『嵐が丘』E・ブロンテ2017-06-23

2017-06-23 當山日出夫(とうやまひでお)

E・ブロンテ.鴻巣友季子(訳).『嵐が丘』(新潮文庫).新潮社.2003
http://www.shinchosha.co.jp/book/209704/

この作品は、再読である。いや厳密には、新潮文庫の鴻巣友季子訳で再読ということになる。

以前、十年以上も前のことになるが、新潮文庫で、鴻巣友季子訳で出たのを読んだとき、はじめて『嵐が丘』を通読することができた。それまで、岩波文庫版(旧版、阿部知二訳)など、何度か読みかけて、そのつど挫折を繰り返してきた。それが、鴻巣友季子訳で読んで、意外なほどに、すんなりと全編をいっきに読み切ることができたという経緯がある。

ただ、この鴻巣友季子訳には、その訳文について、毀誉褒貶があるようだ。

だが、文学の魅力はその文体にある、ということを考えるならば、「語り」でなりたっているこの作品が、どのような文章で書かれるべきなのか、という観点からの、鑑賞の仕方もあっていいだろう。それが、たまたま私の場合、鴻巣友季子訳が、ちょうど趣味にあっていた、ということなのかもしれない。

今回、再読してみて(この本は、本棚で見つかったので、新しいのを買い直すという必要がなかった)、十数年前に読んだような、物語の中に没入していくような感動は、実は、あまり感じなかった。むしろ、物語の「語り」の構造とでもいうべきものがどうなっているのか、考えながら読んでしまったので、いまひとつ純然と、作品を味わうという感じではなかった。

しかし、そうはいっても、キャサリン(母)の死と、それに際してのヒースクリフの嘆き悲しみ……このあたりは、ついつい小説の中にひきずりこまれるようにして読んだ。

『嵐が丘』は、岩波文庫で新しい訳が出ている。また、光文社古典新訳文庫でもある。(ともに、買ってはある。)これらの別の訳でも、また、機会をみて、読み直してみたいと思っている。

ある意味で、この作品は、複雑で難解でもある。しかし、一面では、非常にシンプルな構造の物語であるとも、見なすことができる。

この作品は、二重の語りでなりたっている。まず、ロックウッドという人物が出てきて、語り始める。その相手となり、スラッシュクロス(鶫の辻)と嵐が丘の二つの屋敷の物語を語るのは、家政婦のネリーである。そして、ネリーは、単なる語り手であるだけではなく、主要な登場人物のひとりとして、その物語中で重要な役割をはたしている。

近代的な小説として、「神の視点」で描いているようにみせかけながら、その実際は、ほとんどが、登場人物の「語り」、主に、回想という形で語られる。それが、ただ、語るだけではなく、物語の進行していくなかに介入していく。このあたりが、物語の視点が錯綜してくる。また、登場人物が限定的とはいっても、その人間関係は、複雑でもある。さらに、そこに示される男女間の愛情は、ストレートであると同時に、屈折した形をとったものでもある。そこから感じ取ることができるものは、赤裸々な人間の魂の姿である、といってよいか。

一般的な文学史に記されるように、このような作品が、19世紀のはじめのころに、突如として現れ、ただ、ほとんどこの作品だけを残して作者は消えてしまった。これは、文学史的にいっても、奇跡的なできごとである。19世紀が、近代において小説という文学の形式の確立した時期であるとして、その作品が、21世紀になっても、なお読み継がれる価値があるとするならば、それこそ、文学の文学たるゆえんであろう。

私にとって、この作品は、文学を読むということの楽しみを感じさせてくれる……ただ文学史に名前があるというだけではなく……作品のひとつとしてある。もうすこし時間をおいて、再々度とさらに読み直してみたいと思っている。

『ボヴァリー夫人』フローベール(その二)2017-06-17

2017-06-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2016年6月16日
『ボヴァリー夫人』フローベール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598263

ギュスターヴ・フローベール.芳川泰久(訳).『ボヴァリー夫人』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/208502/

この文庫本の解説を読むと、翻訳に苦労したらしい。特に、原文に忠実に訳したとある。句読点まで、可能な限り原文通りにしたとも。

それから、特に意図して訳したのが、「自由間接話法」であるという。

その説明の箇所を少し解説から引用すると、

「語り手が視点だけを随意に移動させ、作中人物の至近にはりつける、と思ってもらえればこの話法が理解しやすくなるかもしれません。」(p.653)

またこうもある、

「これを移動しないと、語り手によるいわゆる「神の視点」からの描写になってしまいます。「神の視点」とは、たとえば壁があって見えないはずのところにいる作中人物でも、語り手にはすべて見えてしまっているように語る場合ですが、フローベールは、そうした描き方はしません。」(p.653)

「しかしフローベールは、語り手に属しながらそこから自由に移動できる視点を発明したのです。それを、自由間接話法の多用で成し遂げたのです。」(p.655)

「ここには、客観描写をめぐるコペルニクス的転回があるのです。」(p.658)

このような解説を読むと、作者(フローベール)は、『ボヴァリー夫人』において、ものすごいことを成し遂げたように思える。そして、この文庫本の解説は、これはこれとして興味深いものなのであるが……はたして、それが、実際の翻訳でどれだけ、日本語として、読者につたわるか、これは難しいものがあると感じる。

私は、この解説を最初に読んでから、そのつもりで、翻訳を読んだのであるが、はっきりいって、分からなかった。たぶん、この小説を何度も読んで、ストーリーを追うだけではなく、じっくりと文章を味読するような読み方をすれば、感じ取ることができるのかもしれない。

この意味で、もうちょっと時間をおいてから、再度、この小説を読み直してみたいと思っている。いま、ゾラの作品など読んでいる。19世紀フランスの自然主義文学の代表作を一通り読んで、また、ここに立ち返ってみることにしたい。

なお、ここで出てきた「自由間接話法」ということば、これは、『風と共に去りぬ』の解説にも、指摘されていたことである。新潮文庫版(鴻巣友季子訳)も、また、岩波文庫版(荒このみ訳)も、とも、「自由間接話法」に、解説で言及していたと記憶している。

さらに余計なことを考えてみれば、西欧の文学には、まず「神の視点」からの描写ということがあるのだろう。だから、そこに、ふと登場人物の視点を取り込む「自由間接話法」が、意味がある。逆に「神の視点」をもたない日本の物語文学、例えば『源氏物語』のような場合、女房の語りの視点のなかに、「神の視点」に移行するところがある、こんなふうに考えてみることもできるかもしれない。小説、物語の、語りの視点という意味では、「自由間接話法」ということについて知っておくことは、意味のあることであると思う次第である。

『ボヴァリー夫人』フローベール2017-06-16

2017-06-16 當山日出夫(とうやまひでお)

ギュスターヴ・フローベール.芳川泰久(訳).『ボヴァリー夫人』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/208502/

この本、いつものことだが、まず解説から読んだ。解説によると、フランス近代小説の傑作とのこと……なのであるが、私の読後感としては、あんまり感動しなかった。いや、つまらない小説という意味ではない。主人公に、今ひとつ感情移入して読むことができなかった。

訳のせいだろうか、あるいは、私が年を取り過ぎてしまったせいなのかもしれないと思ったりもする。もっと若くてみずみずしい感受性を持っている時期でないと、この作品に感動することはないのかとも思ったりした。

この作品については、近年、次の本が出ていることは知っている。

蓮實重彦.『『ボヴァリー夫人』論』.筑摩書房.2014
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480838131/

たぶん、フランス文学において、この作品の読解、理解、ということは、今でも、重要な研究テーマになっているのであろう、ということは理解される。また、新潮文庫の解説でも、文学史的な価値については、強く言及してある。

私が学生の時、履修(第二外国語)したのは、フランス語だった。その時、教科書に乗っている例文について、これは『ボヴァリー夫人』にあるものです、という意味のことを、先生が言っていたのを今でも憶えている。初級の入門の教科書である。それでも、『ボヴァリー夫人』のフランス語というのは、教科書の例文にするだけの、ある意味で価値のあるものだったのだろう。

仏文、フランス語の方向には進まなかったので、私のフランス語についての知識は、学部の教養課程どまりである。読むとすれば、日本語訳を読むことになる。その日本語訳の新しい版が、新潮文庫版である。

この小説、実は、これまで読まずにいた。19世紀のフランス自然主義文学といわれただけで、なんとなく分かったような気分になってしまうところがあった。だが、この小説も読んでおくべきと思って読んでみた次第。

そうはいっても、今の私の読解力、感性では、この作品を味読するということはできなかったようである。これは、もうちょっと時間をおいて、もっと時間の余裕のある時に、じっくりと再読してみたいと思っている。

ともあれ、この本を読んだことの記録として、まずはここに書き留めておきたい。

追記 2017-06-17
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月17日
『ボヴァリー夫人』フローベール(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/17/8598841

『赤と黒』スタンダール(その二)2017-06-03

2017-06-03 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月1日
『赤と黒』スタンダール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/01/8581779

この作品、本当にわかるためには、フランス革命後の19世紀初期のフランスの状況について知っていないといけないだろう。翻訳(新潮文庫版)にも、このあたりのことは、かなり細かく注がついている。

しかし、そのさらに前提となる、フランスの歴史についてうとい私には、せっかくの注もあまり役にたたなかった。もうすこし、西欧の歴史、フランスの歴史、文学史などについて、これまでに勉強しておけばよかったと思うことしきりである。

だが、そのようなこと……時代的背景への理解……ということを、さしおいても、この作品は、ある種の文学的感銘を与えてくれる。(だからこそ、世界文学の古典というべきなのであるが。)

はっきりいって、私は、ジュリヤン・ソレルという人物が好きになれなかった。たしかに、貧しい生いたちから、なんとかしてのぼりつめていこうとする意思については、なんとなく分からなくはないのだが、強く共感するといことはない。これは、私の理解が浅いというだけのせいかもしれないが。

しかし、最後のところ、ジュリヤン・ソレルが死を前にしての述懐のあたりになると、思わず作品世界に引き込まれる。ああ、こんな人間が、こんな生き方を選んで、最後には、死を迎えることなるのか……と、深く感銘を覚えた。

ここまで読んで来て、この作品『赤と黒』が、これまで世界文学の名作として読み継がれてきた理由が、自分なりに納得できたと感じた。(やはり、途中で挫折して投げ出してしまっては、この作品に感動するということはない。最後まで読まないとだめである。)

私も、この年になって……還暦をすぎた……あまり新規なものに手を出したいと思うことがなくなってきた。それよりも、昔読みかけて挫折しているような本を、再度チャレンジしてみたいと思っている。古典、名著、名作である。

今では、古本で安く買えるようになっている。あるいは、新しい活字本(字が大きくなっている)があったりする。

『赤と黒』もそんな本のひとつ。再読してみてよかったと思う。

さて、今、読みかけているのは、『ボヴァリー夫人』。新しい新潮文庫版で読んでいる。翻訳については、毀誉褒貶あるようだが、私としては気にいっている。読後感などは、追って。

『赤と黒』スタンダール2017-06-01

2017-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

スタンダール.小林正(訳).『赤と黒』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1957(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200803/
http://www.shinchosha.co.jp/book/200804/

この作品も、若い時に読みかけて挫折した作品のひとつ。まあ、学生のころは、世界文学の名作といわれるような作品には、片っ端から手をつけていって、途中で挫折してしまうことが多かった。これも、たしか、岩波文庫版で読みかけたかと憶えている。今回は、新潮文庫版で読んでみることにした。

読んでみて……やはり、若い時にこの作品に挫折してしまったのは、無理もないと感じる。

第一に、時代背景が1830年代ということである。この作品の副題には、「1830年代史」とある。高校生とか大学生のころに、西洋史を専門にでもしていない限り、フランス革命後の1830年代がどんな時代であったかと言われても、わかるはずもない。高校でならった世界史の知識程度では、時代背景をじっくりと吟味することなどできない。

第二に、ジュリヤン・ソレルという特異な人物に、感情移入できるかどうかということがある。貧しい製材小屋の子どもとして生まれた主人公は、なりあがっていく。その野望とでもいうべき心情に、共感することができるかどうか、このあたり、高校生や大学生では、無理であったと、今になって読み返してみて思う。

以上の二点から考えて、この作品を若い時に読みかけて途中で挫折してしまったのも、無理のないことであったかと、思い返したりしてみたりしている。

そうはいっても、この年になって、なんとかこの作品を読み通すことのできたのは、訳文の見事さによるものである。端正で平易な文章。実に見事な訳文であると感じて読んだ。おそらくもとのフランス語は、読み安いながらも格調のある文章なんだろうと思う。この訳文の文体の魅力がなければ、私は、この作品を、再度投げ出していたかもしれない。

そして、読んでみて……最後に、この作品が、時代と国を超えて、世界文学の名作として読み継がれてきた理由がわかったような気がする。

追記 2017-06-03
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月3日
『赤と黒』スタンダール(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/03/8583789

『ゴリオ爺さん』バルザック2017-05-27

2017-05-27 當山日出夫(とうやまひでお)

バルザック.平岡篤頼(訳).『ゴリオ爺さん』(新潮文庫).新潮社.1972(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200505/

この作品も学生のときに読みかけて挫折した作品のひとつ。理由はいろいろあると、今になって思える。

第一に、文章がパラグラフ(段落)に分けて書いていない。これは、読みにくい。今、日本の平安時代の『源氏物語』でも、現代の活字本(校注本)は、適当なところでパラグラフに切ってある。ところが、19世紀フランス文学のこの作品の文章は、延々と改行なしで文章がつづいている。

これは、現代の普通の文章を読み慣れた目からすると、非常によみづらい。だが、おそらくは、これが、この作品の意図する文体、文章なのであろうとは、今になって読み返してみて、なんとか理解はできる。

第二に、歴史的、社会的背景を知らないと、この作品がよくわからない。まあ、私のフランスの歴史についての知識といえば、高校生のときに習った世界史の範囲をそう超えるものではないのだが、それでは、とても、この作品の背景を理解して味読するということができない。

この第二の点については、今でもそう変わらない。今更、フランスの歴史を勉強しても、それはそれなりに歴史書として読めるだろうが、フランス文学史の理解の手助けには、もうならないだろう。これは、若い時に、もう少し西欧の文学、文学史、歴史について勉強しておけばよかったと後悔することになる。

とはいえ、じっくりと本を読む時間をすごしたいと思うようになって、昔、手にしてそのままになっているような小説を読んでいると、この作品にも、ふと引き込まれるようなところがある。それは、年老いてひとりさびしく暮らす主人公(ゴリオ爺さん)の、孤独な心境と、娘を思いやる親の気持ちを描写しているような箇所には、おもわず作品世界に入り込んでしまう感じがする。特に、最後の方の、死をむかえるあたりの叙述には、この小説ならではの魅力がある。

解説によると、この作品は、バルザックの「人間喜劇」の中核的な存在になる作品だとある。だが、残念ながら、現在では、バルザックの作品は、そう多く翻訳で読めるという状況ではないようだ。

そのなかで、この『ゴリオ爺さん』だけは、今でも読まれ続けているようだ。私が読んだ新潮文庫版の他に、岩波文庫版、それから、光文社古典新訳文庫版などが出ている。

この作品の主人公は、ゴリオ爺さんであるが、そのほかに主要な登場人物としては、ラスティニャックがいる。パリの社交界に出ようという意欲に満ちた若者。こちらの登場人物に関心をもって読むか、それとも、ゴリオ爺さんの方に興味引かれるかは、読者の好みの問題かもしれない。たぶん、もっと若いときにこの作品を読んでいれば、ラスティニャックの生き方に関心をもって読んだだろう。しかし、私の年になって読んでみると、年老いたゴリオ爺さんの生き方に、気持ちがなびいてしまうのである。

だが、この作品を読むのに、19世紀のフランス、パリの、社会……いわゆる近代的な市民社会になるのだろうが……とか、上流の市民、貴族による社交界、などについての予備知識がないと、今ひとつ、作品についての理解がおよばない。ある種のもどかしさのようなものを感じてしまう。

そのようなものをとりはらっても、この作品にある種の魅力……文学作品として読むに絶えるもの……があることは、確かに言えるだろう。文学作品を読むことに、そのこと自体に、音楽を聴いているような時間の感覚でのぞむならば、この作品は豊饒な時間を与えてくれる。

『魔の山』トーマス・マン(その二)2017-05-26

2017-05-26 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月25日
『魔の山』トーマス・マン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/25/8574049

『魔の山』で、付箋をつけた箇所を、もうすこし引用しておきたい。

トーマス・マン.高橋義孝(訳).『魔の山』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1969(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/202202/
http://www.shinchosha.co.jp/book/202203/

下巻、第七章「海辺の散歩」のところ。

「時間は人生の地盤であるのと同じように、物語の地盤でもあり――空間において物体に結合しているように、時間は物語にも不可分に結合している。時間はまた音楽の地盤でもある。音楽は地盤を測り、分割して、時間を短縮すると同時に貴重なものにする。この点で音楽は上にも述べたように物語に似ている。」(pp.401-402)

このような箇所を読むと、作者(トーマス・マン)は、小説を読む時間を、音楽を聴く時間に、なぞらえているように思える。

この『魔の山』という作品、その内容、テーマとして、どのようなことをあつかっている作品であるか、これも重用であるが、その一方で、この小説を読む時間を、読者がどのようにすごすか、ここにもこの小説の存在意義がある、このように理解すべきであろうか。

昨日も書いたが、若いとき、『魔の山』は途中まで読んで挫折してしまったということがある。やはり若いときは、何が書いてあるか、を求めて本を読んでいたように思う。それが、時がたってくると、どのように書いてあるか、というところを読む用になる。さらには、それを読んでいる時間そのものを楽しむようになる。あるいは、楽しめるようになる。少なくとも、私の場合はそうである。

音楽を聴くように、小説を読む。ようやく、この楽しみがわかってきた、というべきかもしれない。ドイツの「教養小説」であり、行ってみれば、知的大河小説とでもいうべき作品である。このような作品をじっくりと読む時間をすごしたいものである。

『魔の山』トーマス・マン2017-05-25

2017-05-25 當山日出夫(とうやまひでお)

トーマス・マン.高橋義孝(訳).『魔の山』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1969(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/202202/
http://www.shinchosha.co.jp/book/202203/

読むのは、同じトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』より前に読んだのだが、ここに書く順番としては後になってしまった。

この作品も、若い時、学生の頃、読みかけて途中で挫折していたという記憶がある。特に難解という作品でもないのだが(後半になると、議論の錯綜するところがあるので、かなり難渋するが)、読み始めは、そんなに難しいという小説でもない。だが、波瀾万丈の大活劇というのではない。アルプスの山中にある国際サナトリウムを舞台にした、「教養小説」である。

この小説は、時間の流れというものが、あってないようなものである。

読みながら付箋をつけた次のような箇所。

(いとこのヨーアヒムの言うこととして)「ここにいる連中は普通の時間なんかなんとも思っていないんだ。まさかと思うだろうけれどね。」(上巻 p.20)

(同上)「ここではそもそも、時間は流れないとぼくはいいたいね。ここのは時間なんていうもんじゃない、また生活なんていうもんでもない――そうさ、何が生活なもんか」(上巻 pp.35-36)

この小説中の時間の流れについては、作者自身もはっきりと書いている。

「不思議といえば不思議だが、しかし、よく考えてみるとこれは当然の話で、物語を話したり聞いたりする場合はぜひこうでなければならないのである。私たちの物語の主人公、ハンス・カストルプ青年は、運命の悪戯によって偶然足止めをくったが、その彼にとってと同様に、私たちにとっても時間が長くなったり短くなったりすること、私たちの時間感覚にとって時間が伸びたり縮んだりするのは当然のことで、これは物語の法則に適っているのである。」(上巻 pp.383-383)

まさに、これは、小説を読む、読者の時間、その時間を、小説の主人公、あるいは、作者と共有するところに、この作品の眼目があるのだろう。この時間の流れ……それは、実にゆったりとしたものである……についていけないような場合、この作品は、退屈そのものでしかないのかもしれない。ただ、小説のストーリーを追うだけのような読み方では、この小説を読んだことにはならない。

「教養小説」として、主人公(ハンス・カストルプ)が、どのような人物に出あい、どのような成長をとげていくのか、それも重用である。だが、それよりも、重要なことは、その成長の歩みを、翻訳で上下巻1500ページほどの分量を読みながら、時間を共有するところで、感じ取るものがなんであるか、それこそが、この作品のうったえかけるものなのであろう。

この意味では、若い時に、ただ、有名な作品だからといって、ストーリーを追うだけのような読み方をしていたのでは、途中でつまらなく感じてもいたしかたのなかったことかもしれない。ある程度時間の余裕があり、その時間を、本を読む、そして、その本の中をゆっくりと流れる時間とともにすごす、このような余裕をもってはじめて、味わうことのできる作品である。

文学を読むには、ただその作品の文字を目で追うだけではなく、その作品を読む時間を、自分の時間としてどのように感じるか、そこにこそ意義がある。私は、この作品を読んで、このように感じた。

だから、はっきりいって、主人公のハンス・カストルプの思想とかは、よくわからない。時代的背景も、社会的背景も、今の日本とは違う。だが、サナトリウムというようなところに身をおいた人間の考えること、その思考の歩みによりそって、感じ、考えを共有する、その時間を本を読む時間としてつかうこと、これこそが、この作品が、世界的に通用する文学たるゆえんである。

作品を読むことにつかう時間というのは、時代が違っても、社会的背景がちがっても、これは、読者にとって、共通するものだからである。この意味では、この『魔の山』という小説は、音楽に近いものなのかもしれないと思ったりもする。

この『魔の山』の主人公、ハンス・カストルプは、小説が、小説を読む時間、その時間そのものを意義あるものと考えるような時代の文学の登場人物である。そう思って、この作品には対する必要があるだろう。

もちろん、この作品のテーマ、死とともに生きているというべきサナトリウムの病人たち、また、戦争というもの、さまざまに考えるべきことはある。だが、それについて語るのは、また時間をおいて、この作品を、再読する機会があれば、それからのことにしたい。少なくとも、この作品は、人間の死というものと真正面から対峙した作品であるということは言っておきたい。この作品の主題は、まさしく「死」であるともいえよう。この作品は、再読、再々読してみたいと思っている。

追記 2017-05-26
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月26日
『魔の山』トーマス・マン(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/26/8574895

『白鯨』メルヴィル(その四)2017-05-18

2017-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月17日
『白鯨』メルヴィル(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/17/8562384

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

『白鯨』を読み終えて、やはり最後には、現代においてこの作品を読むとするならば、いったいどのように読めるか、ということを考えることになる。岩波文庫版の翻訳は、2004年時点のものである。この解説においては、たとえば次のようにある。

「アメリカはアフガンに侵入し、イラクにも多数の兵と武器をおくってなおも戦っているではないか。ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものとするいくらかキッチュな寓話として『白鯨』をよむ読み方もひらけてくる。」(pp.438-439)

としながらも、D.H.ロレンスの説をひいている。孫引きになるが、その箇所を引用すると、

「モービィ・ディックのことを「白色人種の最深奥に宿る血の実態、われわれの最深奥にある血の本質である」と看破した。」(p.439)

また、ロレンスは、こうも言っているという(これも孫引きになるが引用する)、

「メルヴィルは知っていた。彼の人種が滅ぶ運命にあることを彼は知っていた。彼の白人の魂が滅ぶこと、彼の白人の偉大な時代が滅ぶこと、理想主義が滅ぶこと、『精神』が滅ぶことを」(p.439)

そして、解説(八木敏雄)では、つぎのようにある、

「これをどう読むか。おそらく読者の頭の数ほどの読みがあるだろう。しかしし、『白鯨』はいかなる読みにもいささかもたじろぐことなく、これからも悠然と豊饒な言語の海を泳ぎつづけていくことだろう。『白鯨』は本質的にはアレゴリカルな作品である、しかも多重にアレゴリカルなそれなのである。」(pp.439-440)

「アレゴリー=寓意」の作品として、この『白鯨』をとらえている。しかも、それは、多重であるという。

だが、そうはいっても、この作品を現代の視点で読むならば、トランプのアメリカ、自国第一主義をかかげるアメリカ、その自国の権益を表象するものがモービィ・ディックではないのか……このような読み方もゆるされるであろう。

また、もちろん、この読み方は、数年後には、また別の解釈にとって変わられるにちがいない。この意味では、『白鯨』という小説は、常に、「アメリカ」を表象する小説でありつづけることになるのかもしれない。そして、「アメリカ」を表象するということは、ある意味では、今日の国際社会を表象することにもつながる。今の国際社会のありかたを、ピークオッド号になぞらえて考えて見ることも可能になる。

このように考えたとき、最後に、モービィ・ディックと共に海に沈んでしまうピークオッド号の宿命には、暗澹たるものを感じずにはおれない。

『白鯨』メルヴィル(その三)2017-05-17

2017-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月15日
『白鯨』メルヴィル(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/15/8559378

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

私が、この小説、岩波文庫版(三巻)を読みながら付箋をつけた箇所、それは、「日本」ということばについてである。この小説には、かなり「日本」の用例がひろえる。

岩波文庫版(三巻)には、各巻に、地図(ピークオッド号の航路)が掲載になっている。それを見ると、船は、アメリカ東海岸から出発して、大西洋を南下。いったん、南アメリカによったあと、アフリカ南端からインド洋にはいる。そして、日本をめざしている。日本近海から、さらに太平洋を南下して、最後には沈没する、という運命をたどる。

ここで思い出すのは、やはりペリーである。このブログでも以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2016年6月11日
ペリーはどうやって日本に来たのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/11/8108879

やまもも書斎記 2016年6月30日
西川武臣『ペリー来航』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/30/8121187

ここで言及した、ペリーの日本来航の航路と同じである。ただ、『白鯨』のピークオッド号は、捕鯨しながらなので南アメリカの方にも行っているが。すくなくとも、アメリカの西海岸から、太平洋をわたって日本にやってきたのではない。大西洋からインド洋を経て、日本をめざした。

そして、これは、歴史の教科書にも書いてあったこと……ペリーの日本にきた目的は、日本近海で捕鯨をする船についての保護であった、と憶えている。

まさに、そのとおり、アメリカから、モービィ・ディックを追って捕鯨の航海をつづける、ピークオッド号は、ほとんどペリーのとった航路をなぞるように、日本近海をめざしてやってきている。

『白鯨』の原著の刊行は、アメリカで、1851年のことと解説にはある。ペリーが日本にやってきたのは、1853年である。ほぼ、同時期といってよい。

なぜペリーは日本にきたのか。そのころ、アメリカの捕鯨はどんなものであったのか。どのような航路をとってクジラを追っていたのか。そのようなことが、この小説を読むと、それなりに理解されるという面がある。

小説の本筋とは関係のないことかもしれない。しかし、ペリーの日本来航は、日本史の大事件である。その背景にどのような事情があったのか、すこしでも、この小説を読むことによって理解できるのではないかと思う。