『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)2017-03-25

2017-03-25 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月24日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/24/8418304

この小説を、40年ぶりに再読してみて、思ったことをいささか。

主人公の名前が「勲」であること。これは、再読するまで忘れていた。この「勲」という名前、他で見ておぼえていた。『きんぴか』(浅田次郎)の「軍曹」の名前である。

私は、浅田次郎の作品は、たぶん、出たもののかなりを読んできているとは思っている。そのなかで、一番好きなのは、その処女作である『きんぴか』である。そのつぎぐらいの『プリンズンホテル』のシリーズもいい。『天切り松』のシリーズもいい。『壬生義士伝』もいい。しかし、私が一番すきなのは『きんぴか』なのである。この作品のなかに、その後の浅田次郎の各種の作品に展開していく、いろんな要素がつまっていると思う。

で、この『きんぴか』で「軍曹」の名前に、「勲」をつかっている……これは、明らかに、三島由紀夫の『奔馬』を意識してのことである。

また、『きんぴか』の最初の方で、「軍曹」が拳銃で自決をはかろうとする場面があるが、この一連の動きも、明らかに、三島の事件をうけて書いている。

ほかにも、浅田次郎の作品では、エッセイ集『勇気凜々ルリの色』で、三島由紀夫にかなり言及していたかと記憶している。(今では、本を、しまいこんでしまったので、確認できないのだが。)

おそらく、『きんぴか』を書いた当時の浅田次郎は、ほとんどまだ無名の作家。だからこそ、あからさまに三島事件をふまえたことがわかる小説を書けたのだと思う。

とにかく、浅田次郎……現在は、日本ペンクラブの会長である……の作品が、三島由紀夫の影響を、なにがしかの形でうけている、それが、本人が望んだものであるかいなかは別にして……このことは確かなことだろうと思う。

浅田次郎が、現代日本の小説を代表する一人であることは、一般に認められることであろう。その浅田次郎作品を、読み解いていくうえにおいて、三島由紀夫と、その最後の事件は、影をおとしている。影響をあたえている。

1970年、昭和45年の秋。三島の事件は、現代文学にまで、その影響を及ぼしていることなのである。

『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫2017-03-24

2017-03-24 當山日出夫

三島由紀夫.『奔馬ー豊饒の海 第二巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105022/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

やまもも書斎記 2017年3月19日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

やはりこの作品については、ラストだろう。三島由紀夫の市ヶ谷での自決という最期を知っていて読むと、この小説のラストは、強く印象に残る。

あるいは、ひょっとすると、三島由紀夫は、この小説を書いたがために、自らの最期を、あのように演出することになったのかもしれない、このように考えて見たくもなる。

私がこの小説『奔馬』を読んだのは、先に書いたとおり、大学生になってからのことであった。古い新潮文庫で読んだ。その時、三島の主な作品(文庫本で読める)は読んでいたとおもうし、無論、その市ヶ谷での事件の顛末については、知識としてはもっていた。だから、この作品の最後のシーン、そのことばが、強く印象に残っているということはあるだろうと思う。

『豊饒の海』四巻のなかでは、最初の『春の雪』とこの『奔馬』が、小説としての完成度が高い。それだけで独立した作品として読むにたえるだけのものをもっていると同時に、『春の雪』と『奔馬』は、その内容においても、登場人物においても、密接に連携したものとなっている。

これが、『暁の寺』『天人五衰』になると、『豊饒の海』四巻のなかの一冊という位置づけで読まないと、どうも面白くはない。まあ、これは、私の個人的な感想であろうとは思うが。また、小説としての完結性という点でも、『春の雪』『奔馬』と比べると劣るようにも思える。

さて、この『奔馬』である。時代は、前作『春の雪』が、大正の初期であったのをふまえて、次の時代、昭和初期の時代……世の中の不況、国際情勢の変化、満州事変、五・一五事件……といった世相を背景にした、いわゆる国粋主義に殉じた若者をえがいている。その行為の是非についていえば、今の価値観からすれば、決して褒められるものではない。しかし、小説として描き出した、その時代に、ある観念のもとに純粋に生きようとした若者の姿を、見事にとらえている。

これはこれとして、三島の最期の事件とは切り離して、独立した小説として十分に読むにたえるものである。しかしながら、三島の事件と切り離して読むことがもははできない、というのは、文学というものが、やはりある時代の流れのなかに存在するものである、ということから免れないことを示しているだろう。私は、三島のこの作品を読むとき、純然たるテクスト論者にはなれない。

ただ、いま、振り返ってみれば……若い時、三島由紀夫の事件というのは、それほど強く意識していなかった。もちろん、知識として知ってはいたが、それによって、衝撃をうけたということはない。これは、おそらく、私の世代で、数年の年の違いで、それぞれに、非常におおきくちがうことだろうと思う。

たぶん、私よりも数年年上の人で、『豊饒の海』をその同時代に読んでいた人であるならば、市ヶ谷の事件で、まず、この『奔馬』を思い浮かべただろう。逆に、私ぐらいの世代になれば、三島の事件をすでに知っていて、この『奔馬』を読んだことになる。この文学的体験の違いというのは、大きいと思う。

時代の流れのなかで、文学のテクストはどう読まれるのか、という問題点をつきつけてくる作品でもある。

追記 2017-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2017年03月25日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/25/8419677

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その三)2017-03-22

2017-03-22 當山日出夫

『春の雪』についてさらにつづける。

やまもも書斎記 2017年3月20日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/20/8411334

この小説では、舞台としている、大正時代の華族社会の目からみたものとして、アンビバレントとでもいうべき、価値観が存在している。それは、明治という時代の偉大さと、喪われつつある本当の気高さ、とでもいおうか。

明治という時代は、この小説では、いくつかの意味を持っている。

第一に、日露戦争に勝った時代。偉大なる明治の時代のイメージである。

第二に、明治維新を成し遂げたのは、武士(それも下級の、地方の)である。その功業をみとめるにやぶさかでないにせよ、本当の文化、雅びは、千年の都である京都でうけつがれて、今日にいたっているという意識。

まず、第一の点。明治の偉大さ、ということ。この小説『春の雪』は、日露戦争の時の写真からはじまる。「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真の描写がある。日露戦争に勝った、だが、犠牲も大きかった。その日露戦争について、〈戦争を知らない〉世代として、松枝清顕と本多繁邦は、冒頭から登場することになっている。

だが、その一方、本物の文化となると、明治国家は、作り得なかった。清顕の家は、侯爵家である。明治維新の功業によって、身分を得た。また、金銭的にも豊かである。だが、もとをただせば、鹿児島の下級武士という設定になっている。だから、本物の宮廷文化を知らない。そこで、清顕は、綾倉伯爵家にあずけられて、養育をうけるという設定。綾倉伯爵家は、公家華族で、身分、格式こそあるものの、その財力では、とうてい松枝侯爵家におよばない。

このアンビバレントな価値観のなかに、清顕は、生まれ育ったことになる。明治維新をなしとげた祖父。それによって得た、侯爵という身分と巨万の富。それを、父はもっている。その息子、清顕は、三代目という設定。三代目の清顕にとって価値のあるものは、本物の文化、伝統、美、優雅、芸術である。そして、恋。

これは、三島由紀夫にとって、文化、古典とは何であるか、という問いかけにもつながるものかもしれない。あるいは、日本の伝統とは何であるのか、ということにもつながる問題であろう。

日本の伝統とは何か、という問いかけが、この次の『奔馬』へとつながっていくのだと思う。

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その二)2017-03-20

2017-03-20 當山日出夫

三島由紀夫.『春の雪ー豊饒の海 第一巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105021/

つづきである。

やまもも書斎記 2017年3月19日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

私が、ひさしぶりにこの作品を読んで、読み始めてまず思い浮かんだのは、明治宮廷のことである。

やまもも書斎記 2016年5月29日
米窪明美『明治天皇の一日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/29/8097931

『春の雪』の主人公、清顕は、明治宮廷において、お裾持ちの役目を、少年のときにしたとある。学習院から、しかるべき華族の子弟がえらばれて、その役目をはたす。そのことについては、米窪明美の本に詳しい。

このあたりの描写は、学習院出身の、三島由紀夫、いや、平岡公威として、学習院に学んだことが反映してのことであることは、想像できる。

それにしても、大正時代初期の華族社会を実に見事に描いている作品である。実際は、このようなものではなかったのかもしれないが、しかし、小説としては、見事である。さもありなん、という叙述になっている。

『春の雪』には、ほとんど、市民、庶民といった人物が登場しない。例えば、書生の飯沼など、出てはくる。そして、その後の『奔馬』では重要な位置をしめるのだが、『春の雪』の世界では、脇役でしかない。

主な登場人物は、主人公の清顕、その父親、その友人の本多、そして、恋の相手である、聡子。それから、シャムからきた王子たち。みな、貴顕の人びとばかりである。

そして、これは、作者(三島由紀夫)にとってはある意味で過去のできごとでもある。三島は、1925(大正14)年の生まれ。大正時代の初期のことは、知っているはずがない。だが、だからこそというべきか、自分の実体験していない世界のことだからこそ、華麗な装飾過多とでもいうべき文体で、その華族社会のひとびとの生活とその感覚を、鮮やかに描き出すことに成功している。

しかし、それにしても、この作品における三島の文章は、なんと過剰な虚飾に満ちたものかと思わないでもない。

読みながら付箋を付けてみた箇所、

執事が馬車の用意の調ったことを告げた。馬は冬の夕空へ嘶きを立て、白い鼻息を吐いた。冬は馬び匂いも希薄で、凍った地面を蹴立てる蹄鉄の音が著く、清顯はこの季節び馬にいかにも厳しくたわめられている力を喜んだ。若葉のなかを疾駆する馬はなまなましい獣になるけれど、吹雪を駆け抜ける馬は雪と等しくなり、北風が馬の形を、渦巻く冬の息吹そのものに変えてしまうのだ。
(pp.83-84)

このような文章が、延々とつづく。読んでいて、ちょっといやになる……そんな気がしなくもない。だが、このような文章だからこそ、虚栄、虚飾とでもいうべき、大正時代初期の華族社会の人びとの有様を、あからさまに描き出すことができている。著者は、その虚飾の面をあばきだそうというような意図はなかったのかもしれないが、今の目で読んでみると、虚栄を虚飾の修辞で描き出したと、読める。

それから、次のような箇所は、三島の最後の事件を知って読むと、なかなか興味深い。

百年、二百年、あるいは三百年後に、急に歴史は、〈俺とは全く関係なく〉、正に俺の夢、理想、意思どおりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとおりの形をとるかもしれない。俺の目が美しいと思うかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、俺の意思を嘲るかのように。
(p.126) 〈 〉内、原文傍点

このような文章を書いたとき、三島は、自分が最期におこすことになる事件を、予見していたのだろうか。

追記 2017-03-22
このつづきは、
やまもも書斎記 2017-03-22
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/22/8415222

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫2017-03-19

2017-03-19 當山日出夫

三島由紀夫.『春の雪ー豊饒の海 第一巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105021/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

『豊饒の海』四巻を、ようやく読み終わった。40年ぶりの再読である。書誌を書いてみて、私が学生のころ、この本を読んだのは、文庫版が出てまもなくのときだったと気付いた。単行本ではなく、文庫本で読んだのを憶えている。

学生のときに読んで、正直いって、これで三島由紀夫はもういい、と思った。食傷したという印象をもったのを憶えている。それほど、濃厚な読後感のある作品であった。

今では、この作品、『豊饒の海』が三島の絶筆となった作品であることを知っている。最後の『天人五衰』の原稿を残して、三島は市ヶ谷にむかった。

私にとって、三島の事件は、決して過去のことではない。記憶にある。しかし、そのころは、まだ三島の読者ではなかったので、現実におこったリアルな事件というのでもない。そのちょうど中間の微妙なところに位置する。

市ヶ谷での事件があったとき、私は、中学生であった。学校の授業、あるいは、ホームルームの時間だったか、先生(担任)が、三島の事件のことを、熱っぽく語っていたのを記憶している。

私が三島由紀夫を読み始めたのは、高校生になってからである。大学生になってから、三島の作品は、好みということではなかったが、現代文学を代表する作品として、そのいくつかを、文庫本で買って読んだものである。

さて、順番に読んでいくとして、『春の雪』である。再読しての読後感を整理すれば、次の三点になるだろうか。

第一に、上述したように、この長編をもって、三島は最期を迎えている。この長編小説を書いているとき、いつごろから、その最期の行動の決意を固めることになったのか。近現代文学研究に疎い私は知らないのであるが、少なくとも、この『豊饒の海』の連作を書いている途上において、三島は、その決心を固めていったことは、確かであろう。

三島の最期、それが、今回、『豊饒の海』を再読するにあたって、念頭にあったことである。現在の時点からは、三島の最期は、近現代の文学史のなかの一コマとして、位置づけられる……その解釈は別にしても、その事件があったことは当然の事実としてうけとることになる。そして、それをふまえずには、この作品を読むことは、もはやできない。

第二に、これは、私個人の好みによるのだろうが、『春の雪』は、甘美な恋愛小説として憶えている。再読してみてであるが、やはり、その読後感は、基本的に変わらなかった。

日本の近代文学は、「恋愛」をテーマとするものが少なくない。漱石の作品など、『三四郎』にしても『こころ』にしても、「恋愛」が重要な主題であることは、いうまでもないだろう。

だが、その「恋愛」を、ここまで魅力的に描き出した作品は希ではないだろうか。『春の雪』は、日本近現代文学における、傑出した恋愛小説であるといってよい。

それは、大正時代初期という時代設定、華族という設定、の故でもあろう。言い換えるならば、日本のことでありながら、市民的リアリズムからはなれて、どこか別世界のことのように、読むことができる。

第三に、最初読んだときに印象深く憶えているのが、冒頭近くにある、髑髏と清水の例え話。人間が、「事実」だと思っていることは、結局は、その「意識」の作り出した幻影にすぎないのだろうか。

この『豊饒の海』は、「唯識」の文学でもある。近代の仏教文学というジャンルを設定することが妥当かどうかは別にして、もし、そのようなジャンルをたてて見るならば、『豊饒の海』は、かならずやそのなかで重要な位置をしめる作品になるにちがいない。

そして、この「唯識」ということが、最後の『天人五衰』のラストのシーンへとつながっていくことになる。

以上の三点が、40年ぶりに、『豊饒の海』を再読してみて、感じたこと、再確認したことである。

春休み、花粉症のシーズンなので、どこに出かける気もしない。家にいて、自分の部屋で本を読んですごす。その本として、『豊饒の海』を選択してみたことは、よかったと思っている。もし、機会をつくることがかなうなら、再度、読み直してみたい作品である。

追記 2017-03-20
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年3月20日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/20/8411334

『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎(その二)2017-03-16

2017-03-16 當山日出夫

つづきである。

浅田次郎.『天子蒙塵』(第二巻).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062203708

やまもも書斎記 2017年3月15日
『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/15/8406288

この本を読みながら、おもわず付箋をつけた箇所。

「軍隊は戦争の記憶を喪った。」(p.79)

として、満州事変のころの日本の軍隊のことが書いてある。つづけて、

「幼年学校にも士官学校にも、政治学や社会学の科目はただの一時間もなく、さらには選抜された陸軍大学校卒業者の支配する軍隊に、良識など期待するべくもない。」(p.79)

これは、陸軍の中尉のことばとして出てくる。

なぜ、この箇所に付箋をつけたのか、それは、加藤陽子の本のことが念頭にあったからである。

やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

ここで、当時、四十歳代ぐらいの人間……社会の中核をになっている……は、なにがしか日露戦争の記憶をもっている人達であった。そのことが、満州事変から戦争の拡大につながっていく要因のひとつに考えるべきである、という意味のことがあった。佐官、将官クラスになれば、これはあたっていると思う。

だが、尉官クラスになれば、それより若い。士官学校を出たばかりの若手軍人が、逆に、日露戦争の記憶をもっていなかったということも、いえるだろうと思われる。

ここは、歴史の時代の流れのなかにおいて、日露戦争の戦争の記憶を継承している世代がどのようであって、逆に、それを持たない世代がどのようであるのか、歴史学の方面からの、検証が必要なことである。小説家・浅田次郎の小説において、若い中尉の意識を描いた部分と、歴史家・加藤陽子が、その著書で述べていることは矛盾することではない。どちらの方面に重きをおいて考えて見るか、その立場の違いである。

日本近代史を考えるとき、起こった出来事を年代順にならべるだけではなく、どのような生いたちを経てきた人間が、その時代をどうになって、かかわってきたのか、総合的に考える視点が重用であると思う。

歴史家の文学的想像力と、文学者の歴史観と、どちらがよいというものではなく、両者を総合してとらえるところにしか、過去を顧みて、未来を展望する道はないだろう。また、このように総合的に過去をふりかえる視点のもとに、現在の私たちのものっている歴史観、世界観が、どのような歴史的経緯をふまえたものであるのか、自覚的になる必要もあると思うのである。

戦争の記憶をどのようにとどめていくのか、あるいは、今の自分たちはどのような戦争の記憶をもっているのか……このようなことに自覚的である必要がある。このような視点から、浅田次郎の『帰郷』とか、加藤陽子の『とめられなかった戦争』は、読むにたえる価値のある本だと思う。

やまもも書斎記 2017年3月8日
『帰郷』浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/08/8396413

このような意味において、文学と歴史は連続するところがあると、私は理解している。

『天子蒙塵』(第二巻)浅田次郎2017-03-15

2017-03-15 當山日出夫

浅田次郎.『天子蒙塵』(第二巻).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062203708

やまもも書斎記 20171月4日
『天子蒙塵』(第一巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/04/8302238

第一巻と二巻と、同時に買ったのだが、二巻の方が、読むのがおそくなってしまった。しばらく積んであった。

この本、第一巻の続きと思って読むと、面食らう。この第二巻は、これはこれで、独立した一つの物語をなしていると思って読んだ方がいい。第一巻は、清朝の最後の皇帝・溥儀の側室の「かたり」でなりたっていた。しかし、この第二巻になると、もう登場しない。第二巻は、満州国をめぐっての物語になっている。

満州国……この本では「満洲」の用字がつかってある……張作霖の死から、満州事変、そして、満州国の成立、このプロセスは、日本近代史のなかで、ことに注目すべきところだろう。結局、日中戦争になり、さらには、太平洋戦争へと発展していく、そのとっかかりのできごとである。

この本、物語において、著者(浅田次郎)の採用した方式は、群像劇である。溥儀をはじめとして、永田鉄山のような実在の人物、さらには、劉文秀のような架空の人物をとりまぜて、あまたの人物の視点から、張作霖の死から満州国建国までのあたりを、大河ドラマのように描こうとしている。

そして、これが成功したかどうかになると……私の評価としては、微妙だなというところ。そのように感じるの次の二点に整理できようか。

第一には、近現代史のこのあたりのことになると、文学作品としての小説よりも、歴史的事実そのものの方が面白い。あるいは、興味深く叙述することができる。

たとえば、
やまもも書斎記 2017年3月10日
『とめられなかった戦争』加藤陽子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/10/8398878

のような本の方が、面白い。重厚な歴史書というわけではないが、日本が、日中戦争へと突き進んでいく歴史を、非常に簡潔でわかりやすく、また、興味深いものとして、叙述してある。

「事実は小説より奇なり」というが、どうも、近現代史、満州事変あたりのことになると、事実そのものの方が、面白いと言ってもよいように思える。(無論、どのような歴史観で、どのように叙述するかということもあるのだが。)

第二には、浅田次郎は、その経歴、自衛隊体験の故であろうか、軍隊を描くとき、下士官、兵卒の視点にたって描くことは、きわめてうまい。

たとえば、
やまもも書斎記 2017年3月8日
『帰郷』浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/08/8396413

しかし、士官、司令官、あるいは、為政者という立場の人間、そのエトスを描くには、適していないと思われる。これも、時代がさかのぼって、このシリーズの最初『蒼穹の昴』のような時代になれば、想像力の世界でどのようにでもなる。

だが、近現代の歴史、まだ、その記憶がのこっている時代について、為政者の視点で、小説として語るには、その資質が向いていないと思わざるをえない。軍閥、馬賊ぐらいなら、浅田次郎の本来の面目である語りで表すことができるかもしれないが、正規の軍隊の士官・指揮官、政治家となると、逆に作用する。むしろ、その人物を矮小化してしまいかねない。

以上の二点が、この作品について思ったところである。

さらに付け加えるならば、中国と日本の近現代史を群像劇で描くというこころみは、それなりに評価されていいことだと思う。えてして、日本の悪行だけを描くことになったり、中国が純粋無垢な善であるかのごとき、一般的な歴史書にくらべれば、総合的に、いろんな立場から歴史の出来事を見てみようということは、これはこれとして、非常に価値あることだと思う。だが、それが、成功しているかどうかは、また、別問題とすべきだろう。

この作品、まだ、第三巻以降につづく。その流れのなかで、再度、読み直してみれば、感じ方も変わってくるかもしれない。

『吉本隆明 江藤淳 全対話』吉本隆明・江藤淳2017-03-13

2017-03-13 當山日出夫

吉本隆明・江藤淳.『吉本隆明 江藤淳 全対話』(中公文庫).中央公論新社.2017 (中央公論新社.2011 増補、改題)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/02/206367.html

この本は、2011年に、中央公論新社から、『文学と非文学の倫理』のタイトルで刊行。それに、吉本隆明インタビュー「江藤さんについて」、解説対談、内田樹・高橋源一郎を加えて、文庫化したもの。

「文学と思想」 1965
「文学と思想の原点」 1970
「勝海舟をめぐって」 1970
「現代文学の倫理」 1982
「文学と非文学の倫理」 1988

この本を読むまで、江藤淳と吉本隆明が、こんなにも多くの対談を重ねていることを、不明にも知らなかった。保守と左翼というイメージのある二人であるが、対談を読んでみると、非常にすんなりとお互いに意思疎通できているようである。

読んでの印象なのであるが、吉本隆明は「詩人」なのである、ということを強く感じた。吉本隆明は、詩人である。そして、江藤淳は、評論家である。

たとえば、次のような箇所。

(江藤)ただ、吉本さんがそういうものに対して批判をもっておられるのはわかるが、吉本さんの資質のなかにも、非常に詩人的・達人的なものがあると思います。それが小林秀雄に似ているか、中原中也に似ているかわからないが、とにかく吉本さんのなかで詩的絶対性のようなものを求める気持は、とても強いと思うのです。吉本さんの詩には、これがとても美しい形で出てくる。
(p.24)

このようなところを読むと、私も深く同意するところである。吉本隆明は、本質的に詩人なのである。今、世間一般の見方としては、評論家、あるいは、思想家というように考えるかもしれない。だが、吉本隆明が、本質的に詩人であると思ってみるならば、「共同幻想論」も、「大衆の原象」も、それなりに、納得できると思う。詩的直感を、詩としてではなく、評論のような形で表現しているから、ある読者にとっては、きわめて難解で読みにくいものになる。

このような意味で、つまり、詩人として吉本隆明が何を語っているか、読みながら付箋をつけた箇所としては、

(吉本)たとえば大江さんなんか、ちょっと『ヒロシマ・ノート』などを見ると、僕は文学者失格であるというようなことを考えます。思想家失格などとは、別に専門でないから、言わないわけですが。
(p.41)

上記の二つの引用は、「文学と思想」、1966年に『文芸』に掲載。対談は、その前年、1965年。

ここの引用した、1960年代の雰囲気として、文学者、詩人と、思想家、あるいは、評論家は、それぞれに、違った分野の人間として意識されていたことが読み取れよう。それが、現在、21世紀の今だと、これらの違いがあまり強く意識されることはないようである。

解説の対談に登場している内田樹などは、以前は、評論家、あるいは、フランス現代思想研究者、と呼ばれていたと思うが、最近の本では、思想家となっていたりする。私は、内田樹の書いていることに同意することもあるし、しないこともあるが、しかし、思想家だとは思っていない。

これが、吉本隆明、江藤淳の時代だと、文学者、評論家、詩人というのが、それぞれに独立した立場をたもっている。この時代の変化というのは、ある意味で、重要なことかもしれない。現代において、文学が何を語りうるのか、ということの問題にかかわってくるからである。また、現代における詩人的直感は何を洞察するのであろうか。さらには、現代において、批評とは何であろうか。

ともあれ、この本で、私は、ひさしぶりに、江藤淳の書いたものを目にした。今から、十数年間のあるとき、江藤淳の随筆を読みかけていた。そして、その訃報に接した。その時以来、読みかけの随筆に栞をはさんだまま閉じてしまった。その後、江藤淳の書いたものを読むことは、意図的に避けてきたように思う。

それほど、江藤淳の死は、私にとって衝撃的な事件であった。思い起こせば、高校生のころから、『夏目漱石』などを読んでいた。また、吉本隆明は、大学生になってから、とにかく読んだものである。今、その全集(晶文社)が出ているので、順番に買ってある。

このあたり、再度、江藤淳の書いたもの、吉本隆明の著作など、再読してみたいと思うようになってきた。確かに、戦後日本の文学の世界のなかでは、ともに屹立した仕事を残したと思う。それよりも、昔、若いときに読んだ本を、再度読んで味わってみたい、そのような気がしているのである。

その意味で、この『吉本隆明 江藤淳 全対話』は、手軽に読める文庫本として、それぞれの、詩人としての、評論家としての、資質をたどることのできる恰好の本である。

『豊饒の海』三島由紀夫2017-03-09

2017-03-09 當山日出夫

この春休みの「宿題」にしようとしてあるのが、『豊饒の海』四部作。三島由紀夫である。

『春の雪』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105021/

『奔馬』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105022/

『暁の寺』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105023/

『天人五衰』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105024/

以前に読んだのは、大学生になって、国文学専攻になってからのことだったと記憶する。その当時の新潮文庫版で読んだ。そのとき、このような文学があるのかとは思ったが、この年になって、再読してみることになるとは予想だにしなかった。いや、もう、三島はこれでいい、終わりにしようと感じたぐらいである。

それぐらい、読後感の印象のつよい作品であった。

憶えているのは……「春の雪」の甘美な恋愛小説の雰囲気……「奔馬」のラストのシーン……「暁の寺」のインドの濃厚な描写……「天人五衰」のその最後のことば……などである。

三島由紀夫という作家は、最後にひとこと多いのである。そのひとことが余計だなと感じるか、それで納得するかは、人によって違うかもしれない。が、私は、余計なひとことを書いてしまう作家だという印象で憶えている。

例えば、『午後の曳航』のラストのひとこと。これなど、無い方がいいだろうと、読んだときに思ったものである。

ともあれ、新学期の準備には、まだ時間の余裕がある。次年度から、授業も減ることになる。オンラインで、古書「1円」で買える文庫本でも読んで時間をすごしたいと思っている。花粉症のシーズンなので、あまり外出はしたくない気分でいる。本を読むという生活をおくりたい。そして、それが、あくまでも人文学の基本なのであるということを、確認しておきたいと思っている。

昔、若い時に読んだ本、名作、名著、古典、それから、近年の文学賞受賞作など、再度、読書ということに時間をつかう生活をおくりたいと思っている。

今、『春の雪』を読み始めている。

三島の文章というのは、こんなに華麗な、あるいは、見方をかえれば、虚飾とでもいうべき文章であったかと、今になって再読してみて、感じいっている。昔、若いときに読んだときには、この装飾過多とでいうべき文章は、さほど気にならなかったのだが。

「春の雪」の冒頭近くにある、清水と髑髏の例え話。昔、読んだときも、このエピソードだけは、強烈に憶えているのだが……今でも憶えている……このエピソードが、『豊饒の海』にどうかかわるのか、ある意味での余計なひとことなのか、あるいは、用意周到な伏線として書いてあるのか、そのようなことを考えながら読んでいる。

追記 2017-03-19
『春の雪』については、
やまもも書斎記 2017-03-19
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

追記 2017-03-24
第二巻『奔馬』については、
やまもも書斎記 2017-03-24
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/24/8418304

『帰郷』浅田次郎2017-03-08

2017-03-08 當山日出夫

浅田次郎.『帰郷』.集英社.2016
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-771664-1&mode=1

浅田次郎の短編集である。どの作品も、なにがしかの意味で、戦争(太平洋戦争、大東亜戦争)に関係している。その登場人物の多くは、兵士、元兵士である。あるいは、自衛隊。

買ったまま積んであったのだが、大佛次郎賞を受賞したということなので読んでみた。

大佛次郎賞
http://www.asahi.com/shimbun/award/osaragi/

読んで、一番気にいったのは、タイトルにもなっている作品『帰郷』。本書の冒頭におかれている。

ストーリー、登場人物は、いたって単純。戦後の荒廃した街の風景。そこで必然的にうまれてきた、女……街娼……。そこにとおりかかる、復員兵。彼がものがたる体験談。戦争のはじまるまで、戦争になってから、戦地に行ってから。帰ってから。男は、故郷に、妻子をのこして出征した。それから、病弱だった弟も。彼の所属していた部隊は玉砕したと伝えられていた。その彼が故郷にかえってみると……いかにも、ありきたりの題材ばかりである。ありふれた話しである。

だが、そのありふれた話しが、浅田次郎の語りの手にかかると、ものの見事に一つの物語へと変貌する。その語り口のうまさは、随一といってよいだろう。この小説は、その語りだけで、読者を魅了してやまない。読後には、ある種の文学的感銘が残る。

浅田次郎の文学作品を特徴付けるもの、それは、登場人物の愚直さと、物語の幻想性である、このようなことについては、すでに書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年12月6日
浅田次郎『見上げれば星は天に満ちて』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/16/8276227

この短編集も、このような特徴をもった作品が多く収録されている。戦争、自衛隊、というものにふれながら、時に幻想的に、時にその組織のなかで愚直に生きていくことになる人間を哀惜の念をこめて描く。

ただ、余計なことを書いてみれば、浅田次郎が戦争、軍人、兵士を描くとき、それは、基本的に下士官、兵卒についてである。士官がメインに登場することは、あまりない。登場人物の行動としても、徴兵されてから、幹部候補生になるという道は選んでいない。あくまでも、下士官として、兵隊としての生き方を選択している。このあたり、浅田次郎の、軍隊、兵士についての考え方がうかがえるかと思う。

それから、この短編集のなかの作品では、『不寝番』。この作品では、太平洋戦争の時の軍隊(陸軍)と、現在の自衛隊とが、幻想のなかで融合している。兵士の立場にたってみて、旧軍隊と、自衛隊とを、連続するものとしてイメージする。

浅田次郎が、戦争、軍人・兵士を語るときの視点のおきかたは、上記の二つのところに特徴を見いだせるといってよいであろう。確認するならば……兵士の視点にたって、戦前の軍隊と戦後の自衛隊を連続するものとして見る。これは、著者(浅田次郎)の経歴……自衛隊体験……ということと無関係ではないはずである。現代文学研究、評論において、浅田次郎がどのように扱われているか、門外漢である私には、知るよしもない。だが、ここで述べたような点は、その文学を特徴付けるものとして、注目すべきことがらであると思う次第である。

そして、さらに余計なことを書いてみるならば、浅田次郎は、三島由紀夫を嫌っているようである。いや、すくなくとも、その文学においては、かなり意識していることは、見てとれる。たとえば、初期の代表作、『きんぴか』の「軍曹」の描写などは、三島事件をふまえている。また、『勇気凜凜ルリの色』に所収のエッセイにおいても、三島由紀夫への言及があったかと記憶する。

そして、また、その三島由紀夫も、「兵士」にあこがれを持っていた。

やまもも書斎記 2017年3月5日
『「兵士」になれなかった三島由紀夫』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/05/8391460

その「兵士」にあこがれるが、ついになることはできなかった三島と、現実に自衛隊員「兵士」であった経歴をもつ浅田次郎と、現代文学のなかで、この二人の作家の、「軍隊」「兵士」というものへの意識を、比較・検討してみることは、面白い研究を生むことになるのかもしれない。(私が知らないだけで、すでにあるのかもしれないが。)