『日本人の心の歴史』唐木順三2017-08-07

2017-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『日本人の心の歴史』上・下(ちくま学芸文庫).筑摩書房.1993(初版 筑摩書房.1970 底本 筑摩書房.1976)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080530/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080547/

筑摩書房のHPを見ると、上巻の方は品切れのようである。下巻の方はまだ在庫があるようだ。そのせいか、この作品、中央公論新社が出した、中公選書の「唐木順三ライブラリー」のシリーズにははいっていない。これは、中公から出してもよかったのではないだろうか。それほどに、唐木順三のエッセンスがつまった作品である。

読んだのは高校生のときだったかと憶えている。

特に上巻のはじめの方で指摘してある、『万葉集』の「見れど飽かぬ」についての指摘は、その後、大学で国文学を勉強するようになって、『万葉集』など読むようになってからも、ずっと心の底にのこりつづけてきたような気がする。

しかし、専門に国文学を勉強するようになってから、唐木順三からは、むしろ遠のいてしまった。厳密な訓詁注釈をふまえているというわけでもないし、また、私が学んだ折口信夫につらなる民俗学的な発想で書かれているわけでもない。

そして、そのまま年月がすぎてしまって……ようやくこのごろになって、昔読んだ本を再読してみたくなって、文庫本をとりだしてきた次第である。唐木順三は「全集」も持っているのだが……これは、学生の時に刊行になったかと憶えている、買って持っている……新しい、中公の本とか、筑摩の文庫本で読んでいる。

読み返してみて、もはや高校生のころに読んだような敏感な感受性のもとに読むことは出来なくなっていることを痛感する。しかし、それでも、唐木順三が、日本文学や、宗教を通じて、日本人の季節感、人生観の歴史にせまろうとしたあとをたどってみると、今でもなお共感するものがある。

その語っていることに全面的に賛同というわけではない。今の私の観点からは、かなり批判的に読むところもないではない。

『万葉集』と『古今和歌集』を、そう簡単に比較できるものではない。

その歌の制作時期が長期にわたり、まだ文字を持たない日本語の時代に詠まれた歌が後に文字になり編集されたものと、平安王朝貴族の時代になってから、文字(仮名)に書かれたものを編集して作成したもの、これの比較は、そう簡単ではない。しかし、そのような批判の視点をもっては見るものの、『万葉集』の「見る」から、『古今和歌集』の「ながむ」への流れの指摘は、そのような歌の読み方もできると感じるところがある。

いや、逆に、今の私は余計な知識を身につけすぎてしまっているので、素直に文学作品としての『万葉集』『古今和歌集』を読めなくなってしまっているとも、思ったりもする。ここは、初心にかえるとでもいおうか、素直にテキストにむきあって、文学として歌を味わうということがあってよい。

日本語史の資料として見るのではなく、純朴に素直な読者として読むことは難しい。そのような読み方が正しいかどうかは別のこととして、『万葉集』や『古今和歌集』が古典文学として、現代にまで読み継がれてきているということは、唐木順三のような仕事があってのことであろう。

国文学研究などの本筋からは、ちょっと離れたところに存在した唐木順三という人、強いて分類すれば、評論家になるのかもしれないが、このような人の仕事が、今、とても貴重なものに思える。

私自身の文学、特に日本文学の古典についての感性の多くは、唐木順三を高校生ぐらいのときに読むことによって醸成されたものであると今になって思う。(その後に大学生になってから読んだ折口信夫などのこともあるのだが。)この夏休みは、唐木順三を読んでみたい。

『無用者の系譜』唐木順三2017-07-27

2017-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

ふと思って、唐木順三の本を読んでいる。理由はあれこれあるが……

第一に、大学で教えている日本語史の講義。このなかで、『伊勢物語』第九段「東下り」について、言及することがある。そのとき、「身を用なきものに思ひなして」のところで、ちょっとだけ、唐木順三のことに言及することにしている。再度、もとの本でどうであったか確認したくなって読んでみた。

第二に、今の私の読書がそうなのだが、昔読んだ本、影響をうけた本など、再読したくなってきている。まだ読んでいない名著、古典、名作も読んでおきたい。と同時に、主に学生のころに読んで影響をうけたような本を、再び読み直してみたい気持ちになってきている。

だいたい以上の二点の理由から、本棚からとりだしてきて読んでみた。「全集」も持ってはいるのだが、それは、これからとりかかるつもり。まずは、近年、中公選書で出た「唐木順三ライブラリー」のシリーズからと思って、手にしてみた次第。

『無用者の系譜』を読んだのは、高校生の時だったと憶えている。国語の先生と話しをしていて……唐木順三を読めと薦めてくれた。そのころ、たしか、筑摩書房で、「唐木順三文庫」のシリーズを出したころだったかと思う。また、筑摩選書などで、いくつかの作品があったように思う。(探せば、それらの本もまだ持っているはずである。)

今から思えば、高校生を相手にして、唐木順三を読みなさいと薦めてくれるというのは、とても贅沢な話しである。現在では、大学で、日本文学や日本史を専攻している学生を相手にしても、唐木順三を読みなさいとは、なかなか言いにくいと思う。

唐木順三のような人が、もういなくなってしまった、と感じる。もともとの専門は哲学……京大で西田幾多郎の門下……これを出発点として、和漢、東西の古典に素養があり、それを背景にして、日本の古典、『万葉集』の昔から、平安、中世、近世、そして、近現代にまで、その評論の筆がおよぶ。

古くは、和辻哲郎や、新しいところでは、加藤周一、中村真一郎などが、このような仕事をしたことになろうか。今では、このようなスケールの大きな、評論家、文筆家というべき人がいなくなってしまっている。

これはおそらく、『文学』(岩波書店)がなくなってしまったことなどと、どこかでつながっていることなのだろうと思う。雑誌『国文学』もなくなってしまった。『言語生活』も『言語』もなくなってしまった。

時代の流れと嘆いてもしかたがないのだが、ともかく、このような時代の趨勢の中にいることだけは、自覚しておかなければならないと思う。そのことを踏まえたうえで、今の時代、これからの時代のことを考えて、唐木順三の仕事を再度、読み直しておきたいと思っている。

『無用者の系譜』については、あらためて。文学……広義の……文学、歴史、哲学、宗教……は、「無用」であっていいのではないか。あるいは、自らを「無用者」とする人びとは今いるのであろうか。今の時代、「文学」に社会的効用をもとめすぎていないだろうか。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月28日
『無用者の系譜』唐木順三(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/28/8628812