『原民喜』梯久美子2018-08-11

2018-08-11 當山日出夫(とうやまひでお)

原民喜

梯久美子.『原民喜』(岩波新書).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b371357.html

梯久美子の本では、『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』を読んだ。もう去年のことになるだろうか。

梯久美子.『狂うひと-「死の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/477402/

特に読み比べる気はないのだが、強いて比較するならば、『狂うひと』の方が、評伝としては、はるかに面白い。重厚でもある。それに比べると、新書本という形式にもよるのだろうが、どうも、人物像への掘り下げ方が浅い気がしてならない。

とはいえ、原民喜といえば、『夏の花』に代表される、原爆の作家というイメージが定着している……まあ、私などはそう思っているのだが……ところに、その生いたち、特に少年時代、文学少年、文学青年というべき時期のことが、書いてあってこれは興味深いものであった。

原民喜は、本来は多感な抒情詩人なのである……このように理解していいのかもしれない。

それから、この評伝は、その死……自死……の時のことかから書き起こされている。

「死の側から照らされたときに初めて、その人の輪郭がくっきりと浮かび上がることがある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった。」(p.14)

だが、この評伝において、なぜ、彼がそのような死をとげることになったのか、ここのところには踏み込んでいない。しかし、その最期のときのことから書き起こすことによって、死とともにあった原民喜という作家の輪郭がはっきりしてくることは確かである。

それから、この評伝を読んでいって印象的なのが、『鎮魂歌』である。この作品にふれて、著者(梯久美子)はこう書いている。

「「夏の花」で抑制的に描かれた原爆の死者たちは、ここでは原自身の魂に突き刺さり、存在を根底から揺さぶるものとして、饒舌に語られる。」(p.226)

『鎮魂歌』は、昭和二四年である。(『夏の花』は、昭和二〇年のうちに書かれている。)

原爆の被災についての、怒り、悲しみ、といった感情が、文学的に形をとるまでには、数年の歳月を要したということなのであろう。逆に言えば、その直後には、怒りや悲しみなどの感情は、極度に抑えられている(『夏の花』)。

『夏の花』を読んだ印象で、『鎮魂歌』に接するとき、原爆の悲劇の大きさというものを、再確認することになる。

ともあれ、原爆文学(このような言い方がいいのかどうかわからないが)としての原民喜のみではなく、極めて繊細な感性を持った抒情詩人としての原民喜という側面のあったことを、この評伝は教えてくれる。

『夏の花』原民喜2018-08-10

2018-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

夏の花

原民喜.『小説集 夏の花』(岩波文庫).岩波書店.1988
https://www.iwanami.co.jp/book/b248818.html

原民喜の名前は知っていた。それを、最近、再び目にしたのは、『羊と鋼の森』(宮下奈都)においてである。

やまもも書斎記 2018年6月22日
『羊と鋼の森』宮下奈都
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/22/8900199

この作品中に、原民喜への言及がある。まず、そこを引用しておきたい。

「外村君は、原民喜を知っていますか」
 原民喜。聞いたことはある気がする。調律師ではなかったと思う。演奏家だろうか。
「その人がこう言っています」
板鳥さんは小さく咳払いをした。
「明るく静かに懐かしい文体。少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
(p.65)

また、最近出た本として、

梯久美子.『原民喜』(岩波新書).岩波書店.2018

がある。

梯久美子については、『狂うひと』を読んだ。

梯久美子.『狂うひと-「誌の棘」の妻・島尾ミホ-』.新潮社.2016

この本がよかったので(まだ、ブログには書いていないが)、岩波新書の方も読んでみることにした。で、その前に、まず、原民喜の作品を読んでおきたいと思った。岩波文庫で二冊出ている。『小説集 夏の花』と『原民喜全詩集』である。

「夏の花」についていえば、名前は知っていたが、まだ読んでいない作品であった。概要として、広島の原爆のことを描いた作品であることは知ってはいた。その作品を実際に読んでみての印象としては……「夏の花」は、きわめて硬質の叙情性を持った作品である、ということである。

この作品は、昭和二〇年のうちに書かれている。広島の原爆の記憶の生々しいころである。その時点において、いわゆる私小説のスタイルで、その被災の様子を綴ってある。描かれている被災の状況は、きわめて悲惨である。だが、それを書いている著者の目は、冷徹でもある。そして、文章の背後に、なにかしら透徹した叙情性のようなものを感じてしまう。

原爆の被災という、この世における極限状況を描いた作品である。凄惨な場面も出てくる。だが、それを描写する著者のまなざしは、きわめて冷静である。

このような読み方は、間違っているだろうか。

原民喜は、詩人でもあった。若いころより小説を書いている。(このあたりの事情については、梯久美子の『原民喜』に詳しい。)私小説という枠組みがあり、詩人であり、そして、極度に精神のはりつめた状態で書かれた作品である。昭和二〇年のうちという、その体験が体の中に生きている間に書かれた作品は、原爆への怒りや悲しみという感情をまだ形成していない。それが、現れるようになるのは、もうすこし時間がたってからのことになる。被災直後の筆者の眼は、冷静な観察者のものであり、それと同時に、抒情詩人としての資質が、ギリギリのところまで抑制しているにもかかわらず、にじみ出ているのだと感じる。

『男だけの世界』ヘミングウェイ2018-08-06

2018-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)

ヘミングウェイ全短編1

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『われらの時代・男だけの世界-ヘミングウェイ全短編1-』(新潮文庫).新潮社.1995
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/

この文庫本には、二つの短篇集が収録されている。『われらの時代』については、先に書いた。

やまもも書斎記 2018年8月4日
『われらの時代』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/04/8933241

今回は、『男だけの世界』についてである。『われらの時代』から続けて読んだ。読んだ印象としては、この短篇集は、冒険的……小説の作り方として……であると言っていいだろうか。

『われらの時代』が、短編小説、短編小説集という文学の形式に、きちんとのっとって書かれているのに対して、『男だけの世界』は、様々な小説の書き方を工夫しているように読めた。いろんなタイプの作品が、いわば実験的とでも言っていいように配列されている。

そして、全体の短篇集としてつらぬいているのは、タイトル『男だけの世界』に表されている、まさに「男の世界」である。そして、印象的なのは、淡々とした情景描写、あるいは、会話からかもしだされる、登場人物の深い心情とでもいうべきもの。

今日の視点から評価するなら、ハードボイルドということばがぴったりである。だが、これも、ヘミングウェイの作品を理解するには、ふさわしいことばではないのかもしれない。逆に、今日の我々が、ハードボイルドという文学の形式をすでに有しているが故に、かつてのヘミングウェイの作品に、それを感じ取って読んでしまう、このような関係にあると言った方がいいだろう。

短編小説、短編小説集という文学の形式に対して、貪欲であった作者の意図を感じて読んだのである。これが、文学史的に了解される読み方なかのかどうか、英米文学の門外漢には専門的知識がないのだが、少なくとも、新潮文庫版でヘミングウェイの短篇を読んでいって感じるのは、今日のわれわれの文学観の形成に、ヘミングウェイが大きく寄与している。その結果にいる今日の視点から、読んで文学的感銘を受ける作品群である、ということである。

文庫本の第二冊以降を、順次、読んでいくことにしたい。ヘミングウェイの作品には、人生の充実と、逆に、虚無と、相反するものがあるように感じる。それがこの後の作品でどう展開されることになるか、考えながら読んでみたい。

『われらの時代』ヘミングウェイ2018-08-04

2018-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)

ヘミングウェイ全短編1

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『われらの時代・男だけの世界-ヘミングウェイ全短編1-』(新潮文庫).新潮社.1995
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/

ヘミングウェイの主な長編、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』を読んだ。『老人と海』も読んだ。これらについては、このブログに書いてきた。次に読んでおこうと思ったのは、短篇集である。ヘミングウェイは、むしろ短編作家としての評価の方が高いのかもしれない。

まずは、新潮文庫の「ヘミングウェイ全短編1」から読むことにした。この本には、二つの短篇集が収められている。「われらの時代」と「男だけの世界」である。まずは、「われらの時代」から。

文庫本の解題によると、この短篇集は、ヘミングウェイがパリ滞在の時期に書かれたものらしい。そして、この短篇集で、ヘミングウェイは、作家として世に出ることになった。

読んで感じることを記せば、次の二点になる。

第一は、短篇小説という文学の形式が確立していて、それを使っての文学である、ということ。

私も年をとってきて、昔読んだ小説など読みなおしたりしているのだが、その中で、短編小説という文学の形式の成立が、新しいことを改めて知った。19世紀になってから。例えば、モーパッサンなどが、短編小説という文学の形式の確立に大きくかかわっている。(このあたりの詳しい経緯については、西欧近代文学の専攻というわけではないので、概略しか知らないのだが。)

ともあれ、「われらの時代」を読んで感じることは、短編小説という文学の形式を十分に駆使して書かれている。個々の短篇の作品としての完成度も高いが、短編小説集という形式でも、確固たるものになっている。

第二は、これは、個人的な思い出なのだが……この「われらの時代」に収められている作品については、高校生ぐらいのときに、英語の勉強で、参考書か何かで読んだ記憶がある。高校生でも読める程度の、いわば比較的やさしい単語で書かれている。構文も難しくはない。

だが、使われている単語・構文がそう難しいものではないということと、書かれていることの文学的感銘とはまた別である。いわゆる「ハード・ボイルド」というスタイルの文学と言ってもよいだろうか。特に、ニックを主人公とした作品のいくつかは、主人公視点で、きわめて簡潔で無駄の無い文章であり、余計な感情表現などがない。硬質な文体と言っていいかもしれない。

このような硬質な文体の新しさ……これは、今日の文学では珍しいものではないかもしれないが、「われらの時代」が書かれたのは、1920年代である。日本でいえば、大正時代になる。芥川などと同時代とみてさしつかえないだろうか。

軽々に日本文学の同時代の作品との比較はすべきではないのかもしれないが、近代文学というものは、19世紀以降、日本でいえば明治維新以降、世界的視野で考えることも、また、それなりの興味のあることである。

以上の二点が、「われらの時代」を読んで感じるところである。

短編小説という文学の形式、主人公視点の簡潔な文体……これらについては、現代の我々の視点だから言えることかもしれない。そのような文学が書かれ、読まれてきた歴史があって、今日の我々の文学観というものがある。その形成に、ヘミングウェイの特に短篇は、大きくかかわっていることを感じる。

ヘミングウェイの短篇は、新潮文庫版で、三冊になっている。順次、読んでいこうと思っている。

追記 2018-08-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月6日
『男だけの世界』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/06/8934764

『老人と海』ヘミングウェイ2018-07-30

2018-07-30 當山日出夫(とうやまひでお)

老人と海

ヘミングウェイ.福田恆存(訳).『老人と海』(新潮文庫).新潮社.1966 (2003.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/210004/

世界文学の読み直し。今日は、『老人と海』である。最初、この作品を読んだのは、高校生のころだったろうか。その当時の新潮文庫版で読んだかと覚えている。今回、改版されて新しくなっている新潮文庫版で再読してみた。

昔、読んだときの印象として覚えていることは……老人が、苦労して海に出て魚を釣って、そして、港へ帰る途中でサメに食べられてしまう話し……このように記憶していた。読み返してみて、その大筋の印象にかわりはない。

とはいえ、何十年ぶりかに再読してみて感じることとしては、文章の簡潔さの魅力。そして、自然描写の確かさ。主人公である老漁師の視点で描いてある、その硬質な語り口。これは、多分に福田恆存の訳文の影響もあるのだろうが。

この文庫本の解題を書いているのは、訳した福田恆存である。福田恆存は、アメリカ文学というものを、そもそも高く評価するところがなかった。が、この作品は、その中にあって、特筆すべきものであると論じている。

ヨーロッパ諸国のような、古代・中世からの「伝統」に根ざした文学、それを、新しい国であるアメリカに求めるのは、無理というものかもしれない。保守主義者である福田恆存としては、そう考えることになるのであろう。時間の原理の上にあるヨーロッパ文学に対して、空間の原理の上になりたつアメリカ文学、このようなことを解説で書いている。

だが、この『老人と海』を読んで、私が感じるのは、文学・文化の伝統(時間)であるよりも、自然(空間)と人間である。その自然と人間の営みは、時間的に遙か昔から続いてきたものであり、それを作品のなかに感じる。自然と人間を描いた文学、それは、時間の文学である……このような観点から見るならば、『老人と海』は、傑出した作品であるといえよう。

この作品で描かれた自然……海……は、暴力的ではない。しかし、微温的でもない。ただ、厳然として人間の前にある。そのなかで、人間は、その営み……漁……をなす。しかし、必ずしも成功するとは限らない。が、海で暮らす漁師である老人にとっては、海に出て漁をする以外の生き方はあり得ない。厳然たる自然と、そのもとにある人間。その人間も、決して自然の前に卑小になってはいない。かといって、尊大にもならない。ただ、海とともに生活がある。

人間の前で猛威をふるう自然を描くのではない。人間を温かに見守るような自然でもない。ただ海があり、そこに暮らす漁師の生活があるのみである。過酷ではあるかもしれないが、それ以外の生き方はありえない。その暮らしは、豊かとはいえないかもしれなが、逆に、悲惨というわけでもない。ある意味では、きわめて充実した生活であるともいえようか。ここには、自然とともにあるストイックな人間像が描き出されている。

この作品は、世界文学の中で名作として読み継がれていくだろう。

『三人姉妹』チェーホフ2018-07-21

2018-07-21 當山日出夫(とうやまひでお)

三人姉妹

チェーホフ.神西清(訳).『桜の園・三人姉妹』(新潮文庫).新潮社.1967(2011.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206501/

これまで、チェーホフの戯曲について書いたものは、

やまもも書斎記 2018年7月9日
『かもめ』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/09/8912315

やまもも書斎記 2018年7月16日
『ワーニャ伯父さん』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/16/8918134

チェーホフの戯曲を、順番に読んでいっている。『桜の園』『三人姉妹』は、この順で文庫本に収められているのだが、発表順からいうと、『三人姉妹』の方がはやいので、こちらから書くことにする。

この作品も、若い時に読んでいるはずの作品であるが、もう、今ではさっぱり忘れてしまっていた。ここで、チェーホフの戯曲を順番に読んでいくことにして、『三人姉妹』も数回は、読み返してみただろうか。とにかく、後の作品になるほど、人物関係が入り組んでくるので、一読しただけでは、登場人物の関係がわからない。

複雑な人間関係があり、また、ナターシャ(アンドレイの妻)の幕を追うごとに変貌していく姿、これらの描写を背景にして、やはりこの作品でも、生きていくことへの意思が、強く表現されている。

それは、最後の、オーリガの台詞、

(楽隊の音を聞いて)あれを聞いていると、生きて行きたいと思うわ! まあ、どうだろう! やがて時がたつと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹(きょうだい)だったかということも、みんな忘れられてしまう。でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変って、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。そして、現在こうして生きている人たちを、なつかしく思いだして、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きて行きましょうよ!(以下略)」(pp.272-273)

このように最終的には将来に生きていくことへの賛美でおわる。だが、それにいたる筋道は、ストレートではない。ヴェルシーニンとトゥーゼンバフのやりとりに見られるような、逆に、未来への懐疑とでもいうべき考え方をふまえている。作者(チェーホフ)は、最終的に、オーリガに未来への希望を語らせているが、そこにいたるまでには、紆余曲折がある。

短い作品であるが、この作品のなかには、いくつかの人生が凝縮してある。アンドレイとその妻(ナターシャ)の関係、また、三人姉妹のそれぞれの恋の物語。台詞のひとつひとつが、人生を語る重みを持って感じることができる。時として、それは人生に懐疑的であったりもする。人間観察のするどさというべきものを、随所に感じる。登場人物の幾人かは、人生の敗残者とでもいうべき姿をしめしている。

このような作品が、やはり若い時……学生のころ……共感するところが無かったのは、いたしかたのないことかもしれないと、今になって思う。だが、ようやくこのような作品を読んで、感じ入ることのできる年齢、境遇になったと、我ながら思う。文学を読む楽しみである。

『日はまた昇る』ヘミングウェイ2018-07-20

2018-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

日はまた昇る

ヘミングウェイ.高見浩(訳).『日はまた昇る』(新潮文庫).新潮社.2003
http://www.shinchosha.co.jp/book/210013/

世界文学の再読。『日はまた昇る』である。読んだのは、半年ほど前になる。それより前に、若い頃、読んでいたかどうかも、はっきり覚えていない。

この作品、傑作であることは分かるのだが、どこがどうとなるととたんにことばにつまる。どう言っていいか分からなくなる。ただ、小説を読んでいる時間の雰囲気、気分だけが残ると言っていいだろうか。

小説の主な舞台は、フランスのパリ、それから、スペイン。ただ、「今日」「今」だけに刹那的に生きる、幾人かの物語である。読み終わっても、そのストーリーに感銘をうけるという作品ではない。しかし、読んでいるときの、なんとなくけだるい感覚のようなものだけが残る。

おそらく、歴史的には、この小説に描かれているような世界に、非常に共感する時代があり、その世代の人びとがいたということは、確かなことであろう。確かに、この作品は、ある時代、世代の人びとの感覚を、ただその生活の感覚だけをたどって描いている。

読みながら付箋をつけておいた箇所を引用してみると、

「すると、もちろん、ぼくはまたみじめな気持ちに突き落とされた。昼間なら、何につけ無感動(ハード・ボイルド)をきめこむのは造作もないことだ。が、夜になると、そうはいかなかった。」(p.68)

「おまえさんは祖国放棄者だ、で、もう祖国の土の感触もわからない。なのに、えばりくさっている。まがいもののヨーロッパの価値観にすっかり毒されちまっている。」(p.213)

ヘミングウェイの作品は、他に読んだものとしては、長編では、

やまもも書斎記 2018年5月14日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/14/8850880

やまもも書斎記 2018年6月4日
『武器よさらば』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/04/8868453

がある。読んでいって、まぎれもなく『日はまた昇る』は傑作であると感じる。この作品は、確かに、ある時代のある人びとの人生を描き出すことに成功している。他の、ヘミングウェイの作品、短篇など、読んだ上でこの作品は、さらに読みなおしておきたいと感じる。

『ワーニャ伯父さん』チェーホフ2018-07-16

2018-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

かもめ

チェーホフ.神西清(訳).『かもめ・ワーニャ伯父さん』(新潮文庫).新潮社.1967(2004.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206502/

今日は、『ワーニャ伯父さん』である。チェーホフの著名な四戯曲では、二番目になる。新潮文庫版では、『かもめ』と同じ巻にいれてある。『かもめ』については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2018年7月9日
『かもめ』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/09/8912315

この作品については、ラストの次の台詞を引用しておきたい。

「ソーニャ でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。(以下、略)」(p.238)

ちょっと長めの台詞であるが、この台詞の中に、この作品の語らんとしていることが、凝縮されてある。最後のこの台詞になって、ようやく、このドラマが終わるという感慨をもって読み終えることができる。

このようなチェーホフの作品、特に戯曲で端的に表されている、人生に対する賛美の念……これが、若いときにはわからなかったといってよい。『ワーニャ伯父さん』も、若い時に、古い新潮文庫版で読んだかと覚えているのだが、特に、ここの台詞が記憶に残っているということはない。強いていえば、それがまさに若い時の読書というものであったのかもしれない、と今になって感じる。(若いころは、ロシア文学といえば、ドストエフスキーというような感じで本を読んでいた。)

私も、この年になって、チェーホフの作品を再読してみて、『かもめ』の「忍耐」、そして、『ワーニャ伯父さん』の、この生きることへの意思、これにつよく感銘をうける。そろそろ夏休みになる。残りの戯曲『桜の園』『三人姉妹』も、順番に読んでおきたいと思う。どれも四幕の、比較的短い作品である。ちょっと時間のとれるときに、じっくりと味わって読んでおきたいと思っている。

追記 2018-07-21
この続きは、
やままもも書斎記 2018年7月16日
『三人姉妹』チェーホフ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/21/8922202

『城』カフカ(その三)2018-07-14

2018-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

城

続きである。
やまもも書斎記 2018年7月13日
『城』カフカ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/13/8914796

カフカ.前田敬作(訳).『城』(新潮文庫).新潮社.1971(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/207102/

さらに、読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「彼女の視線は、いつものように冷たく、澄んでいて、すこしも動かなかった。それは、自分が観察する対象にまともに向けられず、わずかばかり、ほとんど気づかないほどだが、それでもまぎれもなく対象のそばを素通りしているのだった。見られているほうでは、そにひどくこころを乱された。こういう視線になる原因は、元気がないからでも、当惑や無礼のせいでもなく、たえず他のどんな感情にもまして孤独をつよく望んでいるためであるようにおもえた。」(p.337)

しかし、これにつづけて次のようにもある。

「といって、この視線そのものは、けっしていやらしいものではなく、うちとけはしないものの、率直さにみちていた。」(p.338)

寓意に満ちたこの作品に下手に解釈を加えるものではないと思う。だが、上記のような箇所を読むと、現代における「孤独」というものの本質をついているように感じる。絶望的に孤独でしかありえないような、人間存在の深い淵をのぞきこんでいるような描写である。ここには、「孤独」を楽しむというような、いわゆる近代の憂愁とでもいうべきものは、もはやまったくない。そこには、不気味な絶望感を感じる。しかし、だからといって、そこに悪意を感じることはない。嫌悪してはいない。ただ、孤独な人間のあり方を語っているだけである。その語り口は、むしろ素直ですらある。淡々と絶望的な孤独を語っている。

交わることのない視線。しかし、それは率直なものでもある。このような孤独な視線を一世紀以上も前に描きえた、カフカという作家の文学的想像力に敬服するばかりである。

おそらく、文学史的には、その当時のチェコスロバキアにおけるドイツ系ユダヤ人としての、アイデンティティーの喪失、社会からの疎外感、とでもいうようなことばで説明することになるのかもしれない。もし、このように文学史的には説明されるとしても、今日、この作品を読んで感じる、いいようのない文学的感銘……絶望的な孤独感……の表現は、カフカの天稟であったと感じる。

いや逆なのであろう。今日、カフカを読むことによって、現代における孤独というものに気づく、これが文学というものなのである。

『城』カフカ(その二)2018-07-13

2018-07-13 當山日出夫(とうやまひでお)

城

続きである。
やまもも書斎記 2018年7月12日
『城』カフカ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/12/8914217

カフカという作家、私の学生の頃には、もっと読まれていたように思う。この頃では、そんなに人気のある作家ということではないように思える。

ところで、『城』を読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「Kは、これで他人とのあらゆるつながりが断ち切られ、もちろん、自分はこれまでより自由な身になり、ふつうなら入れてもらえないこの場所で好きなだけ待っていることができる、そして、この自由は、自分が戦いとったもので、他人にはとてもできないことだろう、いまやだれも自分にふれたり、ここから追いだしたりすることはできない、それどころか、自分に話しかけることもできまいと、思った。しかし、それと同時に、この確信も同じくらいにつよかったのだが、この自由は、こうして待っていること、こうしてだれからも干渉されずにいられること以上に無意味で絶望的なことがあるだろうかという気もするのだった。」(pp.217-218)

ここに引用したような「自由」についての感覚は、ベルリンの壁の崩壊後の世界に蔓延しているといっていいのではないだろうか。絶望的な自由、無意味な自由、である。ベルリンの壁の崩壊後、社会主義陣営は崩れ去った。その後、多くの人びとは、自由を得たはずである。それが、はたして真の自由というべきものなのか、今の世界は問われているように思える。

また、今日の世界の「自由主義」……そこにあるのは、本当の自由なのだろうか。

カフカの文学は、今日の世界を預言している、このような感覚を読んでいていだくのである。他のカフカの作品を読んでおきたい。

追記 2018-07-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年7月14日
『城』カフカ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/14/8915715