『ひよっこ』におけるリテラシ2017-08-11

2017-08-11 當山日出夫(とうやまひでお)

昨日にひきつづいて、NHKの朝ドラ『ひよっこ』について書いてみる。リテラシについていである。識字/非識字といってもよい。

父親(実)を保護していたのは、女優の川本世津子であった。その世津子が、先週だったろうか、このようにいっていた……自分は学校に行っていない、でも勉強した、と。

時代は、昭和40年代の初めである。そのころに女優として活躍していたのなら、おそらくは子役のころから、映画など芸能界で生きてきたのかもしれない。であるならば、子供のころには、ろくに学校に通うこともできなかったことは、推測できる。

その世津子から、みね子に手紙が来た。父親(実)を病院につれていったことなどが書かれていた。その手紙、テレビの画面に映ったものをみると、平仮名が多く、文字もなんとなく幼い感じがした。この手紙は、学校に通えなかったという設定の、世津子ならではの手紙という演出だと思ってみていた。

しかし、その手紙の内容、文面は、実に懇切丁寧なものであった。学校には通えなかったが、勉強はしたという印象のある手紙だった。

ところで、朝ドラとリテラシといって思い出すのが、私の場合であれば、『おしん』である。

おしんは、学校に通っていない。奉公先の主人(女性)から、見込まれて字を習っていた。その母親は、文字が読めない。娘のおしんから手紙が来ても、近所の人に読んでもらっていた。また、おしんが、東京に出て髪結いの仕事をしていたとき、カフェの女給たちの、手紙(ラブレター)の代筆をしてやっていたりした。つまり、その当時のカフェの女給は、文字の読み書きができないという設定であった。

私は、昭和30年(1955)の生まれである。その時代の経験からいって、芸能界にいて、文字の読み書きが不自由であるという話しは、決して珍しいものではなかったと憶えている。誰がと特定して憶えているわけではないが、文字の読めない人というのは、決してゼロではなかった。

現在、日本の識字率はきわめて高い。一部の障害といってよいか……ディスレクシア……など、をのぞいて、ほぼ100%に近い識字率がある。だが、それが達成できたのは、つい近年のことでもある。

このこと……日本の近代社会におけるリテラシの問題については、以前、少しだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

近代社会において、文字の読み書きから疎外されていた人びとが、少なからずいたことは、忘れてはいけないことであると思っている。

形容詞「あづし」2017-07-22

2017-07-22 當山日出夫(とうやまひでお)

『源氏物語』の新しい岩波文庫版をパラパラと読んでいたら、ふと目にとまった。

やまもも書斎記 2017年7月20日
『源氏物語』岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/20/8623970

物語の冒頭、桐壺更衣が病気になるところ。

「いとあづしくなりゆき」(p.5)

昔読んだ本では、たしか「あつし」だったと思って注を見ると、ここは「あづし」と濁音になっている。典拠は、名義抄と色葉字類抄の「支離 アヅシ」とある。

ねんのためと思って、ジャパンナレッジの日本国語大辞典をひいてみることにした。

すると……「あづし」ではヒットしない。「あづい」でもない。ひょっとすると「あつい」かなと思って、この項目を見るが、該当する説明がない。

しかたないので、紙の本の日本国語大辞典(第二版)をひいてみた。まだ、これは、私の部屋で机に座って手のとどくところにおいてある。紙の辞典の方の項目をおっていくと、「あつし」のところで目がとまった。『源氏物語』のこの箇所の語である。読んでみると、「あづし」の語形もあると書いてある。

このことば、紙の本の辞典を見た方が、簡単に解決がついた。デジタル版(ジャパンナレッジ)は、たしかに便利である。しかし、検索の見出しが、一字ちがうだけでヒットしない。このあたり、日本国語大辞典の編纂方針を再度確認しておいて、頭にいれておかないといけないと思った。ここしばらく、ジャパンナレッジばかり使っていたので、見出しの語形の方針のことを、すっかり忘れてしまっていた。

デジタル版が、紙のものをそのままデジタル化しただけでは、ちょっと使いづらいところがある。この点は、改良の余地があるだろうと思う。その一方で、デジタル版が使えるからといって紙の辞典が不要になることはない。検索のためには、紙の辞書の見出しの一覧性というのは、非常に有効である。

これが、国語辞典であるから、なんとかなったようなものかもしれない。漢字の辞典だったら、一字違う、つまり、文字コードが違うだけで、目指す漢字にたどりつけない。また、デジタル版辞書の字体・字形・フォントデザインの問題もあるだろう。何をもってして「同じ字」とするのか、改めて問いかけてみなければならなくなる。

デジタル版辞書の課題がひとつ確認できたような気がする。

『ひよっこ』における方言(その二)2017-07-14

2017-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKの朝ドラ『ひよっこ』における方言使用のことについて、ちょっと以前に書いてみた。

やまもも書斎記 2017年6月26日
『ひよっこ』における方言
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/26/8604596

みね子と島谷がデートした。そのシーンであるが、みね子は相変わらずの茨城方言が抜けていない。その一方で、島谷は、故郷(佐賀)のことばを話さない。共通語で話している。

その前の回。みね子と島谷たちが、バー「月時計」にあつまったとき。この時も、島谷は、自分の故郷の方言を自らは口に出していなかった。女性店主が、言ってみせて、「完璧です」と言っていた。

また、地方出身でありながら、共通語で話しているのは、早苗。バーのシーンで、東北(一関)の出身であると言っていたが、彼女もまた、方言を話さない。

どうやら、このドラマ、登場人物によって、その出身地の方言を話す/話さない、の違いを設定しているようだ。

乙女寮で働いていた女性たち、彼女たちは、みなその出身地の方言を話している。東京にでてかなり時間がたっているはずなのに、変化していない。また、富山出身の漫画家志望の青年二人も、富山方言で話している。

一方、慶應の学生である島谷、一応は自立した生活を送っているOLの早苗は、方言を話さない。

これを、社会的階層と方言使用という観点から考えると、かなり興味深い。

このドラマ、ひょっとすると方言がこれからの展開のキーになるのかとも思っている。みね子たちが乙女寮の同窓会をしていたとき、ふと現れた女優(菅野美穂)に、時子は、その方言を指摘されていた。

しかし、時子は女優を志して劇団にも所属して稽古にはげんでいるという設定。なのに、自分の方言に無頓着であるということは、どう考えてもおかしい。

店で働いているみね子の場合も、お客さんに接するとき、その方言が抜けていない。これは、接客業としては問題ないのだろうか。少なくとも、みね子は、自分の方言にコンプレックスをいだくということは、基本的にない、ということになっている。

女優(菅野美穂)の茨城方言への関心……茨城方言を話す登場人物、みね子、時子、それから、失踪している父親・実……これらをむすびつける糸になりそうである。

『ひよっこ』における方言2017-06-26

2017-06-26 當山日出夫

昨日につづき、NHKの朝ドラ『ひよっこ』について。

このドラマで、興味深く思って見ていることは、方言のとりあつかいである。これまで、朝ドラでは、いろんな地方を舞台にしてきた。地方を舞台にすれば、当然ながら、その地方色のための方言の使用ということになる。

たぶん、朝ドラの歴史のなかで、近年、方言について、画期的な方針をとったのは、『あまちゃん』(2013前、宮藤官九郎脚本)からではないかと思ってみている。このドラマでは、方言が、ただその地方色を出すためのものではなく、もっと積極的に、その地域のアイデンティティの自覚的表現として、つかわれていた。

それは、登場人物でいえば、春子(アキの母、小泉今日子)が、地元に帰ってスナックで仕事をするようになったとき、突然、北三陸方言を話すようになったことからもうかがわれる。それまでや、東京で芸能事務所をやっているようなときは、東京方言で話していた。

『ひよっこ』でどうだろうか。奥茨城方言を、かなり積極的につかっているようである。そして、重要なことは、ヒロインのみね子は、奥茨城方言にコンプレックスをいだいていないということである。

最初、上京してきてつとめた電機工場(向島電機)では、寮に入っていた。そこの仲間たちも、その出身地の方言(青森とか福島とか)を、話していた。まあ、これは、工場の従業員であるから、方言で話すかどうかは問題にならなかったともいえよう。

その後、みね子は、失業、転職ということがあって、レストラン・すずふり亭で働くようになる。ホール係。これは、接客業である。お客さんに接するのに、奥茨城方言のままでは、どうかなという気もしないではないのだが、ここも、特に問題がないように描いている。

それから、方言について興味深い登場人物が他にいる。

佐賀出身の大学生。慶應の学生という設定。彼は、佐賀出身ということだが、その地方の方言をまったくつかっていない。慶應の学生に、佐賀方言はにつかわしくない。東京の大学生としては、東京方言を話す、ということなのだろうか。

それに対して、富山出身の青年。どうやら漫画家としての才能にはめぐまれていないようだが、話していることばは、富山方言である。

さらに、興味深いのは、バー「月時計」。ここの店主(女性)は、方言の勉強をしているという。地方から東京に出てきたような客に対応するため。方言で話しをすると、お客さんが安心するからだという。ここでは、方言を使うことが、コンプレックスではなく、むしろ、積極的な意味を持つものとしてある。

ところで、地方から東京に出てきた人びとの、方言コンプレックスというのは、少なくとも、1970年代まではあったはずである。

たとえば、「赤いハイヒール」(太田裕美)。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=53838

「そばかすお嬢さん故郷なまりが それから君を無口にしたね」

これは、1976年である。ちょうど私が、東京にでて大学生活をはじめたころのことになる。私の場合、京都(宇治市)の出身であるので、方言コンプレックスを感じるということはなかったが、地方から出てきた学生には、なんとかして、東京方言(共通語)を話そうという雰囲気があったように記憶している。

映画「三丁目の夕日」は、1960年代が舞台である。『ひよっこ』よりは、すこし前の時代設定になる。この映画では、地方(青森)出身者の方言コンプレックスというべきものが、そんなに強くではないが、やんわりと表現されていたように憶えている。

さて、『ひよっこ』である。1960年代を舞台にした、このドラマにおける方言の描き方は、かなり特殊であるといえるかもしれない。実際の1960年代の東京で働く地方出身の人びとにとっては、方言の問題は、かなり深刻な面があったかと思う。だが、このドラマは、それを描かない。逆に、方言の使用をきわめて肯定的に描いている。

時代考証というような観点からは問題があるのかもしれないが、ドラマにおける方言の使用のあり方の事例としては、きわめて興味深いものであると思ってみている。

なお、上に、佐賀出身の慶應の学生が方言を話さないということを書いた。これは、たとえば、明治時代『三四郎』(夏目漱石)において、九州出身の小川三四郎が、まったく方言をつかわない、東京のことばで、広田先生などと話していることと、並べて考えてみるべきことかもしれない。地方出身で東京に出てきている大学生は、もう東京の人間ということになるのであろうか。

追記 2017-07-14
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月14日
『ひよっこ』における方言(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/14/8620043

『椰子の実』の歌詞を誤解していた2017-05-20

2017-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

私は、どうやら『椰子の実』(島崎藤村)の歌詞を誤解していたようだ。

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。その中で、コーラスのシーンがある。今週は、『椰子の実』が歌われていた。

ヒロイン・みね子の働くような職場で、合唱がおこなわれていたことの背景については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年5月19日
『うたごえの戦後史』河西秀哉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/19/8565235

この放送では、歌詞もでていたのだが、次の箇所、

「おもいやる やえのしおじお」

この「しおじお」は、「汐々」であった。ここを、私は、てっきり、「汐路を」であると思ってこれまで聞いていた。

海岸にたどりついた椰子の実が、これまではるばる旅をしてきた海の道について思いをはせているのだとばかりおもっていた。これは、誤解だったようだ。(強いていえば、「汐々」であっても、「汐路を」であっても、そんなに意味は変わらないかもしれない。)

WEBで確認してみると、「汐々」となっている。

椰子の実
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yashinomi.htm

この曲、自動車のなかで聞くことにしているCDにもはいっている。薬師丸ひろ子が歌っている。アルバム「時の扉」に収録。これを、MP3にして、SDカードにいれて、自動車のなかで聞いたりしている。

たぶん、この他にも誤解している歌詞はたくさんあるのだろうが、たまたま気付いたので書き留めておいた次第である。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)2017-05-08

2017-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月6日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/06/8545571

トーマス・マン.望月市恵(訳).『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

この小説を読んでいて気になったことをちょとだけ。

第一は、「コンズル」ということばについてである。読み始めて、最初のうちは、このことばは固有名詞(人名)だと思っていたが、そうではない。読んでいくと、「コンズル」といわれる人物がたくさん出てくる。そのうちで、もっとも頻繁に出てくるのが、この小説の一族の長としてではあるが。

ジャパン・ナレッジで「コンズル」を検索してみた。すると、

男性名詞
1.領事
2.(古代ローマの)執政官
ポケットプログレッシブ独和辞典

とある。「領事」とあるだけではよく分からないのだが、読んでいくと、当時の「市民社会」において、一定の地位にあることをしめす称号のように読み取れる。

このことば、この『ブッデンブローク家の人びと』という小説を理解するうえでは、きわめて重要なことばだと思うのだが、なぜか、訳注とか、解説とかはない。たぶん、今、この小説を翻訳するならば、丁寧な注か解説をつけるべきことばになるだろう。

この本(翻訳、岩波文庫)の出た当時であれば、この程度のドイツ語は、一般教養として知っているということが前提であったのかもしれない。

第二は、「舌鼓」の用例である。

やまもも書斎記 2017年4月22日
「舌鼓」は「したつづみ」か「したづつみ」か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/22/8496134

このことばが、『ブッデンブローク家の人びと』の翻訳文中にも登場する。

上巻、p.236

下巻、p.54

に、「舌鼓」の漢字に「したづつみ」と振り仮名がある。

だからといって、「したづつみ」の方が正しいと主張するつもりはない。両方の語形が行われているなかで、その片方「したづつみ」の使用例として、あげて記録にとどめておきたいのである。

追記 2017-06-05
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月10日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/10/8552184

「舌鼓」は「したつづみ」か「したづつみ」か2017-04-22

2017-04-22 當山日出夫

『楡家の人びと』(北杜夫、新潮文庫版)を読んでいて、付箋をつけた箇所がある。それは、「舌鼓」のルビの箇所である。

第三部の167ページ。「舌鼓」に「したづつみ」とルビがある。

このことば、「したつづみ」なのだろうか、それとも、「したづつみ」なのだろうか。私のことばとしては、「したづつみ」で憶えている。だが、世の中の趨勢としては、「したつづみ」の方が優勢のようにも観察される。そんなに注意して見ている、聞いているというわけではないのだが、このことばは気になっていることばのひとつである。

その理由は、若いとき、東京に住んでいたころのこと……私の国語学の先生……山田忠雄という……と話しをしていて出てきた。「したづつみ」のように、複合語になって濁音の位置が移動する例がある。この他には、「せぐくまる」がある。

このことの経験が、記憶にのこっている。そのせいか、テレビなどで、「舌鼓」ということばが出てくると、どっちで言っているか、注目する。

ただ、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見ると、「したつづみ」の方がただしいとある。見出しは「したつづみ」。そして、「誤って「したづつみ」とも。」とある。初出例は、日葡辞書。語誌のところに、「したづつみ」は、転訛した語形であると記してある。

現代日本語においても、まだ「したづつみ」の使用例があるということの一例として、『楡家の人びと』の用例をあげておきたい。

追記 2017-05-08
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月8日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/08/8548850

28回「東洋学へのコンピュータ利用」でいいたかったこと2017-03-12

2017-03-12 當山日出夫

3月10日は、京都大学人文科学研究所で、第28回「東洋学へのコンピュータ利用」。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2017.html

私の話しは、最初。
「JIS仮名とUnicode仮名について」

これは、去年の表記研究会(関西大学)で、「JIS仮名とユニコード仮名」というタイトルで話をしたものに、再整理して、テーマを、仮名のコード化ということにしぼって、さらに、用例・実例などを、追加したもの。表記研究会では、主に、日本語学研究者を相手だった、今回は、うってかわって、コンピュータや文字コードの専門家があつまる会。

話しの内容の基本は、私の書いているもう一つのブログ「明窓浄机」で書いたことである。

明窓浄机
http://d.hatena.ne.jp/YAMAMOMO/

基本的な主な内容は、すでにここに書いてこと。それに対して、今回特に付け加えて言ったこととしては、ちょっとだけ、最後の方に追加したことがある。それは……翻刻とはどういう行為であるのか、そして、翻刻と文字コードとはどう考えればよいのか、ということ。

今回の研究会、最後の発表が、

永崎研宣(人文情報学研究所)
Webで画像を見ながら翻刻をするためのいくつかの試み

この発表の趣旨は、主に、IIIFによる、画像データの処理。これはこれで、非常に興味深いことなのだが、その先の具体的な話しになると、「翻刻」「翻字」「釈文」というのは、いったい何なのか、という議論の世界がまっているはずである。

常識的に考えて、写本・版本の漢字・仮名を、現在の通行の漢字・仮名におきかえる仕事、といってしまえば、それまでであるが、この時、考えなければならないいくつかの問題点がある。

漢字は、現在の通行字体(常用漢字体)にするのか、それとも、いわゆる正字体(旧字体)にするのか、という問題がある。これは、単純に置き換えることのできな場合がある。

それから、変体仮名の問題がある。全面的に変体仮名が縦横につかわれている近世以前の版本・写本を、現在の通行の仮名字体になおす、これはいいだろう。

ところが、明治以降、近代になってから、活字印刷がはじまってから、変体仮名活字というものが、使用されている。これを、どのように、翻刻するべきなのか。これから、議論しなければならない論点になってきている。

近代になって、特に、戦後、仮名は非常に整理された状態になっている。変体仮名を使おうと思っても、その活字、また、フォントが無い、という状態であった。それが、今般、変体仮名のユニコード提案という事態になって、変体仮名を翻刻につかえる可能性が出てきた。

では、明治時代ぐらいの書籍などで、変体仮名活字がつかわれている場合、そのまま変体仮名で表記するのか、それとも、現在の通行の仮名字体にするのか、新たな判断が求められるようになってくるだろう。

現在でも、古典籍の翻刻などにおいて、「ハ」「見」は、「は」「み」にせずに、漢字の字体を使用するというような慣習がある。(詳しく調べたわけではないが、これは、私の学生のころから、ひろくひろまってきた慣用的な方法のように理解している。)

そして、このような翻刻の方針について、異論を述べる人も現在でもいる。

翻刻における漢字字体の問題、仮名の問題(変体仮名)、このような問題に、すぐに正解があるということではないであろう。あつかう文献の種類や、その翻刻の利用目的に応じて、様々な方式があるとすべきである。だが、これから、本格的に、近代の活字資料の翻刻、デジタルテキスト化ということをむかえて、このことについて、改めて議論を重ねていく必要があるにちがいない。

「しれっと」は海軍用語か2017-02-13

2017-02-13 當山日出夫

島尾敏雄の『魚雷艇学生』を読みながら、付箋をつけた箇所。「しれっと」の用例である。

島尾敏雄.『魚雷艇学生』(新潮文庫).新潮社.1989 (新潮社.1985)
http://www.shinchosha.co.jp/book/116404/

以下、引用である。〈 〉は原文傍点。

私が頼りにしていたのは、誰だったか教官の一人に教えられた、青年士官はどんな逆境にも〈しれっ〉としておれ、という心得の言葉であった。〈しれっ〉とするというのは動じないで平気な様子を保っていること指すと思われた。〈しれっ〉としているように装うことで私はやっと何かを支えている気持になってきたのだ。(p.53)

ちなみに、『日本国語大辞典』(第二版、ジャパンナレッジ)では次のようにある。

物に動じないさま、けろっとして何も問題にするものはないという態度であるさま、また、何事もなかったように厚かましくふるまうさまを表わす語。

初出例は、1967、井上光晴、である。

確かに、初出例という点では、日本国語大辞典の用例の方が古い。だが、島尾敏雄の書いていることからは、この「しれっと」のことばは、海軍用語として戦前・戦中からつかわれていたとおぼしい。

なお、私の記憶では、この「しれっと」のことばは、吉田満もその著作のどこかでつかっていたと憶えている。島尾敏雄、吉田満の用例から考えるならば、海軍用語として考えてもいいだろう。つまり、その用例をさがせば、戦前のものに遡りうるということである。

その用例を戦前の文献に探すことは、難しいものかもしれない。しかし、戦争の手記、回顧録などを見ることによって、確認できるだろうか。少なくとも、海軍用語としての「しれっと」という解説は、辞典にあってもよいように考える。

「歌姫」の用例をすこし2017-01-11

2017-01-11 當山日出夫

『アンナ・カレーニナ』を読んで、気になったことばがあったので、付箋をつけておいた。

トルストイ、木村浩(訳).『アンナ・カレーニナ』(上・中・下)(新潮文庫).新潮社.1972(2012改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206001/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206002/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206003/

ひろったことばは「歌姫」である。該当箇所を〈 〉で示す。

オブロンスキーはもう伯爵夫人を相手に、新しい〈歌姫〉の話しをていた。
上巻 p.162

有名な〈歌姫〉が二回目に出るというので、上流社交界の全員が劇場に集まっていた。
上巻 p.315

この〈歌姫〉の才能の特色について人から何百ぺんと聞いたことを繰り返しはじめた。
中巻 p.339

他にもあったのかもしれないが、気のついたのは以上である。

「歌姫」の語、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)では、語釈(1)の「歌を巧みにうたう女。また、芸妓をみやびやかに呼ぶ語。」では、用例が示してあるが、語釈(2)の「女性歌手。女流声楽家。」には用例が無い。

上記、『アンナ・カレーニナ』の訳文の用例は、どちらに該当するであろうか。

女性歌手という意味でつかう場合と、芸妓の別称とは、分けて考えた方がよいかもしれない。

なお、中島みゆきの『歌姫』は、アルバム『寒歌魚』に収録。これは、1982年。