『「ひとり」の哲学』山折哲雄2017-01-05

2017-01-05 當山日出夫

山折哲雄.『「ひとり」の哲学』(新潮選書).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/603793/

この本、Amazonの評価がまっぷたつに分かれている。高く評価するひとと、まったく評価しないひとと。で、このように評価の分かれる本は、案外面白かったりするものなので、読んでみることにした。

タイトルに「哲学」とある……だが、「ひとり」をあつかった、体系的・論理的な哲学的考察をもとめると、がっかりすることになる。この本は、決してそのような内容ではない。むしろ、「ひとり」ということばに触発されて、いろいろと思いをめぐらせた随想とでも読めば、それなりに納得できるところもある。どちらの側面をもとめて読むかで、評価がわかれるかな、と思う。

親鸞・道元・日蓮・一遍といった人物……その生きた時代、鎌倉時代を、著者は基軸時代ととらえている……これらの人物の足跡をめぐる旅と随想と思えばいいであろうか。そして、そこからつむぎだされる「ひとり」。

ところで、(今ではもうあまり読まれないかと思うが)唐木順三という人がいた。その著作に『無用者の系譜』という本がある。今では絶版。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480010230/

私は、この本は高校生の時に読んだと憶えている。日本文化、文学、思想の歴史を通じて、自らを「無用者」とみなした人たちについて、考察をめぐらせている。

たぶん、私の印象としては、著者(山折哲雄)は、自らを現代社会における「無用者」としてとらえようとしているのではないか、そのように思ってしまった。この本(『「ひとり」の哲学』)の中には、唐木順三についての言及はなかったように読んだ。だが、読後感、特に、その「あとがきに代えて」を読むと、自分自身の生き方として、現代の無用者であろうと思い定めているように感じられてならない。

このような視点にたって、この本を読むならば、それはそれなりに納得できるところがある。(しかし、前述したように、「哲学」と銘打っているからといって、論理的な体系性のある思想をもとめてはならない。)

唐木順三の『無用者の系譜』を読んだ経験のある人にとっては、読んでみてもいい本だと思う。

高取正男・橋本峰雄『宗教以前』2016-09-20

2016-09-20 當山日出夫

高取正男・橋本峰雄.『宗教以前』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2010 (原著、日本放送出版協会.1968)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480093011/

かなり以前にNHK(日本放送出版協会)から出ていて、文庫本(ちくま学芸文庫)になったもの。なぜか手にとることのなかった本であるが、文庫本で読んでみた。

共著なので、視点・論点が錯綜しているかなと感じるところがちょっとあるけれど、これはいい本だと思う。広く読まれるべきだろう。特に、柳田国男の祖霊信仰についての批判の部分、それから、国家と宗教についての考察。

ここでは、この本の柳田国男批判のところをみておきたい。柳田国男の祖霊論、『先祖の話』は、周知のことと思うので、もうくりかえさないでおく。これについて、この本は、次のように批判している。

「柳田氏のこのような意見は、もはや民俗の客観的な解明であるよりも、明治の家父長制をよしとする、官僚的な保守主義者の個人的心情の表明であり、しかもこのような心情が『先祖の話』を内容的にも支配していると考えられるのである。」(p.187)

「柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する――あるいは、還元できることを期待する。」(p.187)

「アニミズムに立つ柳田氏の祖霊と神において、それを存在論的意味での実在、アニマとみなしているのは、あくまで「家」の先祖と神までが本来であって、村の氏神や中央からの勧進神などは、社会習慣、心理的願望、政治的教化などが後次的に作り出したものとみなしている感がある。はたして日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問であろう。」(p.190)

民俗学、宗教学を専門にしているというわけではないので、この柳田国男批判の是非を判断することはさしひかえておきたいのだが、上記に引用した箇所を読むかぎり、なるほどという感じがしてならない。日本の宗教観を祖霊信仰だけから導き出すのは、やや無理があるとすべきであろう。

かつての日本の宗教がどうであったかも重要だが、それよりも、これからどうなるかも気になるところである。この点については、この本には次のようにある。

「祖先崇拝はたんに血縁のそれに限定されずにより普遍化されて、結局は「三界万霊」の供養のようなものとなり、したがってたとえば各家の仏壇も、その中心は先祖の位牌よも普遍的実在としての仏であるという、名前どおりのものになるかも知れない。むろん、先祖崇拝が存続するとしてである。死者の霊魂が個性を持ち続けると考えるか、融合単一化すると考えるかは、これからの日本人の死生観がきめることである。」(pp.196-197)

この『宗教以前』は、ちょっと古い刊行の本ではあるが、言っていることは、現在の日本の宗教(特に仏教)のかかえている問題を、みごとに指摘しているといえるのではないだろうか。

毎年、八月のお盆の時期になると、テレビのニュースでも各地の墓参りの様子が報道されたり、各種の民俗行事の報道があったりしている。たとえば、京都の大文字送り火、これなど祖霊信仰の現代版であろう。と同時に、京都の夏の一つのイベントにもなっている。これが今後どうなるかは、各自の、そして、社会全体としての、「内省」にかかっているのかもしれないと思う。

ここで「内省」と書いたが、この言葉は、文庫本の解説(「繊細の精神」安満利麿)で、次のように言及されている。

「「内省」とは、今ある自己のあり方を振り返ることである。」(p.268)

として、民俗採訪、そして、読書にときおよんでいる。昔の本を読み、また、残された民俗行事に接することによって、自ら省みる必要がある。それが、未来の自分のあり方をきめていくのである。また、祖霊信仰についてどう考えるかは、日本の文化・歴史を、どう考えるかということにも、ふかくつながっていくことでもある。

聖なる空間としての神社2016-08-05

2016-08-05 當山日出夫

菅野覚明.『神道の逆襲』(講談社現代新書).講談社.2001
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061495609

この本については、また改めて書いてみたいと思っている。ここでは、この本の最終章「神様の現在」から、次のところを見てみたい。

「少なくとも、神社の最大勢力を占める神社神道は、定まった教義や教典を持っていない。しかし、そうした事情とはかかわりなく、神のあらわれを受けとめる知恵や力は、今日の神道界にも確実に保持されているように見える。」(p.272)

としたうえで、次のような事例をあげる。

「伊勢の皇学館大学構内に一歩足を踏み入れたときに受ける、あの折り目正しく張りつめた感じは、みずからのありようを積極的に神の境位へと反転させようとする伊勢神道・垂加神道の清浄・正直の伝統が変わらずに保たれていることを実感させる。」(p.272)

さらに、

「あるいは、ほとんど世俗的なイベントと化してしまっているような今日の結婚式においても、時に粛然と背筋を正されるような神のあらわれに出会うこともある。何年か前、筆者が都内の式場で出会った巫女舞い(中略)は、まさに大都会の華やかな式場の一隅にひそやかに神のあらわれを告げる緊迫した瞬間であった。」(p.272)

このようなことは、神社・神道がそうであるというよりも、むしろ、受け手である人間の方の感覚・感性の問題かもしれないと私などは思っている。われわれが神社の境内において、何を感じるか、である。

このような観点からは、すでにふれた本だが、

島田裕巳.『「日本人の神」入門-神道の歴史を読み解く-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883702

の次のような記述とつながるものであると思う。

「明治神宮の場合もそうだが、平安神宮を訪れて、桓武天皇や孝明天皇の存在を意識する参拝者はそれほど多くはないだろう。(中略)重要なのは、そこが神を祀った神社であるという、その一点である。」(p.211)

これにつづけて、

「実はこれは、明治以降に創建された神社に限らず、神社一般にも当てはまることだろう。私たちが、どの神社でもいい、そこを訪れたときに祭神が何かということを考えることは決して多くはない。」(p.211)

「そうだとすれば、私たちは、それぞれの神社に祀られた個別の祭神に対して礼拝をしているのではなく、神一般に対して礼拝していることになる。」(pp.211-212)

そして、これにつづくこととして、島田裕巳の本では、「日本的一神教」の章で、天理教、それから、皇室祭祀、国家神道へと話しがつづいていく。

さて、上記のことを、私なりにいいかえるならば、「聖なる空間としての神社」とでもいうことができようか。そして、それは、そのような場所、そのようにあらしめている共同体のあり方と無縁ではない。われわれが、そのように感じるのである。

だが、そうはいっても、たとえば伊勢神宮(内宮・外宮)の境内にはいったときの神聖な感覚というものは、厳然としてあるという気もする。それはあくまでも「聖なる空間」であって、固有名詞をもった特定の祭神をまつる場所ではない。伊勢神宮においてさえも、その祭神が何であるかと、特に問うことはないように感じている。知識としては知っていても、である。

しかしながら、そこが「聖なる空間」であることを認識しつつも、どこかで、祭神が何であるかを意識せざるをえない神社がある……靖国神社である。(靖国神社には、私は、何度か行ったことがある。)

靖国神社については、いろいろと考えなければならないと思っている。

島田裕巳『「日本人の神」入門』2016-06-28

2016-06-28 當山日出夫

島田裕巳.『「日本人の神」入門-神道の歴史を読み解く-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883702

神道関係の新書本程度の入門書をいくつか読んでみたなかで、この本はよく書けているなと思う。わるい本ではない。ざっくりと日本の神道とはどんなもので、どんな歴史があるのか、ということを知りたい向きには、おすすめである。

古い神社の姿として、社殿が無いものを想定してみている。たとえば、大神神社とか、沖ノ島における古代祭祀遺跡などを例にあげる。神道の神として、八幡・出雲・天神など各種の神々について概説する。それから、神仏習合の歴史についても、わかりやすく説明してある。

ところで、私がこの本を読んで興味深く思ったのは、伊勢神宮についての記述のいくつかである。伊勢神宮については、このブログで、以前に書いている。

やまもも書斎記 2016年6月5日
『華麗なる一族』の風景
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/05/8102763

ここでも、島田裕巳の本に言及しておいた。

次の指摘は重要だろう。

「明治天皇の前に伊勢神宮に参拝した可能性のあるのが、持統天皇である。そのことは『日本書紀』に記されているのだが、可能性ということばを使ったのは、はっきりと参拝したとはされておらず、伊勢に行幸したとされているだけだからである。」(p.64)

伊勢神宮は、皇室の神様をまつったところである……というのが、一般の理解だと思う。しかし、歴代天皇は、伊勢神宮には参拝していないという。そのかわり、伊勢に「斎宮」がおかれていた。

いわば、敬して遠ざける、と理解しておけばよいだろうか。非常に重要な神ではある、しかし、その霊力が強いが故に、都(奈良・平安)からはへだたった伊勢の地に祭祀することになったと解される。

「明治天皇が伊勢神宮に参拝することによって、そこに祀られた天皇家の祖神としての天照大神との結びつきが改めて確認され、それは、明治になって新たに確立された天皇を中心とした国家のあり方がいかなるものかを知らしめることに貢献した。しかも、参拝の準備のために、伊勢神宮での神仏分離が徹底され、仏教寺院が破却されたことで、明治時代の新たな信仰のあり方が具体的に示されたのだった。その点で明治天皇の伊勢神宮参拝は宗教史上の一つの事件だった。」(p.242)

それから、現在普通におこなわれている神社の参拝の形式「一揖、再拝、二拍手、一揖」も、明治になってから定められたものである。(p.233)

それまでは、拝殿で合掌する、ぬかずくなど、多様な礼拝の形式があったようである。

「これは、江戸時代において、神社に参拝した場合にも、現在の作法とは異なり、拍手を打たなかったことを示している。」(p.234)

このことの証拠としてあげている資料は『伊勢参宮細見大全』。三重県立図書館デジタルライブラリーで見られるとある。調べてみると、次のURLだろう。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/library/da-tosyo/detail?id=163163

なお、この本の第七章「人を神に祀る」で、柳田国男の『先祖の話』にふれてある。柳田の論を完全に肯定することはむずかしいが、否定もできないといったところである。

ところで、人を神に祀るといえば、靖国神社がある。この本では、(敢えてであろうが)靖国神社にはついては記述がない。それについては、

島田裕巳.『靖国神社』(幻冬舎新書).幻冬舎.2014
http://www.gentosha.co.jp/book/b7985.html

がある。靖国神社については、また改めて考えてみたい。