『ネット右翼になった父』鈴木大介/講談社現代新書2023-04-15

2023年4月15日 當山日出夫

ネット右翼になった父

鈴木大介.『ネット右翼になった父』(講談社現代新書).講談社.2023
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000374265

面白かった。一気に読んだ。

さて、もし私が死んだ後にネット関係の履歴が残ったとして、残った人たちはどう思うだろうか、とふとそんなことを考えてしまった。今の私のTwitterのタイムラインでは、右翼的発言もあるが、左翼的な発言も同じようにある。私としてはバランスをとっているつもりではいるのだが、傍目に見れば、支離滅裂と言うことになるかもしれない。(そして、私としては、どちらもそんなに信用して見ているわけではない。)

ところで、この本は、家族の物語である。死んだ父親の残したものをどう考えるか、家族の関係を、様々な資料、証言を探しながら再構築していく筋書きになっている。まさに、これは現代の家族の物語であると感じるところがある。

私の読んで感じたこととしては、ネットの閲覧履歴、ブックマークなどから、どれほどその人間の考えていたことが分かるものだろうか、ということがある。それから、いわゆる「ネット右翼」なるものが果たしてどれほど実在するものなのか、考えるところがある。(これは、逆に左翼的な立場についても言えることだろうと思うが。)

亡くなった人間のネット利用履歴から、その人間の人となりを考えてみる、これは、まさに現代的な課題としてあることだと思う。

2023年4月3日記

家入一真『さよならインターネット』2016-09-04

2016-09-04 當山日出夫

家入一真.『さよならインターネット-まもなく消えるその「輪郭」について-』(中公新書ラクレ).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/laclef/2016/08/150560.html

インターネット批判の本というよりも、インターネットがあまりにも生活の中に浸透してしまった状況のなかで、次のステップをどう考えるか、という向きの本といえばいいだろうか。結論は、意外と、というべきか、普通である……いわく「書店に行こう」。

ただ、現状の分析の着眼点は面白い。「はじめに」は、会社でインターンシップで働いていた学生との会話からはじまる。その若者にとっては、インターネットが魅力的とはもはやうつらないようだ。で、こういう、インターネットはハサミのようなものである、と。

スマホが普及し、さらには、「IoT」と言われている現在、インターネットは、わざわざ接続するものではなく、すでにあるもの、その中にいて当たり前のものなってきている。

そのような状況になってきた時代背景の移り変わりの本としては、この本の前半は興味深く読んだ。もちろん、この本の著者より年長である私としては、インターネット以前のパソコン通信の時代から、なにがしか、インターネットには興味関心をいだいて、そして、使って、今日まで来ている。

この意味では、なるほどそういう時代があったな、と共感しながら読む面があった。だが、後半になって、現代から近未来を展望して、ではどうなるのか、となったとき、とたんに魅力が薄れてしまう。何かしら凡庸な一般論を延々と聞かされる感じになってくる。で、とどのつまりは、(先に書いたように)「書店に行こう」である。そんなこと、いまさら言われなくても分かっている。

その書店が、インターネットのせいで減少しているのが、現実の姿なのではないのか。で、どうすればいいのか。結局は、どこかで「リアル」に軸足の片方をおいておくことの重要性というところに帰着する。あるいは、あえてインターネットから距離をおいてみることの必要性とでもなるか。

この本の読後感の物足りなさは、

東浩紀.『弱いつながり-検索ワードを探す旅-』.幻冬舎.2014
http://www.gentosha.co.jp/book/b7968.html

に通じるものがあると感じた。ちなみに、この本のことにも、ちょっと言及してある。

これとは反対に、インターネットの仮想的な世界のなかに、なにがしかの「リアル」を見出していこうという考え方もある。その一つになるだろう、以前にとりあげた、

佐々木俊尚.『21世紀の自由論-「優しいリアリズム」の時代へ-』(NHK出版新書).NHK出版.2015
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000884592015.html

が位置するのかとも思う。

私の立場はというと……今のところ、スマホを持たなくても生活できる生き方を選んでいる。これは、これで、非常にめぐまれた環境にいると思っている。ノートパソコンも使っていない。自分の家の机から離れたときぐらいは、そのようなものから解放されたい。そして、それが可能であり、また、その状況に満足している。

この本のことばにしたがって言うならば、まだ、その「輪郭」をつかめる立場にいるということになる。ならば、しいてその先にいくこともないだろう。今はまだこれが個人の生き方として選択できる時代なのであるから。

Twitter雑感2016-05-20

2016-05-20 當山日出夫

ここしばらく、数年の間、Twitterをかなり使っていたと昨日書いた。今でも、使っている。朝起きてパソコンを起動すれば、メールのチェックと前後して、Twitterを見るのが習慣になっている。昼間でも、頻繁に見たり書いたりしている。

Twitterでも、私は、名前を出している。當山日出夫(htoym)の設定にしてある。(だから、私のことをTwitterで探そうと思えば簡単である。)

Twitterで守っていること、というほど大げさなことではないが、方針のようなものを書いておこう。それは、自分の名前を出して書いてもかまわない範囲のことしか書かない、といういわば自己規制のようなものである。

Twitterは、ある意味で匿名の世界でもある。ほとんどのユーザが、自分の名前を出さないで書いている。しかし、中には、自分の名前を明らかにして書いている何人かの人がいる。そして、たぶん、そのような人の多くは、私はフォローしているし、また、逆に、私のことをフォローする人は、名前を明らかにしている人が多い。大きな傾向からすれば、いわゆる「研究者」に属するような人は、自分の名前をわかるようにして使っていると思われる。

匿名で、言いたいことを言うだけの世界として使うこともできる。しかし、ある程度、自分の氏素性を明らかにした上で、その名前を出して書いてもかまわないと判断されることを書く、これも一つの使い方である。

だからといってたいしたことを書いているわけではない。所詮、140字のメッセージである。書いてることは、ほんの日常的なささいなこと。飼っている猫の様子とか、聞いている音楽のこととか、読んでいる本のこととか(ほとんど、タイトルとごく短い感想に限られるが)、それから、NHKの朝ドラ(今の放送であれば、『とと姉ちゃん』である)の感想などである。

これも、ある意味で、結構、気晴らしにはなっていると自分でも思う。疲れて帰ってきてぐったりしているようなとき、「パトラッシュ」と書いてみたり。(さすがに、これは、最近ではやっていないが。)

一方で、これは書かないと決めていることもある。政治的なことは基本的に発言しない。私なりに、今の政治状況について何も意見が無いわけではない。しかし、これについては、原則的に、黙っていることにしている。

それは、Twitterの140字の限定では、政治的なことについて、その意見を持つにいたった背景までふくめて、説明することが難しいと感じるからである。結論だけ言うのは簡単である。しかし、政治的な言明というのは、結論よりも、なぜ、そのように考えるのか、背景について述べることではないだろうか、と思うのである。

結論だけを言う、レッテルをはることは、簡単である。今の政権に対してであれ、野党(民進党・共産党など)に対してであれ。しかし、何故、私はそのように考えるのかについて、理由を説明するには、不向きだと感じる。いや、自分の立場に同じ意見をながめて、共感するだけに終わってしまいかねない。(そのこともあって、私の場合、あえて、できるだけ多様な立場の意見の表明を目にするようにしている。意図的にそうしてきたというわけではない。使いはじめてから、あまりえり好みせずにフォローしていったら、結果的にそうなっているということなのだが。)

それから、FACEBOOKも設定はしてある。無論、これは、當山日出夫の名前で登録してある。(でも、あまり使っていない)。

ここで結論めいたことを書いてしまえば、近年の、そして、これからの、バーチャルな空間において、「情報発信」と「コミュニティの形成」、このバランスをどのように考えるか、このあたりが、TwitterやFACEBOOK、それから、ブログなどの、これからを考えるカギになるだろう。

FacebookとTwitter2011-03-28

2011-03-28 當山日出夫

いま、いろいろ考えているのが、FacebookとTwitterのつかいわけ。まあ、つかっているうちにどうにかなるだろうとおもっているが。

Facebook 當山日出夫

Twitter htoym

となっている。ある程度以上の利用になれば、おのずと使い分けのルールが自分の中にできてくるかと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

ウィキペディアから見えるアートの世界2011-02-08

2011-02-08 當山日出夫

AMeeT(日本写真印刷文化振興財団のWEBマガジン)に書いたので、ここで紹介しておきたい。

ウィキペディアから見えるアートの世界

http://www.ameet.jp/digital-archives/digital-archives_20110204/#page_tabs=0


ウィキペディアについてはいろいろあるだろうけれど……私の思ったことを記すならば、すくなくとも、日本語版のウィキペディアについていうならば、日本における学知の継承とはどのようなものであったかについて……そのあたりをふまえた展開ができるとよいのではないだろうか。

教育や学問の社会的な文化的なあり方というのは、国・時代にによってちがう。日本には日本なりのありかたがある。その日本のあり方をふまえたものでなければ、次の発展にはむすびつかないように思えるのである。

だからといって、昔ながらの師弟関係こそ大事であると、短絡的にいうつもりはない。だが、そのようにして蓄積されてきた「知」もあるのだということをふまえて、さらに、次の展望を語るべきであろう。

當山日出夫(とうやまひでお)



ウィキペディアとISBN2011-01-27

2011-01-27 當山日出夫

ウィキペディアについてはいろんな意見がある。その中の一つとして、ざっくりとした概略をつかむのに便利というのが、ある。あるいは、参考文献や関連リンクなどをたどる入り口としての利用、である。

このときに有効なのが、ISBNが記してあるかどうか、ということ。

参考文献にISBNが記載してあると、そこから、書籍情報源にリンクすることなる。そして、ここからは、

PORTA(国立国会図書館)
Webcat Plus(国立情報学研究所)
カーリル

などに、リンクしてある。また、Amazonなどにも。

いくら、ウィキペディアの情報が信用できないという発想の人間でも、国立国会図書館の「PORTA」まで信用しない、ということはないであろう。国立情報学研究所の「Webcat Plus」も同様。図書館でさがすとなると、「カーリル」の利用になるだろう。

私自身、特に、ウィキペディアの記事であるから信用するということはない。しかし、このサービスは、非常に便利であると思う。あるいは、今後、ウィキペディアが発展していくには、記事の記述内容そのものよりも、より適切な参考文献を掲示してあって、ISBNから、各種の検索機能をつかえる……このような方向があるのではないかと思っている。

特に、人文学の場合、先行研究、参考文献をどのように探すか、ということが基本にある。この観点から見るかぎり、ウィキペディアの利用には、新たな側面があるように思える。

極端にいえば……そこに書いてあることは、そこそこの概略が書いてあればいい。しかし、参考文献がきちんとしている。なにしろ、ネット上の記載であるのだから、特に制限があるというわけではない。また、参考文献として名称を記載するのに、著作権の制約があるということもない。

私の場合、(少なくとも日本の)ウィキペディアの今後の発展の一つの方向として、参考文献(ISBN)の充実という方向があるように思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

ウィキペディアとブリタニカ2011-01-26

2011-01-26 當山日出夫

これは危険である……と、思わざるをえない。

学生にレポートを書かせてみた。ウィキペディアについてのものである。そのなかで、幾人かが書いていたこと……ウィキペディアは、ブリタニカに匹敵するだけの正確さをもっているので十分に信用できる。

さて、これは、ただしいことだろうか。

このこと、「ウィキペディア ブリタニカ」で検索してみればわかる。調査したのは、ネイチャー誌。項目は、自然科学にかかわる42項目。(いいかえれば、すべての項目にわたって網羅的に調査したというのではない。そんな労力があったら、新しい百科事典がつくれてしまう……)。

日本語版のウィキペディアの記事を、いくつか見ただけで、書きかけの項目、不十分な記載で問題があると指摘されている項目、いくらでもみつかる。

ところが、この言説=ウィキペディアは正しい、が一人歩きしてしまている。そりゃ、項目をえらんで調査すればそうなるだろう。特に、自然科学の分野では、ある程度の、百科事典的な、あるいは、教科書的な記述の基本がある程度あるだろう。そのようなものと、文学部で学ぶ人文学の世界とを、同列に、無批判にあつかうというのが、そもそも、問題なのではないのか。

甲論乙駁、議論が錯綜して、両論併記さえできないようなのが、人文学の複雑な学知の基本にある。(少なくとも私は、そのように思っている。)百科事典的な、教科書的な、おとしどころのある記載、それもなくはないだろうが、その先を考えるのが、勉強である。

この意味では、執筆責任者がその責任で書いたうえで、各種の参考文献をあつめてくれておいてくれた方が、ありがたいともいえる。不適切な要約は、かえって誤解をまねきかねない。自分で、原典をあたって読んでみるしかない。

基本となる知識があることは否定しない。だだ、そこから、一歩ふみだして何かを語ろうとしたとき、そこに、やはり書き手の解釈のはいりこむ余地がある。いや、逆に、解釈がなければ、人文学の知について書かれた文章ではないともいえよう。

そこに、どのような形で、匿名性にもとづく信頼感をきづいていくのか、課題は、さらに先にあると思うのである。百科事典的な知識とはそもそもなんであるか、このところについての基本的な問いかけから、まず、考えていかねばならないのだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

ウィキペディアを考える三つの視点2011-01-26

2011-01-25 當山日出夫

先日の、ウィキペディア10周年の会で話したこと、特にその結論部分を、まとめておく。

結論を整理すると以下のようになる。いまのウィキペディアについての議論は錯綜している。それを整理するならば、(特に、教育、それも高等教育という観点から考えてみよう、)

第一に、ウィキペディアからであれ、なんであれ、剽窃(コピペ)はダメであるということ。ウィキペディアからのコピペ(剽窃)がよく話題になる。しかし、剽窃がいけないのは、別に、WEBにかぎったことではない。紙の本からだって、書いてあることを、そのまま、ことわりなしに、書き写しておくのは厳禁である。きちんと「引用」し、さらに、その「出典・典拠」を明記しなければならない。これは教育の基本。

第二に、信頼できるかどうか、という点。ウィキペディアだから信用できない、という判断は、短絡的にすぎるであろう。なかには信頼にたる項目もあるはずである。それらを、きちんとみわけていくのが、むしろ専門教育のなかでの有効な利用ではないか。特に、「履歴」「ノート」の箇所を、きちんと読んでいくならば、どのようにして、専門的な知識が形成されていき、どのあたりで、百科事典的な知識としてのいきつくところがあるのか、考えてみるのも面白いかもしれない。

もちろん、なかには、信頼のおけない項目もあるだろう。それはそれとして、なぜ、信用できない記述であるのかを考えることにも意味がないわけではないであろう。(強いて、それを、訂正加筆せよ、とまでは言わないにしても。)

第三に、安定しているかどうかの問題。これが一番こまるところである。知識は、一度固定され安定した状態になってはじめて、次世代に継承される基盤となりうる。それが、時としては、一日のあいだに、10回以上も書き換えられてしまうようでは、とても、安定した知識とはいえない。

まちがっていてもかまわないから安定した知識である……このことにも、十分な知的活動に資する意味があるのである。ただ、常に最新版であることだけに、価値があるのではない。また、最新版=ただしい、とも限らない。

これは先に記した、「引用」の問題とも関連する。いつ、だれが見ても、そこに同じ記述が見いだせるものでなければ、検証可能性を保証するものとして、典拠として、引用できない。まちがっていてもかまわないから、安定したものである必要がある。まちがいは、まちがいの事例として引用できるのである。

極端にいえば……日本史研究者の仕事は、『国史大辞典』をただすことであろうし、日本語学研究者の仕事は、『日本国語大辞典』の記載を訂正していくことにあるともいえよう。これらの場合、十分にただしいとはいえないものとして、そこに安定して共有できる知識としてあるからこそ、その仕事の対象とできる。これが毎日のように、記載の内容が変更されるようでは、研究の資料にならない。

以上、三つの視点が、ウィキペディアについて考えるときに、みなければならない観点であると、私は考える。すくなくとも、どのような観点から、ウィキペディアを批判するか(あるいは肯定するか)について、自覚的である必要があろう。

この他にも、いくつか論じてみたい論点はあるが別に記すことにする。

當山日出夫(とうやまひでお)

ジャパンナレッジ フレンドシップセミナー2010-07-16

2010-07-16 當山日出夫

去年、Wikimediaのカンファレンスで、名刺を交換した縁である。ネットアドバンスから連絡があって、ジャパンナレッジ フレンドシップセミナー というものに行ってきた。

会の趣旨としては、主に、大学図書館などの契約者にあつまってもらって、ジャパンナレッジのより効果的な利用法を考えようというもの。年に、何度か、各地で開催しているらしい。今回は、京都であったので、たまたま、よんでもらったという関係。

実際に行ってみると、個人で契約して利用しているというのは、私だけだったようだ。ジャパンナレッジの今後を考えると、法人契約をたくさんとることも大事であるが、より将来的には、個人契約者を増やす戦略的なとりくみが必要だろう。

これから、国史大辞典(吉川弘文館)、それに、日本古典文学全集(小学館)が入る。古典文学全集は、まだ、『源氏物語』だけだが、順次、コンテンツが増えて行く予定。それに、東洋文庫(平凡社)もある。

これは、「電子書籍」と言ってもいいだろう。いま、Kindle、iPadで、もりあがっている電子書籍ブームとは別のところで、日本の人文学の学地の基礎をなす部分のデータが、すこしづつではあるが、ジャパンナレッジというところに蓄積されつつある。

ベストセラーの小説もいい、雑誌のデジタル書籍化もいい。だが、それだけに目をうばわれていてはいけないと思う。もう少しひろい視野にたって、書籍のデジタル化とその利活用について考えてみたい。

昨日は、津野海太郎さんの講演もあった。そして、今日(16日)は、国立国会図書館(関西館)で、「電子図書館の可能性」の講演会である。長尾真館長の講演もあれば、一方で、中俣暁生さんの話しもある。

ブックビジネスと、電子図書館と、どこでどのようにつながっていくのか。そして、ジャパンナレッジのようなサービスの今後の展開はどうなっていくのか。より広い視野から考えなければならないと思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

ブログ論壇だけでいいのか2010-05-20

2010-05-20 當山日出夫

「ブログ論壇」……これは、佐々木俊尚氏の著書につかわれた名称でもある。

佐々木俊尚.『ブログ論壇の誕生』(文春新書).文藝春秋.2008

その後、佐々木さんは、『マスコミは、もはや政治をかたれない』(講談社、2010)などを出して、その方向をつよく打ち出している。

ここで、先日、引用したことばを再度引用しておく。『中央公論』6月号から、
「アメリカに見る新聞がなくなった社会」(河内孝)、アリアナ・ハフィントンの発言として、

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私たちが今日、ここで議論すべきは、どうやって(既存の)新聞社を救うか、ではなく、どうやって多様なジャーナリズムを育成し、強化するのか、ということであるべきです。なぜならジャーナリズムの未来は新聞社の未来とは何も関係ないからです。

続けて彼女は、「新聞以後の」新しいジャーナリズムを創造するために二つの道を提示した。

(p.164)

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その二つの道とは、「職業訓練を受けた記者が、地域住民と対話を繰り返しながらニュースを作り上げてゆくパブリック・ジャーナリズムを助成すること」であり、「新しく生まれるNPO組織「調査報道基金」活動を充実させてゆくこと」、とある(p.164)。

既存の新聞のあり方も、日本とアメリカでは大きく異なる。そして、その次に何がくるのかも、また、日本とアメリカで大きく異なっているだろう。ただ、少なくともいえることは、どのような場合であっても、ジャーナリストとしての専門的訓練をうけた人間による地道な調査報道は必要である、ということである。

それを、はたして、「ブログ論壇」は達成できるだろうか。

強いていえば、何かについて論ずることは、多種多様な意見のあるブログの中に見いだせるだろう。しかし、その基本となる、一次資料にもとづく、現場の取材となると、それは、そのプロ(あるいは、専門家)の世界を信用することになるのではないか。

といって、既存の、たとえば、記者クラブ制度を温存しようというわけではないのは、もちろんである。むしろ、このような既存の一種の既得権益のようなものを超えたところに、新しいジャーナリズムが生まれるべきであるし、また、「論壇」「議論の場」が育っていくべきであろう。

どのような方向で考えるにせよ、これまでの新聞や総合雑誌の行方はわからない。強いていえば、明るい未来はない。しかし、それを、「ブログ論壇」がとってかわるかといえば、そんなことはないと私は思う。この広大なWEBのなかで、「ブログ論壇」の地図をつくる、道案内をする人が必要にもなってくるであろう。もちろん、現場取材による調査報道も必要である。それは、やはり、その「専門家」ということになる。

今は、かろうじて、その一次資料の調査報道を既存の新聞などが担っている、という段階。しかし、それを、どう解釈するのか、その資料の利用については、もはや、新聞などだけでは、ゆきづまっている状態、といっていいのかもしれない。だから「ブログ論壇」が成立しうる。

私は「ブログ論壇」に期待はしても、過剰な信頼はしないようにと思うのである。まずは、自分自身が、何によって、自分の意見をなりたたせているか、その情報源が何であるか、やはり、既存の新聞、マスコミのちからは大きいといわざるをえない。だが、それを、鵜呑みに信用するということとは別である。

當山日出夫(とうやまひでお)