『白鯨』メルヴィル(その四)2017-05-18

2017-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月17日
『白鯨』メルヴィル(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/17/8562384

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

『白鯨』を読み終えて、やはり最後には、現代においてこの作品を読むとするならば、いったいどのように読めるか、ということを考えることになる。岩波文庫版の翻訳は、2004年時点のものである。この解説においては、たとえば次のようにある。

「アメリカはアフガンに侵入し、イラクにも多数の兵と武器をおくってなおも戦っているではないか。ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものとするいくらかキッチュな寓話として『白鯨』をよむ読み方もひらけてくる。」(pp.438-439)

としながらも、D.H.ロレンスの説をひいている。孫引きになるが、その箇所を引用すると、

「モービィ・ディックのことを「白色人種の最深奥に宿る血の実態、われわれの最深奥にある血の本質である」と看破した。」(p.439)

また、ロレンスは、こうも言っているという(これも孫引きになるが引用する)、

「メルヴィルは知っていた。彼の人種が滅ぶ運命にあることを彼は知っていた。彼の白人の魂が滅ぶこと、彼の白人の偉大な時代が滅ぶこと、理想主義が滅ぶこと、『精神』が滅ぶことを」(p.439)

そして、解説(八木敏雄)では、つぎのようにある、

「これをどう読むか。おそらく読者の頭の数ほどの読みがあるだろう。しかしし、『白鯨』はいかなる読みにもいささかもたじろぐことなく、これからも悠然と豊饒な言語の海を泳ぎつづけていくことだろう。『白鯨』は本質的にはアレゴリカルな作品である、しかも多重にアレゴリカルなそれなのである。」(pp.439-440)

「アレゴリー=寓意」の作品として、この『白鯨』をとらえている。しかも、それは、多重であるという。

だが、そうはいっても、この作品を現代の視点で読むならば、トランプのアメリカ、自国第一主義をかかげるアメリカ、その自国の権益を表象するものがモービィ・ディックではないのか……このような読み方もゆるされるであろう。

また、もちろん、この読み方は、数年後には、また別の解釈にとって変わられるにちがいない。この意味では、『白鯨』という小説は、常に、「アメリカ」を表象する小説でありつづけることになるのかもしれない。そして、「アメリカ」を表象するということは、ある意味では、今日の国際社会を表象することにもつながる。今の国際社会のありかたを、ピークオッド号になぞらえて考えて見ることも可能になる。

このように考えたとき、最後に、モービィ・ディックと共に海に沈んでしまうピークオッド号の宿命には、暗澹たるものを感じずにはおれない。

『白鯨』メルヴィル(その三)2017-05-17

2017-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月15日
『白鯨』メルヴィル(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/15/8559378

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

私が、この小説、岩波文庫版(三巻)を読みながら付箋をつけた箇所、それは、「日本」ということばについてである。この小説には、かなり「日本」の用例がひろえる。

岩波文庫版(三巻)には、各巻に、地図(ピークオッド号の航路)が掲載になっている。それを見ると、船は、アメリカ東海岸から出発して、大西洋を南下。いったん、南アメリカによったあと、アフリカ南端からインド洋にはいる。そして、日本をめざしている。日本近海から、さらに太平洋を南下して、最後には沈没する、という運命をたどる。

ここで思い出すのは、やはりペリーである。このブログでも以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2016年6月11日
ペリーはどうやって日本に来たのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/11/8108879

やまもも書斎記 2016年6月30日
西川武臣『ペリー来航』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/30/8121187

ここで言及した、ペリーの日本来航の航路と同じである。ただ、『白鯨』のピークオッド号は、捕鯨しながらなので南アメリカの方にも行っているが。すくなくとも、アメリカの西海岸から、太平洋をわたって日本にやってきたのではない。大西洋からインド洋を経て、日本をめざした。

そして、これは、歴史の教科書にも書いてあったこと……ペリーの日本にきた目的は、日本近海で捕鯨をする船についての保護であった、と憶えている。

まさに、そのとおり、アメリカから、モービィ・ディックを追って捕鯨の航海をつづける、ピークオッド号は、ほとんどペリーのとった航路をなぞるように、日本近海をめざしてやってきている。

『白鯨』の原著の刊行は、アメリカで、1851年のことと解説にはある。ペリーが日本にやってきたのは、1853年である。ほぼ、同時期といってよい。

なぜペリーは日本にきたのか。そのころ、アメリカの捕鯨はどんなものであったのか。どのような航路をとってクジラを追っていたのか。そのようなことが、この小説を読むと、それなりに理解されるという面がある。

小説の本筋とは関係のないことかもしれない。しかし、ペリーの日本来航は、日本史の大事件である。その背景にどのような事情があったのか、すこしでも、この小説を読むことによって理解できるのではないかと思う。

『白鯨』メルヴィル(その二)2017-05-15

2017-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月12日
『白鯨』メルヴィル
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/13/8556408

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

この作品の本題とは関係ないのだが、日本の視点からみて、気になったことをちょっと書いておきたい。何のために捕鯨をしていたのか、ということである。

私の世代(昭和30年生)であれば、鯨肉というのは、身近な食料であった。小学校の教科書などにも、日本は、南氷洋にまででかけていって捕鯨をしている国であることが、堂々と書かれていたと記憶する。

それが、今では、国際世論のなかで、日本の捕鯨はおいこまれている。

だが、19世紀、アメリカも捕鯨をしていた。その理由は、油(鯨油)をとるためである。肉を食料としたかどうかは、この小説『白鯨』ではさだかではない。ただ、作品中にクジラの肉を食べるシーンは出てはくる。

この作品中では、クジラについての蘊蓄が傾けられている。このような箇所を読んでも、捕鯨の主な目的は、食肉ではなく、油だったようである。油をとった後の、クジラ、その肉はどうしていたのだろうという気がするが、そのことについては、書いていない。

現在の日本の捕鯨は、窮地にたたされている。その観点から、かつてアメリカだって捕鯨をしていたではないか、と言えなくもない。だが、この小説をそのような材料につかうのは、文学の本筋からは離れた議論になるだろう。

とはいえ、捕鯨という行為が、かつては、アメリカなどを中心として行われたいたのであり、その目的は主として油をとるためであった、このことは、歴史的な事実として理解しておいた方がよいのではないかと思う。

捕鯨の文化史、社会史という観点から見ても、『白鯨』という小説は、価値のあるものである。

なお、むかし、若い時、『白鯨』を読んで(たしか昔の岩波文庫版だったと思う)、とにかく印象にのこっていたのが、捕獲したクジラから、油をとるシーンである。捕鯨といっても、肉をとるんじゃないのか、という感じで憶えていた。

『白鯨』メルヴィル2017-05-13

2017-05-13 當山日出夫(とうやまひでお)

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

この作品も、若い時読みかけて、途中で挫折したような記憶がある。あるいは、ひょっとすると最後まで読んだかもしれないが、もうすっかり忘れている。今回、岩波文庫版の新しい訳で、全三巻を読んでみた。

読んでみて……これは、面白い。だが、いったいこの小説の何が面白いのかとなると、その返答にこまるような小説である。ただの海洋冒険小説ではない(無論、そのように読むことのできる作品ではあるが。)白鯨(モービィ・ディック)は、何を表象しているのだろうか。それから、エイハブとはいったい何者か。ひたすらモービィ・ディックを追い掛けるその姿は、何を意味しているのか。

そして、作品中にふんだんに登場する、クジラについての蘊蓄。(これは、現在の研究の水準からすると、いくぶん問題もあるようであるが、その点は、この翻訳は、ちゃんと注がついている。)そもそも、クジラとは何者なのか。ただの捕鯨の対象というだけではない、海に生きる何かしらえたいのしれない生きもののようである。そして、何のために、こんな衒学的なクジラについての蘊蓄が延々と記述されているのか。

いや、その前にこれは、そもそも「小説」なのであろうか。確かに19世紀半ばに成立したこの作品は、近代文学としての小説という形式があって、そのうえになりたっていることはたしかなのであるが、しかし、語り手(イシュメール)は、単なる語り手でない。

また、その友となるクイークェグというのは、どう意味の存在なのであろうか。ただの航海、捕鯨の仲間ではない。終生の親友ともいえないようだ。クイークェグは、キリスト教徒ではない。白人(キリスト教徒)からすれば、異民族であり、異教徒である。そして、ふたりは、仲良く意気投合する以上の関係にあるようだ。イシュメールとクイークェグの人間関係も不可解な点が多い。

語り手である、イシュメールをふくめて、登場するものすべてが、何かしらの寓意をふくんだものとしてある。いったい何を表象しているのか。考えて見てもよくわからない。そして、この新しい岩波文庫版の解説をみても、寓意に満ちた小説であることは理解できるのだが、具体的に何を読みとるかということになると、読者にまかされているようである。

だが、寓意に満ちた小説は、そのまま読んでおけばよいのだと思う。そして、そこから、なにがしかのものを感じ取るところがあれば、それは、それとして、りっぱに文学として成り立っているのである。いや、この『白鯨』という小説は、下手な解釈を拒否して、ただその作品だけが屹立してなりたっているような感じさえする。

特に冒頭の章について、解説には、つぎのようにある。

「この冒頭の章は、『白鯨』が単なるイシュメールなる若者の個人的な成長と経験にかかわるビルドゥングスロマンでも、また単なる海洋冒険小説でもなく、全人類と全世界、いや全宇宙にもかかわり、さらにはアメリカそのものにもかかわる物語であるための基調をさだめる章でもある。」(p.437)

この小説を読んだ後、ああ読んだなという充足した読後感がある。と同時に、いったいこの物語は何なんだったんだろう、という疑念もいくぶん残る、そのような小説である。やはり、この作品が、世界文学のなかで名だたる名作として、読み継がれてきたのには、それなりの理由がある。そして、それは、いうまでもないことだが、自分の目で本を読んでみないことには、納得できないことである。全世界を表象するなにものかが、この小説のなかにはある。

とはいえ、若い時、この作品を読んであまり感心するところがなかったのも事実である。それほど、この作品のもつ寓意性というべきものは、いろんな解釈ができる。岩波文庫版の紹介文には「知的ごった煮」とある。この作品、ある程度の知的生活とでもいうべきものを経験した後でないと、そう簡単に分かるということはできないのかもしれない。

一般に文学というのは、ある程度年をとってから、読んでみて納得できるところのあるものでもあることを確認しておきたい。年をとってから文学を読む生活、というものもあってよい。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その六)2017-05-11

2017-05-11 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月10日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/10/8552184

この小説の本筋とは関係ないことだが気になったことなので、書き留めておくことにする。それは、アーカイブズということについてである。

アーカイブズは、何も公的な公文書だけが対象であるのではない。個人のもの、家のものもある……このようなことは、アーカイブズ学の入門書を読めば書いてある。だが、個人、家のアーカイブズといって、日本ではどうもいまひとつどんなものか想像できないでいた。たぶん、アルバムとか日記などをさしていうのだろうと思っていた。あるいは、江戸時代の古文書(商家などの)をいうのだろうかと思っていた。

だが、『ブッデンブローク家の人びと』を読むと、おそらくこれがこの家、ブデンブローク家のアーカイブズなんだな、という場面がいくつか登場する。家族に起こったできごと、出産、結婚、死亡などの記録を書き留めたものがある。なにか、家族にできごとがあったとき、その時の家の長であるもの(コンズル)が、それに記入する場面が、何度となく登場する。そして、そのアーカイブズは、代々にわたって引き継がれ、書き継がれていくものとしてある。

作中では、特に「アーカイブズ」の用語はつかっていない。しかし、アーカイブズ学の予備知識をもって読むと、これがこの家のアーカイブズなんだなと理解される。

たぶん、ヨーロッパの市民社会において、各家の記録をなにがしかの文書にしたためてまとめて保存しておくということが、一般的になされていたのであろう。

このようなこと、小説の本筋とは関係がない。しかし、近代のヨーロッパ市民社会において、どのようにその一族が形成されていったのか、という観点からは、この家のアーカイブズの存在は意味のあるものだと思う。

なお、今般、デジタルアーカイブ学会ができる。ここに期待するところ、私としては少なからずある。といって、もう会員になって頑張ろうという気にはならないでいるのだが。静かに見守っていきたい。ただ、一言いっておけば、この近年の傾向……デジタルアーカイブの推進のなかにおいて、旧来の伝統的な紙資料、文書をあつかうアーカイブズ学への、リスペクトが必須であると思っている。

このような観点から、西欧近代社会におけるアーカイブズというものを、再度、日本においてもふりかえってみる必要があると感じている。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)2017-05-10

2017-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月8日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/08/8548850

トーマス・マン.望月市恵訳.『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

本を読みながら、付箋をつけた箇所についていささか。

この小説は、19世紀ドイツの「市民」の小説である。それは、ある意味では、貴族に対する意味でもちいられる。たとえば次のような箇所、

「ある人間は、生まれたときから選ばれた人間で、貴族の家に生まれ、……ぼくたちを軽蔑して見下すことができ、……ぼくたちはどんなに能力があっても、貴族にはなれないんですか?……」(上巻 p.197)

「ぼくたち庶民階級の者、今までぼくたちが呼ばれてきた第三階級の者は、地上の功績による貴族だけが存在するようにと要求し、怠惰な貴族を認めず、現在の階級の差を否定します。……すべての人間が自由であり平等であって、だれも特定の人間に従属することなく、すべての人間が法律にのみ従属していることを要求します!」(上巻 p.198)

ここで、いわれてる庶民、第三階級というのは、いわゆるブルジョアといっていいのだろう。富裕な都市市民階層である。この小説の基調をなしているのは、この市民階層の自覚である。

そして、この階層の人びとがもとめるのは、「自由」である。

「「自由を」とモルテンは言った。
「自由を」とトーニは聞き返した。」(上巻 p.202)

だが、その市民階層の繁栄も、今後永遠につづくことを予期しているというわけではないようだ。結果的には、この小説は、一族の没落を描くことになるのだが、それが象徴的に言及されている箇所。

「表面に現れるシンボルは、現れるのに時間がかかるんだよ、空のあの星のようにね。最も明かるそうに光っているときは、ほんとうはもう消えかかっているんじゃないか、もう消えてしまっているんじゃないか、ぼくたちにはわからないよ。……」(中巻 p.266)

このような箇所を読むならば、一族……市民階層……の没落というのは、歴史の宿命のようなものであり、それが光かがやいていると思われるのは、すでにそれが滅亡へとむかっているときなのである、このようなメッセージを読みとることもできるだろうか。貴族に対抗するものとして、市民社会の勃興ということはあったかもしれないが、それは、すでに滅びを内蔵しているものである。この文庫版の解説にしたがえば、だからこそ、この小説は、市民社会の白鳥の歌として読まれることになった。

第一次世界大戦以前のドイツの市民社会の繁栄、それを、われわれはもう体験としては知らない。だが、その喪失感というものは、憧憬をふくんだ哀惜の念とともに、共感できるものである。われわれの世界がすでに失ってしまった、ある社会があったことの喪失の物語として、この小説は、二十一世紀の今日においても、まだ、読まれ続けていく価値のある作品であると思うのである。

追記 2017-05-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月11日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/11/8553926

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)2017-05-08

2017-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月6日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/06/8545571

トーマス・マン.望月市恵(訳).『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

この小説を読んでいて気になったことをちょとだけ。

第一は、「コンズル」ということばについてである。読み始めて、最初のうちは、このことばは固有名詞(人名)だと思っていたが、そうではない。読んでいくと、「コンズル」といわれる人物がたくさん出てくる。そのうちで、もっとも頻繁に出てくるのが、この小説の一族の長としてではあるが。

ジャパン・ナレッジで「コンズル」を検索してみた。すると、

男性名詞
1.領事
2.(古代ローマの)執政官
ポケットプログレッシブ独和辞典

とある。「領事」とあるだけではよく分からないのだが、読んでいくと、当時の「市民社会」において、一定の地位にあることをしめす称号のように読み取れる。

このことば、この『ブッデンブローク家の人びと』という小説を理解するうえでは、きわめて重要なことばだと思うのだが、なぜか、訳注とか、解説とかはない。たぶん、今、この小説を翻訳するならば、丁寧な注か解説をつけるべきことばになるだろう。

この本(翻訳、岩波文庫)の出た当時であれば、この程度のドイツ語は、一般教養として知っているということが前提であったのかもしれない。

第二は、「舌鼓」の用例である。

やまもも書斎記 2017年4月22日
「舌鼓」は「したつづみ」か「したづつみ」か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/22/8496134

このことばが、『ブッデンブローク家の人びと』の翻訳文中にも登場する。

上巻、p.236

下巻、p.54

に、「舌鼓」の漢字に「したづつみ」と振り仮名がある。

だからといって、「したづつみ」の方が正しいと主張するつもりはない。両方の語形が行われているなかで、その片方「したづつみ」の使用例として、あげて記録にとどめておきたいのである。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)2017-05-06

2017-05-06 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月5日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/05/8543812

ようやく三冊を読み終わったので、まとめての感想などいささか。

この『ブッデンブローク家の人びと』と、『楡家の人びと』との関連については、さんざん書かれていることであろうから、特につけたすほどのこともないと思う。作中の登場人物でいえば、トーマス、ハンノ、クリスチアン、それから、トーニ……これらの登場人物は、徹吉、周二、米国(よねくに)、桃子、龍子、などの人物に重なって理解されることになるであろうか。特に、モデルとしたということではなく、なんとなく、ああこの人物のことを思うかべるなあ、という印象をいだいて読むことになる、という程度の意味においてであるが。

時間の関係だけ確認しておくならば、『ブッデンブローク家の人びと』が刊行されたのは、1901年。第一次世界大戦の始まりは、1914年である。(岩波文庫版の年譜による。)

だから、第一次世界大戦の結果をうけて、書かれたという本ではない。しかし、内容的には、第一次世界大戦より前の人びとの暮らし、それも、ドイツにおける上層の市民生活というべきものを描いていると読める。意図してそうなったことではないのかもしれないが、結果的に、(昨日書いたように)失ってしまったものへの哀惜の念に満ちた小説として読まれることになった、そう理解していいだろう。

このことを岩波文庫版の解説では、次のようにある、

「しかし、マンが考えなかったのは、「ブッデンブローク家の人びと」が市民時代の白鳥の歌であったことであった。「ブッデンブローク家の人びと」がイギリスの、フランスの若者のこころを打ったのは、市民時代の終わりの歌である点であった。市民時代のあとにつづくものが、帝国主義であるか、それとも、労働者階級の凱歌であるか、それは今でも決定していない。二十世紀が終わるまでには、市民時代につづく時代は、決定しないかもしれない。」(p.365)

そして、今は二十一世紀をむかえている。この解説が書かれたのは、昭和44年(1969年)である。まだ、東西冷戦のまっただなかの時代。その後、ベルリンの壁の崩壊があり、二十一世紀になって、この国際社会のゆくえは、不透明さをますばかりである。このような時代にあって、なおこの小説が読まれ続けるとするならば、まさに、この小説が描いたような「市民」の時代があった、そして、それを、二度の大戦で失い、その後の歴史的激変のなかで、ゆくえさだめぬ日々をくらすわれわれにとって、なにかしら郷愁……失ったものへの憧憬をふくんだ哀惜の念……を感じるからにほかならないであろう。

もちろん、このように考えなくても、この小説は、それ自体として非常に面白い。全編にわたってユーモアにみちており、ある時代のある一族の盛衰を描いた作品として、読むに値する。また、『トニオ・クレーゲル』にみられるような、芸術家というものを、どこか冷めた目で見る視点を提供してくれるものとして、この作品はある。

この小説は、ある一族の没落の物語である。ただ、衰退するというだけではなく、最後には、芸術……ハンノは音楽に特異な才能をしめしている……が、残る。だが、芸術が何になるというのであろうか。トーマス・マンは、自身のことを芸術家と思っていたかもしれないが、しかし、芸術至上主義の立場をとってはいない。このことは、むしろ『トニオ・クレーゲル』を読むことによって感じる。

芸術と、市民社会の健全な一員であることは両立しないのであろうか。この問いは、今日、二十一世紀の今になっても、答えの出ている問題ではない。しかし、芸術とは何か、芸術家は社会にとっていかなる存在であるのか、それを考える視点を、この小説は提示している。

ともあれ、私は、この作品を、19世紀のドイツにおける市民社会を描いた作品、そして、それは、われわれがもう失ってしまったものである、このように理解して読んでおきたいと思う。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その二)2017-05-05

2017-05-05 當山日出夫

つづきである。

やまもも書斎記 2017年5月4日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/04/8523322

岩波文庫版で三冊。今、その三冊目を読んでいる。

まず、昔読みかけた本を再読してみようとして、『魔の山』(トーマス・マン)を読んだ。すると、北杜夫が読みたくなって、『楡家の人びと』を読んだ。そうすると、そのもとになったとされる作品、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を読んでおきたくなった。この本も、若いときに読みかけたことのある本であるが、途中で挫折してしまった。

こんなに面白い小説であったのかと思う。そして、ある意味、これが、高校生、あるいは、大学生ぐらいの時にわからなくても、いたしかたないかなという気もしている。ちょっとなじみのないドイツ語の固有名詞、それから、当時の、上流階層の市民生活、そして、ドイツならではの生活習慣とか社会制度とか、ある程度のことがわかっていないと、この作品の世界に入っていけない。だが、一度、この作品世界にはいってしまうと、あとは一気に読んでしまうことになる。

とにかく、登場人物が個性的で面白い。特に、トーニという女性。このことについては、昨日書いた。それから、トーマスも。実直な実業家という設定であるが、どことなく滑稽な人生でもある。

では、なぜ、作者は、一族の没落を描いているのであろうか。その隆盛ではなく。

たぶん、それは、ある価値、生活、についての「喪失感」なのではないだろうかと思う。この作品は、たしかに、歴史的な大河ドラマのような小説であると同時に、全編に、ユーモアがある。だが、この小説が書かれたときには、小説に描かれたような生活が、もはや過去の失われてしまったものになった時から、回想して書いていることになる。そこにあるのは、かつてあったもの、生活、社会への憧れをふくんだ喪失感でしかありえないだろう。

この意味で、思い浮かぶのは、『細雪』である。谷崎潤一郎の『細雪』について、内田樹は、失ってしまったものへの哀惜の念に満ちた小説であるという意味の判断をしていた。私は、これに深く同意する。

やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499

『ブッデンブローク家の人びと』は、『細雪」とはずいぶん傾向が異なる。しかし、かつてあった生活、社会への憧憬をふくんだ喪失感という意味では、共通するものがあるようにも感じる。しかも、それは、戦争……第一次世界大戦であり、また、太平洋戦争である……をはさんで、かつてあったものへの喪失感といってもよい。

第一次世界大戦の前のドイツの市民(しかも上流の)について、実際に知っているわけではない。同様に、太平洋戦争前の阪神間の中流の生活についても、知らない。しかし、ともに、それらが失われてしまったものである、という点においては、共通している。

歴史の流れのなかで失われてしまったものへの哀惜の念、この点においては、『ブッデンブローク家の人びと』と『細雪』は共通する。おそらく、一般には、『楡家の人びと』と比較されることが多いであろう。私も、そのつもりで読んだ。たしかに、北杜夫は『楡家の人びと』を書くにあたって、『ブッデンブローク家の人びと』にならって書いている。

だが、今、私が感じるのは、むしろ『細雪』との共通性の方である。大きな歴史の流れのなかにあって、ある生活とその生活の感覚が失われてしまった、そのことの喪失感という点において、これらの文学作品は、我々に共感をよびおこす。では、現代、二一世紀のわれわれにとって、失ってしまったものとはなんであろうか。ふとそのようなことを思ってみたりもする。

追記
この文章を書いてから、ようやく全巻を読み終わった。一族は、没落するのであるが、基本的に、私のこの作品についての感覚……喪失してしまったものへの哀惜の念……ということはかわらない。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン2017-05-04

2017-05-04 當山日出夫

トーマス・マン.望月市恵訳.『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

北杜夫の『楡家の人びと』を読んだら、この本が読みたくなった。いや、この本は、若いときに手にした経験がある。だが、途中で(最初の方で)挫折してしまったような記憶がある。

たぶん、あまりなじみのないドイツ語の固有名詞(特に人名など)が、たくさん出てくるし、登場人物の関係が、その人名だけからはわかりにくい。

今、この歳になってもう一度読んでみたくなった。今は、第三巻目である。

今回、読み返してみて、こんなに面白い小説だったのか、と認識をあらたにした。『楡家の人びと』を面白く読むことのできる読者なら、この『ブッデンブローク家の人びと』も面白く読めるにちがいない。ただ、最初は、やはりとりつきにくいところのある小説ではある。

この小説については、いろいろ言えるだろうが、ここでまず書いておきたいのは登場人物……トーニ……のことである。

若いころ、学生のころ、日本文学、世界の文学の中で、どのような人物が魅力的か、特に、どの女性が好きか、というようなことを話した記憶がある。そのころの私の読書の範囲内でいえば、『罪と罰』のソーニャとか、『それから」の三千代とか、『片恋』のアーシャとか、思い浮かんだものである。

もし、その時に『ブッデンブローク家の人びと』を読んでいたら、文句なしにトーニの名前をあげたにちがいない。

それほど、この女性は、魅力的である。いや、魅力的、といったのでは十分ではない。特異な個性、ある種の傍若無人ぶりがありながらも、かわいく、にくめない性格。あくまでも人生を肯定的に生きていく。おそらく、この小説のなかで、もっとも個性的で魅力的な登場人物はといわれれば、このトーニということになるにちがいない。

そして、このトーニの人物造形をどことなく引き継いでいるのが『楡家の人びと』の龍子と桃子というふうに理解していいのだろう。似ているというわけではないのだが、作品を牽引していく個性的人物、それも女性として、この存在は大きい。たぶん、北杜夫も、このトーニをかなり意識して、書いたにちがいないだろうと推測される。

小説を読むということ、文学作品にふれるということ……今では、もう、あまりはやらなくなってしまったことかもしれない。だが、ある程度歳をとってしまってから、昔、手にした小説を再び読んで、ああ、こんな人物がいるんだ、と面白く思えるというのも、この世の楽しみの一つであろう。

魅力的な登場人物にであえる楽しみ、それこそ、小説を読むことの醍醐味にほかならないともいえよう。

この作品について書きたいことは、まだあるが、それはまた改めて。読み終えてからのことにしたい。

追記 2017-05-05
このつづきは
やまもも書斎記 2017年5月5日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/05/8543812