日曜美術館「歩みやまず 美の匠たち 第73回 日本伝統工芸展」 ― 2026-09-11
2026年9月11日 當山日出夫
日曜美術館「歩みやまず 美の匠たち 第73回 日本伝統工芸展」
見ていて感じるのは、映像として見せるテクニック。特に、立体の陶芸作品などを、美しく見せる、その造形の特徴を際立たせる、その写し方であり、照明であり、背景の選び方であり、こういうのは、長年のノウハウがあってのことだろうと思う。
一番興味深かったのは、Macでデザインしている、漆芸の工芸作家の机の上には、昔からのダイヤル式黒電話が置いてあったこと。今の時代でも、まだ、現役で使っているらしい。普通に電話として使うだけなら、特に、最新式の機種である必要はない。(最近のは、電話としての機能よりも、詐欺電話対策ということに重きをおいて作ってある。)
たぶん使っていたのはイラストレータだろうと思うが、作品のデザインをコンピュータで描いて、それをもとに、実際の作業を進めていく。なるほど、伝統工芸という世界も、こういうふうに作品を作るようになってきているのか、と思う。
こういう番組を作るのに、おそらくは、かなり以前から日常の作品制作の現場に密着して取材してということがあったはずである。展覧会で賞をとったの、取材に行ったのではまにあわない。これからのことのために、おそらくは、膨大な取材と映像がストックしてあるにちがいない。それが、全部、使えるということではないだろうが。
どれも見ていて美しい。そして、その追求している美しさの根底には、それぞれの工芸作家の居住している土地の風土というべきものがある。その土地ならではの風景であり、光や風の感触である。美という普遍的なものを追求しながら、ローカルな基盤が必要という理解でいいだろうか。
シダの美しさを蒔絵で表現する技法もすばらしいが、それと同時に、日常の生活の中で道ばたのシダに美を見出す感性も、重要なことである。
それから、こういう伝統工芸作家、あるいは、職人さんといってもいいかと思うが、美を追究しながら、自分自身の身なりや、仕事場は、決して美しいということではない。いや、美よりも、機能性を考えるということであるようだ。美術工芸作家、というより、職人の世界や日常というのは、そういうものかと思う。このあたりの感覚は、現代的なアーティストとは違うところだろう。
2026年9月8日記
ハートネットTV「私のリカバリー 沖縄のために闘った 具志堅用高」 ― 2026-09-11
2026年9月11日 當山日出夫
ハートネットTV「私のリカバリー 沖縄のために闘った 具志堅用高」
録画してあったのを、ようやく見た。
私は、具志堅用高とは、同じ年の生まれである。同じ年に生まれた人として見ると、たまたま沖縄の石垣島に生まれた人の人生として見て、いろいろと思うところはある。(私が生まれたのは、山陰地方の寒村であるが。風光明媚な土地ではあった。)
家は貧乏だった。今から思えば、この時代の石垣島の貧乏は、かなりのものだったのだろうと思うことになる。だが、それを、社会的な貧困の構造というような視点では語っていない。そのように見ることもできるのだが、そうしたからといって、その時代を生きてきた人間の気持ちが、今になって、どうなるものでもない。
ただ、我慢していた、と言っていた。このことが非常に印象に残る。実際にそのような生活をおくった人間の感覚としては、我慢する、ということだけだった。(これも、現代の観点からは、理不尽な社会の構造と貧困に対する批難ということになる。だが、こういうことは、現代になったからいえることである。今の時代、我慢する、ということが、人間性を抑圧するきわめてよくない社会悪であるというふうにとらえることになっている。そういう時代になってしまっている、ということである。別に、声をあげなくて我慢していることが、悪いことだということではないだろう。)
石垣島の高校に行けなくて、沖縄本島の高校に進学した。そこで、まず、ことばの壁にぶつかった。現代だと、専門的には、琉球諸語、という言い方をして、日本語とは、同系統ではあるが別の言語と認定するのが、言語学研究の基本的立場である。沖縄方言、という言い方はあまりしない。その琉球諸語のなかも、さらにいくつかに別れる。八重山地域のことばは、沖縄本島のことば(これも、社会的な階層差などがあることになるが)とは、違っている。現代の言語研究の知識からは、このようにいうことになる。しかし、具志堅用高が高校に進学したとき……まだアメリカの統治下の時代である……では、沖縄内部での、ことばの違いがおおきな障害になったことは、そのとおりだろう。(この番組の中ではいっていないことだが、さまざまな差別も沖縄の内部であった。今もあるだろう。)
お風呂屋さんで住み込みではたらいて、それでご飯が食べられて、学校に通って、ボクシングができた。たまたま試合で勝って、それから、世界チャンピオンになってから、はじめてボクシングが好きになった。そして、沖縄に迎え入れられる。こういうことは、この時代をリアルに生きた人間でないと、語れないことだろう。
生きているうちに、故郷に自分の銅像が建てられるというのは、どんな気持ちだろうか。
車椅子の障害者ボクシングというのは、どんなふうにするのだろうか。これは、ちょっと見てみたい気がする。
現代の視点からいろいろといえば、それは社会の構造的な悪であるとか、歴史の犠牲者であるとか、いろいろということができる。あるいは、運命の出会いであったり、ドラマチックな出来事であったりする。だが、そういうことがあるとしても、生きてきた人生は、その人にとっては、それはそういうものでしかなかった(もし、その人間が悪人だったとしても)ということも思っていいと私は考える。
社会の不正義を告発するようなドキュメンタリー番組よりも、こういう番組の方が、見ていていろいろと考えることになるし、強いていえば、(結果的には)より深くさまざまな問題の本質にふれるようにも、また思うことである。
基本的には、人間というのはこんなもんだよなあ、と思うことがあってのことであるが。そしてこれは、人間の記憶はウソをつく、ということをふくめてのことでもある。
2026年9月9日記
世界のドキュメンタリー「エリザベス2世 その生涯と英国の100年」 ― 2026-09-11
2026年9月11日 當山日出夫
世界のドキュメンタリー「エリザベス2世 その生涯と英国の100年」
2026年、イギリス。
英国のエリザベス女王について記憶にあることとしては、ちょうど私が大学生のときだったか、日本にやってきたということを記憶している。かなり大きなニュースになった。たしか、新幹線に乗れるかどうか、話題になったのを憶えている。
番組としては、よくまとめてあったと思うし、エリザベス女王のことと、イギリスの現代史と、イギリスの王室のことなど(ゴシップをふくめて)……これらのことが、わかりやすく語られていた。イギリスの人たちの目(それも、イギリス王室を、比較的好意的な目で見ている)では、どのようにとらえられてきたのか、分かる。旧殖民地との問題とか、アイルランドの問題とか、イギリスの国王として、対処しなければならなかった問題ということになる。
見ながら、どうしても、日本の皇室と天皇のことを思うことになる。日本の天皇も、これはこれで、太平洋戦争の後のこととしては、いろいろと大変なことがあり、それは、日本の歩みと重なるものでもあったということを、深く思うことになる。タテマエ上は、天皇は政治にかかわってはいけないということになっているのだが、しかし、政治のあり方や、国際情勢を抜きにして、天皇や皇室の歴史も語れない。
2026年9月9日記
ザ・バックヤード「印刷博物館」 ― 2026-09-11
2026年9月11日 當山日出夫
ザ・バックヤード「印刷博物館」
印刷博物館には、何度か行っている。学会の会場として行ったこともある。
この番組、もうちょっと専門的な視点で作ってくれるといいかなと思うことがある。
百万塔陀羅尼が世界で最古の印刷物というのは、通説としてはそうなのだが、どういう印刷技法によったかということは、はっきりしていない、ということかと思っている。さて、このことについての、最新の研究の知見としては、どうなっているのだろうか。
徳川家康の駿河版の金属活字というのは、日本の印刷史としては、有名なことであるし、印刷博物館のコレクションとしては、見せたいものになるだろう。だが、これを見せるならば、伏見版もあっていいし、嵯峨本もあっていい。いわゆる古活字の時代があって、その後、板本が中心になっていく大きな流れが分かるように説明してくれるべきだっただろうか。
江戸時代の出版の文化というのは、そんなに簡単に全貌が分かるものではない。だが、普通の人が想像する以上に、多彩で多様なものであった、ということはいっていいだろう。この意味では、『べらぼう』で描いていた蔦重のことは、あまりにも江戸時代の出版を限定的に見ていたので、一般的な知識として、江戸時代の出版がああいうものだと思ってしまうと、どうかなあと思うところである。(おそらくは、厳密に時代考証で分かる部分と、小道具などを準備する都合ということで、ああなったのかとは思っているが。)
西洋の印刷術については、これはこれで、いろいろとある。その一つとして、印刷のもたらした、標準化、ということがある。これを、数学の記号を事例に説明していたことになる。西洋での、俗語(ラテン語に対する)の英語やフランス語やドイツ語などの表記法のルールと、印刷ということも、深く関係することであるはずで、ここは、言語の歴史と印刷の歴史が交錯するところになる。
もう今だと、出版社の社員というような人でも、昔の活版印刷のことを、実際に知らないというのが普通になってきている。だが、活版が分からないと、現代のコンピュータを使った文字組版のことも分からない。また、写植についてのこともある。印刷の歴史は、とても奥深い面白いものがある。
2026年9月9日記
100分de名著「オルダス・ハクスリー“すばらしい新世界” (1)完璧な管理社会は幸福か」 ― 2026-09-10
2026年9月10日 當山日出夫
100分de名著「オルダス・ハクスリー“すばらしい新世界” (1)完璧な管理社会は幸福か」
『すばらしい新世界』は、光文社古典新訳文庫版で、読んだ。他には、ハヤカワからも出ている。
何度か書いてきたことなのだが……このごろの、リベラル左翼、特に、フェミニズム……しいて付け加えれば、自称、ということになるが……の言説を見ていると、『すばらしい新世界』は、ディストピア小説ではなく、ユートピア小説としてなっているのではないかと、思えてならない。
男性と女性という役割分担や、家族や親子関係、女性にとっての妊娠や子育て、こういうことが、すべからく、旧弊な男性中心主義の遺物で良くないものとされ、これらからの解放こそが、(女性というジェンダーにとっての)理想である、ということになると、『すばらしい新世界』で描いた世界は、ユートピアであることになるにちがいない。
堤未果が言っていたように、今の社会では、スマホがソーマになってしまっている。
先日の熊本での地震があって、予定だったら、NHKで、「臨界世界」のシリーズとして、中国のショートドラマのことをやるはずだった。その前に、BSスペシャルで放送したものに、さらに取材を加えたものだったはずである。だが、これは、地震の特別番組のために、流れてしまった。
先に放送した、BSの「縦の支配」で、中国のスマホ配信のショートドラマのことは、非常に興味深い内容だった。まさに、スマホは、今の中国では、ソーマになっている。いや、ソーマ以上の存在である。ただ、気持ちを安楽にさせるだけではなく、個人単位で政府が監視することができる。いったい、いつ、どこで、何を見ているのか、政府には、すべて監視されているはずである。
このショートドラマを作っている監督の男性が、実はこんなスマホのショートドラマなんか作りたくはない。本当に作りたいと思っているのは、『すばらしい新世界』のドラマ化である、こういうことを言っていた。これは、私の理解では、せいいっぱいの、現代の中国の社会と政府に対する抵抗の表れであったと、見ながら思ったものである。
2026年9月8日記
映像の世紀バタフライエフェクト「災害報道 挫折と葛藤の百年」 ― 2026-09-10
2026年9月10日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト「災害報道 挫折と葛藤の百年」
最後まで見て名前が出ていたのは、廣井悠、田中傑。防災の専門家ということになる。ここで、ジャーナリズムや、メディア史、の専門家をいれなかったのは、意図的にそうなのかなと思う。
これを見た人の多くが思ったことは、どうして、雲仙普賢岳の火砕流災害のときのことをとりあげていないのか、ということであるにちがいない。また、阪神淡路大震災のときのこととしても、取材のヘリコプターの音が、救難の邪魔になったという話しは残っている。
災害と報道ということなら、関東大震災のときのことは、メディア史の観点から考えるべきことだろう。ラジオのない時代に、人びとは、いったい何をよりどころとしたか、ということがポイントなるだろうか。そして、これは、その後のラジオの登場、さらにテレビの普及によって、どう変わったか。それが、現代の、スマートフォンの普及によって、どうなっているか、ということから考えるのが、大きな筋道になるかと思う。
ただ、別に、新聞や放送の情報(天気予報)がなくても、昔からの人は、空を見て、雲を見て、風を感じ、空気を感じて、天気とともに生きてきた。その過去からの経験の積み重ねとして、どういうことであったかという視点も重要である。
台風などは、ある程度は予報できるし、現代では、その精度は向上しつつある。しかし、地震の災害は、予見できない。そして、それをどう報道するかということと、自然災害にどうそなえるかということは、深くかかわることのはずだが、こういう視点ではなかった。
緊急地震速報から津波の注意報や警報が出るとき、私は、テレビの各局が、どう画面で表示するかはチェックする。今のところ、多くは「逃げて」である。日本テレビ系だけは「逃げろ」を使っている。
2024年のお正月。たまたまテレビを見ていて、NHKだったので、その地震と津波警報の放送を見ていた。山内泉アナウンサーが、「大津波警報」と声のトーンが変わったのは、憶えている。
冬休みあけの、最初の大学院の講義で、(学生は一人なので)、持って行ったノートPCをで、YouTubeに残っていた、その時の放送の様子を見て、君はこういうことについて、どう分析しますか、と話しをした。
今から半世紀ほど前、大学生のとき、慶應義塾大学の国文科で、池田彌三郎先生が次のようなことを、何かの雑談のときに話していた……テレビ(ラジオだったか)で、台風の重要な危険を知らせる放送のときは、アナウンサーが、女性から男性に交替しなくてはいけない、と。今では、このようなことはいわない。しかし、緊急事態を知らせる放送で、アナウンサーがどう話すのがいいのか、ということが、学問的な研究テーマになり得るということは、このときから頭の片隅に残っていたことである。現に、現在の日本語学の研究においても、災害などの情報や報道は、多言語であることをふくめて、どのようであるべきか、考えることになりつつある。
2026年9月8日記
ネコメンタリー 猫も、杓子も。「おくはらゆめとたまちゃん」 ― 2026-09-10
2026年9月10日 當山日出夫
ネコメンタリー 猫も、杓子も。「おくはらゆめとたまちゃん」
仕事机の上においてある、書見台(でいいだろうか)は、特注品なのかなと、見ながら思ったことである。書見台は、学生のときからずっと使ってきている。原稿用紙に万年筆で文字を書くという時代だったし、机の上に書見台があると、ちょっと本とか書類とか置いておくのに、とても便利である。A4横サイズぐらいの木製のものを、ずっと使ってきた。
それが、パソコンを使うようになって、パソコンのとなりに書見台があるということが便利な時代になった。
文章を書くのに、B4の400字詰め原稿用紙を使い、鉛筆で書く、というのは、久しぶりに見たような気がする。もう今では、昔ながらの原稿用紙を使わなくなった。
ちょっと前までは、学生にレポートを課すときに、手書きであること、というのを条件にしていたころがある。そうすると、中には、原稿用紙に書いてくる学生がいた。(ただし、紙のサイズは、A4であることとしておいた。これは、絶対の条件とした。これを守らない場合、B5などで提出してきたものは、絶対に受理しなかった。厳しいようだが、ルールはルールである。)それも、逆に、ワープロで書くこと、という方向に方針を変えることにはなったが。
クレヨンで絵を描いている場面がテレビに映るというのは、珍しいかもしれない。
たまちゃんは、とても可愛がってもらっている。絵描きの人に飼われているネコなら、紙の上に乗ってはいけないということは、かならずしつけないといけないことだと思うのだが、たまちゃんは許されている。(ネコによっては、きちんとしつけをすれば、これはしてはいけないことだと分かる。でも、そうであっても、わざとしてはいけないことをする、というのもネコである。)
テーブルの上のものを食べてはいけない、床の上のネコのお茶碗のカリカリしか食べてはいけない……と分かっているはずなのに、床の上においてあったキャットフードの袋を爪で引き裂いて、盗み食い(ドロボー)をするネコもいたりしたが、これは、わざといけないと知っていてやっていた確信犯であった。
2026年9月6日記
世界のドキュメンタリー「戦時のホワイトハウス トランプ政権中枢の内幕」 ― 2026-09-10
2026年9月10日 當山日出夫
世界のドキュメンタリー「戦時のホワイトハウス トランプ政権中枢の内幕」
前後編と録画しておいて続けて見た。
見て思うこととしては……こういう番組を見て、なるほどトランプというのはろくでもない大統領で、そのとりまきの役人たちもクズばかり、と溜飲を下げることにはなるだろう。反トランプ、民主党支持という人たちにには、気に入る内容であるだろう。
だが、それだけである。
中東でのことも、ベネズエラのことも、批判すべきことではある。しかし、根本的に深く批判するという内容にはなっていない。
たしかにトランプ大統領というのは、かなり特異なキャラクタであるのだが、その具体的な政策、意志決定のプロセスを検証するというよりも、とにかく、印象として、政権の中枢にいるのは、まともな人たちではなく、自己の保身にはしるばかりで、まとも助言したり、いきすぎた政策にストップをかけたりということができない。こんな感じで全体が作ってある。だが、アメリカの大統領というのは、多かれ少なかれ、こんなもんなのだろうと思うだけである。
比較の対象として、バイデン政権のときはまともだった……ということが言えるなら、それが一番だと思うのだが、そういうことは出てきていなかった。比較として出てきていたのは、はるか昔の、キッシンジャーのことだった。バイデンは、比較の対象として出すと、やぶへびということだろうか。
映像の選び方が、上手でもあり、下手でもある。トランプやその周辺の人たちが嫌いという人に対しては、こんな下劣で無能な連中であるという感じの写真をふんだんにつかっていたことになる。しかし、これは、トランプ支持の人に対しては、逆の効果になるにちがいない。わざとに悪い印象を与えるような映像を連ねることによってしか、トランプ政権批判ができないのか、ということになってしまう。
政治のドキュメンタリー番組としては、いい出来とは思えない。政策の是非について、深く批判するところがない。せいぜい、選挙のときには、戦争しないといっていたのが、当選してからは戦争をはじめた……選挙のときの公約をまもらないぐらいのことは、政治の世界で常であるので、なにをいまさら、こういうことをとりあげて何をいいたいのか、という気になる。公約違反ということなら、民主党だって、たいがいのものだろう。
こういうレベルの低い番組が堂々と作られているということは、それだけ、アメリカでの、いわゆる分断が深刻な状況ということの反映なのかと思う。低レベルの罵り合いとしか思えないことで、十分だと思っている人が多いというのは、このこと自体が、ある意味では、憂うべきことかと思えてならない。
この番組から読みとるのは、トランプ政権のあやうさということよりも、この程度の内容でトランプ政権を批判したと思えるような、左派・リベラル・民主党の、知的レベルの低下である。
2026年9月3日記
NHKスペシャル「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」 ― 2026-09-09
2026年9月9日 當山日出夫
NHKスペシャル「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」
これは、BSでの拡大版の方を録画しておいて見た。
見ながら思うことはかなりある。
学級日誌の文字と文体である。これは、私が、国語学、日本語学ということを勉強してきたからということであるのだが、まず、このことが気になる。学級日誌に書かれた文字は、女性の文字である。当たり前のことのようだが、一昔前までのこととしては、女性が書く文字のスタイルと、男性が書く文字のスタイル、これは違っていた。見ただけで、これは女性の文字だと分かる。今でも、昔風の教育をうけた高齢の女性の書く文字は、見てすぐに女性の文字だと分かる。
そして、文体が、口語散文の女性ことばである。現代の日本語研究としては、役割語という概念でとらえることになることだが、文体が書き言葉であって、女性のことばで書いている。
しかし、勤労動員の時の日誌になると、文体が変わっている。女性ことばではなくなっている。
女学生という立場を意識しているときと、勤労動員のときとと、意識のありようで文体に違いがでたものだろうか。
もちろん、(番組の中ではまったく触れていなかったことだが)、書いた日誌は、教師の目に触れることになる。検閲とまではいわないにしても、誰が読むことになるのかは、意識して書いたことはまちがいない。まったくプライベートな個人の日記ではない。このあたりことは、史料の性質として、まず言及があるべきとことだったかと思える。
現代の部分についていえば、かなり古風な校風を残しながら、自由なところがある。
「週番」ということばが出てきていたが、これは、もともとは軍隊用語である。もう今では普通にはつかわないことばになってしまったかと思うが、私が、子どものころ(今から半世紀以上昔になるが)、小学校で、日常的に使うことばとして残っていた。
今の生徒のことばとして、広島、長崎、とならんで、靖国が出てきていたのは、はっきりいってちょっとおどろいた。今の、リベラルの考え方からすれば、靖国神社などは、未成年の中高生が行ってはいけないところ、という位置づけだろう。個人で行ったか、学校の行事で行ったかは、定かではないが、いずれにしても、靖国に行ってみるということは、これはこれで意味のあることである。それを推奨することでもないし、逆に、禁じるべきことでもない……これが、原則であるはずである。(私の立場としては、近代の国民国家として英霊祭祀は必要であるが、靖国神社がそれにふさわしいかどうかは、また別の議論になる。)
「平和を欲すれば~~」ということで、何を考えるかということで、「戦争に備える」と言っていた生徒がいる。これも、このようなことばを放送することをゆるすというのは、今の時代の雰囲気からすると、かなり勇気のいることである。下手をすると、学校の教育方針について、(自称)リベラルな平和主義者から、クレームがつくことになる。(いや、もうすでに、こんな生徒の発言はまちがっていると抗議が学校にあってもおかしくないと思える。絶対平和主義、軍備廃絶以外の「正しさ」はない、という立場もある時代である。)
時代や社会の流れの中にあって、自分で判断することを重視する……これは、どのような立場についてもいえる。いわゆる戦争の時代にあらがうだけではなく、今の時代のデフォルトの価値観である平和主義についても、それを疑う姿勢を認めるべきである。どのような思想であれ、それが教条化することが、もっとも危険なことである。
このような教育ができるのは、神の教えを絶対善として信仰することができるから、ということかなとも思うが、現代の事例としては、ミッションスクールだからといって、生徒が自由に考えることを教育することになっているかどうか、その悪い方の事例について、大きく話題になっているときでもある。
戦時中の日誌を見て、学校や生徒にまったく自由がなくなってしまったということを、強調するような作り方にはなっていない。えてして、戦時中は自由がまったくなかったという側面を強くいいがちである。しかし、どのような時代であっても、社会の中で順応して生きること(それが戦争への協力であっても)と、今の生活を楽しむこと、これは、両立することである。人間の生活とは、そういうものである。勤労奉仕ばかりになったからといって、女学校生活が全面的にみじめなものであったとは、かならずしもいえない。それは、残された日誌からうかがい知ることができる。(こういうことを考えるためにも、まずどういう史料なのか、ということが必要なのである。)
歴史の考証として、ちょっと気になったところとしては、召集令状の名前を書く作業が、この女学校の生徒の仕事であった、ということは、非常に興味深いことであるのだが、このとき、誰を召集するか、その選定はどういうシステムだったのか、そして、どうやってその人のもとにとどけられたのか……これは、女学校の生徒のあずかり知らぬことであったということも、言っておくべきことである。というよりも、どういうシステムで、徴兵ということが行われてきたのかについての、一般的な解説した本が、私の知るかぎり、ほとんどない状態である。
教室で、生徒に見せていた、召集令状(赤紙)は、現代に作った複製であることはもちろんであるとしても、そもそも、赤紙の実物がほとんど残っていないということも言っておくべきことだったとも思える。これは、入営した先で提出することになっていたので、家庭に残ることはなかったものである。
余計なこととしては、次の次の次だったか、NHKの朝ドラで『ほんのモキチ』になる。斎藤茂吉と妻の物語のはずである。北杜夫は、この夫婦の子どもであり、『楡家の人びと』は、この一族がモデルになっている。中に登場する藍子は、東洋英和女学校の生徒として出てくる。さて、ドラマでは、いったい戦争の時代の東洋英和(東洋永和)女学校を(別にこの学校でなくてもいいかと思うが)、どう描くことになるのだろうか。
2026年9月7日記
3か月でマスターする世界史「(10)グローバル化とヨーロッパの覇権」 ― 2026-09-09
2026年9月9日 當山日出夫
3か月でマスターする世界史「(10)グローバル化とヨーロッパの覇権」
この時代のことになると、これまでなじみの(?)西欧中心の世界史ということに近づくので、逆に、見ていて意外性を感じるところが少なくなってしまう。面白さが減ったというべきだろうか。
現代の観点から考えることとしては、国民国家(主権、領土、国民)の誕生が、フランス革命以降のことであり、その後の世界は、この国民国家を基本の単位としてなりたつようになった。このことは、当たり前のことだが、重要だろう。
国民国家というのは、昔からあったのではない。
ただ、日本の場合、日本人……日本語をつかう人びとぐらいの意味であるが……は、そのほとんどが、日本列島の中にしかいないし、日本列島の中ではほとんど日本人しかいない、たまたま、こういう状況が、おそらくは弥生時代か古墳時代か、それ以降は、ずっと続いてきているといっていいだろう。ただし、北海道と琉球のエリアは、別に考えることになるが。こういう国としては、近代になってからの国民国家としての日本を、簡単に過去に投影して考えることができる。これが、完全に間違いであるとまではいいきれないかもしれないが、歴史をたどってみるならば、かなり問題があることはたしかである。日本がこういう国であるから、他の国も、だいたいそうなのだろうと思って見てしがいがち、というのが、一番の問題点かもしれない。ヨーロッパの国々でも、アメリカはもちろん、アフリカや東南アジアの国々でも、また、ロシアも、むか~しから、今の国境線にあった国家が連続しているということではない。しかし、なんとなく、そのように思ってしまいがちなところがある。
もちろん、「想像の共同体」ということも、十分に考慮しなければならないことである。
帝国と帝国主義を分けて考えるのは、そうだと思う。中国の帝国である清朝と、産業革命以降の英国の帝国主義を、ならべてくみあわせて見ることによって、その違いがはっきりする。こういうものの見方は、非常に有意義なことである。
この番組の中では言っていないことだが、帝国であることしか歴史的に経験していない中国の人びと(というしかないが)が、国民国家(基本的に相互に対等であるというタテマエである)に、どうなじんでいくことができるのか、というのが、今の国際社会の大きな問題点かなと思う。国民国家であることを飛び越して、テクノ自由主義とお金の力で、(それに軍事力を加えて)、勢力圏をひたすら拡大しようとしているのが、今の中国であると考えることもできるだろう。
2026年9月7日記
最近のコメント