『文学問題(F+f)+』山本貴光2017-12-09

2017-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

山本貴光.『文学問題(F+f)+』.幻戯書房.2017
http://www.genki-shobou.co.jp/index.html

夏目漱石の『文学論』についての本である。が、この本のタイトルには、そのことが明示されていない。これは、意図的にそうしたのだろう。『文学論』についての本でありながら、それを超えたとことの議論をしたい、そのような思いがあってのことと思われる。

だが、読んでみると、まぎれもなく、『文学論』の解読である。

漱石の『文学論』は、著名ではあるが、難解で、あまり誰も読もうとしない、という感じの本としてあったように思う。岩波文庫版でも出ているし、無論、「全集」にもはいっているが、はっきりいって、私は、これまで、きちんと読むことをしてこなかった。

ともあれ、この本が出たおかげで、『文学論』がいったいどんなことを語っている本なのか、その輪郭がつかめた……無論、著者(山本貴光)のひいた筋にしたがってであるが。

この本は、三部構成になっているが、その第一部が、「漱石の文学論を読む」として、『英文学形式論』『文学論』の、解読にあてられている。メインは、『文学論』であり、その主張となる、文学は(F+f)である……ということで、漱石が何を言おうとしていたのかの、解説になっている。

順次、現代語訳をあげ、原文を示し、また、必要に応じて脚注、参考文献の指示などがある。実に丁寧なつくりになっていることが実感される。

この本を通読してみて……脚注まで細部にわたって読むということはなかったのであるが……『文学論』の読解としてすぐれていると感じさせるのは、「問い」を設定することによって『文学論』を読んでいることである。

章節ごとの区切りに、そこで漱石は何を問いかけているのか、「問い」が設定されている。これは、実にすぐれた本の読み方であると思う。

勉強するということは、「答え」「解答」を知ることではない。そこにどんな「問い」があるのかを発見することである。『文学論』を読んで、文学とは何であるかの「答え」を見いだそうとはしていない。そうではなく、漱石が、どのような問題意識でもって文学というものをとらえているのか、「問い」をそこから導き出すことで、読み解いている。

これは、すぐれた本の読み方である。

この「問い」が重要であるということについては、すでに書いたことがある。

やまもも書斎記 2017年3月31日
人文学は何の役にたつか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/31/8634014

この本を読んで、「文学」とは何であるかを知ることもできるだろう、また『文学論』に何が書いてあるかを知ることもできるだろう。だが、それよりも重要なことは、本を読むということは、ある問題意識をもって、その著者が何を「問い」として問いかけているのかを読みとることである、このことを実践して見せてくれた本として、この本はきわめて意味のある本だと思う。

この『文学問題(F+f)+』は、文学とは何かを考えた本であり、また、『文学論』を解読した本でもあるが、それと同時に、『文学論』からどのような「問い」を取り出すことがことができるのか、この視点から本を読んでみせた、すぐれた実践的な本である。

『赤光』斎藤茂吉2017-12-08

2017-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

斎藤茂吉.『赤光』(新潮文庫).新潮社.2000
http://www.shinchosha.co.jp/book/149421/

ふと、高校生の頃に読んだ短歌……それも学校の教科書に載っていたもの……を、読み返したくなった。『あの頃、あの詩を』を読んだ影響である。

やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826

今でもおぼえている。

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉の短歌を読もうと思って、見てみると、いくつかある。岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』。新潮文庫版『赤光』。それから、古本になるが中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』がある。

新潮文庫版『赤光』を読んでみた。

この本について、書いておきたいことは次の二点。

第一に、「歌集」というものを、これほどまでに一気に読んだのは始めてである。

日本語の歴史的研究という分野にいると、和歌集は目にすることがある。歴史的資料としてである。だが、近代の短歌になると、日本語史の資料としてあつかわれることは、まずないといってよい。これは、純然と文学作品として読むことになる。上代語の資料となると、「万葉集」などの歌の集が、まず資料としてうかぶ。

これまで、近代短歌にまったく無縁ということではないが……ある程度、有名なものは手にとってみたりした……だが、それほど、ある作品に傾倒するということなく、すごしてきた。今回、『赤光』(新潮文庫版)を読み始めて、ほとんど一気に全部を読んでしまった。

それほどまでに、『赤光』は、魅力的な本である。

読めば、それが「万葉集」につらなる歌風を継承しているものであることはすぐにわかる。しかし、それだけではない。近代の人間の感覚が、そこに詠み込まれている。「万葉集」からの伝統的な歌の世界と、近代の感性とが、融合した歌の世界がある。

斎藤茂吉の歌の文学史的位置というものについて、一通りの知識は持っているつもりであったが、そのような知識をもっているということと、自分自身が、読んで、そこに文学的感銘を感じるかどうか、ということは、また別のことでもある。この意味において、『赤光』は、はじめて私にとって文学作品として、現れてきたということになる。

これは、私も年をとってきたということもあるのかもしれない。そろそろ隠居的生活をおくりたい、本を読む生活をおくりたいと思っている。昔、若いころに読んだ文学作品など、もう一度手にとってみたくなる。そのようにして本を読んでいると、もう自分も年をとってしまったな、若いころのような感性で読むことはできないな、と感じる一方で、再び若いころの感性がよみがえってきて、作品にこころひかれることもある。

『赤光』は、まさに、今の私にとって「文学」……個々の歌もさることながら、歌集として……なのである。

第二には、その編集。新潮文庫版は、初版をもとにしている。

作品の配列をみると、新しいものから、古い作品へと、さかのぼって配列してある。新潮文庫版のもとになったのは大正2年の初版。これが、斎藤茂吉は、後年、成立順に配列をかえ、作品に手を加えている。大正10年の改選版である。中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』は、この新しい改選版によっている。

歌集であるから、どちらで読んでもいいようなものかもしれないが、書物として順番に読んでいくとなると、初版の方がいい。

何故だろうかと思うのだが……やはり、「歌集」として編纂された作品として読むとき、どのように配列してあるかは、重要である。『赤光』は、初版のような配列であってこそ、文学的な魅力が増す。より完成度の高い、新しい作品が先にきて、どこか、まだ未完成と感じさせるような、「万葉集」のことばの影響を直接残しているような初期の作品を順次読んでいくことによって、この「歌集」の作者の根源的な歌人としてのエネルギーの源に触れていくような感じがある。読み進んでいくにしたがって、斎藤茂吉の歌人としての源泉にまでさかのぼっていくような印象をもつ。

初版『赤光』が、このような新潮文庫版で出たのは、著作権の関係かなと思ってみたのだが、そうでもないようだ。新潮文庫版の刊行は、2000(平成12)年。斎藤茂吉の没年は、1953年。まだ、著作権の保護期間内に、新潮文庫版が出ていることになる。著作権継承者の了承を得てのことなのであろう。

ともあれ、『赤光』の初版本が、手軽に文庫本で読めるようになっているということは、とても幸運なことであると思う。

以上の二点が、『赤光』という歌集について確認しておきたいことである。

斎藤茂吉の他、中学・高校のころ、あるいは、大学生になってから、手にとった詩集・歌集など、読み返してみたくなってきている。順次、読んでいくことにしたい。

『日本の詩歌』大岡信2017-12-04

2017-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

大岡信.『日本の詩歌-その骨組みと素肌-』(岩波文庫).2017
(講談社.1995 岩波現代文庫.2005)
https://www.iwanami.co.jp/book/b325111.html

コレージュ・ド・フランスでの講義録(1994、1995)ということなのだが、そのあたりを割り引いて読む必要があるだろうか。たぶん、現代において、日本文学の分野で、和歌や歌謡の歴史を研究する立場からみるならば、いろいろと言いたいところがあるであろう。

だが、そうはいっても、日本の和歌、歌謡の歴史を、菅原道真の漢詩から始めて、紀貫之、和泉式部、それから、さかのぼって万葉集の笠女郎におよぶ。それから、梁塵秘抄から閑吟集にいたる歌謡を見る。このようにして、日本の和歌、歌謡の歴史を概観したこの本は、日本文学などを専攻する学生が、専門の論文を読む傍らに、副読本として見るには適当な本であると思う。その一方で、最新の和歌、歌謡の研究に目をくばるということが必要ではあるが。

私の勉強の範囲で、ちょっとだけ書いておくならば、最初の章に出てくる菅原道真の作品。そのなかで、庶民の困窮を歌った詩……これは、風諭詩というジャンルでとらえるべきもの、白楽天の作品の日本における受容の一つの表れとしてみるべきだろう。

蛇足を承知で書くと、今回の岩波文庫版の解説を、池澤夏樹が書いている。それを読んで……平安時代になって、女性が、五〇の平仮名をつくった、とあるのは、どうにもいただけない。日本文学、日本語史の、学部での概論的な講義の知識のレベルでみても問題がある。

道真の漢詩、それから、閑吟集の歌謡などをふくめて、日本の詩歌を概観したこの本は、読むに価するとは思う。これを見ながら、日本文学などの勉強で、さらに何を考えるかが、学生にとっては、課題となるにはちがいない。

『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)2017-11-23

2017/11/23 當山日出夫(とうやまひでお)

鹿島茂(編).『あの頃、あの詩を』(文春新書).文藝春秋.2007
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166606085

『吉本隆明1968』を読んで、この本が出ていることを知った。今では、もう売っていない本のようである。古本で買った。

この本は、昭和30年代の、中学校の国語教科書に採用されていた詩をあつめたアンソロジーである。編者(鹿島茂)が、実際に中学生のころに学校の教科書で読んだ作品群ということになる。

私は、鹿島茂の生まれ、1949年よりも、少し後の生まれである(1955)。世代的には、接続する世代ということになるであろうか。この本を通読して、共感する部分が少なからずある。

二点をまず確認しておきたい。

第一には、日本の近代の抒情は、まさに詩によって形作られてきているということの確認である。島崎藤村、北原白秋、などの作品が収録されている。これを読むと、日本の近代の抒情詩の歴史に重なることになる。

第二には、編者(鹿島茂)が指摘していることだが、昭和30年代の中学国語教科書の詩には、ある種のバイアスがかかっていることである。明るい希望、未来への夢をうたった詩の多いことに気付く。それを、編者(鹿島茂)、戦争という経験を経たうえでの、この時代に特有の雰囲気であったと説明している。

以上の二点が、このアンソロジーを通読して確認しておきたいところである。

そういえば、何故か、中学の時の国語教科書というのは、詩からはじまていたような記憶がある。詩というものが、文学の根幹にあるという発想からなのだろうか。ともあれ、私もまた、文学というものを読む経験において、詩を読むということは、中学の時の国語教科書にあったように憶えている。

このアンソロジーを通読すると、無性に懐かしい感じがする。その一方で、私が読んだ詩はこんなではなかったという違和感のようなものを感じる。それは、とりもなおさず、この時代(昭和30年代)の国語教科書に特有のものであったと判断されよう。私の時代(昭和40年代)になると、それが、微妙に変わってきていたのかもしれないと思う。

たぶん、私の時代になると、伝統的な叙情性の中に回帰してきていたのかもしれない。

気付いたこととしては、このアンソロジーには、萩原朔太郎がはいっていない。編集の方針として、編者(鹿島茂)が意図的に落としたということではいないようだ。30年代の国語教科書にははいっていなかったのだろうと思われる。

国語学、日本語学という領域は、国語教育という分野とは、接してはいるが、離れている。今、どのような詩が国語教科書に載っているのか、知らない。また、詩というものが、日本語研究の領域であつかわれるということはないようである。古くさかのぼれば、和歌は、資料になるのだが。

私が、中学、高校の頃、「日本の詩歌」(中央公論)のシリーズがあった。その後、文庫版(中古文庫)も出たりしていたが、今では絶版になったままである。文庫本で読める詩も数少なくなっているようだ。

日本の文学ということを考えるとき、やはり詩をはずすことはできない。さらには、今では読まれなくなってしまったが、漢詩も、文学史的には重要である。

たとえば、

中村真一郎.『頼山陽とその時代』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2017 (中央公論社.1971)

など読むと、近世における、抒情詩、叙景詩において漢詩を無視し得ないことが実感される。この本については、思ったことなど書きたいとおもって、手元においてあるのだが、なかなかその順番が回ってこないでいる。

ことばというものを研究する立場にいるもののはしくれとして、詩を読む心をうしないたくはないと思う次第である。

『彼岸過迄』夏目漱石2017-11-18

2017-11-18 當山日出夫(とうやまひでお)

夏目漱石.『彼岸過迄』(定本漱石全集).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b287531.html

『彼岸過迄』の単行本は、大正元年(1912)である。

いわゆる修善寺の大患の後、後期の漱石の長編作品の最初になる。これまで、なんとなく読んではきた本である。だが、今回、順番に漱石の作品を読んでいってみようと思って、ある意味、この作品が一番面白いとも感じる。いや、漱石を理解するうえで、もっとも重要な位置をしめる作品、といった方がいいだろうか。

後期の漱石の作品は、近代社会における個人の生き方の問題を追及している。その作品群のなかにあって、この『彼岸過迄』に、その後期の漱石が書こうとしたことの、すべてが凝縮されているような気がする。

作品としてはまとまっていない。連作短篇という形で、ある程度の長さの長編を書こうとして、まとまりなく、なんとなく終わりになってしまったという感じの作品である。だが、これも、『行人』と同様、書いているうちに、どうしても、近代社会における個人という問題を避けてとおれず、そのテーマについての叙述にのめり込んでしまった、そんなふうに読める。だから、書いてあることが、ある意味でかなり露骨な書き方になっている。小説のストーリーとして語る……『心』はそれに成功していることになるだろうが……ことには、失敗している。が、それだけに、非常に率直に作者(漱石)が、思っていること、感じていることを、語っていると読める。

このような小説を書いた漱石にとって、近代社会における個人とは何であったのだろうか。また、修善寺の大患を経て、何を考えたのだろうか。

近代文学を専門にするのではないという立場の私としては、このあたりのことを考えながら、その他の、短篇、随筆、日記、書簡など……これらの多くは、主要なものが文庫本で読めるようになっている……読んでみようかと思っている。

それから、自分の目できちんと読んでおきたいと思っているのは、漢詩文。これは、今の「定本漱石全集」版の、その巻が出てからのことにするつもり。

『漱石詩注』(吉川幸次郎)など、目をとおしてはみているが、どうも、今ひとつよくわかならないところがある。最新の注釈のついたテキストで読んでおきたいと思っている。

もう隠居のときである。楽しみとしての読書、そのなかで、漱石の作品を読んでいくつもりである。

『行人』夏目漱石2017-11-17

2017-11-17 當山日出夫(とうやまひでお)

夏目漱石.『行人』(定本漱石全集).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/?book_no=297944

『行人』の単行本の刊行は、大正3年(1914)である。

『明暗』からさかのぼって漱石の作品を読んでいっている。『行人』は、漱石の後期の作品のなかで、気にいっていたものの一つである。若いころのことだが。

若いころ……学生のころ……漱石の作品で一番すきだったのは、『猫』である。諧謔のうらにある神経衰弱なやむこころにひかれていた。そして、その同時代のことを描いた『道草』も、何度か読みかえしている。『猫』を書いたころの漱石との違いなど、思ったものである。

『行人』は、連作短篇という形式をとってはいるが、たぶん漱石が書きたかったのは最後の「塵労」の章なのだろうとは思う。これが、普通の読み方だろう。

どうしても人を信用することのできない、人間不信におちいった兄の姿をそこに見いだすことになる。月並みな言い方になるが、近代社会における個人・自我の問題を、つきつめた形で表現してある。

一つの小説としては、その後に書かれた『心』『道草』のような、全体としてのまとまりには欠ける。着地点を考えずに、とにかく書いていってみて、新聞に連載してみて、最後に、兄の孤独な精神を描いて終わりになったという印象である。

近代文学を専門にしているというわけでもない、一人の読者として、楽しみとして本を読む、そのような立場で読んでみて、『行人』に描かれた兄の姿には、やはり、『心』における先生を重ねて読んでしまう。どうにもすくわれようのない近代の孤独におちいってしまった人間の姿である。

だいたい十年おきぐらいには、漱石の主な長編をまとめて読み返すことにしている。この前、読んだのは、Kindleであった。その時の印象としては、『行人』の兄に一番共感するものを感じて読んだのを憶えている。

今回、新しい「定本漱石全集」版で、読み直してみて、一番好きな作品はといわれると『明暗』になる。その『明暗』の面白さが、若いころにはわからなかった。人生のそれぞれの時期に応じて、面白い作品がある。これが、漱石がいまだに人気のあるゆえんかもしれない。

ところで、「定本漱石全集」は、自筆原稿主義である。だが、『行人』は、(幸いなことに、あるいは、不幸なことに)自筆原稿が残っていない。初出の新聞連載、そして、単行本を底本としてあつかってある。だから、総ルビである。私は、この方が、読みやすい。

で、気になったのが「彼女」。「かのぢよ」か「かのおんな」なのか。両方でてくる。付箋をつけながら読んでみたのだが……どうも、明確な区別があるようには読み取れなかった。

あるいは、このことについては、すでに論文などあるのかもしれないと思っているのだが、面倒なので、特に調べもせずにおいてある。自筆原稿主義もわからなくはないが、その当時の読者が、どんな本文を読んでいたのかわかるという意味での初出主義も本文校訂の方針としてあってよい。

『心』夏目漱石2017-11-16

2017-11-16 當山日出夫(とうやまひでお)

夏目漱石.『心』(定本漱石全集).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b308238.html

新しい「定本漱石全集」版は、2017年の刊行だが、『心』の初版が出たのは、大正3年(1914)のことになる。今からざっと100年前である。

『明暗』を読んで、順番に逆順で漱石の作品を読んでいっている。『道草』は新しい校訂になるはずなので、配本が後になっているようだ。『道草』をとばして、『明暗』の前の作品というと『心』になる。

おそらく漱石の作品のなかで最も有名な作品のひとつ。この作品も何回かよみなおしている。よみなおすたびに、いろいろ思うところがある。今回よみなおしておもったことをいささか。

今回、よみなおしてみて感じたこと……それは、「明治」という時代のおわり、明治天皇の崩御ということがなくても、この作品はなりたっている。だが、そのことが、作品の最後にくりこまれることによって、先生の死が、よりいっそう謎めいたものになっている、ということである。

確かに、漱石がこの作品を書いたのは、大正になってからであり、明治天皇崩御、乃木希典の殉死という事件を経た後に、それをふまえて書いていることは、文学史の常識といっていいのだろう。だが、そのことがわかっていて読むと、なぜ先生は「明治」に殉じなければならなかったのか、このことが、作品の重要なポイントになって表れてくる。これはこれで、作品の読み方として、普通の読み方である。

しかし、『心』を最初から読んでいくと、何も「明治」に殉じなくても、先生の死はあり得たと感じられる。明治天皇の死がなくても、この作品は、充分になりたつ。

勝手に思ってみるならば、漱石は、「明治」に殉じる小説を書きたくて、この『心』を書いたということになる。それほどまでに、「明治」の終わりは、歴史にのこる印象深い出来事であったことになる。たぶん、これが一般的な『心』の理解だと思う。

明治天皇については、以前、書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年5月29日
米窪明美『明治天皇の一日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/29/8097931

やまもも書斎記 2016年6月13日
米窪明美『明治宮殿のさんざめき』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/13/8110191

「明治」という時代、それを、今の私たちは、歴史として知っている。だが、漱石の作品を現代において読むとき、「明治」という時代があったことが、目の前にたちあらわれてくる。いや、漱石を読むことによって、今の私たちは、「明治」という時代を感じているといった方がいいのかもしれない。

もうじき、平成の時代が終わろうとしている。今上天皇は退位の意思をしめされ、その方向でことがはこびそうである。かつて、昭和がおわったとき、それは国民的熱狂とでもいうべき祝祭的事件であった。このことについても、ちょっとだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2017年10月9日
『街場の天皇論』内田樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/09/8698916

「平成」が終わるとき、私たちはどのようにその時を迎えるのであろうか。そのようなことを考えるとき、かつて「明治」の終わりをどのように人びとがむかえたか、歴史的に検証する必要もあるにちがいない。たぶん『心』という小説が読み継がれていく限り、「明治」という時代の終わりについても、なにがしか語り継がれていくものがあるにちがいない。それを文学として書き残した作家として、漱石は今後も読まれることになる。

『明暗』を読むと、大正時代の小説、20世紀の小説という印象がある。しかし、『心』はまだ「明治」の小説である。「明治」という時代を描いた小説家として漱石は、これからも読まれることだろうと思う。

そして、「平成」が次の時代になるとき、私たちは、どのような文学をそこに見いだすことができるであろうか。

『続 明暗』水村美苗2017-11-11

2017-11-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水村美苗.『続 明暗』(ちくま文庫).筑摩書房.2009 (筑摩書房.1990 新潮文庫.1993)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480426093/

まず、雑誌連載があって(1988-1990)、筑摩書房から本が出て、新潮文庫になって、それが絶版になって、今は、ちくま文庫版が出ているということらしい。

はて、なぜ新潮社は、この本を止めにしてしまたのだろうか。漱石の作品など、新潮社は出しているし、また、水村美苗の他の作品も新潮文庫版がある。

この本が最初に出たとき、ちょっと興味があったが、読まずにすごしていた。岩波の「定本漱石全集」で『明暗』を読んでみて、気になっていたこの本を読んでみることにした。

読んでの感想としては……面白い……最大の賛辞として。『明暗』の続編として読むと、いらぬあら探しをすることになる。それよりも、『明暗』の舞台、人物設定をかりてきて、新たに『続 明暗』という、作品を創作したと考えて読めばいい。いわば「本歌取り」である。この作品は、独自の世界をもっている。読んでいて、『明暗』を忘れて、この作品のなかにひたりこんでいく自分に気付く。

日本文学の伝統である「本歌取り」を、近代の小説の世界でこころみた事例として、その面白さを味わえばいいのだと私は思う。また、それに充分にこたえる内容になっている。

無論、批判めいたことを書こうとおもえばないではない。例えば、漱石は、このように女性の登場人物の心の内を描くことはなかったであろう、など。だが、このような批判をするよりは、『明暗』の人物設定の延長に、これだけの面白い小説を書いてみせた、作者(水村美苗)の発想と技量を褒めるべきである。

私が読んだ印象としても、『続 明暗』は、『明暗』の続編を完結させようとした作品ではない。漱石がどのような結末を考えていたか、そんなことは関係なく、独自に自らの小説世界をつくりあげている。だから、『明暗』の完結編として読むと、いろいろ批判めいたことをいいたくなる。

そして、このような「本歌取り」の小説が、それまで、日本の「文壇」とは無縁のところにいた、作者(水村美苗)によって書かれたことの意味を考えることの方が、重要かもしれない。なぜ、日本にいる小説家では書けなかったのか。

漱石の作品を読んでいくと、「明治の小説」という印象がどうしてもある。19世紀の小説といってもよい。漱石が明治に決別するのは、『心』を書いてからになるのだろう。新しい時代、20世紀になってからの小説、漱石の『明暗』を読むと、そのような気がする。そして、20世紀の終わりになって、水村美苗によって『続 明暗』という素晴らしい作品が書かれたこと、まさに、20世紀の日本の小説の歴史の出来事といってよい。『明暗』が20世紀の小説であるからこそ、それをうけて『続 明暗』が書かれ得たというべきであろう。

『明暗』夏目漱石2017-11-10

2017-11-10 當山日出夫(とうやまひでお)

「定本漱石全集」第11巻『明暗』.岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b313876.html

漱石の『明暗』を読んだ。何回目になるだろうか。新しい「定本漱石全集」が刊行されているのに合わせて漱石の作品を読んでいこうとおもいつつ、途中でとまってしまっていた。『明暗』まで来てしまった。でもまあ、最後の『明暗』を読んで、そこから遡っていってもいいかと思って読んだ。

若い頃……学生のころ……一番好きな漱石の作品は『猫』であった。これも何度読み返したことだろうか。前の17巻本の全集の第一巻目である。この本で一番よく読んだだろうか。

『猫』のどこにひかれたのか。たぶん、その諧謔のうらにある「神経衰弱」に対してである。『猫』は、単なるユーモア小説ではない。この作品を書いていたころの漱石は、「神経衰弱」に悩まされていたことは、知られていることだと思う。『猫』を読むと、そのような作品を書かざるをえなかった、漱石の心理の有様が、なんとなく察せられる。「神経衰弱」に悩む漱石に共感して、『猫』を読んでいたといっていい。

今、この年になって……漱石の没年を10年以上もすぎて、ただ馬齢を重ねるだけになってしまって……一番こころひかれる漱石の作品は、晩年の『明暗』である。

この作品のどこにひかれるのか。それは、「則天去私」である。いや、現代の漱石研究の立場からするならば、晩年の漱石が「則天去私」の境地にあったとはいえないということになる。とはいっても、晩年の漱石が、『明暗』の原稿執筆と同時に漢詩文の世界……それを「則天去私」といっておくことにするが……に遊んでいたことは知られている。漢詩文の世界にひかれるような、それとは異質な人間のエゴイズムを描いた作品として『明暗』はある、ということになる。

『明暗』を読んで感じることは、この作品自体の面白さもあるが、その行間・紙背から感じ取ることのできる、漢詩文の世界に遊びたくなる、こころの機微である。

無論、小説として読んで、『明暗』は面白い。だが、それだけではない。『明暗』を書きながら、同時に漢詩文の世界にひたっている漱石の心情に、気持ちがなびくのである。

このように感じるということは、私が、年をとってきたせいなのだろうと思う。若い時のような感覚で、漱石の作品を読むことはできない。年をとるにしたがって、漱石の作品から感じ取るもの、その作品への好みもまた変わってくる。

『明暗』を読んで、これからさかのぼって漱石の作品を読んでいくことにしようかとおもっている。

『日の名残り』カズオ・イシグロ(その二)2017-11-03

2017-11-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年11月2日
『日の名残り』カズオ・イシグロ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/02/8719470

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『日の名残り』(ハヤカワepi文庫).早川書房.2001 (中公文庫.1994)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310003.html

この小説が、失ってしまったものへの哀惜の念の小説である、ということはすでに述べた。だが、この小説は、それだけのものではない。ちょうど『細雪』が、喪失したものへの哀惜の念の小説でありながら、同時に、戦前の阪神間の中流階級の生活誌とでもいうべき側面をもっているのと同様、『日の名残り』も、20世紀前半の英国のある側面をきりとってみせてくれている。

時代的背景としては、第一次大戦から第二次大戦までの間。主な舞台となるのは、英国貴族の邸宅。だが、この小説の主人公は、貴族ではない。貴族の主人につかえている「執事」である。執事には、執事としての、プロフェッショナルの仕事がある。今は年老いた執事が、かつての時代を回顧して語る枠組みになっている。

その構造は複雑である。

まず、主人公・執事という視点の設定にある。執事であるからには、その邸宅で行われる行事の裏方全般をとりしきらなければならない。決して表に出る仕事ではない。そして、その貴族の邸宅で行われる行事……外交にかんする非公式の会議……もまた、表だった政治の世界からすれば、裏側に位置することになる。この意味で、執事の仕事は、二重に閉ざされた裏側の世界で展開することになる。だが、それはそれとして、そこにはプロの仕事が要求される。

また、主人公のつかえた主人がどのような外交的立場であったかというと、歴史の結果を知っている現代の我々……それは、当然ながら、この小説の語り手もその視点に立ちうるわけであるが……から見て、決して評価できるという仕事ではなかったことになる。(はっきりとそのような評価が書いてあるわけではないのであるが、そのように読める。)

しかし、にもかかわらず、執事は、その仕事のプロとして、その会議を支えねばならないし、その会議に関与したことが、ほこりでもある。

決して歴史的、政治的には評価されることはない行事、それに裏方として関与することへの、屈折した(というべきであろうか)矜恃の意識。これが、ほろにがい哀惜の念とともに、語られる。

ともあれ、20世紀前半の英国の貴族の邸宅での執事の仕事とはこんなものであったのか……その当時、貴族の政治、外交への関与はどんなものであったのか……ということについての、ある種の歴史情報小説のような側面が、この作品にはある。それへの興味関心が、この作品の大きな魅力になっていることは確かである。

第一次大戦から、第二次大戦までの間、英国の貴族が政治、外交の面で、どのような役割をはたすものであったのか、これを大きな背景として、そこで仕事をした執事という役職、それが、もう今では無くなってしまったこと……その邸宅も、今では、アメリカ人のものになってしまっている……への哀惜の念、あるいは、かつての偉大な時代の英国への懐古の情、これが、しみじみと語られるところに、この作品の妙があるといってよいと思うのである。

そして、うまいのは、その語り口である。実に淡々とした述懐でありながら、政治的には波瀾万丈の時代の裏側を、丁寧に描いている。

この作品は、一種の歴史小説といってもよい側面があるのだが、しかし、これは、歴史書としては描けないだろう。文学、小説というものでしか描くことのできない、ある時代の、ある社会の、ある人びとの生活と歴史を描きだし、語ることに成功している。文学、小説というものが、なにがしか人の心を動かすものであるとするならば、まさに、この作品は、文学であるというにふさわしい。