『知性は死なない』與那覇潤2018-06-08

2018-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

知性は死なない

與那覇潤.『知性は死なない-平成の鬱をこえて-』.文藝春秋.2018
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908236

與那覇潤の本については、すでに触れた。

やまもも書斎記 2018年6月1日
『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/01/8863726

この『日本人は……』は、いい本だと思った。(が、『中国化する日本』は、あまり感心しなかったが。)買うのは、こちら『知性は死なない』の方が先に買ってあったのだが、読む順番としては、後になった。結果的に、刊行順に読んだことになる。

これは、現代日本において、もっとも良心的な知性のあり方を示している本ではないだろうか。

著者が「うつ」の病を得て、大学の職を辞めるまで、それからの闘病生活、そして、それと平行してあった、平成のおわりの日本の状況……社会的、知的な……についての分析である。

読みながら付箋をつけた箇所をいくつか引用してみよう。

「身体ではなく言語を基盤とする、社会をつくったことで生まれてしまった、永久革命のようにいつまでもつづく、「現時点での正統性」にたいする〈無限の〉挑戦。これが、もともとの意味でいう反知性主義の本質です。」(p.142) 〈 〉原文傍点

「ソ連の社会主義であれアメリカの自由主義であれ、超大国のインテリたちがグランドデザインを描こうとしてきた、言語によって普遍性が語られる世界秩序に対する、身体的な――4章のことばでいえば、反正統主義ないし反知性主義的な反発。(中略)そういう目でみることで、はじめて目下の世界で起きていることが理解できるのだと、私は感じています。」(p.195)

「すなわち、帝国とは〈言語〉によって駆動される理性にもとづき、官僚機構が制度化されたルールをもうけて統治している空間であり、逆に民族とはむしろ「ここからここまでが『われわれ』の範囲だ』という、〈身体〉的な実感にもとづく帰属集団のことである、と。」(p.197) 〈 〉原文傍点

反知性主義をどう理解するか、この点について、いくぶん留保しておくとしても、ここで指摘されているようなことは、しごくまっとうなことであるように思える。国語学という、日本語の研究にかかわっているものとして、いろいろ考えるところのある本でもある。

また次のような箇所。

「教壇に立っているかぎり、教師は政権の批判であれ天皇制の否定であれ、どんな極論でものべることができます。その教員の真価がわかるのは、授業の教室という「自分が権力者でいられる場所」を離れたさいに、どれだけ普段の言行と一致しているかをみることによってでしょう。」(p.169)

これも、しごくまっとうなことである。だが、これがいかに困難なことか、著者の体験した事例がこの本では、具体的に述べられている。この箇所を読むと、現代日本における、大学というところをむしばんでいる知的な荒廃というべきものは、ほとんど救いがたいところまできていると感じざるをえない。

知的に当たり前のことを、ごく普通に当たり前に語る……このことの難しさ、ここにこそ現代日本のおかれている知的退廃がある。本書を読んで感じるのは、著者の知的平衡感覚のバランスの良さである。これは当たり前のことである。この当たり前のことが、普通に通用しない大学というものならば、その大学の方がおかしい。

平成という時代も、あと一年もない。一年後には、次の年号になって、新しい時代を迎えていることだろう。その時になって、平成という時代をふりかえるとき、このような良心的な知性が存在したということを示す本として残ることだろうと思う。

「うつ」という病を経ることによって、身体感覚とのバランスを視野にいれた素直な知性のありかた、このような知性をもつ著者のさらなる活躍を願う次第である。

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明日、東京で、語彙・辞書研究会の発表です。家を留守にするので、二日ほどこのブログをお休みにさせてもらいます。家を離れたときぐらいは、ネットから自由でありたいとも思いますので。

『法学の誕生』内田貴2018-06-07

2018-06-07 當山日出夫(とうやまひでお)


法学の誕生

内田貴.『法学の誕生-近代日本にとって「法」とは何であったか-』.筑摩書房.2018
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480867261/

言うまでもないことだと思うが、私は、法律、法学については、まったく素人である。大学は文学部で、国文学、国語学を勉強した。今、教えている科目としては、日本語史などになる。法律については、まったくの門外漢である。

だが、この本には興味をもった。近代になって、日本がどのように近代化をなしとげてきたのか、自分なりに考えてみようと思っているところである。この本のタイトルを見て、興味がわいたのであった。

言われれば、法律というものも、近代になってからのものである。一般的な日本史の常識としては、近代国家としてスタートするにあたって、憲法をはじめ各種の法律がつくられ、司法制度が整備されていった。では、どのようにして、日本は法を整備していったのであろうか。このような興味関心から手にしてみることにした。

ある意味で、この本は、期待を裏切る内容のものであった。この本は、法律の継受ではなく、法学という思考の日本での成立を追っている。法律が制定され、それが運用されるにあたっては、日本で、日本語で、法学教育がなされ、そこで法曹実務者が、近代的な法学思考が出来ること、これが要件になる。その成立のプロセスを、近代日本の法学の重要人物である、穂積陳重と八束の事跡をたどることで記述してある。(この二人の名前なら、法律門外漢の私でも名前ぐらいは知っている。)

読みながら感じたことであるが・・・もし、何十年か前に、このような内容の本があって、高校生ぐらいの時に読んでいたら(コンパクトにまとめるなら新書本にでもなりうるテーマである)、大学の法学部を志向しただろうか・・・少なくとも、実務的な法解釈の議論ではない、法とは何であるかを問いかける法学という学問分野があることの認識はもてたかもしれない。

今、法学部をめざす学生は、何を志向しているのだろうか。法律実務の解釈学であろうか。それとも、法とは何かを根源的に問いかける、法哲学のような領域についてであろうか。

現在の日本には、多くの大学に法学部がある。そこで、実務的な法学教育がなされているはずである。その法学教育の基礎は、どのような歴史的背景をもとに近代日本において成立してきたのか、ここは、時間があれば考えてみてもいいことのように思う。この本は、法学部における教養レベルの段階で、読んでおくのがいいのかもしれない。

ところで、この本を私の興味関心の範囲で読んで、興味深かった点を二つばかりあげておきたい。

第一には、日本古来と意識される「伝統」というべき慣習などに配慮して、法律の制定がなされていったことである。それは、「作られた伝統」ではあるのかもしれないが、しかし、その時代にあっては、なにがしかの意味で「伝統」と意識されていたものである。それをふまえて、法律、特に民法などが制定されていったことになる。西欧の思考様式を受け継いでいる欧米の法律と、日本古来(と考えられている)「伝統」との確執のなかで、法的な整備がなされていった。そして、この「伝統」は、「国体」にもおよぶものである。

第二には、近代日本語と法律、法学である。近代日本語の公用文などが文語体で書かれてきたことは知っている。が、それが制度的に決められたのは、明治19年の制度的な変更に依拠してのことになる。また、様々な翻訳語が、法律用語として定められていき、現代にいたっている。まず、法律用語の制定からスタートしなければ、法学を日本にもたらすことはできなかった。このようなこと、日本語史の知識としては、概略知っていたことではあるが、それを、法学の方面からのアプローチで、再認識することになった。

以上の二点ぐらいが、私の興味関心の範囲で、この本から得られた知見ということになる。

たぶん、この本をきちんと理解するには、法学の素養が必要になるのだろう。法律の実務、あるいは、法学教育にたずさわっているような人が読めば、いろいろと参考になるところがあるにちがいない。だが、そのような素養を持たない私のような人間が読んでみても、それなりに面白く読める本であった。

『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤2018-06-01

2018-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

日本人はなぜ存在するか

與那覇潤.『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫).集英社.2018 (集英社インターナショナル.2013 文庫化にあたり加筆)
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-745739-1&mode=1

以前、集英社インターナショナルから出ていたものに加筆して、文庫化したもの。

「日本人」とはどのように何なのか、どのように定義できるものなのか、という問題意識から、様々な角度から論じてある。もとは、大学での一般教養向けの講義をベースにしているらしい。

この本を読んで感じることなど書くとすると、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一は、「日本人」とは再帰的にしか定義できないものである。つまり、そのような定義、見方で「日本人」をみているからこそ、そこにそのような姿で「日本人」が立ち現れてくるのである。このことは特に目新しい議論ではない。

だが、この当たり前のこと、ある意味では、学問、研究にとって自明なことを、わかりやすく懇切丁寧に語ってある。この意味ではきわめて貴重な仕事と言えるだろうと思う。

私も、この本を読んで、「日本国籍」という定義のもつ意味が歴史的に構築されてきたものであることに、認識を新たにするところがあった。

第二は、これは私の専門領域にひきつけて読解することになるのだが、「日本語」はどのように定義することになるのだろうか。

これについては、近年の日本語学研究は、かなり広い範囲の「日本語」をあつかうようになってきていると感じるところがある。第二言語としての日本語にかかわる研究がさかんになってきている。そのための……日本語学習のための……コーパスも作られたりしている。

また、かつての「日本語」の領域は、必ずしも日本国内に限るものではなかった。外地……朝鮮や台湾……においても「日本語」は使用されていた。そこには、国家権力による強制という側面もあったことになる。が、少なくとも、「日本語」の範囲は、近代の歴史を通じて考えてみても、自明なものではなかったことになる。このことをさらに考える必要があるだろう。

以上の二点が、読んで感じるところでもある。

読みながら付箋をつけた箇所をすこし引用しておきたい。

「この「認識」し続けることによって存在し続ける」という再帰的な共同体のあり方を分析する技法としては、1980年代以降の国民国家やナショナリズムをめぐる議論では、「物語」に注目が集まりました。すなわりここまでの本書の内容は、「私たちは、かつてこの列島で起こったことを『日本人の物語=日本史』として語ることによって、『日本』という共同体を日々(再)創造している」というふうに、まとめなおすこともできます。」(p.141)

ところで、なぜ、『万葉集』や『源氏物語』『古今和歌集』は、日本の「古典」であるのであろうか。近年のカルチュラル・スタディーズの立場から、いくつかの研究があることは承知しているつもりではある。が、ここは、改めて、考え直すべきことだろう。

それは、そのような作品を「古典」として読んで来た「歴史」があるから、ということでもある。それは、中世の『源氏物語』の古注などにまでさかのぼるかもしれない。いや、そこまでいかなくても、近世の国学者たちの研究、そして、それをうけて成立した、近代の国文学という学問、その営みの歴史としてある、ということはいえそうである。そして、それをうけた形で、今日の、大学の教育と研究の枠組み……日本文学科という学科があり、各種の学会がある……によって、日々、再確認、再創造していることになる。

この本は、少なくとも、日本史、日本文学、日本語、というような研究領域にたずさわる人間が、一度は、ふりかえって立ち止まって考えておくべき、貴重な論点を提示していると思う。あるいは、さらには、東洋学とか、西欧史のような分野にも拡張して考えるべきこともふくんでいるだろう。

なお、與那覇潤の本では、

與那覇潤.『中国化する日本 増補版』(文春文庫).文藝春秋.2014

は手にして読みかけたのだが……そのあまりに短絡的論理、思いつきとこじつけとしか思えない議論に閉口して、途中でやめてしまった。これは歴史書としてはどうかと思うのだが、しかし『日本人はなぜ存在するのか』の方は、いい本だと思う。

『本居宣長』小林秀雄(その二)2018-03-16

2018-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(下)

続きである。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

普段、本を読むとき、付箋をつけながら読む。だが、この本(『本居宣長』)を読むときは、極力、付箋をつけなかった。付け始めたら、毎ページ付箋だらけになってしまいそうだったからである。

だが、そうはいいながら、どうしても、このことばは、小林秀雄が読んだ本居宣長として記憶にとどめておきたいと思って、付箋をつけた箇所がある。その一つを次に引用しておく。

「それが、宣長が、「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を越えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神(あや)しき」経験を、描き出すに到ったのである。」(下巻、p.155)

このような箇所を読むと、この後は、『古事記』『源氏物語』を読むしかない。あるいは、『古事記伝』を読むことになろうか。今の注釈本ではなく、『古事記伝』で『古事記』を読んだおかなければならないことになる。

筑摩書房版の『本居宣長全集』はもっている・・・覚悟をきめて『古事記伝』読破にとりくむことにしようか。(学生のころ、図書館で手にしたことはあるのだが、全巻の通読はしていない。このような人は多いだろう。)

いや『古事記伝』に限らず、世に「古典」といわれる本は多い。その多くがなぜ「古典」であるのか……それは、読まれてきた歴史のある書物であり、その読まれてきた歴史が、また新たな書物の歴史として積み重なっているものである。この意味において、小林秀雄『本居宣長』は、「古典」である。また、『古事記伝』を古典たらしめているのが、小林秀雄『本居宣長』であるともいえようか。

なお、付言しておくならば、新潮文庫版『本居宣長』を読んで、特にその「あはれ」の分析に接してみて、私の脳裏に去来したのは、『意識と本質』(井筒俊彦)であった。人間の精神のいとなみのもっとも奥深いところを見極めた文章である。

『意識と本質』も、この前読んだ(再読)のは、去年の夏のことになる。夏休みの読書と思って、いくつか井筒俊彦の著作を読みかえした。これも、さらに再読、再々読しておきたい。


『本居宣長』小林秀雄2018-03-15

2018-03-15 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(上)

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

再読、といっていいだろうか。この本が出たのは、1977年。私の学生のころである。そのころ、手にしていくつかの文章を読んだ記憶、また、その当時のこの作品についての書かれたもののいくつかを目にした記憶があるのだが、全部を通読するのは、始めてになる。新潮文庫版は、『本居宣長』(1977)に、「本居宣長補記Ⅰ」「本居宣長補記Ⅱ」、それから、江藤淳との対談をおさめる。また、注記もついている。しかし、解説・解題の類はない。

この本が出た時、私は、大学で国文学を学んでいる学生であった。そのせいだろう、気になって手にした本ではある。だが、(研究者ではない)評論家の書いたものとして、どこか遠ざけて見ていたように記憶している。その後、再び手にすることなく、時間が過ぎてしまった。文庫版は、以前から買っておいてあったのだが、積んであった。

もう、国文学、国語学という世界から隠居しようと思い定めて、あらためて手にしてみた。これは、『夜明け前』(島崎藤村)を読んで、平田篤胤それから本居宣長のことが出てきたので、ちょっと気になったのが一つ。

それから、どうせこの本で小林秀雄がいわんとすることは分かっている……そのようなつもりではいたが、やはり、きちんと全文を読んでおきたいと思ったのが一つ。小林秀雄も、現代においては、古典といっていいだろう。

さらには、次の本を買ってあったこともある。(まだ、読んではいないのだが。)

若松英輔.『叡知の詩学-小林秀雄と井筒俊彦-』.慶應義塾大学出版会.2015
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766422696/

この『本居宣長』で語られていることは、次の箇所でつきるかもしれない。

「この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。」(上巻 p.25)

宣長の生活感覚によりそうような形でしか、その思想の後をたどることができない。だが、その仕事は膨大である。ほぼ、古典国文学、国語学のほとんどの領域にまたがるといってよいであろうか。

『源氏物語』も『古事記』も、しかるべく……つまりは、宣長の後をうけて成立した近代の国文学、国語学の方法論にしたがって……読んだことのないものには、宣長の思想は理解できないことになるのかもしれない。この本の出た当時、国文科の学生であった私には、手を出しにくい本の一つであったということになる。すくなくとも、自分自身の「自分の身の丈」にあった読み方で、『源氏物語』『古事記』を読むという経験を経た後でないと、この本は、ただ難解なだけの本におわってしまいかねない。

この本を読み終わった印象をのべるならば……これから「古典」を読んで時間をつかいたいということである。『源氏物語』も『古事記』も本はいくつか持っている。本居宣長全集(筑摩版)も持っている。「古典」を読むことが、自分の「身の丈」を知ることならば、強いて背伸びすることなく、素直な気持ちで、本を読むということに時間をつかってみたい。

現代において、読者を「古典」へといざなう本である。

追記 2018-03-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月16日
『本居宣長』小林秀雄(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/16/8804393

『井筒俊彦の学問遍路』井筒豊子2017-12-07

2017-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

井筒豊子.『井筒俊彦の学問遍路-同行二人半-』.慶應義塾大学出版会.2017
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766424652/

私が、慶應義塾大学に入学したとき、すでに、井筒俊彦は慶應を去ったあとだった。

だが、折りにふれて、その名前を耳にすることがあった。

井筒俊彦は、池田彌三郎と、慶應の予科の同期である。同じとき、文学部にかわっている。池田先生が、講義のとき、なにかのひょうしに、「井筒ってのは、…………」と語っておられたのを、今でも憶えている。井筒俊彦のいわく、自分のような人間は、スコラスティックであるのだという。ペダンティックではなく。であるらしい。(このところ、記憶だけをたよりに書いている。)

『ロシア的人間』など読んだのは、学部の学生の時だったろうか。北洋社版である。この出版社は、もう今はない。

その後、イランの革命があって日本に帰国してからの著作は出るたびごとに買っていた。いや、その前に、『思想』(岩波書店)の掲載でも読んだ。岩波ホールの講演会のときは、申し込んだ。こんなにもすぐれた知性がこの世の中に存在するのかと、驚きながら話しに聞き入ったのを憶えている。

『井筒俊彦の学問遍路』は、その夫人が書き残したもの。主に、慶應を去って国外に活動の場をもとめていた時代のことが回想してある。

読みながら付箋をつけた箇所。

「井筒の晩年のことですが、中央公論社の平林孝さんが、「先生、こんな奥様とご一緒でおもしろいでしょうね」とおっしゃったのを覚えています。おしゃべりは確かにたくさんしたのですが、本当のおしゃべりはあまりしていなくて、今となっては私も後悔しています。結局、井筒が亡くなってから、私は井筒を何となく理解し始めたのです。」(p.64)

今年の夏休み、井筒俊彦の著作のうち、日本に帰国してからのもの……主に、東洋哲学全般を論じたようなもの……を、まとめてよみかえしてみた。読むほどに、その思索の世界にひきこまれていく。新しい慶應義塾大学出版会版の全集も買ってそろえてはいるのだが、昔、買った岩波書店などの単行本で読んだ。その本が出た当時の雰囲気を感じ取りたいと思ってのことである。

これからの読書として、井筒俊彦というすぐれた日本の知性を自分なりにかみしめながら本を読んでいきたい。直接学ぶということはかなわなかったものの、少なくとも同じ時代に生きていたというのは、私の人生にとって幸運なことであったと思う次第である。

『新版 吉本隆明1968』鹿島茂2017-11-20

2017-11-20 當山日出夫(とうやまひでお)

鹿島茂.『新版 吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー).平凡社.2017 (平凡社新書.2009)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b314295.html

以前、平凡社新書で出ていた本が、新版として、平凡社ライブラリーで刊行になったもの。前のものも持っているかとおもうのだが、探すのが大変なので、新しい本で読んでみた。

面白い本を読んだという感想である。

この本については、次の二点を書いておきたいと思う。

第一は、吉本隆明の入門・解説書として、非常によくできているし、興味深い内容になっていることである。

吉本隆明については、いまだに数多くの論評がなされている。全集(晶文社)も刊行の途中である。まだ、その評価が歴史的に定まったということではない。

そのなかにあって、特に初期の吉本隆明……それを著者は「1968」ということばで象徴的に表しているが……について、丁寧にその著作を読み解きながら解説してある。

特に高村光太郎への言及が詳しい。(読んでいて、これは、吉本隆明論ではなく、高村光太郎論ではないかと感じてしまうぐらいである。)だが、同じ引用を必要に応じてくりかえし、難解な箇所については、適宜パラフレーズするというようにして、わかりやすく解説してある。

吉本隆明といえば、必ず出てくる「大衆の原像」について、なぜ、吉本隆明がそのような概念を提示するにいたったのか、そのプロセスを、初期の論考を読み解きながらおっていく。これを読んで、私も、なるほど、と納得のいったところもある。

第二に、そのように吉本隆明を読み解くキーとして、出自・世代論から論じていることである。中流下層階級からの知的な脱却、それを、明治・大正期の文学者たち……高村光太郎であり四季派の詩人たちであり……の経験と照らし合わせ、また、著者(鹿島茂)自身の体験と照らしながら、その持つ意味を考えていく。

その概要は、次のようになるだろうか。

「高村光太郎に仮託して語られた階級離脱の覚悟と止揚の意気込みは、「名状し難い寂しさや切なさの感じ」をもってそこを離脱した者でなければわからないものだったのです。」(p.359)

まさに吉本隆明が高村光太郎に仮託して語ったことをなぞるように、著者(鹿島茂)は吉本隆明について語っている。

ざっと以上の二点が、この本を読んで、重要かと思うところである。

たぶん、吉本隆明を考えるとき、いつ頃、どのようにして、その名前に接して読むようになったのか、によって、その意味は決定的に異なることになるだろう。著者(鹿島茂)は、1949年の生まれ。タイトルの1968年の時代には、大学生であった。それに先だって、高校生のころから、吉本隆明の読書体験があった。

なお、平凡社ライブラリー版の解説を書いているのは、内田樹。解説を読むと、著者(鹿島茂)より、大学では二年後になるという。が、これも、高校生のころに吉本隆明を読んでいる。

だが、私が、吉本隆明を読み始めたのは、大学生になってからであった。1955年の生まれだから、鹿島茂や内田樹よりも、すこし後の世代になる。それでも、その当時の大学生にとっては、一種の「必読書」であった。まあ、中には、吉本隆明に触れずに過ごしている学生もいたのではあるが。

大学のキャンパスは落ち着きをとりもどしていた。吉本隆明は、すでに勁草書房版の著作集があった。『言語にとって美とはなにか』などは、著作集版で読んだのを憶えている。

ただ、その時、すでに、国文学、国語学に自分の勉強の目標を定めていた私にとっては、『言語に……』は、そのままストレートに読むというよりも、日本語について論じた本の中の一つとして読んだことにはなるのだが。

そして、『共同幻想論』をまともに読まずにきていることは、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

晶文社版の全集は、既刊分は買ってある。時間ができたら、初期の「高村光太郎」など、読んでおくことにしようかと思っている。やはり、私にとって、吉本隆明は、きちんと読んでおきたい人のひとりなのである。

また、この本で論じられている、出自・社会的階層の観点からいえば、自分の生涯をかえりみて(まだ、かえりみるというほどの年ではないかもしれないが)、深く共感するところがある。この『吉本隆明1968』という本は、吉本隆明論でありながら、すぐれた出自・社会的階層論として読むこともできる。

出自・社会的階層論という意味において、今日のように、両極端に社会階層が分裂しているような時代にあっては、改めて読まれていい仕事として、この『吉本隆明1968』はあると思うのである。

『死刑 その哲学的考察』萱野稔人2017-10-13

2017-10-13 當山日出夫(とうやまひでお)

萱野稔人.『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069870/

死刑についての本である。死刑については、えてしてその賛否の結論のみが議論されがちである。無論、結論として賛成するのか反対するのかは重要である。だが、それにもまして重要なのは、なぜそのように考えるにいたったかの経緯でなくてはならない。そのような立場もあっていいだろう。

この本では、死刑について考察している。主に二つの論点があると思って読んだ。

第一には、道徳的な面からの考察。いかなる場合でも人を殺してはいけないと道徳的に裏付けることは可能か。そもそも、道徳とは、普遍的な規範たりうるものなのであろうか。

第二には、政治哲学的な面からの考察。刑罰の根底にあるものは、人間社会を維持するための応報論であるとする。では、死刑は究極の刑罰たりうるのであろうか。

主に、二つの論点からこの本は論じてある。なかでカントなどへの言及がすこしあるとはいうものの、基本的に、参考文献があってそれを論駁するというようなスタイルはとっていない。ゼロのところが考え始めて、死刑の是非を問うている。また、冤罪の問題についても考察してある。

死刑に賛成する/しないの立場は、読者によっていろいろあるだろうが、このことを考えるのに、この本は、必読だろうと思う。

死刑への賛否としてこの本から読みとるべき点は次の二点かと思う。

第一に、死刑に反対するならば、終身刑ということになる。では、どちらがより重い刑罰であるのか、ということをさらに考えてみるならば、より重い刑罰の方が応報としてふさわしい、と単純にいいきれるのかどうか。

死刑は残酷であるというのならば、では、終身刑は残酷ではないのであろうか。

第二は、冤罪の可能性が制度的にゼロでない以上は、死刑は否定されるべきであるという論点は、尊重しなければならないだろうということ。

この二つの点が、私がこの本を読んで感じたところである。この本は、あくまでも死刑という制度の是非を論じた本である。具体的に、日本で行われている死刑は、絞首刑であるが、その方法の是非については言及していない。もし死刑を認めるならば、どのような死刑の方法がふさわしいか、これがさらに考えるべき問題としてはあることになる。

感情的にあんな悪いやつは死刑にすればいいでもなく、逆に、いわゆる人道的立場からの反対論でもなく、死刑という刑罰の是非そのものを根本的に考えるのに、まずは冷静に、その論のよってきたるところをかんがみる必要がある。

なぜ、自分はそのように考えるのか、その根本をかえりみることこそ、哲学というものであろう。

『日本人の心の歴史』唐木順三2017-08-07

2017-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『日本人の心の歴史』上・下(ちくま学芸文庫).筑摩書房.1993(初版 筑摩書房.1970 底本 筑摩書房.1976)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080530/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080547/

筑摩書房のHPを見ると、上巻の方は品切れのようである。下巻の方はまだ在庫があるようだ。そのせいか、この作品、中央公論新社が出した、中公選書の「唐木順三ライブラリー」のシリーズにははいっていない。これは、中公から出してもよかったのではないだろうか。それほどに、唐木順三のエッセンスがつまった作品である。

読んだのは高校生のときだったかと憶えている。

特に上巻のはじめの方で指摘してある、『万葉集』の「見れど飽かぬ」についての指摘は、その後、大学で国文学を勉強するようになって、『万葉集』など読むようになってからも、ずっと心の底にのこりつづけてきたような気がする。

しかし、専門に国文学を勉強するようになってから、唐木順三からは、むしろ遠のいてしまった。厳密な訓詁注釈をふまえているというわけでもないし、また、私が学んだ折口信夫につらなる民俗学的な発想で書かれているわけでもない。

そして、そのまま年月がすぎてしまって……ようやくこのごろになって、昔読んだ本を再読してみたくなって、文庫本をとりだしてきた次第である。唐木順三は「全集」も持っているのだが……これは、学生の時に刊行になったかと憶えている、買って持っている……新しい、中公の本とか、筑摩の文庫本で読んでいる。

読み返してみて、もはや高校生のころに読んだような敏感な感受性のもとに読むことは出来なくなっていることを痛感する。しかし、それでも、唐木順三が、日本文学や、宗教を通じて、日本人の季節感、人生観の歴史にせまろうとしたあとをたどってみると、今でもなお共感するものがある。

その語っていることに全面的に賛同というわけではない。今の私の観点からは、かなり批判的に読むところもないではない。

『万葉集』と『古今和歌集』を、そう簡単に比較できるものではない。

その歌の制作時期が長期にわたり、まだ文字を持たない日本語の時代に詠まれた歌が後に文字になり編集されたものと、平安王朝貴族の時代になってから、文字(仮名)に書かれたものを編集して作成したもの、これの比較は、そう簡単ではない。しかし、そのような批判の視点をもっては見るものの、『万葉集』の「見る」から、『古今和歌集』の「ながむ」への流れの指摘は、そのような歌の読み方もできると感じるところがある。

いや、逆に、今の私は余計な知識を身につけすぎてしまっているので、素直に文学作品としての『万葉集』『古今和歌集』を読めなくなってしまっているとも、思ったりもする。ここは、初心にかえるとでもいおうか、素直にテキストにむきあって、文学として歌を味わうということがあってよい。

日本語史の資料として見るのではなく、純朴に素直な読者として読むことは難しい。そのような読み方が正しいかどうかは別のこととして、『万葉集』や『古今和歌集』が古典文学として、現代にまで読み継がれてきているということは、唐木順三のような仕事があってのことであろう。

国文学研究などの本筋からは、ちょっと離れたところに存在した唐木順三という人、強いて分類すれば、評論家になるのかもしれないが、このような人の仕事が、今、とても貴重なものに思える。

私自身の文学、特に日本文学の古典についての感性の多くは、唐木順三を高校生ぐらいのときに読むことによって醸成されたものであると今になって思う。(その後に大学生になってから読んだ折口信夫などのこともあるのだが。)この夏休みは、唐木順三を読んでみたい。

『無用者の系譜』唐木順三2017-07-27

2017-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

ふと思って、唐木順三の本を読んでいる。理由はあれこれあるが……

第一に、大学で教えている日本語史の講義。このなかで、『伊勢物語』第九段「東下り」について、言及することがある。そのとき、「身を用なきものに思ひなして」のところで、ちょっとだけ、唐木順三のことに言及することにしている。再度、もとの本でどうであったか確認したくなって読んでみた。

第二に、今の私の読書がそうなのだが、昔読んだ本、影響をうけた本など、再読したくなってきている。まだ読んでいない名著、古典、名作も読んでおきたい。と同時に、主に学生のころに読んで影響をうけたような本を、再び読み直してみたい気持ちになってきている。

だいたい以上の二点の理由から、本棚からとりだしてきて読んでみた。「全集」も持ってはいるのだが、それは、これからとりかかるつもり。まずは、近年、中公選書で出た「唐木順三ライブラリー」のシリーズからと思って、手にしてみた次第。

『無用者の系譜』を読んだのは、高校生の時だったと憶えている。国語の先生と話しをしていて……唐木順三を読めと薦めてくれた。そのころ、たしか、筑摩書房で、「唐木順三文庫」のシリーズを出したころだったかと思う。また、筑摩選書などで、いくつかの作品があったように思う。(探せば、それらの本もまだ持っているはずである。)

今から思えば、高校生を相手にして、唐木順三を読みなさいと薦めてくれるというのは、とても贅沢な話しである。現在では、大学で、日本文学や日本史を専攻している学生を相手にしても、唐木順三を読みなさいとは、なかなか言いにくいと思う。

唐木順三のような人が、もういなくなってしまった、と感じる。もともとの専門は哲学……京大で西田幾多郎の門下……これを出発点として、和漢、東西の古典に素養があり、それを背景にして、日本の古典、『万葉集』の昔から、平安、中世、近世、そして、近現代にまで、その評論の筆がおよぶ。

古くは、和辻哲郎や、新しいところでは、加藤周一、中村真一郎などが、このような仕事をしたことになろうか。今では、このようなスケールの大きな、評論家、文筆家というべき人がいなくなってしまっている。

これはおそらく、『文学』(岩波書店)がなくなってしまったことなどと、どこかでつながっていることなのだろうと思う。雑誌『国文学』もなくなってしまった。『言語生活』も『言語』もなくなってしまった。

時代の流れと嘆いてもしかたがないのだが、ともかく、このような時代の趨勢の中にいることだけは、自覚しておかなければならないと思う。そのことを踏まえたうえで、今の時代、これからの時代のことを考えて、唐木順三の仕事を再度、読み直しておきたいと思っている。

『無用者の系譜』については、あらためて。文学……広義の……文学、歴史、哲学、宗教……は、「無用」であっていいのではないか。あるいは、自らを「無用者」とする人びとは今いるのであろうか。今の時代、「文学」に社会的効用をもとめすぎていないだろうか。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月28日
『無用者の系譜』唐木順三(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/28/8628812