『虎に翼』「女の心は猫の目?」2024-05-19

2024年5月19日 當山日出夫

『虎に翼』第7週「女の心は猫の目?」

一般論で言えばであるが、ドラマの作り方、見方には二通りある。

一つには、その時代の一般的な普通の人びとの考え方、ものの見方、感じ方を基本として作る立場。過去の時代を舞台にしたドラマでは、その時代の価値観がどうであったかを尊重する。

もう一つは、現代の視点から見る作り方か。昔のことを描くにしても、それは現代の価値観や発想から見るとどうであるか、ということで作る。

このような意味では、『虎に翼』は後者の方、つまり現代の価値観を軸にしてドラマを作っていることになる。強いて言うならば、現代のフェミニズムの考え方を取り込むかたちで作ってある。あるいは、その考え方から見て批判の出ないように作ってある。これは別に悪いということではない。そのような方針で作ることは一向にかまわない。要はドラマとして面白ければいいのである。人間を描くことにつきる。

ただし、ドラマはフェミニズムの道徳の教科書ではない。まあ、そのように見たい人は自由にということではある。先週も触れたことだが、涼子の父の桜川男爵について、彼もまた時代の制度のなかでの犠牲者となった弱い立場の男性の一人であると見ることもできるが(私は、この立場をとる)、その反対に、涼子の弁護士になるという夢をくじいてしまったクズ男と見ることもできる(私は、賛成しないが、このような見方もありうる。)

花岡についても、様々に評価することができる。その時代にあっては、高学歴で高等試験にも合格していてという立場では、普通に考えて行動しているといっていいだろう。しかし、現代の価値観からは批判的に見られるところもある。

女中の稲は、すべてを手に入れることはできませんよ、女の幸せ……と言っていた。まあ、女性にとって手に入れるべきものをすべて手に入れられるべきだとするのが、フェミニズムの言説かもしれない。だが、この台詞については、ほとんど世評では批判的な反応がなかったようだ。

この週の大きな展開として、寅子は、結婚しようとする。弁護士の資格を得たものの、仕事が回ってこない。それは、寅子が女性だからということで、弁護士の仕事を断られるということである。

このあたり、実際にはどうだったのだろうかと思うところがある。

弁護士の仕事といっても、法廷で弁護士として弁論をふるうだけが仕事ではない。たとえば遺産相続などの事務手続きなどもあるだろう。実際の弁護士としての仕事は、このような仕事の方が多いかもしれない。

また、女性ならではという視点で、あえて女性の弁護士ということで仕事の依頼が来ることもあったかもしれない。まあ、現代では、女性ならではなどと言うと叱られそうではある。だが、職業、職種によっては、女性が多い場合、あるいは、女性であることを意図的に示すこともある。たとえば、産婦人科医などの場合、女医といういことを明示してある広告など目にすることがある。(ことの是非ではなく、女性を選ぶ女性がいることは確かなことである。)

しかし、ドラマでは、法服を着用して法廷に立つことを目指している。それこそが弁護士の仕事であると描いている。

寅子は、社会的地位のために結婚したいと思う。こんな理由で結婚することになった女性というのは、朝ドラの歴史のなかで始めてかもしれない。

ただ、昭和戦前、あるいは、戦後しばらくの間は、男女ともに、一定の年齢になれば結婚するのが当たり前という時代であったことは確かだろうと思う。特に女性の場合は、結婚することが人生の重要な案件であったことは確かだろう。ただ、男性の場合、その規範的な制約は、女性ほどには強くなかったかと思うが。

しかし、弁護士の仕事と結婚している、いない、ということが結びつくとは思えないのだがどうなのだろうか。寅子は、名刺を作ることになるが、日本の習慣では、人名に「ミス」とか「ミセス」とかはつかない。女性を未婚か既婚かで区別するということはさほど無いということができよう。これも、社会的にどのような場面でどのようであったかということは、別に議論しなければならないが。

また、弁護士事務所の依頼客で、寅子が未婚だから仕事を頼まなかったという人は出てきていない。女性であることで断った依頼人はいたが。

社会的地位のために結婚する、というのは果たしてどうなのだろうか。ちょっとこのあたりは、いくぶん無理があるような気がしてならない。

結婚相手を探すことになるのだが、その動機が社会的地位を得るためということは隠しておくとしても、寅子の学歴や年齢と日本で最初の女性弁護士ということを考えると、そう簡単に見つからなかっただろうと思う。寅子は、大学に通った。ほとんどの大学が男子学生しか受けれていない時代である。ごく少数の最高学歴ということになる。しかも弁護士である。

一般には、女性の結婚相手は、社会的階層として自分と同等か上の男性を求めることになる。また、結婚しても弁護士の仕事を続けるということであるならば、このことに理解を示す男性は限られたものであったかと推測する。昔風の言い方をあえてするならば、嫁のもらい手が無い、ということになる。

史実としては、モデルとなった三淵嘉子は、書生であった男性と結婚している。この史実をふまえて、これまでのドラマのように、相思相愛の仲で結婚にいたるということにしなかったのは、このドラマの新機軸なのかと思う。

興味深いのは、このような結婚を描いたことに、世評としては、否定的な意見が見られないということである。これは、現代における結婚のあり方が、男女(に限らずということになるが)、双方の合意が必要、ということを重視する方向に傾いて来ていることの反映だろう。

過去の朝ドラであつかってきたような恋愛至上主義的な結婚観からすれば、非常にドライで割りきった考えかたになるのだが、このような考え方が、広まりつつある、そして、それが、新しく正しいと感じられるようになってきている、ということなのかもしれない。とにかく、このドラマでは、寅子は正しくあらねばならないことになっている。

社会的地位のための結婚するということは、離婚した女性、夫を失った女性は、社会的地位を失うという考え方にもつながることになるかもしれない。モデルとなった三淵嘉子の人生と経歴から考えてみると、ドラマの中のこの時点での寅子の結婚観や家族観が、これからどうなっていくか気になるところである。おそらくは、この週の時点での、社会的地位を求めての結婚ということが、何かの伏線になるのだろうとは思っている。

2024年5月18日記

ドキュメント20min.「文字は__。」2024-05-18

2024年5月18日 當山日出夫

ドキュメント20min. 文字は__。

登場していたのは、鳥海修、大原大次郎。

鳥海修の名前は知らないとしても、その作った文字を目にしたことのない人はいないはずである。ヒラギノ明朝、游明朝、秀英明朝など、普通にPCを使ったり本を読んだりするときに、目にする文字である。

私としては、国語学、日本語学という分野において、主に文字のことを中心に考えてきたということもある。どうしても、その関心から見るということにはなる。

番組では特に語っていなかったことであるが、文字をデザインするとき、ことばとともにある、ということが最も重要なことにちがいない。このことばを表すのには、どのような文字がふさわしいかを考えるところから、文字のデザインがはじまる。いいかえれば、文字は文字だけで独立してあるというものではない。

これは、国語学、日本語学の立場から考えてもまさにそうである。文字はことばとともにある。

鳥海修は「けしき」ということばの文字を作った。大原大次郎は「声」ということばの文字を作った。

また、興味深いことの一つとしては、大原大次郎は、三次元空間で文字を見ている。一般に、文字は平面、二次元でとらえる。それから飛躍したところに、大原大次郎の発想の魅力がある。

それから、鳥海修の仕事の方法。基本は手書きである。今の時代、コンピュータを使ってデザインするのが一般になってきているかとも感じるのだが、まず方眼紙にシャープペンシルで描く。それをトレースする。昔ながらの方法なのだろうが、自分のアイデアや感性を表現するには、このような方法がふさわしいということなのだろう。

2024年5月14日記

「小さな巨人 緒方貞子〜命をつなぐ現場主義〜」2024-05-18

2024年5月18日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 小さな巨人 緒方貞子〜命をつなぐ現場主義〜

再放送である。去年、二〇二三年一〇月六日の放送。時期的には、ウクライナの現状からスタートすることになっている。これが今だったら、ガザの映像から始まることになったかもしれない。あるいは、他の紛争地域であろうか。

緒方貞子の名前は、よく報道で目にしてきた。ただ、UNHCRという組織が国連のなかでどのような位置づけで、どのような活動をしている機関なのか、あまりよく知らないでいる。番組でも、ここのところについては、あまり触れることがなかった。

印象に残ることを書いてみるならば、緒方貞子という人は、リアリストである。言いかえるならば、空想的平和主義者ではない、と言ってもいいかもしれない。現実に困っている人びとがいるなら、そこで何が可能かを考える。そのためには、国際政治と軍事のなかで、何をすべきかという判断につながる。

決して、軍事=悪と決めつけて忌避してはいない。無論、難民の多くは、政治や軍事的紛争の犠牲者ではあるあるのだが、それを援助するためにも、また政治や軍事的な力が必要であることを知っていたといえるだろう。

ところで、ボスニア・ヘルツェゴビナのことが出てきていた。この紛争のころ、報道などではよく目にしてきたのだが、今ひとつ、状況がよくわからないでいたということがある。バルカン半島のことはよくわからない。私の記憶にあるところでは、かつての東西冷戦のころには、逆に、理想的に統治されている地域としてイメージされてきたということがある。冷戦終結後のこの地域での民族紛争は、とおり一編の報道では、混沌とした印象を受けるばかりである。(このあたりのことについては、自分で不勉強だからということもあるのだが。)

やはり緒方貞子という人物は、傑出したところのある人間だと思う。

2024年5月16日記

「奇妙な果実 怒りと悲しみのバトン」2024-05-17

2024年5月17日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 奇妙な果実 怒りと悲しみのバトン

「奇妙な果実」は、若いころ、ラジオで聞いたかと憶えている。一九七〇年代のことである。そのころ、下宿で一人住まいをしていて、ラジオだけがあった。テレビは持っていなかった。

ジャズという音楽自体が、その時代、抵抗の音楽だった。あるいは、かつてのそのような歴史をまだ残していた、というべきかもしれない。

FM東京の深夜番組で、「アスペクト・イン・ジャズ」を聞いていた。翌日の朝が眠かった。番組で語っていたのは、由井正一。この番組で、ジャズの歴史というようなことを、知識として知ったことになる。おそらく、このような体験を持っている人は多いのではないだろうか。ただ、かなりの年配以上にはなるが。(ジャズについての、この当時の理解と現在とでは異なっているかとも思う。時代の価値観は大きく変化してきている。)

「奇妙な果実」は、差別される黒人の悲哀(といってはいけないのかもしれない、怒りというべきかもしれないが)を歌っている。だが、この歌だけによって黒人の差別が解消に向かったわけではない。現代にいたるまでの、多くの人びとの戦いと努力の結果である。残念ながら、だからといって、完全に差別がなくなったということでもない。このあたりのことは、これまでの「映像の世紀」でもたびたび描かれてきたことである。今回は、ビリー・ホリデイに焦点をあてて描いたということになる。

二〇世紀の最高の音楽、ということについてはいろいろと意見もあるかもしれない。この評価は、音楽としてというよりも、その政治的な意味においてであろうと思われるからである。

ところで、差別ということを考えるとき、アメリカの黒人差別をとりあげることが多い。しかし、日本においても、差別は考えなければならないテーマでもある。日本国内における様々な差別のこともあるし、また、かつて海外に移民として渡った日系人がどのような待遇をうけてきたかということもある。また、世界の各地で差別ということが今なお無くなったということでもない。

キング牧師は「夢」を語ったが、夢を語るだけでは差別はなくならないというのも、現実の姿であるかとも思う。

2024年5月15日記

「汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年」2024-05-16

2024年5月16日 當山日出夫

ETV特集 汚名 沖縄密約事件 ある家族の50年

外務省機密漏洩事件、沖縄返還密約事件……このことは、私の記憶のうちにある。沖縄返還があったのが、高校生のときのことだった。今、この事件のことを記憶にとどめている人は、私と同年配以上の人間ということになる。ただ、事件については、その後、マスコミなどで言及されることがあったので、忘れ去られたことということにはなっていないが。

結論的に今考えることを書いてみるならば……外交交渉などにおいて秘密扱いになる事項があることはいたしかたないことだろうと思う。しかし、それは、記録に残さなければならないし、そして、その記録は時がたてばどこかの時点で開示されなければならない。これは、公文書というものに対する基本的な大原則である、ということである。

以前、学生のデジタルアーカイブについて教える授業をしていたことがある。そのとき、まず「アーカイブズ」とはどういうものなのか、特に公文書の記録、保存、管理、公開はどうあるべきか、という話しをすることにしていた。フランスのミッテラン大統領が、公文書は未来への財産であり、それを残す義務が今の我々にはあるという意味のことを語っていることを、紹介することにしていた。

残念ながら、現在の日本では、公文書の作成や保存、公開ということについては、まったく信用できない状態にある。これがどうしようもない状態になったのは、言うまでもなく安倍政権のときのことである。公文書管理ということがらは、今話題の裏金よりも、より深刻な問題、強いていえば近代的な国家の運営にとって致命的なことがらである。

私は、このことを深く憂慮する。

無論、西山太吉というジャーナリストとその妻の人生については、いろいろと感じるところ、思うところはある。仕事一筋のジャーナリストというのも、ある意味ではもう過去の存在になってしまったのかもしれないとは感じるところである。

ジャーナリズムの役割が権力の監視であることは、忘れてはならない。これは、長い目で見れば、国家というものの健全な存続のためには、それに対する批判を含まなければならない、という意味においても、そう思うものである。批判を封じる国家はもろいというのは、二〇世紀のベルリンの壁の崩壊以降の世界のできごとから学ぶべきことであるにちがいない。(いや、場合によっては、独裁的な国家の方がうまく運営できるという現象もあるかと思うのだが、このことについては、また別に考えることにする。)

さらに書けば、逆説的な考え方になるが、本当に秘密を守ろうとするならば、基本は原則公開とすべきなのである。基本はすべてオープンにするということで、秘密にすべきことを厳格に規定して秘することができる。なんでもかんでも秘密にしてしまうのは、本当に秘密にすべきことが紛れて分からなくなってしまう危険性がある。この意味において、日本政府は政治のリアリズムが分かっていないと言ってもいいかもしれない。

また、沖縄返還におけるアメリカとどのような交渉があったかということは、特に秘密にすべきこととは思えないのである。公開したからといって、国家の基本がゆらぐという性質のものではないだろう。アメリカに対して従属的な立場にあるとするならば、それはそれとして認める立場で臨むのが妥当だろう。それをしないのは、欺瞞の独立というべきである。

2024年5月13日記

「NHKガザ事務所 2人の取材者の葛藤」2024-05-15

2024年5月15日 當山日出夫

BSスペシャル NHKガザ事務所 2人の取材者の葛藤

戦争、紛争を、どう伝えるかというのは、古くからの大きな問題である。「映像の世紀」シリーズは、映像記録として残ったもの、主にフィルムであるが、によっている。古くは日露戦争のころから残っている。

戦争の歴史は、それを伝えるメディアの歴史でもあった。

ガザでのことは、小型のカメラ、あるいは、スマートフォンがあれば、リアルタイムでの戦闘の実況中継も可能になってきている。これは、ウクライナでも同様である。

機材は進歩しているのだが、それを伝える人間の方はどうなのだろうか。現代になって、ジャーナリストの役割、また、人間としての苦悩は、より増していると感じるところがある。

かつて、日中戦争、太平洋戦争のとき、日本の文学者たちが戦場に赴いて、作品を書いていたこともあった。その多くは、今では読まれないものになってしまっている。

戦争を伝えるのは人間の仕事である……これは、当たり前のことであるが、えてして見失われがちなことかもしれない。様々な報道が、各種のメディアで伝えられるなかで、それを伝える人間としてのジャーナリストの存在を、見る側が感じとれるかどうか、これは、報道に接する読者、視聴者としての人間の感性として求められることになると思う。

生成AIによるフェイクニュースが氾濫するなか、人間の仕事としてのジャーナリズムがあらためて考えられるべき時代になってきている。

生後四ヶ月の赤ちゃんに飲ませるミルクがないので、ビスケットを砕いて溶かしたものをあげている。その映像を見る私のかたわらには、生後三ヶ月の孫が寝ている。話題になることとしては、保育園のこと、スイミングスクールのこと、ピアノのこと……これが現実なのだと思うのではあるが。

2024年5月10日記

「トーマス・マン“魔の山” (2)二つの極のはざまで」2024-05-15

2024年5月15日 當山日出夫

100分de名著 トーマス・マン“魔の山” (2)二つの極のはざまで

この番組の第二回で、セテムブリーニとショーシャ夫人が登場してきた。

『魔の山』は、昔読んだが、とにかくセテムブリーニとの議論がややこしかったのを憶えている。また、ショーシャ夫人が、魅力的でもあった。

しかし、山の上の結核療養所での生活のスタイルというのが、どうにも理解に苦しむところがあったのを思い出す。平気で煙草をすっているし、ワインも飲んでいる。今なら、ちょっと考えられないような生活である。

番組で語っていたように、セテムブリーニに西欧の理性や啓蒙を代表させ、ショーシャ夫人にアジア的(東方的といった方がいいか)な混沌やエロスを代表させる。なるほど、そのような読み方ができるのかという気がする。無論、これは、この当時、第一次世界大戦の前のドイツにおけることだということも重要なのであるが。

美少年への愛ということでは、『トニオ・クレーゲル』や『ベニスに死す』が思いうかぶ。芸術家として、そう特異なことではないと感じる。番組のなかで、トーマス・マンが、バイセクシャルであったと言うほどの必要はないかもしれない。が、これも今日の流れなのだろうと思う。

どうでもいいことだが、トーマス・マンの小説で、最も魅力的な人物といえば、やはり『ブッデンブローク家の人びと』のトーニだろう。

ここまでこの番組を見てきて、もう一回、『魔の山』を読んでみようかという気にまだならないでいる。読むなら、訳本としては、新潮文庫版か岩波文庫版ということになる。もうこの年になると、小さな文字の文庫本を読むのがつらくなってきた。

2024年5月14日記

「世界最長 悲願のつり橋に挑む 〜明石海峡大橋 40年の闘い〜」2024-05-14

2024年5月14日 當山日出夫

新プロジェクトX 世界最長 悲願のつり橋に挑む 〜明石海峡大橋 40年の闘い〜

わけあって、四国にはかなり行く生活をおくったことがある。その当時の東予市、現在は合併して西条市である。今治の隣というのがわかりやすだろうか。

昔は、船で渡るしかなかった。新幹線を三原で降りて、今治までフェリーでわたった。列車で渡れるようになったのは、その後、瀬戸大橋が完成してからのことである。この場合は、岡山で乗り換えということであった。また、瀬戸大橋をつかって自動車で行くこともあった。そのころ、まだ高速道路が完備していなくて、いろいろと不便だったのを思い出す。

しかし……本四連絡橋として、三箇所(淡路島ルート、児島坂出ルート、尾道今治ルート)を作る必要があったのか、ということはかなり以前から言われていたことだと思う。三つのプランがあって、どれとも決めることができなかったので、結局、三つとも作ってしまうことになった。まあ、いかにも日本的なものごとの決め方であったと思い出す。

番組を見て思うことは、確かに世界一長い吊り橋(当時)を作る技術と工事の工夫は相当なものだっただろうということは分かる。しかし、この番組がおおむねそうであるように、技術の問題を、師弟の関係で説明するのは、どうなのだろうかとも思う。課題を与えて、あとは自分で考えろ、今時こんな指導方法で、若い技術者が育成できるのだろうか。まさに、昔の企業内での社員教育というのが暗黙の前提であった時代のことである。

これからの技術者育成はどうあるべきか、ということが見えてこないのが、強いていえばこの番組の欠点ということになるだろうか。

2024年5月12日記

『光る君へ』「放たれた矢」2024-05-13

2024年5月13日 當山日出夫

『光る君へ』第19回「放たれた矢」

まひろは「新楽府」を写本していた。もとになった本は、朱点がうってあった。しかし、まひろは訓点をほどこしていないようであった。なお、「新楽府」は、『白氏文集』の巻三と四に収録される。その平安時代の読み方をつたえている古い系統のテキストとして、もっとも古く信用できるのが、「神田本白氏文集」ということになる。重要文化財。現在は、京都国立博物館に所蔵である。もしドラマのなかで訓点をほどこした『白氏文集』「新楽府」を出すなら、この本に準拠するのが最も妥当ということになる。ちなみに、「長恨歌」の場合には「金沢文庫本」(重要文化財、大東急記念文庫)になる。

神田本は、私が慶應義塾大学の大学院の学生のときに、総索引(訓点索引、漢字索引)を作った。この時代、まだパソコンなど無い時代だったので、全部で三万枚ほどのカードを手作業で作って、並べ替えて、原稿を書いた。『神田本白氏文集の研究』として、太田次男先生、小林芳規先生の共著として刊行になったものである。近年、カラー複製の「神田本白氏文集」が刊行になったが、その翻刻本文は私が作成することになった。ただ、この本は原本どおりに巻子本で作ったものなので、ちょっと使いづらいところがある。できれば冊子体にしてほしかったと、今でも思っている。

ドラマを見ていてちょっと気になったのは、冒頭の部分。道長が一条天皇に拝謁するシーン。このとき、一条天皇の横に定子がすわっていたのだが、これはいいのだろうか。

天皇と皇后が並んでいるという場面は、おそらく天皇の歴史のなかで、平成の時代になってからのものかもしれない。今の上皇さま、上皇后さまである。その御成婚のとき、いやその前のテニスコートでのときから、お二人が並んでメディアに登場するようになった。これは、現在の今上陛下にもうけつがれている。

それより以前、天皇と皇后が並んでメディアに登場するというと、歴史的にさかのぼっても大正天皇のときぐらいになるだろうか。このことについては、斎藤美奈子が書いている。

今の我々にとって、天皇と皇后がならんでいるシーンは当たり前のことである。しかし、これは非常に新しいことなのかもしれないと思う。はたして、江戸時代以前はどうだっただろうか。平安時代の天皇は、お后と並んで姿を見せるということが普通にあったのだろうか。『源氏物語』を読んだ記憶では、そのようなことはなかったのだろうと思うのだが、はたしてどうだろうか。

天皇とお后については、内裏びなの成立、社会史というようなことと関連して、たぶん研究論文などあることかと思うが、もうリタイアした身としては、検索して探してみようとも思わないでいる。

ききょう(清少納言)はまひろの家を訪問していた。まあ、このあたりのことはドラマとしての作り方なのだろう。しかし、この時代、板の間に正座で座るのは、やはり私としては違和感がある。

まひろは定子のもとに参内する。いわゆる十二単の正装である。そのとき、廊下に鋲がまき散らしてあった。これは、『源氏物語』の「桐壺」を思い起こさせる。桐壺の更衣に対するいやがらせ、いじめとして、廊下に汚物をまき散らすという意味のことが書いてある。たしか、円地文子の現代語訳では、このあたりの描写がかなり具体的にアレンジしてあったかと憶えている。

気になったこととしては、まひろは身分の壁を乗り越えて人材を登用するシステムを考えている。これは、たしかに現代の価値観からすればそうだし、また、中国の科挙は、そのような一面がある。(だが、そもそも試験を受けるという時点で、社会階層において選別されているというのが、歴史の実態であるにはちがいないが。)

人間の身分の違いということは、『源氏物語』にも強く描かれる。しかし、それは、その人間の持って生まれた「宿世」として、である。本人の努力によって打ち破ることのできる壁のようなものではない。まあ、このあたりのことは、『虎に翼』の寅子とは、違っている。

道長は日記を書くことになる。『御堂関白記』である。これは、ときどき展覧会などで展示されることがあるので、実物を見たことのあるものということになる。自筆の日記が残されているという意味で貴重なものであることは間違いない。公家の日記というものは、記録として後の人が読むことを想定して書いているというのが、私の認識である。が、ドラマにあったように妻(倫子)が目にするということは、意識していただろうか。

ピロートークで貴族たちの秘密情報を集めるというのは、この時代にあったとしてもおかしくはないが、ドラマとしては面白い。

久しぶりに猫の小麻呂が登場していた。ずいぶんと長生きしているようだ。

出世すると心労でハゲができるというのは、平安時代にあってもいいかなと思う。

父の為時は、従五位下になった。これは、いいかえれば殿上人になったということでいいのだろう。

さて、次週は長徳の変になるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2024年5月12日記

『虎に翼』「女の一念、岩をも通す?」2024-05-12

2024年5月12日 當山日出夫

『寅に翼』第6週「女の一念、岩をも通す?」

ドラマそれ自体の面白さもあるのだが、むしろ興味深いのは、このドラマに対する反応である。特に、X(Twitter)を見ていると、とにかく絶賛している。そればかりではなく、少しでもドラマの内容や設定に疑問をいだくような投稿に対して、猛然と批判する。このドラマについては、賛美しかしてはいけないような雰囲気が生じている。

このドラマよりも、この現象の方がある意味で興味深い。おそらく、NHKの制作スタッフは、ある程度は反響を予期しており、あるいは、計算の上でドラマを作っているとは思う。

しかし、それにしても、見事にエサにひっかかる人の多いことよと、思ってしまう。

ここでは、あえて少し疑問に思ったことを書いてみる。

まずは、梅子のこと。離婚ということになり、試験を受けない。ドラマの設定としては、親権をめぐる問題として今に通じるものということになる。

梅子は、子どもは夫のようにはなってほしくないと言っていた。これはどうだろうか。妻が、家のこと、家事や育児を、(おそらく)姑と女中にまかせて法律を学びに家を空けている。それは、数年以上におよぶ。それは親権がほしいからだという。また、その子どもを夫のようにはなってほしくないという。もし、普通の男性の立場なら、このような妻に愛想をつかすのは普通の感覚だと、私は感じる。実際に離婚するかどうかは別にしても、こころよく思わないだろう。

だが、このドラマでは、このような梅子に同情しなければならないし、夫は悪逆非道でなければならない、と作ってある。それが正しい見方である。

それよりも問題だと思うのは、梅子という存在の背景には、子どもを思う母親の愛情は最高に尊いものであり絶対であるという、思い込みというか、無条件の前提のようなものがあることである。

実際の世の中でおきている、家庭内での事件は、このような思い込みに起因するものも少なくはないはずである。母親が子どもを最も愛しているはずであり、虐待などありうるはずはない……と、はたしていえるのだろうか。どんな状況でも、子どもは母親のもとで育つのが理想としていいのだろうか。

崔香淑についても、その当時の朝鮮人の女性をドラマに登場させたかったという以上のことはないように思える。無論、その時代の朝鮮での教育の制度や、女性の立場がどうであったか、ということも重要である。だが、それを描くとなると、さらに踏み込んで朝鮮の人びとのなかにおける、女性の地位の問題などにふれざるをえなくなる。これは、日本の朝鮮の植民地支配というよりも、朝鮮の人びと自身の伝統的な社会習慣の問題になる。(そして、これは、おそらくは今の韓国や北朝鮮にも残存するものだろうとは思う。)

それから、週の最後の寅子の合格祝賀会でのスピーチ。寅子の言ったことは確かに正しい。だが、その考え方が、寅子のこれまでの人生経験のなかでどのように形成されてきたのか、この点については、このドラマはまったく描いていない。おそらく、これは意図的に描かないという方針なのだと思っている。どんな思想にも歴史がある。突然、神の啓示として与えられるようなものではない。この時代、男性についても、普通選挙となってまもないころである。寅子は、どんな本を読み、どんな経験をして、どんな人びとの生活を見て、今の考えにいたったのだろうか。

寅子のスピーチに出てきた、学ぶという選択肢があることさえ知らない人たち……しかし、このドラマでは、このような人たちのことを描いてきてはいない。思い返してみて、せいぜいよねの姉ぐらいだろうか。涼子のおつきの女中の玉は、男爵家につとめていて、英語も勉強している。「UNCLE TOM’S CABIN」を読んでいた。この時代の東京なら、貧民窟など珍しくはなかっただろうと思うのだが、そのような人たちのことは出てきていない。社会のなかでそのように生きるしかなかった、たとえば、女中になるか、カフェの女給になるか、さらに身を落として娼婦になるか、このあたりのことが、少しでもいいからリアルな描写がはさみこんであると、寅子のスピーチは説得力のあるものになったと感じるのだが。強いていえば、ドラマのはじまった一番初めに出てきていた寅子の本棚に『放浪記』があったぐらいだろうか。

また、寅子は、男女を問わず助けると言っていたが、しかし、描かれてきたのは弱い立場の女性ばかりである。実際には、弱者であるしかない男性も社会には存在する。これが今後このドラマでどう描かれるかはわからない。弱い男性もいるのだが、それは見えない存在で終わることになるだろうか。(強いていえば、家出した涼子の父の桜川男爵は、身分はあるかもしれないが自由がなく精神的に追いつめられていたのだろう。桜川男爵家の婿というのは、ある意味で弱い立場の男性ということができる。表面的に社会的階級が上であっても、弱い男性というものがいる。これは確かなことである。)

祝賀会のスピーチとしては異例である。これも、このドラマならではのこととして見ることになる。

はっきりいえば、寅子の考え方は、あまりにも現代的なのである。現代の価値観で非の打ち所のない発想で、「はて」と言っている。このような発想がこの時代に普通にありえたとは思えない。だが、このあたりの作り方が、このドラマの巧みなところなのだろう。ここのところが現代の視聴者にアピールするところでもあり、また、ドラマの設定にいくぶんの無理を生じさせているところでもあると思う。

寅子や仲間の学生たちは勉強した。猛勉強したことになる。だが、その勉強は試験に合格するため、資格を得るための手段である。学ぶこと自体の楽しさ、新たな知識を得ることのよろこび、ということがまったく描かれていなかった。法学という分野においても、知的好奇心というものは必要だろう。これは、非常に軽薄な学習観、学問観であるといわざるをえない。

学問についての、私のこのような感想は、ある意味では一種のエリート教養主義的なものかもしれないと、自省してはみる。しかし、この時代の大学生、なかでも高等試験を受けるような学生は、旧弊なエリート主義者であっただろうとは思う。

2024年5月11日記