『文豪妖怪名作選』2017-08-17

2017-08-17 當山日出夫(とうやまひでお)

東雅夫(編).『文豪妖怪名作選』(創元推理文庫).東京創元社.2017
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488564049

近代の文豪たちの妖怪にまつわる小説などをあつめたものである。このてのアンソロジーは、他にもあったかと思うが、最近になって出た本なので買って読んでみた。

読んだ印象としては……妖怪名作選とあるから、身の毛もよだつような怖い話しばかりかと思うと、そうでもない。むしろ、逆に、諧謔、ユーモアを感じさせる作品が目につく。

冒頭におかれているのは、尾崎紅葉の『鬼桃太郎』である。「桃太郎」のパロディである。たしかに妖怪(鬼など)は登場する。しかし、怖い話しではない。最後まで読むと、あれ、こんな終わり方でいいのか、と思わず笑ってしまうような結末になっている。

たぶん、本当に怖い話しというのは、別に妖怪怪異が出てくる必要はないのだろうとも思う。このアンソロジーは、妖怪ユーモア小説選とでもした方がいいような感じがする。

「怪談」というのは、近代になってからの発明であるともいえよう。そこには、日本民俗学などがかかわっている。『遠野物語』などは、怪異の話しである。これは本当に怖い。(このことについては、また改めて書いてみたいと思っているが。)

近代になってからのものとして、一方で、近代的理性の目が働いている。近代の目からみて、妖怪はどのように見えるのか……このような観点から見たとき、そこに、それを怖がる人間の心理を客観的に見るまなざしがある。その距離の置き方が、作品にユーモアを生む。

そういえば、先にふれた「天守物語」(泉鏡花)も、ある意味で、ある種の滑稽さがないともいえない。妖怪の目で人間の所業を見るとどう見えるか、この意味では、ある種の諧謔をふくんでいると読みとることもできよう。

やまもも書斎記 2017年8月14日
「天守物語」泉鏡花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/14/8646275

ところで、このアンソロジー、いわゆる近代小説という枠組みでは捉えきれていない作品を収録してある。柳田国男と寺田寅彦である。おそらく、近代における怪異ということを考えるとき、この二人は外せないという判断だと思う。

これらについては、追って考えてみたい。

「天守物語」泉鏡花2017-08-14

2017-08-14 當山日出夫(とうやまひでお)

泉鏡花の『天守物語』を再読してみた。

東雅夫(編).『文豪妖怪名作選』(創元推理文庫).東京創元社.2017
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488564049

このアンソロジーに収録されている。読み直すのは何年ぶりになるだろうか。いや、ひょっとすると何十年ぶりぐらいになるかもしれない。

しかし、『天守物語』は、いまでもなお新鮮である。このような作品が、このような日本語の文章で書かれた時代があったのだ、ということを、しみじみと思ってみる。

解説を読むと、『天守物語』は、大正6年(1917)である。先日、このブログでちょっととりあげた芥川竜之介の活躍したのとほぼ同じ時代ということになる。その同じ時代に、芥川のような文章もあれは、鏡花のような文章も、同時に存在したのである。

泉鏡花の文章については、中村真一郎の『文章読本』を読んで、きちんと読んでおかないといけないと思っていたところである。

最近、読んだ本として、中村真一郎の『頼山陽とその時代』がある。ちくま学芸文庫版。これについては、改めて書いたおきたいと思っているが、それと同時に、中村真一郎の『文章読本』(新潮文庫)を、再読しておきたくなった。

鏡花の文章については、中村真一郎は次のように書いている。

「鏡花は、その口語文を自然主義者たちとは正反対の方向に、発展させて行きました。」

現代の我々は、明治の自然主義文学の、あるいは、鴎外や漱石の、また、芥川などの文章の流れのなかにあるといってよいであろう。その現代の我々の目で読んで、泉鏡花の文章の日本語は、このような日本語の使い方もあり得たのか……と、おどろくばかりに新鮮に感じられる。

現代の私は、泉鏡花の文章を目で読む……黙読するのであるが、その文章のリズムは、感じ取ることができる。現代の日本語の散文……口語文……が、失ってしまったものを、強く感じることになる。これはこれとして、達意の日本語文であると思う。

ところで、『文豪妖怪名作選』であるが、このアンソロジーは、なかなか面白い。これについては、また改めて書いてみたい。

「大川の水」芥川竜之介2017-08-12

2017-08-12 當山日出夫(とうやまひでお)

岩波文庫の『芥川竜之介随筆集』を読んでいる。

石割透(編).『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫).岩波書店.2014
https://www.iwanami.co.jp/book/b249284.html

この本の冒頭におかれている文章が「大川の水」である。

ここで、芥川は隅田川に思いをよせている。この文章は、つぎのようにおわっている。

「もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのに何の躊躇もしないであろう。独においのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛するのである。」(p.18)

1912年の文章である。

私は、東京に10年以上住んでいた。大学にはいってから、しばらく間である。その生活のなかで、あまり、東京と川ということを意識したことがない。住んでいたのは、目黒区で、下宿の近くには目黒川がながれていた。毎日、学校に通うごとに、目黒川をわたっていたと、今になれば思い出す。しかし、そう強く「川」が印象に残っていることはない。(今では、東京の桜の名所として、有名になっているようだが。)

東京に住んでいる間に、隅田川を目にしたのは、何度あるだろうか。あったとしても、それと意識して見たという記憶がない。

最近、東京と「川」「水」ということを意識するようになったのは、川本三郎の本を読んでからである。

やまもも書斎記 2016年11月5日
川本三郎『大正幻影』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/05/8242327

この本のなかで著者(川本三郎)は、大正期の文学者たちが、隅田川によせた思いについて述べている。これを読んでから、東京という街は、川の街、水の街であることを、認識するようになった。

だが、やはり私は、「山」の人間なのだろうと思う。

やまもも書斎記 2016年11月19日
山の風景と水の風景
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/19/8253955

大正時代、東京の文学者たちは、隅田川の川面に何を感じていたのだろうか。東京と川、近代文学と川、水、というようなことに、思いをはせている次第である。

『日本人の心の歴史』唐木順三2017-08-07

2017-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『日本人の心の歴史』上・下(ちくま学芸文庫).筑摩書房.1993(初版 筑摩書房.1970 底本 筑摩書房.1976)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080530/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080547/

筑摩書房のHPを見ると、上巻の方は品切れのようである。下巻の方はまだ在庫があるようだ。そのせいか、この作品、中央公論新社が出した、中公選書の「唐木順三ライブラリー」のシリーズにははいっていない。これは、中公から出してもよかったのではないだろうか。それほどに、唐木順三のエッセンスがつまった作品である。

読んだのは高校生のときだったかと憶えている。

特に上巻のはじめの方で指摘してある、『万葉集』の「見れど飽かぬ」についての指摘は、その後、大学で国文学を勉強するようになって、『万葉集』など読むようになってからも、ずっと心の底にのこりつづけてきたような気がする。

しかし、専門に国文学を勉強するようになってから、唐木順三からは、むしろ遠のいてしまった。厳密な訓詁注釈をふまえているというわけでもないし、また、私が学んだ折口信夫につらなる民俗学的な発想で書かれているわけでもない。

そして、そのまま年月がすぎてしまって……ようやくこのごろになって、昔読んだ本を再読してみたくなって、文庫本をとりだしてきた次第である。唐木順三は「全集」も持っているのだが……これは、学生の時に刊行になったかと憶えている、買って持っている……新しい、中公の本とか、筑摩の文庫本で読んでいる。

読み返してみて、もはや高校生のころに読んだような敏感な感受性のもとに読むことは出来なくなっていることを痛感する。しかし、それでも、唐木順三が、日本文学や、宗教を通じて、日本人の季節感、人生観の歴史にせまろうとしたあとをたどってみると、今でもなお共感するものがある。

その語っていることに全面的に賛同というわけではない。今の私の観点からは、かなり批判的に読むところもないではない。

『万葉集』と『古今和歌集』を、そう簡単に比較できるものではない。

その歌の制作時期が長期にわたり、まだ文字を持たない日本語の時代に詠まれた歌が後に文字になり編集されたものと、平安王朝貴族の時代になってから、文字(仮名)に書かれたものを編集して作成したもの、これの比較は、そう簡単ではない。しかし、そのような批判の視点をもっては見るものの、『万葉集』の「見る」から、『古今和歌集』の「ながむ」への流れの指摘は、そのような歌の読み方もできると感じるところがある。

いや、逆に、今の私は余計な知識を身につけすぎてしまっているので、素直に文学作品としての『万葉集』『古今和歌集』を読めなくなってしまっているとも、思ったりもする。ここは、初心にかえるとでもいおうか、素直にテキストにむきあって、文学として歌を味わうということがあってよい。

日本語史の資料として見るのではなく、純朴に素直な読者として読むことは難しい。そのような読み方が正しいかどうかは別のこととして、『万葉集』や『古今和歌集』が古典文学として、現代にまで読み継がれてきているということは、唐木順三のような仕事があってのことであろう。

国文学研究などの本筋からは、ちょっと離れたところに存在した唐木順三という人、強いて分類すれば、評論家になるのかもしれないが、このような人の仕事が、今、とても貴重なものに思える。

私自身の文学、特に日本文学の古典についての感性の多くは、唐木順三を高校生ぐらいのときに読むことによって醸成されたものであると今になって思う。(その後に大学生になってから読んだ折口信夫などのこともあるのだが。)この夏休みは、唐木順三を読んでみたい。

『ジェルミナール』ゾラ2017-08-05

2017-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

ゾラ.河内清(訳).『ジェルミナール』.「世界の文学」23.中央公論社.1964

ゾラの作品を読んでおこうと思って探してみると、昔の中央公論社の「世界の文学」にはいっていることがわかった。ネットで古本で買った。かなり安かった。もう、このような「世界の文学」というようなシリーズ自体が、価値がなくなっているのかもしれない。

読んで思ったことは……これは、日本でいえば、まさに「プロレタリア文学」である、ということ。それから、「世界の文学」のシリーズの中にゾラは、この一巻だけであるが、それをまるごとつかって、『ジェルミナール』を収録してある、これは、やはりその時代を感じさせる編集だな、ということ。

フランスの地方の炭坑が舞台。そこではたらく炭鉱労働者の生活。この描写は、『居酒屋』を書いたゾラならではのものだと感じさせる。下層の労働者階級の描写である。それをリアリズムの手法で、綿密に描いてある。

そこでおこるストライキ、その鎮圧、それから、炭坑での落盤事故(事件)、そして、その事故からの救出劇。

これが書かれた時代は、社会主義の正義が唱えられていた時代である。また、翻訳された時代……中央公論「世界の文学」の時代……マルキシズムは、正義であった。

だが、もはや、ベルリンの壁の崩壊を経て、社会主義国は崩壊してしまっている。マルキシズムを正義とイコールで考える時代ではないだろう。そのような時代の変化を感じる。

もちろん、この作品自身、ゾラの書いたものだけあって、炭鉱労働者の生活やストの様子、落盤事故への対応など、綿密に描いてあるし、ドマラチックなもりあがりもある。これはこれとして、十分に読めるものである。

しかし、この作品が基底にもっているところの社会主義の正義とでもいうべきものは、すでにこの世界から消えてしまっている。今の21世紀の時代になってから読んでみると、このような作品を文学として読んでいた時代があったのだな、ということに、その時代の変遷、時の移り変わりに、感慨を感じる。

そして、ゾラは、『居酒屋』『ナナ』につらなるものとして、このような作品も書いていたのか、と認識を新たにする。この作品にみられるような社会正義の感覚のもとに、かのドレフェス事件のことがあったのかとも、思ってみたりもする。

たぶん、この作品は、今後、忘れ去られていくことだろうと思う。だが、それは、時代の流れである。とはいえ、このような作品を文学として読んでいた時代があったということは、まだ、私の世代の感覚としては、共有することができるうちにいる。たとえ、それが、今では通用しない社会主義の正義というべきものであったとしても。

『ナナ』ゾラ(その二)2017-08-04

2017-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年8月3日
『ナナ』ゾラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/03/8638804

ゾラ.川口篤・古賀照一(訳).『ナナ』(新潮文庫).2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/211604/

ナナという女性の「職業」はいったい何なんだろう……これもよくわからないところである。舞台にたつ人気女優でもある。また、男たちを手玉にとって渡り歩く、高級娼婦でもある。この二つの側面があって、作品では、ごっちゃになって語られる。このあたりが、この作品をわかりにくくしているところでもあるし、また、同時に、ナナという女性の魅力でもある。

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておく。

「しかし、小鳥のような脳味噌では、復讐心など長続きはしなかった。怒っている時以外に彼女の心を占めているのは、常に活発な浪費欲と、金を出してくれる男に対する生まれながらの軽蔑と、情夫の金を湯水のように使って破産させることを誇りとする、飽くなき搾取家の絶え間ない気紛れだった。」(p.463)

実に奔放な女性として描かれている。美貌ではあるが、さして賢いようではないようだ。(この点、『居酒屋』に登場する時のナナは、家族を思う気持ちをもった女性として描かれていたように思う。)

小説は主に、舞台、劇場でのナナと、男たちを相手にしている時のナナ、この二つの場面で構成されている。そして、このどちらもが、21世紀の日本で読んで、そう深く感情移入できるということはないように読めた。(これは、私の読み方の浅いせいかもしれないが。)

私が読んで、興味深かったのは、むしろ舞台、劇場の場面である。風俗史的な興味もあるが、その当時(19世紀のフランス)の舞台の人びとの様相が活写されていると思って読んだ。

一つの小説として独立した作品として決着をつけておかなければならないので、そのような結末になっているのだろうと、推測してみる。あるいは、最後にナナは自滅せずに、そのまま奔放な生活をつづけていくという終わり方もあったのかもしれないのだが。

ゾラの作品、他につづけて読んでみることにする。

『ナナ』ゾラ2017-08-03

2017-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

ゾラ.川口篤・古賀照一(訳).『ナナ』(新潮文庫).2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/211604/

今、刊行されている新潮文庫版は、改版して新しくしたものだと思うが、元の版がいつになるのかわからない。巻末の訳者あとがきは、1959年になっている。

『居酒屋』につづいて読んでみた。主人公のナナは、『居酒屋』の主人公・ジェルヴェーズの娘ということになる。『居酒屋』でも、すこし登場するが、この『ナナ』は、完全に独立している。

新潮社のHPには、「文豪が描いた究極の悪女!」とあるが……どうも、私が読んだ印象としては、そんな感じはあまりしない。たしかに、まわりに群がってくる男たちを、次々と手玉にとっていくので、たしかに「悪女」にはちがいないだろうが。

そして、読後感としては、今ひとつ、登場人物たちに感情移入できないで終わってしまったというところであろうか。19世紀のフランス、上流社会の中で男たちの間をわたりあるく高級娼婦……このような存在に、また、それに惹かれてよってくるような男たちに、今日の観点から、感情移入して読めというのが、そもそも無理なことではあるにちがいない。

現在、ゾラの作品で新潮文庫で読めるのは、この『ナナ』と『居酒屋』である。私としては、断然『居酒屋』の方をおしておきたい。これは、今日の観点で読んでも、その物語に引きずりこまれるところがある。無論、歴史的・社会的背景は異なる。だが、『居酒屋』を読むと、現代社会の大きな問題である貧困ということになぞらえて、19世紀パリの下層社会を読むことになる。

このような読み方は、おそらく作者(ゾラ)は意図してはいなかったことであろう。時代としては、『ジェルミナール』のように、社会主義、共産主義の未来を語ることのできた時代である。そのような時代ではもはやない。ソ連、東欧社会主義国の崩壊後、社会主義への夢はついえたといってもいいだろう。

だが、それにかわって登場してきたのが、グローバルに展開する社会的格差、貧困の問題である。このような社会状況のなかで、ゾラの作品が今後も読まれていくとすると、『居酒屋』ということになると私は思う。

『ナナ』であるが……パリの高級娼婦というような存在、これを描くのに、作者は、かなり苦労しているという感じがする。文庫版のあとがきを読むと、やはり、これを書くために作者は、かなり取材ということをしたとのこと。

ゾラのリアリズムの筆が、十分におよんでいないという印象をうける。人物造形に、そして、ストーリーの運びに、ちょっと無理があるかなと思ってしまう。とはいえ、最後の方、ヒロインのナナが自滅していくあたりの描写は、作品のなかにのめりこんでいくような感覚になる。

この『ナナ』は、ルーゴン・マッカール叢書というシリーズの中の一つとして、このような境遇の女性を主人公に小説を書いてみた、ということで理解することになるのだろう。19世紀フランスの自然主義文学の一つとして読まれるべき作品である。
追記 2017-08-04

この続きは、
やまもも書斎記 2017年8月3日
『ナナ』ゾラ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/04/8639608

『無用者の系譜』唐木順三(その三)2017-07-29

2017-07-29 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年7月28日
『無用者の系譜』唐木順三(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/28/8628812

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておく。

「我々の世代はもう漢詩を存分には読めなくなっている。近代文学の濫觴を逍遙の『小説神髄』や二葉亭の『浮雲』に求める近代においては、髻を結んだ漢詩人などはもう問題の外におかれている。しかし、江戸中期以来の文人気質をその本来の姿で伝えているのは反ってこの逸民たちであったろう。伊藤整のいう文壇における逃亡者、実生活、実社会からの逸脱者たち、即ち自然主義以来の私小説家たちも、沈山系の逸民が明治においてなお生存しつづけていなかったならば、現れえなかったであろう。」(pp.355-356)

「この二人(=花袋、秋声)ばかりでなく自然主義者は皆雅号で通っている。(中略)さらに遡れば東洋の文人気質に通ずるものが自然主義者にまで及んでいるといってよい。(中略)明治以来の「文壇」には、なお文人気質が残っていたといってよい。」(pp.480-481)

「我々の通常の文学史は、旧幕時代の文人と近代作家との断絶を説くのが普通であるが、案外に旧きものと新しきものは、たちきられてはいない。誇張していえば、明治の文学、少なくとも『白樺』出現以前の文学史を支えていたものは、反って文人資質であり、無用者意識であったとも考えられもしよう。」(p.494)

このような観点……つまり、近世期の文人と、近代文学者たち(『白樺』以前)を連続するものとしてとらえるキーワードとして、「無用者」を考えてみる視点……これは、今となっては、逆に、新鮮に思える。このこと、文学とは無用者のなすことであるという感覚は、今でもなお、わずかではあるが生き残っていると私は感じる。(一方その逆に、文学がいかに社会にとって有用であるかという観点も現代ではあるともいえるが。)

ともあれ、自らを「無用者」と規定する意識は、近代における文学……広義の文学……文学、歴史、哲学、宗教、芸術、など……に、まだ残っているだろう。この意味においては、大学の文学部で学ぶことが役にたつかどうか、というような問題設定自体が、無意味なものということもできよう。

だが、そうはいっても、現代の、これからの大学の文学部での勉強、学問が、いったい何の役にたつか……これはこれとして、またあらためて考えてみたいことではある。

なお、唐木順三の『無用者の系譜』を読んで……同時に並行して読んでいたのは、井筒俊彦であったりもするのだが……『意識と本質』『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』など……そして、昔、読んだ本で、読み返したくなったのが、『頼山陽とその時代』(中村真一郎)。これについては、また別に。

『無用者の系譜』唐木順三(その二)2017-07-28

2017-07-28 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年7月27日
『無用者の系譜』唐木順三
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/27/8628285

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

この本を、数十年ぶりに読み返して思ったことなどである。この本を読んだのは、高校生の時だったと記憶している。大学生になってからは、読んでいなかったはずである。

唐木順三には、今から思い返してみれば、多大の影響をうけている。特に、道元の禅、一遍の念仏などについての理解は、基本的に、唐木順三によっているといってもいいであろう。また、西田幾多郎についても、唐木順三を読むことによって、間接的に知っているといってもいい。

だが、大学にはいって、国文学専攻というところで、民俗学的な国文学、また、その一方で、国語学、書誌学といった厳密に文献をあつかう分野のことを勉強するようになると、とおのいてしまった。

民俗学的な発想からすれば、文字に書いて書物になったものだけを見ているという方法論への批判的見解がある。文字になる以前のもの、文学以前のものへの関心である。また、その一方で、厳密な文献学の方法から見ても、すでに校訂されたテキストだけで読んでいる方法に、厳密さを欠いているという感じがした。このようなわけで、いつのまにか、唐木順三からは離れてしまっていた。しかし、その「全集」が出たときは、買って揃えてもっている。

『無用者の系譜』であるが……この本を再読してみて感じたことは、『伊勢物語』について触れた箇所が意外とわずかであった、ということ。読後感としては、自らを「無用者」に思いなした業平のことが、鮮明な印象で憶えていたのだが、再読してみると案外あっさりと書いてある。しかし、その与える印象は、強烈ではある。

自らを「無用者」と思いなすという発想で、業平からはじまって、一遍におよび、中世の連歌から、近世の俳諧にいたる。そして、近代になって、永井荷風を論じたかと思うと、江戸時代、近世社会における「文人」の成立に筆がおよぶ。

唐木順三の書いたものを読むと、わりと重複して書いてある内容が多い。道元や一遍、芭蕉などについては、他の唐木順三の本でも触れてあったはずである。(この本を読んでから『日本人の心の歴史』を読んでみた。)

ところで、「無用者」である。これは、若い時に唐木順三を読んだ影響なのかもしれないが、私自身、みずからを「無用者」と見なしたいという気分が、今もって、心のおくそこにある。自分のやっていること、最近では、変体仮名のユニコード提案の仕事など、どちらかといえば、「役に立つ」という仕事にたずさわってはいるのだが、しかし、そのなかで、どこか、自分自身のあり方については、「無用者」でありたいという気持ちがある。

そして、それが、私が人文学というような領域で仕事をしてきた気持ちの底に現在でも流れているように感じる。

最近では、文学部の学問が役に立つ、役に立たない……という発想での議論を多く目にするようになった。私は、文学部の学問、人文学が、役に立たないものであるとは思っていないが(この点については、改めて考えてみるつもりでいるが)、それに携わっている人間、人文学研究者は、「無用者」であってよいと思っている。

そして、まだ、かすかにではあるが、「文人気質」とでもいうようなものは、人文学研究の領域のなかに、残っているとも感じている。これが無くなってしまったとき、そして、役に立つ、立たないという議論の俎上だけで、その学問の有用性が論じられるようになったときは、これこそ人文学の終わりではないかと思う。

この年になって、高校生のころに読んだ本を再び読んでみて、「無用者」であってもいいのである、「無用者」として生きてみたい、この思いが、私の生きてきたなかにあったのだ、ということを、感じている。

社会がなにがしか健全であることの証しとして、そのなかに「無用者」をかかえこむ余地があるかどうか、という発想があってもいいだろう。いや、逆に「無用者」がいなくなってしまえば、その社会は、きわめていびつな不健全なものであるともいえる。このような意味において、『無用者の系譜』という本は、今まさに読まれるべき本の一つである。

たぶん、今の世の中にも「無用者」はいるのであろう。私の気付いていないところで。

追記 2017-07-29
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月29日
『無用者の系譜』唐木順三(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/29/8629555

『無用者の系譜』唐木順三2017-07-27

2017-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

ふと思って、唐木順三の本を読んでいる。理由はあれこれあるが……

第一に、大学で教えている日本語史の講義。このなかで、『伊勢物語』第九段「東下り」について、言及することがある。そのとき、「身を用なきものに思ひなして」のところで、ちょっとだけ、唐木順三のことに言及することにしている。再度、もとの本でどうであったか確認したくなって読んでみた。

第二に、今の私の読書がそうなのだが、昔読んだ本、影響をうけた本など、再読したくなってきている。まだ読んでいない名著、古典、名作も読んでおきたい。と同時に、主に学生のころに読んで影響をうけたような本を、再び読み直してみたい気持ちになってきている。

だいたい以上の二点の理由から、本棚からとりだしてきて読んでみた。「全集」も持ってはいるのだが、それは、これからとりかかるつもり。まずは、近年、中公選書で出た「唐木順三ライブラリー」のシリーズからと思って、手にしてみた次第。

『無用者の系譜』を読んだのは、高校生の時だったと憶えている。国語の先生と話しをしていて……唐木順三を読めと薦めてくれた。そのころ、たしか、筑摩書房で、「唐木順三文庫」のシリーズを出したころだったかと思う。また、筑摩選書などで、いくつかの作品があったように思う。(探せば、それらの本もまだ持っているはずである。)

今から思えば、高校生を相手にして、唐木順三を読みなさいと薦めてくれるというのは、とても贅沢な話しである。現在では、大学で、日本文学や日本史を専攻している学生を相手にしても、唐木順三を読みなさいとは、なかなか言いにくいと思う。

唐木順三のような人が、もういなくなってしまった、と感じる。もともとの専門は哲学……京大で西田幾多郎の門下……これを出発点として、和漢、東西の古典に素養があり、それを背景にして、日本の古典、『万葉集』の昔から、平安、中世、近世、そして、近現代にまで、その評論の筆がおよぶ。

古くは、和辻哲郎や、新しいところでは、加藤周一、中村真一郎などが、このような仕事をしたことになろうか。今では、このようなスケールの大きな、評論家、文筆家というべき人がいなくなってしまっている。

これはおそらく、『文学』(岩波書店)がなくなってしまったことなどと、どこかでつながっていることなのだろうと思う。雑誌『国文学』もなくなってしまった。『言語生活』も『言語』もなくなってしまった。

時代の流れと嘆いてもしかたがないのだが、ともかく、このような時代の趨勢の中にいることだけは、自覚しておかなければならないと思う。そのことを踏まえたうえで、今の時代、これからの時代のことを考えて、唐木順三の仕事を再度、読み直しておきたいと思っている。

『無用者の系譜』については、あらためて。文学……広義の……文学、歴史、哲学、宗教……は、「無用」であっていいのではないか。あるいは、自らを「無用者」とする人びとは今いるのであろうか。今の時代、「文学」に社会的効用をもとめすぎていないだろうか。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月28日
『無用者の系譜』唐木順三(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/28/8628812