『西郷どん』あれこれ「怪人 岩倉具視」2018-08-14

2018-08-14 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月12日、第30回「怪人 岩倉具視」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/30/

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月7日
『西郷どん』あれこれ「三度目の結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/07/8935554

このドラマ、一つの回で、一つの話し、ということで進んでいる。この回は、岩倉具視。

見どころとしては、次の二点が印象に残った。

第一に、賭場のシーン。

まあ、貧乏公家が、その家を賭博に使うことはあり得たことであろう。うまく描いていたと思うのが、西郷の博打の運の無さ。ことごとく負けていた。一方、これに対して、勝っていたのは、桂小五郎。また、博打に参加しなかったのは、大久保一蔵。このあたりの描写が、これから倒幕、明治維新の流れのなかで、それぞれの役割を象徴していたように感じる。

倒幕、明治維新という大業を成し遂げても、最後には、西南戦争というある意味での貧乏くじを引くことになる西郷。幕末の激動の時代を生きのびて、明治政府を作ることになる桂小五郎。それを、陰で冷静な目でみることになる大久保。このあたりの人物の役割を、賭場のシーンで暗示しているかのごとくであった。

第二に、岩倉の書簡。

どうやら薩長同盟を画策しているのは、西郷だけではなかったようである。岩倉も、幕府に見切りをつけて、薩長同盟の策略を練っていたという筋書き。このあたり、歴史考証の面では、どうなのだろうという気がしないでもない。はたして、薩長同盟は、どのような発案、いきさつのもとの結ばれることになるのか。

このあたりは、次回の坂本龍馬の登場で次の展開を見せるという運びになっているのだろう。

以上の二点が、この回で見ていて印象に残っているところである。

それにしても、岩倉の家の仕掛け……まるで忍者漫画のようだった。私などは、白土三平の作品など思い浮かべてしまう。

岩倉具視といえば、歴史の教科書には登場する。だが、何をした人物かとなると、今ひとつ、知られていないようでもある。明治になってからの岩倉使節団では、名を残しているが。ただ、この岩倉具視の天皇への思慕の情……これが、今ひとつ、描き方が浅いような気がした。

大河ドラマで、孝明天皇というとやはり『八重の桜』が傑出していると感じる。天皇への思慕の情、勤王の思想、感情を、ドラマの中でどのように描くか、これが、幕末、明治維新ドラマを見る一つのキーになるかと思っている。

次回は、坂本龍馬の活躍になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

映像の世紀プレミアム「難民 希望への旅路」2018-08-13

2018-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK映像の世紀プレミアム第10集「難民 希望への旅路」
http://www4.nhk.or.jp/P4235/x/2018-08-11/10/33830/2899069/

昨日(8月11日)の夜の放送を録画しておいて、今日(8月12日)の昼間に見た。見て、何か書こうと思って、Googleで検索してみて、タイトルが「難民 希望への旅路」となっていることに、何かしらのとまどいを感じている。

番組を見た印象からするならば、誰も「希望」を感じて難民になどなっていない。NHKは、なぜ、このようなタイトルをつけたのであろうか。かといって、「絶望」とも表すことはできないだろう。

思いつくことをいくつか書いてみる。思いつくままにであるが。

スペイン内戦のときのヘミングウェイの声が残っていたのにはちょっと驚いた。私がこれまで読んだヘミングウェイの作品からは、難民の苦悩というようなものは、感じていなかったのだが。これは、読み方が浅かったというだけのことなのであろうか。

難民の歴史は、難民をどのように報じたかという歴史でもある。この意味で登場していた、二人のカメラマン……キャパと沢田教一。その作品は、これまでに本などで何度か目にしている。特に沢田教一の「安全への逃避」、これがアメリカ兵から逃れるシーンであったことは、認識を新たにした次第でもある。

第二次大戦の直前、ヨーロッパからアメリカを目指したユダヤ人を載せた船の話し。これは、たしか、映画化されていて、学生の時に見たかと覚えている。

それにしても、アインシュタインをすこし理想的に描きすぎてはいないだろうか。

番組(録画)を見ながら、はて、この番組は、どこで終わりになるだろうか、今でも世界中で難民の問題はある、どこに着地点をもっていくことになるのか、と思っていた。結局、沢田教一の写真の一件で、終わりにしていた。これはこれで、一つの編集の見識であると思う。今の世界のどこかの難民の姿で終わりにすれば、その加害者の側が誰かを最後に示して終わることになる。誰が悪いということで簡単に整理がつかないのが、難民問題である。難民問題は、ある意味では報復の連鎖の犠牲者でもある。ここを、どの場面で終わりにするか、難しいところであると感じる。最後は、ベトナム。たとえ難民になってもどこかの新しい国で生きていける、そんな「希望」を感じさせた。

この番組、気になったことを書いておけば、日本が登場しなかった。二〇世紀が難民の時代であるとして、では、日本は難民とどうかかわることになったのか、一切触れていなかった。日本の植民地支配の時代、日中戦争、太平洋戦争の時代、この時代も、日本が当事者となって難民を生み出した歴史が無かったということはないであろう。それが、日本人であるにせよ、現地の人びとであるにせよ。

また、太平洋戦争の終わり、ソ連侵攻にともなう満州の人びとのことも、ある意味では、難民といえるにちがいない。これについても、触れることがなかった。太平洋戦争の終わりのとき、外地にいた人びとのことも考えていいように思うが、どうだろうか。

今の国際社会の難民については、現代の日本も、間接的には当事者のひとつであるにちがいない。とはいえ、日本を難民問題の当事者として見る視点を導入して番組をつくることは、また難しいにちがいないが。ここは、あえてまったく日本を登場させない作り方を選んだのであろう。

その他、いろいろ思うところの多い番組であった。

『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」2018-08-12

2018-08-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第19週「泣きたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_19.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月5日
『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/05/8934079

この週になって急に時間の流れがゆっくりになった。いや、先週までが早すぎた印象がある。次週からの新たな出発にむけて、故郷の人びと、友人たちとなごんだ一週間であると思って見ていた。この週は、じっくりと故郷編という印象であった。

ともあれ、鈴愛は、出戻って、岐阜のつくし食堂、楡野家に帰ってきた。この週の中で描かれていたのは、昔の仲間、ふくろう町の友人たち、それから、家族との再会、団欒、といったところであろうか。

鈴愛には、帰る家がある。これは、このドラマで、重要な要素になっていると思う。東京で漫画家を目指していても、それに挫折して百円ショップで店員をしていたときも、結婚してからも、そして、離婚してからも、最後には、鈴愛には帰る家がある。そこには、父、母、弟、祖父、が待っている。また、ブッチャーや、菜生もいる。また、ボクテや裕子もやって来てくれる。鈴愛は、家族、友達にめぐまれている。(そういえば、このドラマ、これまでのところで、死んだ人間としては、ナレーションの廉子だけだったように思うが、どうだったろうか。このままいくと、仙吉も長生きしそうである。)

次週以降、鈴愛は、新たな挑戦を始めるらしい。五平餅をつくることになるのであろうか。次の旅立ちの前に、一息ついて、故郷の人びとの中で暮らすことになる鈴愛を描いた週であった。

ところで、律との関係はどうなるのであろうか。律は結婚はしているが、鈴愛から離れてしまったわけでなはない。常に、ふくろう町において、鈴愛の側にいる存在である。恋人というわけではない。幼なじみからの、友達……強いて言えば、こうなるであろうか。

この律の存在が、これからの鈴愛の人生の選択にどのようにかかわっていくことになるのであろうか。また、離婚した母親として、娘の花野をどう育てていくのかも、気になるところでもある。そして、鈴愛は、ふくろう町にとどまるのであろうか。あるいは、また、旅だっていくのであろうか。

次週も楽しみに見ることにしよう。

日曜劇場『この世界の片隅に』第四話2018-08-08

2018-08-08 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第四話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v4.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年8月1日
日曜劇場『この世界の片隅に』第三話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/01/8929763

第四話を見て感じるところは、次の二点である。

第一には、径子とその子どもたちとの話し。

原作(漫画)では、径子とその子どもたちとのことはそんなに出てきてはいない。だが、岡田惠和の脚本では、径子の出戻りの一件が、ドラマの重要な位置をしめるものとしてあつかわれている。これはこれとして、戦前の家族制度のもとでの、一つのエピソードとして、しんみりと感じさせる作り方になっている。ここは尾野真千子、それから、子役がうまい。

第二には、リンをめぐる疑惑。

周作には以前に好きな女性がいたのかもしれないという思いに、すずはかられる。その相手が、リンときまったわけではないが、どうやらそうらしいという雰囲気である。

原作(漫画)では、すずとリンの「友情」とでもいうべきものが、どこかしら幻想的に描かれていたと感じるのであるが、このドラマでは、そうではないように思える。原作(漫画)を確認すると、確かに茶碗のリンドウの絵のことから、竹藪で竹槍の竹を切るところ、そして、リンの姿を連想するあたりのことが描かれている。また、ノートの表紙を切って、リンの名前を書いた(らしい)ことも出てくる。

だが、これは、漫画という表現で描いてあるから、何かしらほんのりとした感じがある。これをドラマにしてしまうと生々しくリアルな印象を感じてしまう。たしかに原作(漫画)に忠実に作ってあるのだが、しかし、このあたりは、漫画のドラマ化という点では、難しいところかもしれない。

以上の二点が、この回を見て感じるところである。が、ともあれ、これはこれなりにうまく作ってあると感じさせる。

ところで、この回のキーワードは、「居場所」と「代用品」であろうか。自分は、ひょっとすると、周作にとっての「代用品」なのかもしれないという気持ちが、すずのなかにはあるようだ。だが、それでも、日々の生活のなかで、自分の「居場所」を見つけていかなければならない。このドラマは、最終的に、すずという女性の「居場所」がどこに定まるのか、というところに落ち着くような気がしている。これは、原作(漫画)を読んで感じることでもあるのだが。

どのような時代になったとしても……戦争があってもなくても……「この世界の片隅に」はどこかにそれぞれの「居場所」がある……このようなメッセージが、原作(漫画)からは伝わってくる。それを、このドラマはどう描くことになるのであろうか。次回を楽しみに見ることにしよう。

『西郷どん』あれこれ「三度目の結婚」2018-08-07

2018-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年8月5日、第29回「三度目の結婚」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/29/

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月31日
『西郷どん』あれこれ「勝と龍馬」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/31/8929144

この回のポイントは、次の二点だろうか。

第一には、薩長同盟の件。

一般的な理解だと、薩長同盟は、坂本龍馬の仕事、ということになっているのだが、このドラマでは、西郷のアイデアとして、薩摩は長州を支援する、ということになっているようだ。そして、幕府を倒す。

では、これから登場する坂本龍馬の役割とはいったいどんなものとして描くことになるのだろうか。逆に、このあたりのことが気になってくる。

そして、この西郷の胸の内は、盟友・大久保も理解できない。このドラマ、この時点ですでに、西郷と大久保とが、別の路線を歩むことにしてある。これから、幕末・明治維新を描くにあたって、大久保の役割はいったいどんなものになってくるのだろうか。

第二には、糸との結婚。

これからの日本のことを真に思っている(と、ドラマではなっている)西郷の心中を、理解してくれるものは、いない。そこに、糸との縁談がおこる。最初、西郷は、この話しを断るのだが、自分の心の内を本当に理解してくれる相手として、最終的に糸を選ぶことになる。

結果的には、西郷のことを本当に理解していたのは、(大久保ではなく)妻の糸でああったというのが、このドラマの筋書きである。

以上の二点が、この回のポイントだろうか。

それに加えて見るならば……西郷のナショナリズム、があるかもしれない。民が安心して暮らせるようにすることが、自分の使命である……このような意味のことを西郷は言っていた。西郷なりのナショナリズムである。

これは、おそらく、明治新政府になってからの、大久保たちが推進するであろう、国権主義的富国強兵路線と対立することになる、その結果としての西南戦争、その伏線として理解して見ておけばいいだろうか。

このドラマ、倒幕、明治維新の功業は、西郷の手になるものとして描く方針のようである。次回は、岩倉具視の登場らしい。どのような岩倉具視を描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月14日
『西郷どん』あれこれ「怪人 岩倉具視」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/14/8941460

『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」2018-08-05

2018-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第18週「帰りたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_18.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月29日
『半分、青い。』あれこれ「支えたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/29/8927619

この週の見どころは、鈴愛と涼次の決別。これについて、見て思ったところを書けば、次の二点になるだろうか。

第一に、涼次の映画への思い。

涼次は映画の世界にもどっていく。そして、あえて退路を断つ。鈴愛とは別れるという。

映画の世界で、脚本家として生きていくことと、鈴愛との生活を両立させることは、決して難しいことではないことのように思えるのだが、このドラマではそうはなっていない。映画の世界で生きるために、家族を捨てることになる。

このあたり、映画、脚本の世界で生きていくことの厳しさの表現であるととっておけばいいのだろう。この意味では、ドラマの作中のできごととはいえ、このような設定をもってきた、作者(北川悦吏子)の覚悟のほどが、感じられる。

先に、秋風羽織のもとで漫画家をめざし、自分の才能に絶望して、百円ショップにつとめることになった。ここでも、創作、表現にかかわる仕事の厳しさが描かれていた。まずは、才能があるかどうか、である。鈴愛は自らに漫画家としての才能は無いと見切りをつけた。

こんどは映画である。涼次には、才能があるのだろう。小説家・佐野弓子も、その脚本の才能を認めていたようである。だが、この世界、才能があるだけでは生きていけない。さらに、貪欲にチャンスを自分のものしていく意欲のあるものが生き残る。

このような脚本の世界の中で、自分は生きのびてきたし、また、これからも生きのびてみせる……このような覚悟とでもいうべきものが、この週の展開からは感じられた。

第二に、とはいっても、涼次が捨てることになる家庭とは何であったのか。

このあたりの描写が、希薄な気がしてならない。映画か、家庭か、となって、涼次は映画をとる。そして、鈴愛も、それを容認する。これはいいとしても、そこにいたる、過程がどうであったのか、ちょっと話しの筋がとんでいるように感じた。

ここは、鈴愛と涼次の家庭のエピソード、例えば、幼稚園の運動会などでもいいかもしれないが、ささやかながら、百円ショップで働きながら、きづきあげた家庭の温かさ、とでもいうべきものを描いておくべきではなかったか。花野は、おたふくかぜになったが、耳に特に異常はなかったようである。このあたりのエピソードに、父親としての涼次の気持ちを絡めて描いてあったらよかったかと思う。

涼次が捨てることになる、鈴愛もそれを了承することになる、東京での家庭の団欒、これの描き方が今ひとつ物足りない気がしている。言い換えるならば、話しの展開がはやすぎるのである。あるいは、家庭の人としての、父親としての涼次が描かれていなかったと言ってもよい。

話しが早くすすむのはいいとしても、鈴愛の家庭について印象的シーンが無いのが残念である。鈴愛と涼次の出会いも、ドラマの時間としてはわずかのものだったが、雨の中のダンスということで、きわめて印象的に描かれていた。このような印象的なシーンが、鈴愛の家庭、父親としての涼次の姿において、見られないのである。

だいたい以上の二点が、この週に思ったことなどである。

それにしても、突然の帰郷にはいささか戸惑いも覚える。ここは単なる帰郷というよりも、故郷・岐阜に帰りたいという強い気持ちの表現なのであろうが。これまで、鈴愛は、東京で暮らしていても、岐阜方言が抜けていなかった。どこか、故郷とのつながりを感じさせていた。それが、ここにきて表面化したということであろうか。

土曜日、最後に律が登場してきていた。これから、鈴愛と律との、次のドラマがはじまるのだろう。それはいいとしても、東京での鈴愛と涼次と花野、それから、三人のおばたち、これらの、生活の描写がもうちょっと描いてあったらと感じるのである。あるいは、これは、今後のドラマの展開を考えると、それだけの時間がとれなかったということなのかもしれない。ともあれ、次の展開を楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月12日
『半分、青い。』あれこれ「泣きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/12/8939884

『西郷どん』における方言(六)2018-08-03

2018-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである、
やまもも書斎記 2018年5月24日
『西郷どん』における方言(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/24/8858578

ドラマはいよいよ幕末明治維新の前夜という段階になって、いろいろと新しい登場人物が出てきている。ドラマにおける方言使用の面から見ても興味深い。

まず、西郷吉之助であるが、あいかわらずの薩摩ことばである。ただ、その薩摩ことばも、薩摩藩の身内と話すときは、純然たる薩摩ことばのようだが、一橋慶喜と話すときは、標準的な武士ことば(時代劇語)にすこし、薩摩的要素をくわえたような話し方になっている。こことは、あくまでも、薩摩出身の西郷として薩摩ことばを止めるわけにはいかない。しかし、その純然たる薩摩ことばのままでは、一橋慶喜とのコミュニケーションがとれたはずはない、というあたりの折衷的なところだろうか。

薩摩ことばが薩摩というリージョナリズムの表象であるとう意味では、ふき(ドラマの現在では、一橋慶喜の側室)のことばが興味深い。一橋慶喜と話すときは、標準的な日本語(時代劇女性ことば)であるが、西郷吉之助と話すときは、薩摩ことばになっていた。

それから、坂本龍馬。これは、もう約束として、土佐ことばである。また、勝海舟は、江戸のことば。それも、かなり下町風の武家ことばと言っていいだろうか。これで、この二人のコミュニケーションがなりたっているように描かれている。この坂本龍馬、勝海舟と話すときの、西郷吉之助のことばは、薩摩ことばであった。

日本語史の問題として、幕末のころ、武士たちの間で、どのようなことばが、一般的に使われていたのか、ということは確かにある。だが、それとは別のこととして、ドラマにおいては、それぞれの登場人物の背景として、そのことばがある。西郷吉之助の薩摩ことばであり、坂本龍馬の土佐ことばである。

このあたりのことは、実際にそれでコミュニケーションできたかどうか、という観点よりは、幕末時代劇の約束として、そのようなことばを使わせているということで理解しておけばいいのだろう。さらに考えて見るならば、時代考証として、その当時の人びとがどのようなことばを話したかではなく、どのようなことばを話す人間としてふるまうことを期待しているか、である。

幕末、明治維新は、あくまでも、登場人物の出身地(土地、藩)を背負ったものとして、その活躍を描く、このような時代劇ドラマの約束として、そのように作ってあると理解して見ておけばいい。逆に視点を変えてみるならば、幕末、明治維新は、地方出身者(江戸をふくめて)が、そのドラマの立役者である、ということになる。その出身を背景として背負って、その活動がある……このように、今日の視点からは、幕末、明治維新を見ていることになる。その地方出身者が、作っていったのが、近代日本ということになる。地方出身者が、一つの「日本」を作りあげていったというところに、近代日本のナショナリズムの一つのイメージが形成されていっていると言ってよかろう。

今日において、幕末、明治維新をドラマとして描くとき、その出身地のことば(方言)を重視しているということは、近代ナショナリズムが、全国民的な広がりのなかで形成されてきた……このような今日の歴史観を表しているともいえる。さらにいうならば、薩摩が日本になり、土佐が日本になる、その過程としての、幕末、明治維新として考えていることになる。あるいは、薩摩や、土佐や、長州をふくんだものとしての、近代日本ということもできる。各地域のリージョナリズム、また、パトリオティズムが、総合したところになりたっている、ナショナリズムなのである。少なくとも、現代から過去を見てイメージする、この時期のナショナリズムは、純朴でもある。

ここには、リージョナリズム、パトリオティズムと、ナショナリズムの、素朴な融合した意識の形態、歴史観を見て取ることができる。

蛇足で書くならば……昭和戦前期の皇国ナショナリズムは、素朴なリージョナリズムを圧迫したところに成り立っている、幕末、明治初期とは、次元のことなるものになってしまっていた、とも言ってよいかもしれない。

日曜劇場『この世界の片隅に』第三話2018-08-01

2018-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)

TBS日曜劇場『この世界の片隅に』第三話
http://www.tbs.co.jp/konoseka_tbs/story/v3.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月25日
日曜劇場『この世界の片隅に』第二話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/25/8924945

このドラマ、だいたい原作(漫画)を忠実になぞっているようだが、時として、そこにある題材をふくらませて描くところがある。今回でいえば、アイスクリームを、周作と食べるシーンがそれにあたる。

リンと出会うことになる筋道は、ほぼ原作のとおり。アリにとられまいとして、砂糖を水に溶かして無くしてしまう。ヤミ市で買うことになる。その帰り道で、すずは道にまよう。迷い込んだのが、遊郭。そこで、リンと出会う。帰り道を教えてもらう。

リンは、アイスクリームの絵を描いてくれとねだるが、すずは食べた経験が無いので知らない。そんなすずに、周作は二人きりの逢い引きを設定してアイスクリームを御馳走する。この逢い引きのシーンは、原作(漫画)にはあるが、アイスクリームは出てこない。

しかし、昭和19年の呉の街で、果たしてアイスクリームが、街の食堂で食べられたかどうか、ここのところは、問題の残るところかもしれない。雑炊しかメニューにないような時代である。とはいえ、このアイスクリームのエピソードは、ドラマで描いてあって、しみじみと感じ入る場面でもあった。始めてアイスクリームを口にしたすずの表情がよかった。それから、自分で食べてしまわずに、すぐ周作にも食べるようにすすめる。一つのアイスクリームを二人で食べていた。

ところで、リンと周作はどのような関係にあったのだろうか……原作(漫画)では、このあたりが描かれていない。ドラマでは、リンをめぐる人間関係が展開するように見える。それは、次回以降のことになるのだろう。

また、現代のパートもまだ謎につつまれたままである。若い女性は、すずが住んでいた家の持ち主と面識があるらしい。これも、次回以降、徐々に解明されていくことと思う。

岡田惠和脚本は、原作(漫画)の設定をかりて、基本的にその人物造形やエピソードに忠実でありながら、ドラマとして幅を広げて描いていくようだ。その中で、核になるのは、やはり、戦時下という設定ではあるものの、日常生活のいとおしさとでもいうべき感覚である。

ここまで見た感じでいえば、主演の松本穂香の起用は成功であったというべきであろう。原作(漫画)のすずのもっている雰囲気をうまく演じている。それから、径子(尾野真千子)、そして、サン(伊藤蘭)がうまい。リン(二階堂ふみ)もいい感じである。

次回も楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-08
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月8日
日曜劇場『この世界の片隅に』第四話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/08/8936597

『西郷どん』あれこれ「勝と龍馬」2018-07-31

2018-07-31 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年7月29日、第28回「勝と龍馬」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/28/

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月24日
『西郷どん』あれこれ「禁門の変」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/24/8924402

この回で描かれていたのは、西郷のナショナリズム。

無論、ドラマのなかでは「ナショナリズム」という語が用いてあるわけではない。だが、これから、倒幕へと動くことになる西郷を、今のことばでいうなら、ナショナリストして造形していた。日本という国は、そこに生きる人びとのためにあるのである……非常に素朴な感覚であるが、これが西郷のナショナリズムとして、描かれていた。

この西郷のナショナリズムは、日本という国を徳川幕府の存続という観点からしか見ない一橋慶喜と対立することになる。いや、対立をとおりこして決別と言っていいか。西郷は慶喜のもとをたちさる。

この後の西郷の動きは、薩長同盟を基軸としての倒幕の中心として動くことになることになるのだろう。

また、この西郷の素朴なナショナリズムは、将来、明治になってから、大久保利通の進める国権的ナショナリズムと対立することになるにちがいない。そこで、西南戦争という筋が見えてきたような気がする。

それから、長州征伐を、長州側の帰順という形で収めた西郷の交渉手腕は、これからの、江戸攻略の時の、伏線となっている。歴史の結果としては、(一般的な理解では)西郷と勝海舟との直談判で、江戸城無血開城になったということである。幕府を見限った勝海舟、民とともにあることを選ぶ西郷、この二人にとって、江戸幕府の存続よりも、江戸の人びとの生活の方が大事になってくることは、確かなことだろう。

ともあれ、このドラマ、西郷吉之助という人物を、素朴な人びとの生活を大事にするという観点からのナショナリストして行動することになる、この方向性ははっきりしてきたようである。だが、これは、近代日本の国民国家の成立からすれば、ある意味では、邪魔になる理念かもしれない。たぶん、大久保などの進める富国強兵路線とは対立することになるのだろう。

まだ、幕末のこの時期には、日本という近代国家が見えていない時期である。その中にあって、漠然とながらも、日本を考えていたのは、勝海舟、それから、坂本龍馬、そして、西郷隆盛、ということになるのであろうか。

素朴なナショナリズムは、ある意味で危険である。過激に暴走しやすい。この過激なエネルギーが、倒幕へと西郷を導いていくことになるのであろうと思って見ている。

追記 2018-08-07
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月7日
『西郷どん』あれこれ「三度目の結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/07/8935554

『半分、青い。』あれこれ「支えたい!」2018-07-29

2018-07-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第17週「支えたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_17.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月22日
『半分、青い。』あれこれ「抱きしめたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/22/8923031

この週の見どころは、前半は涼次の映画の世界での挫折、そして、後半は鈴愛の出産である。

第一に、涼次の映画での挫折。挫折と言ってしまうのは、どうかと思うが、やはりこれは、挫折ということば言うのが一番しっくりくる展開であった。

中で印象的だったのが、作家・佐野弓子(若村麻由美)と、元住吉祥平(斎藤工)のやりとり。涼次が書いた脚本を、元住吉祥平は自分に監督をやらせてくれと、佐野弓子に懇願する。それを見て、佐野弓子が、このような意味のことを言っていた……いい人では、この世界は生きのびていけない、と。結果としては、監督は元住吉祥平に決まり、涼次は壊れてしまう。映画の世界からも、きっぱりと手を引く決心をすることになる。

このあたりの描写、脚本家としての北川悦吏子が、それなりの矜恃を込めて書いたと考えていいだろう。こうして、NHKの朝ドラの脚本を書いている自分は、いい人なのか、それとも悪い人なのか、いや、そうではなく、出来上がって、今テレビで見ているこのドラマがすべてである、とでも言いたげな印象をうけた。

このドラマ、先には、漫画の世界のことを描いていた。ただ、努力するだけではダメである。才能というものが必要である。秋風羽織に実力の差を見せつけられて、結果的に、鈴愛は、漫画の世界から身をひくことになった。

映画・脚本の世界で、涼次は、確かに実力をつけてきていたのだろう。出来上がった脚本に、佐野弓子も感心していたようだ。だが、実力があっても、いい人であるだけでは、この世界で生きのびることはできない。涼次の脚本であることを認識しつつも、佐野弓子は、元住吉祥平に監督を依頼することにする。

ここに、かすかな悪意とでもいうようなものを感じるのだが、しかし、その佐野弓子も、また、ただ努力しただけで、作家としての今の地位をきづいたというわけでもないようだ。努力だけではない、才能も必要、さらには、その才能をつかって仕事をつかみとる運のようなものが必要ということなのかもしれない。

第二は、週の後半、鈴愛の出産である。思い起こせば、このドラマは、鈴愛が母(晴)から生まれてくるところからスタートしていた。そのときに使っていた糸電話が、再び登場していた。このあたりは、たくみな脚本であると感じさせる。

東京に行って生活することになって、最初は漫画家をめざし、今は百円ショップで働いていても、岐阜方言が抜けていない、このような鈴愛にとって、故郷の岐阜には帰る家がある。家族が待っている。

その父と母は、子どもが生まれても、「おとうさん」「おかあさん」ではなく、「うーちゃん」「はるさん」で呼び合っている。鈴愛と涼次は、そのような夫婦になろうとする。このあたりのことばの感覚はたくみである。

出産は、鈴愛がかつて生まれた病院で、ということになった。無事に出産は終わったようである。これから、母としての鈴愛の人生がスタートすることになる。

以上の二点が、この週で思ったことなどである。

次週は、母としての鈴愛の姿を描くことになるのであろう。予告では、律も登場するようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-08-05
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月5日
『半分、青い。』あれこれ「帰りたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/05/8934079