『ひよっこ』における方言(その三)2017-07-24

2017-07-24 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年7月14日
『ひよっこ』における方言(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/14/8620043

第16週の「アイアイ傘とノック」で、島谷の父親が登場してきていた。設定としては、佐賀の名家で、製薬会社を経営しているという。(だが、その経営も、今はあまりうまくいっていないようだが。)

この父親、東京に出てきて、息子・島谷と、喫茶店で話しをするシーン。佐賀出身のこの二人は、共通語で話しをしていた。佐賀の方言をまったくつかっていなかった。

これは、ちょっと状況としてはおかしい。島谷の家は佐賀の名門という設定であったはず。また、以前のバー「月時計」の場面でも、佐賀方言についてふれていた。たぶん、生まれも育ちも佐賀で、大学生になって慶應に入って、東京に出てきたという設定だろうと思う。

しかし、「月時計」の場面でも、自分自身で佐賀の方言を話すことはなかった。ふだん、みね子やアパートの人びとと話すときも、共通語(東京語)である。

やはり、出身地が佐賀であるというのは、属性としてはどうでもいいことなのかもしれない。それよりも重用なのは、地方の名家の出身で、慶應の学生という立場、役割、ということになるのだろう。だから、父親が状況してきたときも、会社の経営の話しをする場面でも、佐賀の方言が出ることはない。

一方、ふと、自らの方言を口にしてしまったシーンもあった。早苗である。バー「月時計」に酔って入ってきたとき、思わず、出身地(東北)のことばを話してしまって、あわてて共通語にきりかえていた。

また、相変わらず、富山出身の漫画家志望の青年たちは、その方言で話している。これはおそらく、この二人はもう見込みがないということを意味するのかもしれない。

このドラマ、登場人物にどのようなことばを使わせるか、方言を話すかどうか、について、非常に慎重に配慮してつくってあると思ってみている。この意味では、島谷が絶対に佐賀の方言を話さないということは、おそらく、みね子が島谷とむすばれて佐賀に行くという展開にはならないということにつながるのだろうと思っている。もし佐賀に行くような展開なら、父親の話すことばは、佐賀の方言にしてあるだろう。

そして気になるのは、やはりみね子。いつまで奥茨城方言で話すことになるのか。ずっと最後まで、その方言をとおすことになるのかもしれない。それが、「普通」の生き方であるとするならば。

『ひよっこ』あれこれ「アイアイ傘とノック」2017-07-23

2017-07-23 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/

第16週、「アイアイ傘とノック」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/16/

この週は、みね子と島谷のラブストーリーであった。タイトル「アイアイ傘とノック」がそれを表している。

ただ、二人が熱愛関係にあるというだけではなく、島谷の家の事情。家の製薬会社の経営がうまくいっていない。断れない縁談がある、という話しで、最後になっていた。

だいたい、朝ドラで、ラブストーリーがそのままめでたく結ばれるということはあまりない(と思う。)まあ、最近の例では、『ごちそうさん』などは、うまく結ばれて新しく生活をきづいていくという方向であったかとは思うが。

みね子の気持ちをあらわしていたのが、
「愛して愛して愛しちゃったのよ」
http://www.uta-net.com/song/36/

たぶん、これは、破局を迎えるだろう、悲恋に終わるだろうと予想させる。そう予想させながら、次週、なんだか変な方向に話しが行きそうである。

ここしばらくは、失踪した父親のことがあまり出てきていない。このドラマ、最終的に、失踪した父親との再会とその経緯、それから、島谷との恋のゆくえが、軸になっていくのかなと思う。

この週においても、みね子が大活躍したということはない。ごく普通に生活している。そのごく普通の生活のなかで、島谷との恋も描かれている。だから、たぶん、このみね子のごく普通の生活というラインはくずれることはないだろうと推測するのだが、どうなるだろうか。

ごく普通の恋愛であり、そして、ごく普通の悲恋であろう、これをどう描くか楽しみに見ることにしよう。

『おんな城主直虎』あれこれ「死の帳面」2017-07-18

2017-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

「おんな城主直虎」2017年7月16日、第28回「死の帳面」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story28/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年7月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618205

今回は、直虎、井伊ではなく、今川の話しだった。今川というと、桶狭間の合戦で、義元が信長に敗れて以来、その後のことは、あまりドラマなどに描かれることはなかったように思う。それを、この『おんな城主直虎』では、丁寧に描いている。見方によっては、井伊の物語と平行して、今川のその後の物語があるかのごとくである。

なんといっても圧巻であったのは、寿桂尼(浅丘ルリ子)の存在感。ちょっと化粧がきついかなという気がしないでもないが、年取ってもなお、その迫力はたいしたものである。

そして、武田信玄との場面。これが見どころといったところであったろうか。

私が注目したのは、直虎のせりふ。イエを守るということはきれい事ではできない、このような意味のことをいっていた。直虎にとって、なにより大事なのは、井伊のイエを守ることである。それは、ちょうど、寿桂尼が、今川のイエを守るのと同じように。

だが、これは両立し得ない。直虎は、寿桂尼に恩義を感じてはいるようである。しかし、それが、主家である今川への忠誠心として、直虎のエトスになっているかというとそうでもない。直虎のエトスは、あくまでも、井伊のイエの存続にある。

このあたり、前作『真田丸』では、真田信繁の豊臣への忠誠心がそのエトスとして描かれていたのと、非常に対照的である。(歴史の結果としては、今川から離反して、徳川についた井伊は生き延びることになることを、現代の我々は知っている。)

この意味で、ちょっとだけ出てきた井伊の気賀の城の場面。この城を、直虎は、方久にあずけることにする。方久は武士ではない。商人の出身である。その時、こう言っていた……銭のちからは非常に強い、しかし、銭のちからだけではどうにもならないことがある、という意味のことを言っていた。このせりふ、何気なく言っているようだが、これからの、井伊のイエの存亡をかけた、重要なせりふになってくるのではないだろうか。

中世、戦国時代といっても、銭……商品経済といってもよいか……が、非常に大きな影響力をもってきている時代である。そのちからを最大限に発揮しつつも、「武」もおろそかにすることはない。それは、おそらく、直虎の次の世代、井伊直政の時代にうけつがれていくことになるのだろう。

今回、和尚は出てきたが、ネコが出てこなかった。ちょっとさびしい。

『ひよっこ』あれこれ「恋、しちゃったのよ」2017-07-16

2017-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第15週、「恋、しちゃったのよ」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/15/

今週は、なんといってもみね子の恋の物語であった。みね子は、同じアパート(あかね荘)の住人、島谷と恋をすることになる。

昭和40年頃、高卒で地方から東京に働きに出てきている女の子と、慶應の学生との恋など、そうめずらしいものではなかったろうと思う。しかし、相手の島谷は、佐賀の名家の御曹司である。みね子とは違う……土曜日に大家さん(富さん)の言っていたことばでいえば「身分」である。

いまどき「身分」などということは、時代遅れだろう。だが、それが、アパートの大家さんのお富さんから、「身分違いの恋」といわれると、なんとなく説得力がある。

たぶん、そんな周囲の思いとは別に、みね子と島谷の恋はすすんでいくことになるのであろうとは思う。

しかし、である。ここでみね子と島谷が結ばれて幸福になってしまったのでは、ドラマが終わってしまう・・・まあ、失踪した父親のことはあるとしてもである。まさか、みね子が島谷と結婚して佐賀に行くことはないだろう。

佐賀に嫁に行くといえば、私などは「おしん」を思い出してしまう。

このみね子の恋の行方にどのように決着をつけるのか、そして、失踪した父親のゆくえはどうなるのか、これが、このドラマの後半の見どころになってくるにちがいない。

ところで、島谷は慶應の学生という設定である。だが、その大学キャンパスでのロケは、三田キャンパスはつかえなかったようだ。帝京大学でロケしたとあった。できれば、三田のキャンパスでのロケが実現していたらと思って見ていたのであった。といっても、もう、かつての「幻の門」もなくなってしまっているし、建物も随分と新しくなっているのだが。

『ひよっこ』における方言(その二)2017-07-14

2017-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKの朝ドラ『ひよっこ』における方言使用のことについて、ちょっと以前に書いてみた。

やまもも書斎記 2017年6月26日
『ひよっこ』における方言
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/26/8604596

みね子と島谷がデートした。そのシーンであるが、みね子は相変わらずの茨城方言が抜けていない。その一方で、島谷は、故郷(佐賀)のことばを話さない。共通語で話している。

その前の回。みね子と島谷たちが、バー「月時計」にあつまったとき。この時も、島谷は、自分の故郷の方言を自らは口に出していなかった。女性店主が、言ってみせて、「完璧です」と言っていた。

また、地方出身でありながら、共通語で話しているのは、早苗。バーのシーンで、東北(一関)の出身であると言っていたが、彼女もまた、方言を話さない。

どうやら、このドラマ、登場人物によって、その出身地の方言を話す/話さない、の違いを設定しているようだ。

乙女寮で働いていた女性たち、彼女たちは、みなその出身地の方言を話している。東京にでてかなり時間がたっているはずなのに、変化していない。また、富山出身の漫画家志望の青年二人も、富山方言で話している。

一方、慶應の学生である島谷、一応は自立した生活を送っているOLの早苗は、方言を話さない。

これを、社会的階層と方言使用という観点から考えると、かなり興味深い。

このドラマ、ひょっとすると方言がこれからの展開のキーになるのかとも思っている。みね子たちが乙女寮の同窓会をしていたとき、ふと現れた女優(菅野美穂)に、時子は、その方言を指摘されていた。

しかし、時子は女優を志して劇団にも所属して稽古にはげんでいるという設定。なのに、自分の方言に無頓着であるということは、どう考えてもおかしい。

店で働いているみね子の場合も、お客さんに接するとき、その方言が抜けていない。これは、接客業としては問題ないのだろうか。少なくとも、みね子は、自分の方言にコンプレックスをいだくということは、基本的にない、ということになっている。

女優(菅野美穂)の茨城方言への関心……茨城方言を話す登場人物、みね子、時子、それから、失踪している父親・実……これらをむすびつける糸になりそうである。

『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」2017-07-11

2017-07-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年7月9日、第27回「気賀を我が手に」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story27/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年7月4日
『おんな城主直虎』あれこれ「誰がために城はある」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/04/8611928

以前のこのブログで、「気賀の町衆」ということばがはじめて出てきたとき、そのことに注目しておいた。また、このドラマは、「自由」が一つのテーマではないか、ということについても言ってみた。そのことが、より鮮明になったのが、前回から今回への展開であろうか。

もちろん、中世、戦国時代に「自由」というようなことばがあることはないだろう。近代的な意味における「自由」の成立は、日本の歴史の上では、どう考えて見ても明治以降のことになるちがいない。

しかし、このドラマを見ていると、「自由」を描こうとしているように見える。その「自由」を体現しているのは、龍雲丸である。近代的な市民ではない。あくまでも、中世、戦国時代の人物である。そのような人間にとって、領主の支配下にある武士でもない、また、領地に定住する農耕民でもない。主に商業を軸になりわいをたてている。(とはいえ、龍雲丸は、もとはといえば、盗賊であるのだが。)このような龍雲丸にとってのエトスは、「自由」ということになるのではなかろうか。

また、この回では、方久が重要な役割をはたしていた。彼もまた武士の出身ではない。商人である。それが、井伊のイエにつかえて、イエをまもるために大きな働きをする。

現代風の言い方をすれば、井伊のイエを、ビジネスで生き延びさせる、これが、方久の、また、龍雲丸の役割どころ、といったところであろうか。

気賀の町が井伊のものになって、ドラマは、後半にはいっていくことになるのだろう。今川と武田の縁がきれた。まわりには、北条、徳川、織田といった戦国大名たちがひしめいている。そのなかで、井伊という土地の安寧を願ってそこに生活している、直虎たちの運命はどうなるのであろうか。(まあ、その最終的な結果について、現代の我々は知っていることになるのだが。)

ところで、今回も、和尚とネコがでてきていた。特に、どのような役があったということもないようであるが、あの和尚とネコがいるかぎり、井伊は安泰であるという印象になる。和尚にはネコがよく似合う。

追記 2017-07-18
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月18日
『おんな城主直虎』あれこれ「死の帳面」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/18/8622787

『おんな城主直虎』あれこれ「誰がために城はある」2017-07-04

2017-07-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年7月2日、第26回「誰がために城はある」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story26/

前回は、
やまもも書斎記 2017年6月27日
『おんな城主直虎』あれこれ「材木を抱いて飛べ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/27/8605216

前回、ちょっとだけ出てきた「気賀の町衆」ということばが、この回では、大きな意味をもつようになってきた。

ただ、歴史的に見て、中世、戦国時代の地方都市である気賀のようなところに、「町衆」というべき人びとの暮らし、そして、生活の組織があったのかどうか、ということは、問題のあるところなのかもしれない。しかし、このドラマは、中世、戦国時代における、非農業民とでもいうべき人びとを、かなり積極的に描こうとしているようである。その意味では、気賀という町、そして、そこにすむ「町衆」といわれる人びと、これは、重要な意味をもってくる。

今川の支配下にありながら、銭を納めるということで、自治権を得ているという設定になっている。町衆にとって何よりも大事なのは、自治権である。自由に商売、交易ができる権利といってもよい。それを、今川は自己の勢力下におさめようとしている。

このあたりのことは、中世史の立場からそれなりの時代考証をしてのことだろうとは思ってみている。とにかく、百姓=定住=農耕=米作、といった図式から離れた人びとを、どのように描くかが、このドラマの面白さになっている。

そこで、最も「自由」に生きているのが、龍雲丸ということになるのであろう。「自由」な生き方をもとめている龍雲丸と対比することによって、今川の支配下において、武家としてしか生きられない、井伊のイエをせおっている直虎の生き方が、より鮮明なものになってくる。

ところで、今回は、ネコが出てきていた。あのネコは、和尚の飼っているネコではないのか……直虎と政次が囲碁をしているよこでおとなしくしていた。そして、和尚にも抱かれていた。同じネコなのだろうか。

次回はどうなるだろうか……直虎は今川に忠義をつくす立場をとらざるをえないことになるのだろうが、それは、あくまでも、井伊のイエを守るための選択肢としてにすぎない。結局は、徳川につくことになることを現代の我々は知っている。このあたりのプロセスで、今川の末路をどうえがくことになるのか、それに、井伊のイエはどのように対応していくことになるのか、このあたりが、これからの見どころかと思っている。

追記 2017-07-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618205

『ひよっこ』あれこれ「ビートルズがやって来る」2017-07-03

2017-07-03 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第13週、「ビートルズがやって来る」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/13/

これまでは、土曜日まで見て、日曜日にアップロードしてきた。しかし、この週末は、所用で東京に行ってきたので、一日おくれて月曜の掲載になる。

私は、昭和30(1955)年の生まれなので、ビートルズ来日のときのことは、かすかに憶えている。その武道館公演のテレビ中継を見ていた記憶がある。だが、ビートルズをそんなに意識することはなかった。ビートルズを聴くようになったのは、大学に入って、東京で生活しはじめてからのことだったろうか。

みね子と同じで、テレビはなかった。ただ、ラジオだけがあった。ラジオだけが、自分と世界をつなぐ回路であったのかもしれない。無論、その一方で、大学での学生生活はあったのだが。

たぶん、大部分の日本の人びとにとって、ビートルズってなんだ?……という感じだった。だが、そのなかにあって、一部の熱狂的なファンという人たちもいた。

そのあたりの微妙な温度差というのを、この週ではうまく描いていたように感じた。おじさん(宗男)のビートルズへの熱い思い、それをどうにかしてあげたいと思う、みね子。結局、チケットは手に入らなかったようだ。

最後の土曜日で、みね子たちは、夜空に向かって叫んでいた。ロックが、その当時の若者の、鬱屈した心情をなにがしか反映しているものであるとするならば、その向かうさきは、世界に向かって、あるいは、空のかなたに向かって、心の内にある思いを、叫ぶことにあるのかもしれない。

このドラマ、慶應の学生は出てくるが、学生運動というものとは無縁であるように描いている。その当時の若者にとって、60安保、70年安保は、深刻な意味があったはずである。だが、このドラマはそれを描かない。そのかわり、当時の若者の心情を、ビートルズによせる思いを叫ぶことで、代えている見ている。

高度経済成長期にあって、安保闘争などの時代的背景を直接には描かないとしても、その当時の、若者の心情、こころのうちにあるものへの共感がこのドラマにはあると思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「材木を抱いて飛べ」2017-06-27

2017-06-27 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年6月25日、第25回「材木を抱いて飛べ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story25/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年5月20日
『おんな城主直虎』あれこれ「さよならだけが人生か?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/20/8600856

龍雲丸が活躍する回は、どうやら面白い展開になりそうな感じである。

この回の放送を見て、ちょっと気になったことばがある。「気賀の町衆」といっていた。なにげない台詞のなかのことばであるが、気になった。

それから、龍雲党の面々。

どうやら、このドラマは、中世、戦国時代における、非農耕民、また、非定住民というものを、かなり積極的に描こうとしているようである。これは、前作『真田丸』とは、きわめて対照的である。『真田丸』には、町衆や百姓、農民、あるいは、武士階層ではない人びと、これらの人びとは、ほとんど登場してこなかった。それが、この『おんな城主直虎』では、方久をはじめとして、武士ではない人間が、重要な役割をになっている。龍雲丸もそのひとり。

ところで、この回を見ていて、興味深かったのは、「忠義」である。井伊直虎は、今川に忠義をしめす。これは、今川の支配下にあるから、どうしてもそうせざるをえないという選択肢である。今川からのお下知には、逆らえない。

だが、現在の我々は知っている。井伊は、今後も今川のもとにありつづけるのではないことを。結局は、徳川につくということを。そのプロセスを、これから、このドラマは、どのように描くことになるのであろうか。

徳川への忠義、忠誠心というものが、どのようにこれから描かれることになるのか、このあたりが、非常に気になるところである。

忠誠心といえば、また、前作『真田丸』が思い浮かぶ。このドラマは、主人公・信繁の、豊臣への忠誠心を軸に展開していたように私は見ていた。

だが、井伊直虎は、どうであろうか。直虎にあるのは、何よりも、井伊のイエをまもるということであるように見える。そのための手段として、今の現状では、やむをえず今川の支配を受け入れているということのようだ。これは、今川をとりまく状況が変われば、どう変わってもおかしくない。とにかく、井伊のイエを守ることを、最重要にして行動している。

で、ネコであるが……今回は、出てこなかったようである。和尚には、ネコがよく似合うと思って見ているのだが。次回は、どうなるであろうか。

追記 2017-07-04
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月4日
『おんな城主直虎』あれこれ「誰がために城はある」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/04/8611928

『ひよっこ』における方言2017-06-26

2017-06-26 當山日出夫

昨日につづき、NHKの朝ドラ『ひよっこ』について。

このドラマで、興味深く思って見ていることは、方言のとりあつかいである。これまで、朝ドラでは、いろんな地方を舞台にしてきた。地方を舞台にすれば、当然ながら、その地方色のための方言の使用ということになる。

たぶん、朝ドラの歴史のなかで、近年、方言について、画期的な方針をとったのは、『あまちゃん』(2013前、宮藤官九郎脚本)からではないかと思ってみている。このドラマでは、方言が、ただその地方色を出すためのものではなく、もっと積極的に、その地域のアイデンティティの自覚的表現として、つかわれていた。

それは、登場人物でいえば、春子(アキの母、小泉今日子)が、地元に帰ってスナックで仕事をするようになったとき、突然、北三陸方言を話すようになったことからもうかがわれる。それまでや、東京で芸能事務所をやっているようなときは、東京方言で話していた。

『ひよっこ』でどうだろうか。奥茨城方言を、かなり積極的につかっているようである。そして、重要なことは、ヒロインのみね子は、奥茨城方言にコンプレックスをいだいていないということである。

最初、上京してきてつとめた電機工場(向島電機)では、寮に入っていた。そこの仲間たちも、その出身地の方言(青森とか福島とか)を、話していた。まあ、これは、工場の従業員であるから、方言で話すかどうかは問題にならなかったともいえよう。

その後、みね子は、失業、転職ということがあって、レストラン・すずふり亭で働くようになる。ホール係。これは、接客業である。お客さんに接するのに、奥茨城方言のままでは、どうかなという気もしないではないのだが、ここも、特に問題がないように描いている。

それから、方言について興味深い登場人物が他にいる。

佐賀出身の大学生。慶應の学生という設定。彼は、佐賀出身ということだが、その地方の方言をまったくつかっていない。慶應の学生に、佐賀方言はにつかわしくない。東京の大学生としては、東京方言を話す、ということなのだろうか。

それに対して、富山出身の青年。どうやら漫画家としての才能にはめぐまれていないようだが、話していることばは、富山方言である。

さらに、興味深いのは、バー「月時計」。ここの店主(女性)は、方言の勉強をしているという。地方から東京に出てきたような客に対応するため。方言で話しをすると、お客さんが安心するからだという。ここでは、方言を使うことが、コンプレックスではなく、むしろ、積極的な意味を持つものとしてある。

ところで、地方から東京に出てきた人びとの、方言コンプレックスというのは、少なくとも、1970年代まではあったはずである。

たとえば、「赤いハイヒール」(太田裕美)。

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=53838

「そばかすお嬢さん故郷なまりが それから君を無口にしたね」

これは、1976年である。ちょうど私が、東京にでて大学生活をはじめたころのことになる。私の場合、京都(宇治市)の出身であるので、方言コンプレックスを感じるということはなかったが、地方から出てきた学生には、なんとかして、東京方言(共通語)を話そうという雰囲気があったように記憶している。

映画「三丁目の夕日」は、1960年代が舞台である。『ひよっこ』よりは、すこし前の時代設定になる。この映画では、地方(青森)出身者の方言コンプレックスというべきものが、そんなに強くではないが、やんわりと表現されていたように憶えている。

さて、『ひよっこ』である。1960年代を舞台にした、このドラマにおける方言の描き方は、かなり特殊であるといえるかもしれない。実際の1960年代の東京で働く地方出身の人びとにとっては、方言の問題は、かなり深刻な面があったかと思う。だが、このドラマは、それを描かない。逆に、方言の使用をきわめて肯定的に描いている。

時代考証というような観点からは問題があるのかもしれないが、ドラマにおける方言の使用のあり方の事例としては、きわめて興味深いものであると思ってみている。

なお、上に、佐賀出身の慶應の学生が方言を話さないということを書いた。これは、たとえば、明治時代『三四郎』(夏目漱石)において、九州出身の小川三四郎が、まったく方言をつかわない、東京のことばで、広田先生などと話していることと、並べて考えてみるべきことかもしれない。地方出身で東京に出てきている大学生は、もう東京の人間ということになるのであろうか。

追記 2017-07-14
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月14日
『ひよっこ』における方言(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/14/8620043