)が、この本にこめた思いは、本書の最後にある次のようなことばだろう。やや長くなるが引用する。

(戦争の責任などについて)国家の責任を強く追求する思いで歴史を振り返りたくなる気持ちもわかります。しかし、たとえば、自らが分村移民を送り出す村の村長であったらどう行動したか、あるいは、県の開拓主事であったらどう行動したか、移民しようとしている家の妻であったらどう行動したか、関東軍の若い将校であったとしたらどう行動したか、そのような目で歴史を振り返って見ると、また別の歴史の姿が見えてくると思います。近代史をはるか昔におきた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは、未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。(pp.174-175)

このような歴史観のもとに、この本では、4章にわけて、時代をさかのぼるかたちで、なぜ、あの時に戦争をやめることができなかったのかが、検証してある。

第1章は、1944(昭和19)年 サイパン陥落
第2章は、1941(昭和16)年 日米開戦
第3章は、1937(昭和12)年 日中戦争
第4章は、1933(昭和8)年 満州事変

一般に、満州事変は、1931(昭和6)年の事件だが、この本では、熱河侵攻を歴史のターンイングポイントにしている。

そして、この本を歴史書として読んだときに、その特徴となるのは、歴史を動かすものとして、時の為政者の判断も重用だが、それと同時に、時代の雰囲気……今のことばでいえば「空気」とでも読み替えることができようか……の流れがあることを、書いてあることだろう。上は、昭和天皇の判断から、東条英機、松岡洋右、石原莞爾などの人物の、その時々の、重要人物の判断があったことが記される。そして、その時代、なぜ、そのような判断をすることになったのか、時代の流れ、社会全体の人びとの気持ちというものを見ることを忘れてはいない。

その一例として、第2章の日中戦争について語るとき、その当時の、四十歳代の社会の中堅をになっている人間たちが、いつの生まれかを見ている。それは、日露戦争の勝利の記憶のある人びとである、と指摘する。

引用すると、

三十六年も前、四十歳代の彼らは、もちろん(日露戦争に)参戦したわけではありません。けれども、「少年のときに日露戦争を体験した」という共通点があるのです。(p.84)

とあり、昭和天皇もその例外ではないことに言及している。

この本は、重厚な歴史書ではないが、今日から近現代の歴史をどのように考えるか、貴重な視点を提供してくれる本である。まず、NHKから出た本であり、今回、文庫版になった。新発見の歴史的事実があるという類の書物ではない。しかし、歴史から何を学び取るかという観点からは、重要な提言のある本だと思う。

さて、このような観点にたって、私自身の場合は、どうであろうか。日露戦争に勝った時の体験を幼少期にもっている人間が、日中戦争から太平洋戦争・大東亜戦争へとつきすすんでいくことになった。では、戦後に生まれた、私自身の場合はどうか。戦争に敗れた記憶を継承している世代ということになろうか。あるいは、ベトナム戦争の記憶のある世代ともいえよう。だから、平和主義ということもあるし、反面、軍事的リアリズムの重要性を感じるというところもあるだろう。このような自分自身の感性のよりどころを、歴史の流れのなかにおいて見ることも、時には必要なことである。

追記 2017-03-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017-03-11
『とめられなかった戦争』加藤陽子(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/11/8400780

『政治学の名著30』佐々木毅2017-01-02

2017-01-02 當山日出夫

佐々木毅.『政治学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063557/

ちくま新書には、『~~の名著30』というタイトルの本がいくつかある。そのうちの一つ。『歴史学の名著30』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年12月23日
山内昌之『歴史学の名著30』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/23/8286305

『歴史学~~』の方は、今では売っていないようだが、こちら『政治学~~』の方は、今もあるようだ。(こういう違いはどかからきているのか。著者の意向によるものなのだろうか。単に売れ方の違いなのか。)

古典的名著というべき本のブックガイドである。

「Ⅰ 政治の意味」では、
プラトン 『ゴルギアス』
マキアヴェッリ 『君主論』
ヴェーバー 『職業としての政治』

「Ⅷ 歴史の衝撃の中で」では、
福沢諭吉 『文明論之概略』
孫文 『三民主義』
ハイエク 『隷従への道』
アレント 『全体主義の起源』
丸山眞男 『(増補版)現代政治の思想と行動』

政治学についての本であるが、これは、私流に解釈すれば、ひろい意味での「文学」の範疇にはいるものと理解している。「ことば」によって、いかにして、その「思想」をつたえるか……これは、「文学」ということで理解する。狭い意味での小説とか詩歌とかだけが、「文学」であるのではないという立場で考えている。

このなかには、読んだことのある本もあれば、名前だけの本もある。これから、本を読んでいくガイドとして手元において眺めている。

その「まえがき」につぎのようにある。「政治学」の本を集めてあることの意義についてである。ちょっと長くなるが引用する。

 その際に大事なことは、政治についてどう考えるかが政治の現実を構成する要因である、という無視できない現実に思いを致すことである。これらの名著が単なる知的アクセサリーの域を遙かに超えて、まさに現実を支え、さらには新しい政治的な現実を生み出した原動力であったことを忘れてはならない。
(中略)
その意味で政治学の名著はシリアスに受けとめられなければならない。そしてシリアスなものをシリアスに受けとめる習慣をなくすことはやがて大きな災いの素になるであろう。

以上 p.13

このような筆者の意図に即してみるならば、バークの『フランス革命についての考察』などは、ただ保守主義の古典としてではなく、現に、アクチュアルに今の政治のあり方を考える立場から、吟味されて読まれなくてはならない、ということになる。丸山眞男の本など、まさに戦後政治の背景によりそって存在するといってもよかもしれない。そして、これからもそのように読まれねばならないであろう。

ところで、私は、自分自身のことを、これまで非政治的人間だと思って生きてきた。だが、この世の中で生きているという限りにおいて、まったく非政治的であるということは不可能であるということも、なんとなく実感するようになってきている。近代という時代、現代という社会のなかで生きているうえで、何を考えていくべきか、これから本を読みながら、自分なりに時間をつかいたいと思っている。今、自分が生きている、近代、現代、ポストモダンの時代とはいったい何であるのか、である。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

山内昌之『「反」読書法』2016-12-04

2016-12-04 當山日出夫

山内昌之.『「反」読書法』(講談社現代新書).講談社.1997

今では絶版のようだ。

著者は、言うまでもなく、現代イスラームの歴史、国際情勢についての専門家。そして、私の見るところで、現代におけるすぐれた人文学者であり、読書家でもある。いや、読書家などと言っては失礼にあたろうか。だが、著者の書いた書評の類は、どれも興味深い文章である。

ネットで検索して、古本で買って読んでみた。

読みながら付箋をつけた箇所。

「いずれにせよ、周囲とのやりとりで疲れたとき、歴史性と叙述性を兼ね備えた作品を読んでは気分を転換させたものです。とくに歴史と文学との間で感銘を受ける作品に出会ったことは、その後の私の進路に大きな意味をもちました。」(p.177)

として、あげてあるのが、大佛次郎の『パリ燃ゆ』と『天皇の世紀』である。

私は、『パリ燃ゆ』は、残念ながら読んでいない。『天皇の世紀』の方は、近年、(といっても、ずいぶん前になるが)、文春文庫版で出たのを、順番に読んでいったものである。(しかし、残念ながら、これも途中で挫折している。まあ、もともとが、未完の作品なので、いいかなとも思っているのだが。とはいえ、その冒頭の京都の雪の描写のシーンは、憶えている。)

『天皇の世紀』は、幕末・明治維新を描いた作品である。その関連で思い浮かぶのは『遠い崖』(萩原延壽)。これは、全巻買ってもっているのだが、まだ、手をつけていない。

ところで、『「反」読書法』は、上述の箇所のように著者の若い時の読書体験をつづったところがある。そのなかで、気付いたところ。

『パリ燃ゆ』を買ったのが、学生のときのこととして、その値段が、1400円であったとある。そして、

「岩波新書が百五十円の時代だったといえば、この本がいかに高価だったかをお分かりいただけるでしょう。」(p.178)

とある。

そうなのである。岩波新書は、昔は、150円均一だった。思えば、その当時、岩波文庫は、★の数で値段を表示していたものである。私の記憶にある、★ひとつの値段は、30円。

いまでも、手軽に手にとれる分量のすくない本のことを、「岩波文庫でほしひとつ分ぐらい」と、つい言ってしまうことがある。

ともあれ、『パリ燃ゆ』は読んでおきたい本のひとつ。今では新版が出ている。三巻になる。やはり三巻そろえると、岩波新書の一冊の10倍ぐらいの値段になる。それから、『天皇の世紀』も、再度、じっくりと読んでみたい。こんなことを思いながらも、今、興味があるのは、桜木紫乃の小説など。そして、その合間に、北原白秋や萩原朔太郎の作品を、パラパラとめくって懐かしんでいる。そんなこのごろである。

細谷雄一『歴史認識とは何か』2016-11-04

2016-10-04 當山日出夫

細谷雄一.『戦後史の解放1 歴史認識とは何か-日露戦争からアジア太平洋戦争まで-』(新潮選書).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/603774/

この著者(細谷雄一)の本については、以前にふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月14日
細谷雄一『安保論争』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/14/8131019

本としては、この新潮選書の方が一年はやく出ている。そして、一読した印象としては、『安保論争』で展開されている、筆者の、近現代史についての考え方を、ひろく述べているものになっていると感じる。

興味ぶかかったのは、冒頭。戦後50年の村山談話についてのこと。筆者は、どちらかといえば、村山談話には批判的なようである。その批判的というのは、その内容についてではない。そうではなく、そのような談話を出して、歴史観を国家の正面に掲げてしまったことの功罪についてである。

「歴史認識がそれぞれの国のアイデンティティと深く結びついている以上、そもそも国境を越えた歴史認識の共有がいかに難しいのかという意識が、おそらく村山首相には欠けていたのだろう。国家間の問題においても、十分は誠意を示せば決着がつくと感じていたのかもしれない。ところが歴史認識問題という「パンドラの箱」を開けた結果、むしろ中国でも韓国でも歴史認識問題を封印して、凍結しておくことがもはや不可能になってしまったのだ。」(p.29)

また、次のような箇所。

「戦争に勝利を収めた連合国は、戦闘の勝利を手に入れただけではなく、歴史の正義をも手に入れることができた。」(p.31)

そして、次のような指摘も重要だろう。

「戦争をどのように位置づけるかについて、第一次世界大戦後のドイツ国民は、イデオロギー的に分裂していた。そのような意味で、第一次世界大戦後のドイツと、第二次世界大戦後の日本には多くの共通点がある。」(p.32)

それから、次の箇所。

「日本の歴史教育におけるもう一つの問題点は、世界史の中に日本が出てこないということである。世界が出てこない日本史も問題だが、日本が出てこない世界史にも問題がある。」(p.62)

以上の引用は「序章」の部分からである。つづいて具体的な近代史の記述になる。そのなかで、たとえば、満州事変と国際連盟との関係などについて、世界史の視点から日本史の事件をみるべきことが、記される。

余計なことながら、ちょっと気になったことがある。この本の先行研究、参考文献のなかに、松本健一の名前が出てこないことである。近年の歴史学において、日本近代史を、世界史のなかで、あるいは、東アジア近代史のなかで論じようとした仕事を残した人であると、私は認識しているのだが、なぜか名前が出てこない。

歴史学、日本近代史専攻というわけではないので、学界事情にはうといのだが、どこかで、基本的に在野の人であった松本健一の仕事は評価しないという雰囲気があるのかな……などと思ってしまうのだが、どうなのであろうか。

ともあれ、この本『歴史認識とは何か』『安保論争』は、歴史叙述の着眼点としてきわだつものがあるし、そして、その叙述もうまい。今後の活躍に期待したい俊英というべきであろう。

半藤一利「歴史家としての心得」2016-11-03

2016-11-03 當山日出夫

半藤一利.『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫).文藝春秋.1996 (原著 文藝春秋.1992)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483043

この本で付箋をつけた箇所をつづける。

水戸光圀にふれたところで、以下のようにある。ちょっと長くなるが引用する。

「わたくしは近頃若いひとたちと話をしていて、かれらの歴史をみる眼のなかに、こうした”あたたかさ”や”人間らしさ”が失われていることを感じるのがしばしばである。奈良の古びて美しく残る風景や、奈良の大仏をみて若ものは「でもこの時代には天皇家と、その周囲の権力者だけが栄華な生活を送っていて、奴隷である農民を使役して人口二十万の奈良の都を作ったんですってね」と突然わたくしをおどろかすようなことをいう。/彼または彼女の頭では、二十万もの、当時の大都会に住んでいたもののほとんどが、苦役にあえぐ農民であったら、はたしていまに残る古びて美しい町を形成できたか、想像できないらしいのである。大仏をめぐる仏教文化の影響に考察は及ばぬのである。」(pp.277-278)

そして、このようにも語っている。

「歴史解釈の曖昧についていっているのではない。かつての日、わたくしたちが詰めこまれた皇国史観にかわって、戦後の民主主義教育で登場し、教えられている歴史の見方というものに、どれほどの違いがあるのか、についてやや疑義を呈したいのである。天皇制の代りに人民や民衆が振り回されることになっても、振り回される民衆とやらはそれまでの天皇制と同じで、〈歴史より歴史学〉を信奉する歴史家が、つくりあげた観念であることに違いはない。」(p.279) 〈 〉内は、原文傍点。

著者(半藤一利)は、昭和5年の生まれ。終戦のときは、中学生であった。このことについては、次の本にくわしい。すでにふれた本である。

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

このような時代に生きた人間ならでは、歴史観というべきであろう。絶対的な皇国史観を信じることもないし、かといって、逆に、絶対的な民主主義信奉者というわけにもいかない。どかかさめた眼で歴史をみている。

漱石について思いつくままに書いている気楽なエッセイであるが、このような箇所は見逃すことはできない。「歴史」と「歴史学」について、考える貴重なヒントになる箇所であると思って読んだ。実際にどのようであったの「歴史」とそれを解釈する「歴史学」、といえば、あまりに素朴な実在論であろうか。しかし、「歴史」にむかうとき、謙虚な実在論の立場を失ってはならないと思うのである。

山内昌之『歴史の想像力』2016-10-30

2016-10-30 當山日出夫

山内昌之.『歴史の想像力』(岩波現代文庫).岩波書店.2001 (原著 『二十世紀のプリズム』.角川書店.1999 再編集)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/7/6030480.html

著者は、イスラームが専門の歴史研究者であるが、それと同時に、すぐれた人文学者であると思う。さりげなく書いてあるが、次のような箇所。

「歴史と文学には大きな共通点がある。それは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼である。そして、歴史と文学は、〈叙述〉という表現手段が重視される点でも似通っている。」(p.214)

〈文学〉と〈歴史〉があまりにも離れすぎてしまった時代においては、貴重なことばといえる。一般的には、文学部に属する分野なのであるが、現在では、〈歴史〉を勉強する人間は〈文学〉を分からなくてもいいかのごとくである。また、〈文学〉の方でも、そもそも〈歴史〉とは何かと問いかけるというようなことは、なくなっているように思える。

たとえば、次のような指摘。

「もし辻邦生が歴史学者であったなら、どのような研究を仕上げたことであろうか。仮定とはいえ、どうしても想像してみたくなる問いである。その場合でも確実なのは、氏が歴史学者という狭いギルド的枠に留まらずに、大きなスケールの仕事を仕上げていたということだろう。」(p.51)

として、『背教者ユリアヌス』『西行花伝』『安土往還記』『嵯峨野明月記』『天草の雅歌』、などの作品名があがっている。これらの作品、私も、高校生のころに読んだものである。『西行花伝』は晩年の大作、これを読んだのは、出版されたときだったろうか。久しぶりに辻邦生の作品を読むという感じで読んだのを覚えている。ただ、私は、和歌という文学には向いていないのか、いまひとつ、理解が及ばなかったという気がしている。『背教者ユリアヌス』、出たときに読んだ。まだ高校生のころは「背教者」ということばの意味もろくに知らずに読んでいたのだが、今、読み返すとどう感じるだろうか。

いろいろ知的刺激に満ちた本であるが、次のような箇所は重要だろうと思う。付箋をつけた箇所。

「「イスラーム原理主義」という隠喩こそ、異文化理解の妨げになる「古い理論的鼻めがね」なのかもしれない。」(p.287)

(EUへの難民問題にふれて)「もとより、こうした試練から日本だけがひとり自由でいられるはずもない。実際、日本の歴史と社会にひそむ「単一民族国家の神話」は、二一世紀に向けて大きく揺らいでいる。日本人にしても、多民族の共存と調和の時代に新たに貢献することが迫られるであろう。」(p.265)

「小ぶりの歴史書再読のすすめ」の章。

「今の若い世代に勧めるとすれば、岩波文庫やちくま学芸文庫の百ページから百五十ページあたりの小ぶりの文庫本が適当だと思う。」

としてあげてあるのが、

郭沫若『歴史小品』
『ランケ自伝』
ハーバート・ノーマン『クリオの顔』
新井白石『読史余論』

これからの若い人にとっての読書案内としてもすぐれていると同時に、もう私のような年齢になって、昔読んだ本など再読したくなっている人間にとっても、有益である。

ただ、今、ちょっと調べてみたところ、みな絶版のようである。しかし、古本で手にいれることはむずかしくない。だが、これらの本がいまでは普通に売っている本ではなくなっていること、そのことは、現代の歴史学のみならず、人文学の状況……その危機的状況……をしめすものであると思う。『ランケ自伝』など、学生のころは、普通に買って読んだ本だと覚えているのだが。

そして、まさに、次の箇所はなるほどそのとおりと同意するところである。

「静かに机に向かって書物を繙く以上の喜びがこの世にあろうか。」(p.109)