『ジゴロとジゴレット』サマセット・モーム(その二)2017-10-16

2017-10-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年10月14日
『ジゴロとジゴレット』サマセット・モーム
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/14/8704863

サマセット・モーム.金原瑞人(訳).『ジゴロとジゴレット-モーム傑作選-』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/213028/

この短編集の中で、印象に残る作品はいくつかあるが、そのなかで、「征服されざる者」についていささか。

この作品は、第二次世界大戦のフランスが舞台である。侵攻してきたドイツ軍の兵士とフランスの娘とのつきあいがえがかれる。

第二次世界大戦のヨーロッパというと、どうしても、ドイツ=ナチス=悪、それに対して、抵抗した側=善、という図式でとらえがちである。だが、ドイツ軍は、国家として戦争をしていたのであり、中には、一般の兵士もいた。いや、そのような兵士の方が多かったのだろう。

では、その侵攻していった先の国……この場合はフランスで……どのようにしていたのだろうか。その土地の人びとと、どのようにかかわっていたのだろうか。

このような視点でみると、「征服されざる者」はきわめて興味深い。

結果は、決してハッピーエンドではない。ある種の「おち」といっていいか、非常に印象的な結末でおわっている。だが、小説だからこのような結末になってはいるけれども、別の展開もあり得たのかもしれない。

また、現代の我々は知っている……もし、別の結末があり得たとしても、戦後の様々な社会情勢の中で、登場するドイツ軍兵士と、フランスの娘は、決して幸福になることはなかったであろうことを。であるならば、この小説のような結末が、むしろよかったということになるのではないか。

モーパッサンは、普仏戦争の時代に翻弄される人びとを描いた。モームは、この作品で、第二次世界大戦という大きな時代の流れのなかで、生きた人びとの姿を哀切をこめて描いているように思える。無論、小説としても、とてもうまい。『月と六ペンス』などは、時代の流れから超然としたところにある人物像を描いているように思える。だが、この作品は、そうではなく、時代の流れの中にある、そのようにしか生きられない人間の有様を、するどい人間観察の目で見ているようである。

第二次世界大戦を舞台にした世界の文学から、何か選ぶとなると、この作品ははいるのではないだろうか。

『ジゴロとジゴレット』サマセット・モーム2017-10-14

2017-10-14 當山日出夫(とうやまひでお)

サマセット・モーム.金原瑞人(訳).『ジゴロとジゴレット-モーム傑作選-』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/213028/

岩波文庫版の『モーム短篇選』(上・下)とは、重複する作品もあるのだが、新潮文庫で、これも新しい訳がでているので、読んでみることにした。

収録作品は、

「アンティーブの三人の太った女」
「征服されざる者」
「キジバトのような声」
「マウントドラーゴ卿」
「良心の問題」
「サナトリウム」
「ジェイン」
「ジゴロとジゴレット」

モームの作品は、モーパッサンの流れのなかに位置するという。その目で読むせいかもしれないが、「キジバトのような声」は、なるほど、とにやりとするところがある。

そして、不思議な印象を残す作品は、「マウントドラーゴ卿」。(これは、岩波文庫版の方にも収録されている。)モームの他の作品とは少し傾向が異なるといっていいかもしれないが、何かしら奇妙な読後感がある。

読みながら付箋をつけた箇所。

「だが、わたしは物わかりのいい人間より、ちょっと面倒な人間のほうが好きなのだ。」(p.124)

まさに、このような人間を見る視点こそモームの面目というべきなのであろう。一筋縄ではいかない、その内面に屈折した何かをもっているような人間、このような人間を描かせたら、おそらく、モームの短篇が、世界の文学のなかで、まず取り上げられることになるのだろうと思う。

短編小説を読む文学の楽しみということであるならば、モーパッサン、それから、モーム、ということになるのだろう。

『モーム短編選』(下)岩波文庫2017-10-12

2017-10-12 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年10月7日
『モーム短篇選』(上)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/07/8696546

岩波文庫の『モーム短編選』、その下巻の方を見てみる。

収録作品は、
「物知り博士」
「詩人」
「ランチ」
「漁夫サルヴァトーレ」
「蟻とキリギリス」
「マウントドレイゴ卿」
「ジゴロとジゴレット」
「ロータス・イースター」
「サナトリウム」
「大佐の奥方」
「五十女」
「冬の船旅」

この本を読みながら付箋をつけた箇所。

「フロイトやユングその他の精神分析医が書いたものは全部知っていた。」
『マウントドレイゴ卿』p.63

「私の考えでは人間は誰でも一個の自我でなく、いくつもの自我から出来ています。」
『マウントドレイゴ卿』p.97

作中人物の言っていることだから、これが、すぐに作者(モーム)の考えというわけではないだろう。だが、フロイトなどの心理学、それから、人間を形成する多様な自我の存在、このようなものがモームの視野の中に入っていたことは確かだろうと思う。

このような箇所をうけて、解説の次の部分を読むと興味深い。

(「物知り博士」について)「ケラーダだけでなく外交官の妻についても、私が彼女には外見では分からない部分があった、と述べると、今日の読者は言うかもしれない。「人間なんか分かったもんじゃない。誰だってどんなことだってやりかねない。人間って、そういうものですよ」と。しかし、このような皮肉な人間観が一般化したのは、そう古いことではない。モームが創作活動を始めた二十世紀初頭には、英米、同じく日本では、世間の人はそんな考えを受け入れていなかった。」(pp.336-337)

この解説の箇所を読んで、なるほどそういうものかと感心してしまった。人間には、表面的に現れている部分では知ることのできない、奥深い面がかくれている……このような人間観は、今日ではむしろ普通だろう。だが、文学の世界のなかで、このような人間観が定着してきたのは、意外と新しいことのようだ。

そう思ってモームの作品をあらためて思い返してみると、このような今日に通じる人間観を描いた短篇が多いことに気付く。長編『月と六ペンス』にも、そのようなところがある。隠されている水面下の人間の本性というべきものである。

モームの作品が今日でも読むに価するところがあるのは、このような人間観があってのことだと思う。あるいは、逆に、今日の我々がこのような人間観をもっているからこそ、それを文学的に表現したモームの作品を読んでひかれる。

ところで、20世紀になってからの日本の文学、小説というと……私などであれば、漱石とか、芥川の作品を思い浮かべるのであるが、これらについてはどうだろうか。表面には出てこない人間の奥底にある不可解なもの、それを描き出そうとした作家であったように読むことができるかもしれない。

『モーム短篇選』(上)岩波文庫2017-10-07

2017-10-07 當山日出夫(とうやまひでお)

サマセット・モーム.行方昭夫(訳).『モーム短篇選』上(岩波文庫).岩波書店.2008
https://www.iwanami.co.jp/book/b247377.html

モーパッサンの短篇を文庫本(新潮、岩波)と読んで、次に手にとったのがモームである。モームの『月と六ペンス』については、すでに書いた。

やまもも書斎記
『月と六ペンス』サマセット・モーム
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/22/8681337

岩波文庫では、『モーム短編選』として、上下巻で出ている。まずは、上巻の方から。

収録作品は、
「エドワード・バーナードの転落」
「手紙」
「環境の力」
「九月姫」
「ジェーン」
「十二人目の妻」

このうちで、私の読んだところでは、最初の「エドワード・バーナードの転落」それから「手紙」が印象深かった。

以前にも書いたように、モームの作品は、人間性の奥底にある不可解とでもいうべきものを描いていると思っている。それが端的に表れている作品である。

一見すると、堕落したかのごとく見える人間が実は、その底に豊かな人間性があったり、あるいは、善良そうに見える人間の奥底にある邪悪な思いであったり、である。

ところで、岩波文庫版の上巻の解説には、次のようにある。

「(モームの作品について)日本には英語学習と絡めて、懐かしく思い出す年配の読者が意外に多い。学生時代に英語のテキストとして読んだことがあるというのだ。コミュニケーションの手段としての英語習得重視の昨今と違い、昭和五十年代は英米作家の短篇、エッセイなどを講読するのが、大学の英語教育の中心であった。全国の大学の教養課程の英語の授業において、他のどの英米作家にも増して、モームの短篇を教科書版で、あるいはプリントで読むのが流行っていたのだ。」(p.318)

私が大学……慶應義塾大学文学部……に入学したのが、昭和50年であるから、まさにこの時代に該当する。しかし、残念ながら、英語の授業で何を教材に読んだかあまり憶えていない。三田に移って、二年生の時に、イプセンの『人形の家』の英訳本を読んだのは憶えているのだが、それを除くと、さっぱり憶えていない。

だが、書店などで、モームの教科書版というのはかなり目にしたようにも憶えている。

どうせ、大学で英会話中心の授業をやっても、そう身につくものではないのだから、やはり、いっそのこと、文学的な文章を講読するというような授業をやってもいいのではないか……などと思うのは、天邪鬼のすぎるだろうか。そこまでいかないにしても、学生の英語学習の選択肢のなかに、文学的な文章を読むというのがあってもいいように思う。

そして、文学的な文章を読むとなると、まさにモームの書いているものなど、若い大学生が読むのにふさわしいと感じる。原文を読んだわけではないので、なんともいえないが、翻訳文から伝わってくる冷静な人間観察眼と、ストーリーの巧みさは、読書の楽しみを教えてくれる。

文学史的にいうならば、モームは、モーパッサンの系譜につらなる位置にある。するどい人間観察と、卓抜なストーリーの妙、それに、最後にある「おち」。人間というものを文学、小説、それも短編小説で描くとなると、このように書けるものなのか、ということに気付く。モームの短篇も、小説を読む楽しみを満喫させてくれる作家のうちのひとりということになる。

追記 2017-10-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年10月12日
『モーム短編選』(下)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/12/8703144

『モーパッサン短編集Ⅲ』(新潮文庫)2017-10-06

2017-10-06 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.青柳瑞穂(訳).『モーパッサン短編集Ⅲ』(新潮文庫).新潮社.1971(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201408/

新潮文庫のモーパッサンの短編集。三冊目は、普仏戦争に題材をとったもの、それから、怪異の話しをあつめてある。いうまでもないが、これも面白い。

普仏戦争といわれても、高校の世界史で習ったぐらいの知識しかない私には、今ひとつよくわからない……このあたりのことは、岩波文庫版の『脂肪のかたまり』の解説を読むとよくわかる。

やまもも書斎記 2017年9月16日
『脂肪のかたまり』モーパッサン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/16/8677649

ともあれ、普仏戦争というできごとは、そのデビュー作とでもいうべき『脂肪のかたまり』を始めとして、モーパッサンにとって、創作の材料を多く提供してくれていることがわかる。戦争を題材にしているからといって、それを肯定しているというのでもないし、また、反戦論という立場でもないようだ。ただ、歴史上の出来事としてそのような戦争があり、そのなかで生きてきた人びとの人生の機微を描き出している。戦争そのものを描くというよりも、戦争があるなかでの人間の生き方の様々な面白みを、小説として描いているように思える。

それから、怪異小説というべき一群の作品。岩波文庫版『モーパッサン短篇選』のなかにもあった『水の上』、これなど、本当に怖い話しといっていいだろう。怖い小説というのは、何も、幽霊やお化けがでてくるものとは限らない。普通の日常の中にある、ふとしたことでおこる出来事の背景に、身も凍るような恐怖があったりする。

モーパッサンの短篇、新潮文庫版と、岩波文庫版と、両方読んでみた。他にもあるのだろうが、ともかくこれだけ読んでみて、19世紀フランス自然主義文学における人間観察の巧みさというものを感じる。登場するのは、特に高貴な人でもないし、また、逆に、社会の底辺にいる労働者というわけでもない。一般にいる人びと……農民であったり、都市の生活者であったり……である。現代社会における、一般の人びとの生活感覚に近いところを描いている。そのせいもあるのだろう、現代の目から読んでみて、比較的すんなりと作品世界のなかにはいっていける。あまり、時代、歴史的背景の違いというようなものを感じない。純然と、短編小説を読む楽しさというべきものがある。

たぶん、世界の文学のなかで、短編小説に限らないが、小説という形式で、人間を描いたものとして、モーパッサンの作品は、読まれ続けていくにちがいないと思う。

モーパッサンの影響、その系譜につらなる作家としては、モームがある。また、別の系譜には、チェーホフとかマンスフィールドがいることになる。これからの読書の楽しみとして読んでいこうと思っている。若い時に読んだ作品でも、年を経てから再読すると、また新たな感慨があるものである。

『モーパッサン短編集Ⅱ』(新潮文庫)2017-10-05

2017-10-05 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.青柳瑞穂(訳).『モーパッサン短編集Ⅱ』(新潮文庫).新潮社.1971(2008.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201407/

新潮文庫のモーパッサン短編集の二冊目は、主に都市部を舞台とした作品群である。これも、面白い。

有名なところでは、『首かざり』が、この二冊目に納められている。この作品については、岩波文庫の『モーム短編選』の下の方の解説で、モームの作品と関連付けて論じられている。

ところで、問題となった宝飾品が本物か、偽物か、という点から、対をなす作品としては、同じ二冊目に入っている『宝石』という作品がある。これが、同じ冊にはいっているのも、興味深い。

やはり、この二冊目も、なにかしら「おち」のある作品となっている。そして、その背景になるのは、パリの市民の生活である。19世紀のパリの市民生活といえば、その最底辺を描いたものとしては、『居酒屋』(ゾラ)がある。

この『居酒屋』については、すでに書いた。
やまもも書斎記 2017年7月13日
『居酒屋』ゾラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/13/8619336

しかし、ここに収録されている作品は、そんなに最下層の住民を描いたというものではない。いわゆる都市の市民層というべきであろうか。ある程度のレベルの生活の人びとである。この意味では、今日の一般市民、庶民、の生活感覚に近いといえようか。

時代的背景は異なるのかもしれないが、しかし、現代にも共通するところのある、都市市民の生活の悲喜こもごもを、するどい人間観察の目で描いた作品は、充分に面白い。短編小説を読む楽しさ、また、市民生活を描くとはどういうことか、というようなことをここから、得ることができるように思う。今日に通じるところのある感覚で、読むことのできる作品群である。

歴史的な視点からみれば、都市のプチ・ブルジョアジーの生活描写ということになるのだろうが、それが、19世紀自然主義の視点で描写されている。人びとの人情の機微とでもいおうか。それが、なにかしら暖かみのある、しかし、自然主義文学としての冷静な視点から描かれていると思うのである。描き方によっては、冷酷ともなりかねないようなテーマであっても、その叙述は、どこか人間味のあるものになっている。これが、モーパッサンの作品の良さなのだろうと思う。

『モーパッサン短編集Ⅰ』(新潮文庫)2017-09-30

2017-09-30 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.青柳瑞穂(訳).『モーパッサン短編集Ⅰ』(新潮文庫).新潮社.1971(2013.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201406/

モーパッサンの短篇については、すでに岩波文庫版『モーパッサン短編選』を読んだ。

やまもも書斎記 2017年9月14日
『モーパッサン短篇選』岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/14/8676530

これが面白かったので、他の作品も読んでおきたいと思い、新潮文庫の短編集の三冊を読むことにした。三冊に分けて、テーマ別編集のようにしてある。第一冊目は、ノルマンディーなど地方を舞台にした作品群である。

読んでみて、やはりうまいと感じる。短編小説を読む楽しみを満喫させてくれる作品である。話しの筋として、最後に「おち」のあるものが多い。このような「おち」のある短編小説は、19世紀の小説ならではのものであろう。

「おち」があるといってもよいが、それを角度を変えて見れば、鋭い人間観察の目でもある。人間の心理の機微を微妙に描いている。

それから、地方を舞台にした作品を集めてあるせいか、風景の描写が非常に印象的である。『女の一生』でも感じたことだが、モーパッサンの作品は、物語の筋のはこびと、その背景になる風景の描写が相まっている。それが巧みにくみあわされて、作品の効果をあげている。そのような風景描写の巧さは、地方を舞台にした、この第一冊目の短編集で遺憾なく見ることができる。

とにかく、地方の景色を背景にして、登場人物たちが生き生きとしている。

訳文は、岩波文庫版の高山鉄男訳とくらべると、自由闊達な雰囲気がある。強いていえば、ちょっと俗な感じの訳語がつかってあったりするのだが、それも、読み進めていくと、そう気にならなくなる。これはこれで、すぐれた翻訳の日本語文である。

岩波文庫版のを読んだ時にも感じたことだが、このような優れた短篇小説集を読むと、現代日本の文学が、なんとなくつまらなく思えてくる。いや、現代日本文学もそれなりに面白いのであろうが……私が知らないだけで……もう、この年になると、それらを読むよりも、古典的な評価の定まっている、近代の翻訳作品を読んでおきたくなっている。この方が、ずっと有意義な時間をすごせるような気がしてきている。

モーパッサンを読んで、それから、モームのものを読んだりしている。その傍らで、ドストエフスキーの長編を再読したりもしている。自分の人生、これからどれだけ本が読めるかわからない。であるならば、好きな本、面白い本を読んでおきたいものである。読んで思ったことなどは、順次、追って書いていきたい。

『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン(その二)2017-09-29

2017-09-29 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年9月28日
『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/28/8685378

昨日、この本について書いたとき、書誌として、

1986年(改版)

と記しておいた。これは、文庫本(岩波文庫)の奥付の記載がこうなっているから、このようにしておいたのである。「改版」というからには、その元になった版がいつ出たのか、書いてないと困るのだが、岩波文庫版の奥付にはその記載がない。ただ、1986年の改版とあるだけである。

ところで、この本、訳者(豊島与志雄)の「序」がついている。それは、1920年(大正9年)である。そして、「序」のつぎに「改訳について」と題する文章があある。日付は、1921年(大正10年)である。

さらに、それに付加するかたちで、「編集付記」とあって、

「岩波文庫版『ジャン・クリストフ』は従来八分冊の編集であったが、今回これを四分冊にあらためた。」

とある。日付は、1986年である。

ということは、大正9年(あるいは、大正10年)に、まず本が出たのであろう。それは、八冊本であった。それを、改版して、四分冊にしたのが、1986年。その版をいまだにつかって刊行している、という事情なのだろう。

翻訳が1920年だとすると、今からざっと100年前である。

ともあれ、この作品の翻訳は、大正時代のものということになる。そう思って読んでみると、時々であるが、妙に堅苦しい漢語が出てくることがある。今は、こんなことばはつかわないだろうというものである。

だが、このようなごく一部の難解な漢語をのぞくと、作品全体の訳文は、きわめて平易で読みやすい。現代の訳だといわれても、違和感なく通じるものになっている。

日本における外国文学の受容は翻訳によることになる。その翻訳の文章として、大正時代にすでに確立したものがあって、それが、現在まで脈々と受け継がれてきているということになる。これは、日本語の文章史を考えるうえで興味深い。小説の文章、その翻訳の文章というものが、大正時代にほぼ完成したものになっていたことをしめすものだろう。

少なくとも豊島与志雄という人の文章をみると、大正時代に、21世紀の今日にも通じるだけの翻訳の日本語の文章をつくりあげていた、このことは留意しておくべきことだと思う。

大正時代の文章といって小説で思い浮かぶものとしては、例えば、芥川竜之介などがある。あるいは、晩年の漱石とか鴎外とか。この100年の日本語の文章史というものを、改めて考えてみなければならないと思っている。

『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン2017-09-28

2017-09-28 當山日出夫(とうやまひでお)

ロマン・ローラン.豊島与志雄(訳).『ジャン・クリストフ』(岩波文庫)(全4巻).岩波書店.1986年(改版)

全4冊セット
https://www.iwanami.co.jp/book/b270706.html

九月になって、新学期がはじまる。この作品、この夏休みの宿題にしようと思って、買って読んだ。全4冊である。

はっきり言って、読みながら退屈したところもあるのだが……とにかく地の文による説明が長い、それに、大して大事件が起こるというわけでもない……しかし、この作品、やはり読んでおいてよかったと思う。どうだったろうか、この作品、若い時に読みかけて挫折したことがあるような、いや、もしそうだとしても完全にわすれてしまっている。

ロマン・ローランは、私ぐらいの世代……昭和30年、1955年の生まれ……であれば、世界の文豪を代表する一人である。たしか、出光美術館だったと思うが、ロマン・ローラン展があったのを、学生の時に見に行ったようにおぼえている。今でいえば、ロマン・ローランのアーカイブズである。

『ジャン・クリストフ』は、名前は知っていたが、これまで、読み通すことのなかった本である。この年になって、ようやく時間を作って読み通すことができた。このような本を読むのは、若いときか、さもなければ、今の私のように、もう隠居したと自らを思い定めたような境遇でないと難しいかもしれない。人生の多忙な時期に、寸暇を惜しんで読むような本ではないと思う。

もし、この作品を、若い時に読んでいたらどうだったろうか。主人公、ジャン・クリストフの、芸術に捧げる人生に非常に強く共感しただろうかと思う。若いとは、そういうことでもある。

だが、この年になって読むと、芸術に捧げる人生……といって芸術至上主義というのでもないのだが……について、なるほどそのような生き方もあるのかと思う。そして、なにがしかの感銘はある。だが、自分も、ジャン・クリストフのように生きてみようとは、もう思わない。いや、そのように生きることが出来なかった自分の人生を振り返って、思い出をかみしめるような読後感がある。

文学作品には、人生の何時の時点で読むかによって、その印象が変わるところがある。この意味では、『ジャン・クリストフ』は、若い時にこそ読んでおくべき作品である。そこで何を感じるかともかく、この作品に描かれたような芸術とともにある人生というものを、自分の人生の選択肢のなかにふくめて考える可能性のあるときにこそ、この作品は読む価値がある。

もう若くはない私ではあるが、この作品を読んで、やはり心に響くものがあるのを感じる。芸術とは何かということへの問いかけであろうか。自分の人生にとって芸術とはなんであるのか、なんであったのか……しみじみと思って見る、この作品、4冊を読んでいる時間は、そのような時間であった。

追記 2017-09-29
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月29日
『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/29/8686909

『月と六ペンス』サマセット・モーム(その二)2017-09-23

2017-09-23 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまも書斎記 2017年9月22日
『月と六ペンス』サマセット・モーム
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/22/8681337

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「ヴァイトブレヒト博士は、ある歴史家一派と同様、人間とは一般に考えられているよりずっと邪悪な存在だと信じている。こういう書き手こそ、読者は信頼する。」(p.11)

たぶん、このようなことばの中に、作者の文学観、人生観が垣間見られると思うのだが、どうだろうか。少なくとも、この作品『月と六ペンス』については、このようなシニカルな見方があっている(と私は感じる)。

『月と六ペンス』の人間観は、人間というものをきわめて肯定的に描いていると読める。でなければ、主人公のような生き方をした人間を描くことはできない。だが、それだけではない。そのような生き方を肯定しながらも、その底にどこか冷めた人間観のようなものを感じる。

おそらく、この小説の面白さの根底にあるものは、どこかで人間の生き方というものを、冷めた視線で見る、人間観察の視点があるからにちがいない。

『月と六ペンス』は、芸術賛歌、人間賛歌という感じはしない。私は、そのようには読まない。無論、芸術の素晴らしさを描いてはいる。だが、その芸術を前にして、人間の愚かさを冷めた視点で見ているという気がしてならない。

このことは、モームの他の作品など、再度読んでから、もう一度考えてみたいと思っている。『月と六ペンス』も、機会をつくってさらに再読してみたい作品である。