100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの
番組のなかで語っていること自体についていえば、まあ、そうだよなあ、ということになる。特に異論をはさむようなことではない。
ただ、今の社会において、一番難しくなっているのが、異なる価値観を持つ人に対する許容ということである。これは、いわゆる、左右どちらの立場についてもいえる。
多様性を尊重すべきだという主張をする一方で、認めることができないことについては、容赦がない。論ずるまでもなく否定する。こういう傾向は、私の見るところ、いわゆるリベラルという人たちに強い。
何度も同じことを書いているが、自分がなぜそのような価値観を持ち、考え方をするのか、それはどのような社会に生まれ、どのような教育を受けてきて、どんな勉強をし、どんな人の話を聞いてきたからなのか……こういうことにつて、総合的に自省する姿勢こそが、まずは必要なのだろう。自分と違う意見の人は、どういう背景でそう思うのか、そこへの想像力が必要である。そして、いそいで善悪を判断しないことである。人は、歴史と文化、そして、遺伝子から、自由ではありえない。そこを基盤として、自由とか人権とかは論じられなければならないのであるが、往々にして、逆の結果になりがちである。
斎藤幸平も、この番組で語っているかぎりは、穏健に話しているが、場面が変わると、まさに「論破」して終わり、という面がないわけではない。自身は、新しいコミュニズムを目指すということなのだろうが、それが、熟議によって多くの人の共感を得る、そして、社会を動かすことができる……と、本当に思っているのだろうか。これは、疑わしいところがあると、私は思っている。
2025年3月11日気記
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの
番組のなかで語っていること自体についていえば、まあ、そうだよなあ、ということになる。特に異論をはさむようなことではない。
ただ、今の社会において、一番難しくなっているのが、異なる価値観を持つ人に対する許容ということである。これは、いわゆる、左右どちらの立場についてもいえる。
多様性を尊重すべきだという主張をする一方で、認めることができないことについては、容赦がない。論ずるまでもなく否定する。こういう傾向は、私の見るところ、いわゆるリベラルという人たちに強い。
何度も同じことを書いているが、自分がなぜそのような価値観を持ち、考え方をするのか、それはどのような社会に生まれ、どのような教育を受けてきて、どんな勉強をし、どんな人の話を聞いてきたからなのか……こういうことにつて、総合的に自省する姿勢こそが、まずは必要なのだろう。自分と違う意見の人は、どういう背景でそう思うのか、そこへの想像力が必要である。そして、いそいで善悪を判断しないことである。人は、歴史と文化、そして、遺伝子から、自由ではありえない。そこを基盤として、自由とか人権とかは論じられなければならないのであるが、往々にして、逆の結果になりがちである。
斎藤幸平も、この番組で語っているかぎりは、穏健に話しているが、場面が変わると、まさに「論破」して終わり、という面がないわけではない。自身は、新しいコミュニズムを目指すということなのだろうが、それが、熟議によって多くの人の共感を得る、そして、社会を動かすことができる……と、本当に思っているのだろうか。これは、疑わしいところがあると、私は思っている。
2025年3月11日気記
アナザーストーリーズ「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」
このことがあったときのことは憶えている。このころ、映画はよく見たのだが、さして関心をいだくことなく終わっていたように思う。
番組の作り方としては、映画の業界の中の人間でないと語れない視点から見るとどうだったか、ということで作ってあった。黒澤の側、勝の側、それぞれに非常に個性の強い監督と役者なのだが、映画のくろうとの世界では、こういう人もいて、こういうこともあっていいのだろう、ぐらいの感じで今は思っている。この時代まで、今は変わったかもしれないが、映画を作るというのは、世間一般とは違った人たちの仕事……それは、一般の人びとから見ると、羨望と差別のないまじったものかもしれないが……であったろう。少なくとも、私は、そういう感覚で映画の世界を見るということに、共感できるところがある。
印象に残るのは、黒澤のスクリプターをしていた女性(野上)。その話しぶりは、やはりその業界の人間だなあと、感じさせる。こういう雰囲気で話しができる人が、今ではもう希かもしれない。
勝新太郎が、脚本なしで、ほとんど現場での思いつきで、台詞や演出を考えて映画を作った件、昔は、こんなこともあったのだろう。それが出来るのが、映画制作の現場であり、また、勝新太郎という役者でもあったことになる。(それにしても、原田美枝子というのは、いい女優さんだなと思う。若いとき映画で見たとき、とても魅力的だった。)
以前、高峰秀子の本を読んでいて、戦前は、文字の読めない映画監督もいた、と書いてあって、驚いたことがある。だが、映画をふくめて、芸能の世界というのは、そういうことがあってもおかしくはないともいえるだろう。
白井佳夫が出ていた。私ぐらいの年代だと、キネ旬の編集長で、映画評論家として、とてもかっこいい存在だった。一般に、映画評論家が、かっこよかった時代でもあった。白井佳夫について語るだけで、日本の映画史だけではなく、社会の歴史をふかく考えることにつながるにちがいない。
2025年3月11日記
アナザーストーリーズ 「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」
このことがあったときのことは憶えている。このころ、映画はよく見たのだが、さして関心をいだくことなく終わっていたように思う。
番組の作り方としては、映画の業界の中の人間でないと語れない視点から見るとどうだったか、ということで作ってあった。黒澤の側、勝の側、それぞれに非常に個性の強い監督と役者なのだが、映画のくろうとの世界では、こういう人もいて、こういうこともあっていいのだろう、ぐらいの感じで今は思っている。この時代まで、今は変わったかもしれないが、映画を作るというのは、世間一般とは違った人たちの仕事……それは、一般の人びとから見ると、羨望と差別のないまじったものかもしれないが……であったろう。少なくとも、私は、そういう感覚で映画の世界を見るということに、共感できるところがある。
印象に残るのは、黒澤のスクリプターをしていた女性(野上)。その話しぶりは、やはりその業界の人間だなあと、感じさせる。こういう雰囲気で話しができる人が、今ではもう希かもしれない。
勝新太郎が、脚本なしで、ほとんど現場での思いつきで、台詞や演出を考えて映画を作った件、昔は、こんなこともあったのだろう。それが出来るのが、映画制作の現場であり、また、勝新太郎という役者でもあったことになる。(それにしても、原田美枝子というのは、いい女優さんだなと思う。若いとき映画で見たとき、とても魅力的だった。)
以前、高峰秀子の本を読んでいて、戦前は、文字の読めない映画監督もいた、と書いてあって、驚いたことがある。だが、映画をふくめて、芸能の世界というのは、そういうことがあってもおかしくはないともいえるだろう。
白井佳夫が出ていた。私ぐらいの年代だと、キネ旬の編集長で、映画評論家として、とてもかっこいい存在だった。一般に、映画評論家が、かっこよかった時代でもあった。白井佳夫について語るだけで、日本の映画史だけではなく、社会の歴史をふかく考えることにつながるにちがいない。
2025年3月11日記
『べらぼう』「富本、仁義の馬面」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
『べらぼう』「富本、仁義の馬面」
芸能史という視点から見ると、かなり微妙というか、きわどい路線でドラマを作ってある。
芸能にたずさわるものは、被差別民である……これは、日本の文化史、芸能史、における基本の認識だろう。被差別民であるが、同時に、ある種の特権があり、人びとのあこがれの対象でもあった。この両義的な価値観のバランスをどうとるかということが、芸能の歴史を語るうえでの、重要なポイントであり、また、難しさでもある。(私の持っている、このような芸能史についての認識は、あるいはもう古めかしいものかもしれないが。)
日本の社会において、役者が差別されるものであったということは、つい近年まであったことである。芝居(歌舞伎など)のみならず、映画の俳優や女優であっても、まっとうな職業とは見なされない時代が、ながく続いてきた。それが払拭される、あるいは、一般に意識されないものに変わってきたのは、テレビの普及によって、芸能人などが、身近な存在になり、多くの若い人たちにとって、アイドルがあこがれとなってきた、という変化の流れがあってのことであると、思っている。
吉原が役者を入れないというのは、そうであったかと思うのだが、その吉原自体が、悪所として、市中から遠ざけられていた場所である。ここには、重層的な差別の構造があることになる。
鳥山検校が、当道座を宰領すると出てきていたが、ここは、少しお稲荷さんの説明があった方がよかったところかと思う。視覚障害のある芸能にたずさわる男性による職能集団であり、その組織である。そのトップに検校がいたことになる。なお、女性の場合には、瞽女として存在することになった。(このあたりのことについて、さらに考えるならば、芸能における、障碍者の存在とジェンダーというようなテーマの研究領域になるはずである。)
りつ(安達祐実)の解説は、ちょっと無理があったと感じる。庶民のあこがれの対象にしないために、為政者が、身分の外に定めた、要するに、被差別民とみなすようにした……というのは、ちょっと強引な説明かなという気がする。差別とはいわないまでも、普通の人たちとは違った特殊な人びとという認識と、あこがれの対象となる、ということは、普通の市井の人びとの考えのなかで両立することである。(その近年になっての事例としては、ジャニーズの問題があったということになる、と私は思っている。)
吉原の遊女であり、富本の太夫であり、社会から疎外された、差別の視線で見られることになった人びとがいたことは否定できないことであるとして、それを、この『べらぼう』のなかでは、映像の美しさで演出して見せようとしている。これは、
ドラマ制作の方針ではあろうが、見る人によっては賛否の分かれるとこになるかもしれない。(私は、その差別の事実をきちんと明らかにしたうえで、それが、その時代の一般の人びとの意識であったことをふまえて、そのみがいてきた芸の美しさを表現してみせる、というのがいいのかと思うが。まあ、強いていえば、少し前までの時代、テレビの制作にかかわるような人間は、職業差別とはいえないまでも、まともな仕事じゃないと思われていたというのは、現場のなかに残っているかとも思うのだが。)
瀬川(検校に身請けされて、瀬以)が足袋をはいていた。花魁であったときは、ずっと裸足であった。ただ、検校のもとを訪問した蔦重たちの前に、検校よりも先に、その奥さんが出てくるというのは、ちょっとどうかなと思うことではあるが。
平賀源内の作っていたのは、エレキテルになる、試作段階のものでいいだろう。
富本の舞台、劇場の様子は、このようなものだったのだろうと思って見ていたが、映像としては、とても美しく作ってあった。できれば、鳥山検校が、富本を聴くシーンがあるとよかったと思うが、これは、演出が難しいかもしれない。だが、市原隼人なら、できる場面であったと思う。
いくら蔦重であるといっても、吉原の花魁たちを、おおぜい大門の外に連れ出すというのは、できたことなのだろうか。
松平定信が、黄表紙を手に取ってみたりしただろうか。別に、それでもおかしくはないが、江戸時代にこういう身分の人なら、まず経書の類が手元にあったかと思うが、どうであろうか。(とにかくこのドラマでは、本として、経書や仏書などがまったく登場しない。これは、ちょっと変だと思って見ている。蔦重のかかわったような本だけが、江戸の出版物ではなかったのであるが。)
浄瑠璃の正本というのは、そんなに儲かる出版ビジネスだったのだろうか。だが、それよりも、この種の芸能にかかわる出版は、その業界の(今でいう)利権のからんだ話しであるということなのだろう。
次回以降、恋川春町、朋誠堂喜三二という戯作者が、おおきく出てくることになるようだ。戯作者という人たちをどう描くか、気になるところである。
2025年3月17日
『べらぼう』「富本、仁義の馬面」
芸能史という視点から見ると、かなり微妙というか、きわどい路線でドラマを作ってある。
芸能にたずさわるものは、被差別民である……これは、日本の文化史、芸能史、における基本の認識だろう。被差別民であるが、同時に、ある種の特権があり、人びとのあこがれの対象でもあった。この両義的な価値観のバランスをどうとるかということが、芸能の歴史を語るうえでの、重要なポイントであり、また、難しさでもある。(私の持っている、このような芸能史についての認識は、あるいはもう古めかしいものかもしれないが。)
日本の社会において、役者が差別されるものであったということは、つい近年まであったことである。芝居(歌舞伎など)のみならず、映画の俳優や女優であっても、まっとうな職業とは見なされない時代が、ながく続いてきた。それが払拭される、あるいは、一般に意識されないものに変わってきたのは、テレビの普及によって、芸能人などが、身近な存在になり、多くの若い人たちにとって、アイドルがあこがれとなってきた、という変化の流れがあってのことであると、思っている。
吉原が役者を入れないというのは、そうであったかと思うのだが、その吉原自体が、悪所として、市中から遠ざけられていた場所である。ここには、重層的な差別の構造があることになる。
鳥山検校が、当道座を宰領すると出てきていたが、ここは、少しお稲荷さんの説明があった方がよかったところかと思う。視覚障害のある芸能にたずさわる男性による職能集団であり、その組織である。そのトップに検校がいたことになる。なお、女性の場合には、瞽女として存在することになった。(このあたりのことについて、さらに考えるならば、芸能における、障碍者の存在とジェンダーというようなテーマの研究領域になるはずである。)
りつ(安達祐実)の解説は、ちょっと無理があったと感じる。庶民のあこがれの対象にしないために、為政者が、身分の外に定めた、要するに、被差別民とみなすようにした……というのは、ちょっと強引な説明かなという気がする。差別とはいわないまでも、普通の人たちとは違った特殊な人びとという認識と、あこがれの対象となる、ということは、普通の市井の人びとの考えのなかで両立することである。(その近年になっての事例としては、ジャニーズの問題があったということになる、と私は思っている。)
吉原の遊女であり、富本の太夫であり、社会から疎外された、差別の視線で見られることになった人びとがいたことは否定できないことであるとして、それを、この『べらぼう』のなかでは、映像の美しさで演出して見せようとしている。これは、
ドラマ制作の方針ではあろうが、見る人によっては賛否の分かれるとこになるかもしれない。(私は、その差別の事実をきちんと明らかにしたうえで、それが、その時代の一般の人びとの意識であったことをふまえて、そのみがいてきた芸の美しさを表現してみせる、というのがいいのかと思うが。まあ、強いていえば、少し前までの時代、テレビの制作にかかわるような人間は、職業差別とはいえないまでも、まともな仕事じゃないと思われていたというのは、現場のなかに残っているかとも思うのだが。)
瀬川(検校に身請けされて、瀬以)が足袋をはいていた。花魁であったときは、ずっと裸足であった。ただ、検校のもとを訪問した蔦重たちの前に、検校よりも先に、その奥さんが出てくるというのは、ちょっとどうかなと思うことではあるが。
平賀源内の作っていたのは、エレキテルになる、試作段階のものでいいだろう。
富本の舞台、劇場の様子は、このようなものだったのだろうと思って見ていたが、映像としては、とても美しく作ってあった。できれば、鳥山検校が、富本を聴くシーンがあるとよかったと思うが、これは、演出が難しいかもしれない。だが、市原隼人なら、できる場面であったと思う。
いくら蔦重であるといっても、吉原の花魁たちを、おおぜい大門の外に連れ出すというのは、できたことなのだろうか。
松平定信が、黄表紙を手に取ってみたりしただろうか。別に、それでもおかしくはないが、江戸時代にこういう身分の人なら、まず経書の類が手元にあったかと思うが、どうであろうか。(とにかくこのドラマでは、本として、経書や仏書などがまったく登場しない。これは、ちょっと変だと思って見ている。蔦重のかかわったような本だけが、江戸の出版物ではなかったのであるが。)
浄瑠璃の正本というのは、そんなに儲かる出版ビジネスだったのだろうか。だが、それよりも、この種の芸能にかかわる出版は、その業界の(今でいう)利権のからんだ話しであるということなのだろう。
次回以降、恋川春町、朋誠堂喜三二という戯作者が、おおきく出てくることになるようだ。戯作者という人たちをどう描くか、気になるところである。
2025年3月17日
『カムカムエヴリバディ』「1983」「1983ー1984」 ― 2025-03-16
2025年3月16日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1983」「1983ー1984」
高校生の夏休み、ひなたは虚無蔵のさそいをうけて、映画村でアルバイトをすることになる。そこで、映画村で働くひとたち、また、映画の撮影現場を目にすることになる。結局、高校を卒業して、映画村に就職して働くことになる。
『カムカムエヴリバディ』のひなた編、特に、映画村の部分をみると、先に再放送のあった『オードリー』へのリスペクトを、いたるところに感じる。1980年代、映画産業、なかでも、時代劇が衰退の方向にむかいつつあったころ、映画にたずさわる人びと……俳優、それもスターばかりではなく、大部屋の役者たちをふくめてであり、撮影の裏方のさまざまな仕事であり、また、事務的な仕事をするスタッフなど……いろんな人たちの協力があって、映画が出来ているのだが、その人たちの、それぞれの思いが、重層的に、そして、細やかに描かれていたと感じる。衰退していく業界であることを身をもって感じているからこそ、仕事への思いはひとしおである。
やはり興味深かったのは、映画の撮影シーン。映画を撮っているところを、映像として撮るということは、これまでも多くの作品でこころみられてきているところである。映画にたずさわる人びとをテーマにした映画もある。このドラマの場合、時代劇の撮影中に、ひなたと文四郎が飛び入りで加わって、撮影現場のなかで、時代劇とはなんであるか、見る人は何を楽しみみているのか……丁々発止でやりあうのは、斬新であると同時に、まさにこの時代のテレビ時代劇の本質にかかわる議論でもあった。斬新と言われた「木枯し紋次郎」であっても、「必殺」シリーズであっても、大局的には、一種の紋切り型の作りであったことは、たしかである。「水戸黄門」や「遠山の金さん」などは、徹底的にパターン化してあった。無論、これは、意図的にそうつくってあった。
美咲すみれ(安達祐実)がいい。下手な女優の役を、見事に演じている。それから、再放送で気づいたが、一恵の役が、三浦透子である。私は、いい女優さんだと思って見ている。
『オードリー』で晋八のうどん屋が出てきていたが、『カムカムエヴリバディ』では蕎麦屋になっている。そこで、気炎をあげる美咲すみれが語る、モモケンと虚無蔵の過去のこと。そして、それに重なるように、隣のテーブルにいた吉右衛門一家が話す、岡山での思い出。それは、実は、ひなたの母のるいと、祖母の安子の、過去にかかわる話しになる。ドラマを見ている人間には、あのシーンとして思い出すことになるが、しかし、このドラマのなかのひなたにとっては、知らない昔話である。ひなたは、自分の家族の過去のことについて、まだ知らないでいる。
虚無蔵がいい。大部屋俳優であるが、木刀をもっての立ち居振る舞いは、さすがである。そう演出してあるのだが、文四郎と比べると、歩き方、木刀の持ち方からして、レベルが違うことが分かる。
この週は、虚無蔵が映画のオーディションを受けると言ったところで終わっていた。結果は、先に見て知っているのだが、しかし、そう決意する虚無蔵の表情には迫力があった。
2025年3月14日記
『カムカムエヴリバディ』「1983」「1983ー1984」
高校生の夏休み、ひなたは虚無蔵のさそいをうけて、映画村でアルバイトをすることになる。そこで、映画村で働くひとたち、また、映画の撮影現場を目にすることになる。結局、高校を卒業して、映画村に就職して働くことになる。
『カムカムエヴリバディ』のひなた編、特に、映画村の部分をみると、先に再放送のあった『オードリー』へのリスペクトを、いたるところに感じる。1980年代、映画産業、なかでも、時代劇が衰退の方向にむかいつつあったころ、映画にたずさわる人びと……俳優、それもスターばかりではなく、大部屋の役者たちをふくめてであり、撮影の裏方のさまざまな仕事であり、また、事務的な仕事をするスタッフなど……いろんな人たちの協力があって、映画が出来ているのだが、その人たちの、それぞれの思いが、重層的に、そして、細やかに描かれていたと感じる。衰退していく業界であることを身をもって感じているからこそ、仕事への思いはひとしおである。
やはり興味深かったのは、映画の撮影シーン。映画を撮っているところを、映像として撮るということは、これまでも多くの作品でこころみられてきているところである。映画にたずさわる人びとをテーマにした映画もある。このドラマの場合、時代劇の撮影中に、ひなたと文四郎が飛び入りで加わって、撮影現場のなかで、時代劇とはなんであるか、見る人は何を楽しみみているのか……丁々発止でやりあうのは、斬新であると同時に、まさにこの時代のテレビ時代劇の本質にかかわる議論でもあった。斬新と言われた「木枯し紋次郎」であっても、「必殺」シリーズであっても、大局的には、一種の紋切り型の作りであったことは、たしかである。「水戸黄門」や「遠山の金さん」などは、徹底的にパターン化してあった。無論、これは、意図的にそうつくってあった。
美咲すみれ(安達祐実)がいい。下手な女優の役を、見事に演じている。それから、再放送で気づいたが、一恵の役が、三浦透子である。私は、いい女優さんだと思って見ている。
『オードリー』で晋八のうどん屋が出てきていたが、『カムカムエヴリバディ』では蕎麦屋になっている。そこで、気炎をあげる美咲すみれが語る、モモケンと虚無蔵の過去のこと。そして、それに重なるように、隣のテーブルにいた吉右衛門一家が話す、岡山での思い出。それは、実は、ひなたの母のるいと、祖母の安子の、過去にかかわる話しになる。ドラマを見ている人間には、あのシーンとして思い出すことになるが、しかし、このドラマのなかのひなたにとっては、知らない昔話である。ひなたは、自分の家族の過去のことについて、まだ知らないでいる。
虚無蔵がいい。大部屋俳優であるが、木刀をもっての立ち居振る舞いは、さすがである。そう演出してあるのだが、文四郎と比べると、歩き方、木刀の持ち方からして、レベルが違うことが分かる。
この週は、虚無蔵が映画のオーディションを受けると言ったところで終わっていた。結果は、先に見て知っているのだが、しかし、そう決意する虚無蔵の表情には迫力があった。
2025年3月14日記
『カーネーション』「奇跡」 ― 2025-03-16
2025年3月16日 當山日出夫
『カーネーション』「奇跡」
この週は、最晩年の糸子のことと、病院でのファッションショーのこと。
病院でのファッションショーというのは、奇抜なアイデアのようだが、実際にあったことらしい。先日、放送の、「偉人の年収」で小篠綾子をとりあげたとき、病院でファッションショーをやったとあった。これも、実際にあった出来事だからこそ、ドラマのなかで描けるということになるのかもしれない。
このドラマのいいところは、人間が年を取ることについて、肯定的に描いていることである。朝ドラのなかに高齢の登場人物が出てくることは多い。多くの場合、主人公の祖父母だったりする。たいていは、年をとっても元気である、ということが多い。特に、今、放送の『おむすび』は典型的に元気な老人である。
『カーネーション』では、糸子も八〇をゆうにこえて、元気といえば元気であるが、それでも、この年になると、杖をついて歩いている。なんとか、病院までは一人で行き来できるらしい。(これも、今の標準的な姿からすれば、かなり元気な方にはいるだろう。)そして、年はとっても、頭の方はしっかりしている。
印象に残るのは、病院での、総婦長さんとの会話。
最初にファッションショーの企画で、入院中の患者さんも出演してほしいと言った糸子に対して、総婦長さんは、ここは病院で病人が治療に専念すべき場所です、と言ってことわっていた。
次のときになると、糸子とだけの会話として、病院の医療といっても、しれていると述懐していた。現代の医療技術であっても、どうにもならないことがある。これを、日々の仕事のなかで体験しているからこそ言える台詞である。
それに対して、糸子も、服が人間に品格と自信と誇りを与えるといっても、それも、しれている、と語った。これは、昔、若い糸子が、洋服の作り方をミシンの先生にならったときに教わったことばである。これまで、このドラマは、このことばを軸に展開してきたといってもいい。しかし、それを、最後になって、糸子は否定しないまでも、その限界を感じていることになる。これは、やはり、これまで糸子の仕事をとおして、それぞれの時代ごとに、服が人間にどう影響するかということを、実践してきた、実際に服をデザインして作ってきたという、経験の積み重ねの描写があってこその、台詞である。
最後、実際のファッションショーのとき、末期がんの女性が登場することになるのだが、その姿を見て、糸子はマイクの前でしゃべることができなくなってしまう。そこで、状況を見てとった総婦長さんが、とっさに糸子に変わって原稿を読むことになる。最初は、ファッションショーに反対していた総婦長さんであったが、このショーの意義を理解して、そして、病院の看護のプロとしての判断であることになる。
このドラマのいいところは、プロの仕事を描いていることである。それは、一つ一つの場面の積み重ねがあってこそである。特に糸子については、実際にミシンで服を縫っているシーンが、何度となく出てきている。毎回、同じような場面であったかもしれないが、その積み重ねがあって、このドラマの重厚な人間観を生み出すことにつながっている。
2025年3月15日記
『カーネーション』「奇跡」
この週は、最晩年の糸子のことと、病院でのファッションショーのこと。
病院でのファッションショーというのは、奇抜なアイデアのようだが、実際にあったことらしい。先日、放送の、「偉人の年収」で小篠綾子をとりあげたとき、病院でファッションショーをやったとあった。これも、実際にあった出来事だからこそ、ドラマのなかで描けるということになるのかもしれない。
このドラマのいいところは、人間が年を取ることについて、肯定的に描いていることである。朝ドラのなかに高齢の登場人物が出てくることは多い。多くの場合、主人公の祖父母だったりする。たいていは、年をとっても元気である、ということが多い。特に、今、放送の『おむすび』は典型的に元気な老人である。
『カーネーション』では、糸子も八〇をゆうにこえて、元気といえば元気であるが、それでも、この年になると、杖をついて歩いている。なんとか、病院までは一人で行き来できるらしい。(これも、今の標準的な姿からすれば、かなり元気な方にはいるだろう。)そして、年はとっても、頭の方はしっかりしている。
印象に残るのは、病院での、総婦長さんとの会話。
最初にファッションショーの企画で、入院中の患者さんも出演してほしいと言った糸子に対して、総婦長さんは、ここは病院で病人が治療に専念すべき場所です、と言ってことわっていた。
次のときになると、糸子とだけの会話として、病院の医療といっても、しれていると述懐していた。現代の医療技術であっても、どうにもならないことがある。これを、日々の仕事のなかで体験しているからこそ言える台詞である。
それに対して、糸子も、服が人間に品格と自信と誇りを与えるといっても、それも、しれている、と語った。これは、昔、若い糸子が、洋服の作り方をミシンの先生にならったときに教わったことばである。これまで、このドラマは、このことばを軸に展開してきたといってもいい。しかし、それを、最後になって、糸子は否定しないまでも、その限界を感じていることになる。これは、やはり、これまで糸子の仕事をとおして、それぞれの時代ごとに、服が人間にどう影響するかということを、実践してきた、実際に服をデザインして作ってきたという、経験の積み重ねの描写があってこその、台詞である。
最後、実際のファッションショーのとき、末期がんの女性が登場することになるのだが、その姿を見て、糸子はマイクの前でしゃべることができなくなってしまう。そこで、状況を見てとった総婦長さんが、とっさに糸子に変わって原稿を読むことになる。最初は、ファッションショーに反対していた総婦長さんであったが、このショーの意義を理解して、そして、病院の看護のプロとしての判断であることになる。
このドラマのいいところは、プロの仕事を描いていることである。それは、一つ一つの場面の積み重ねがあってこそである。特に糸子については、実際にミシンで服を縫っているシーンが、何度となく出てきている。毎回、同じような場面であったかもしれないが、その積み重ねがあって、このドラマの重厚な人間観を生み出すことにつながっている。
2025年3月15日記
『おむすび』「離れとってもつながっとうけん」 ― 2025-03-16
2025年3月16日 當山日出夫
『おむすび』「離れとってもつながっとうけん」
このドラマについては、賛否が分かれている。同じものを見ても感じ方が異なるのは確かなことだろう。だが、それ以前のこととして、このドラマは、何をどう伝えようとしているのか、どう表現しようとしているのか、というあたりがはっきりしない、ということがそもそもの問題かもしれない。
部分的なエピソードで、共感して、絶賛する人もいる一方で、何が言いたいのか分からないと、批判的に見る人もいる。
私の立場としては、このドラマを最初から見てきて、何をどう表現しようとして作っているのか、その意図がまったく混乱している、と感じることになる。そして、作り方が粗雑である。
金曜日まで見て、驚いたのが、新型コロナパンデミックが、この週で終わりになってしまったことである。2020年になって、クルーズ船での集団感染からはじまって、その後、緊急事態制限が解除になった時点で、終わった、ということになっていた。
だが、多くの人が体験したこととしては、本格的にコロナ禍といわれる状態になったのは、これからであったはずである。いったんは落ち着いたものの、その後急激に増え、翌年になってようやくワクチンの接種が始まり、なんとか感染者数が一定程度に収まってきたのが、2023年になってからであった。3~4年の間のことが、半年に満たない期間のことに短縮されてしまっている。(これは今でも完全に終わったわけではない。感染者は毎日出ている。NHKのHPを見れば分かることである。)
ドラマの進行の都合でそうなったということはありうるとしても、ここで問題になるのは、このコロナ禍の間に起こった、社会や人びとの気持ちの変化ということを、まったく無視することになってしまう。このときのことは、さまざまな形で、現在にまで、また、これからも影響を与えていくことになるはずだが、それを非常に矮小化していることになる。(強いていえば、同じことは、神戸の震災の描写にも、また、東日本大震災の描写も、言えることである。総合的にすべてを描くことは無理なのだが、エピソードのつまみ食いになってしまっていて、これらの出来事を描くことで、トータルとして何が言いたいのかが、まったく伝わってこない。)
ドラマで、コロナ禍を描くことは、今までほとんどなかった。この意味で、『おむすび』がこれを描いたことを、高く評価する人もいる。そういう人もいていいだろう。見ていて、たしかにあのころはそうだったなあ、と感じるところがあることは確かである。
しかし、エピソードのつまみ食いで、この週のなかに詰めこんだという印象がどうしてもある。
たとえば、聖人と、市役所の若林が、離れて指切りをするシーン。このころ、確かにソーシャルディスタンスということが、強く言われたときだったから、こういうことはあっただろう。だが、ドラマとして描くなら、それまでに、この二人が実際にリアルに指切りをするシーンが、話しの進行のなかで印象に残る場面としてあってこそ、価値があることになる。これが、なかったはずである。(あったのかもしれないが、思い出せない。)
結がおにぎりを作るシーンも同様である。これまでに、結が、家族のためにおにぎりを作る場面があり、それを、家族みんなで食べる場面がいくつかあって、その積み重ねがあってこそ、おにぎりを作るときにラップでくるむことになることが、生きてくる。そして、そうであれば、何の説明的なナレーションも必要がないし、見ている人に印象深いものになったはずである。
結が、突然、大阪で一人で暮らすと言い出すのも不自然である。これは、事前に家族に相談すべきことにちがいない(常識的な判断としては)。
花は、サッカーの練習もできなくなっているはずだが、このことをどう思っているか、出てこなかった。
聖人が仕事がひまになって、料理の腕があがって、作ったチャーハンを結のすむマンションまで翔也がとどける、というのも、無理なストーリーのように思える。愛子が糸島に行ってしまっているので、聖人の仕事は増えているはずである。店の仕事は、聖人と愛子の二人でなりたっているというのは、以前に、ドラマで描いていたことである。このことが無意味になってしまっている。人間の髪の毛は、コロナ禍など関係なく、一定に伸びるものだから、理髪店の仕事が、(ある程度は減っただろうが)激減するはずはなかったと思うのだが、どうだろうか。
結の仕事として増えたのは、食事のトレーを運ぶ仕事と、紙にメッセージを書く仕事ぐらいである。メニューの検討は、通常の管理栄養士の仕事のうちである。これが、そんなに過重な労働になり、家に帰って何もできないぐらい、というのは、どう考えても大げさである。(強いていえば、管理栄養士としてプロなら、自分の食事のことを考えられないといけない。たとえ、コンビニで買って帰るだけであっても、そこでの商品の選び方に、専門家としての知見があるべきである。もし結が疲れ果てていたとしても、ここの部分は妥協してはいけないところである。おそらく、もし結が四年生の大学で学んで管理栄養士を目指したということなら、学生のときに先生にたたきこまれたはずのことであろうと思う。)
もし、このドラマが、コロナ禍の人びとの生活の感覚を描こうとし意図していたなら、それに向けて、これまでに伏線となるべきこととして、描いておくべきことが多くあったはずだが、準備としてあるべきなのだが、それがまったくない。この週になって、クルーズ船のことから、いきなりコロナ禍のことを描こうとしても、それまでのことと連続して、ドラマとして何がいいたいのか、説得力に欠けることになってしまっている。
相変わらず、結は、病院の管理栄養士としての仕事が見えていない。まず、食品成分表が、これまでに出てきていない。神戸の栄養士の専門学校のときも、出てきていなかったはずである。病院で管理栄養士の仕事をするときには、オンラインのデータベースになっているころになるだろうが、PCでそれを見ている場面もない。
管理栄養士のプロなんだから、そんなものは頭のなかに全部入っている……ということなのかもしれない。しかし、もし、そうであっても、基本的なことは、その都度、間違いがないように確認するのが、本当のプロだろう。
食品成分表が画面のなかに出てこない、栄養士や、管理栄養士を主人公にしたドラマというのが、そもそもおかしいと思わないのだろうか。(まあ、六法がほとんど出てこない、リーガルエンターテイメントと称するドラマもあったのだから、それでもいいのかもしれないが。)
ところで、コロナ禍をドラマに描くことの難しさは、もっと本質的なところにある。
それは、社会の共同体と個人、それから、国家との関係にどうしても、ふみこまざるをえないからである。
以下、私の思っていることになるが……コロナ禍において、顕在化した問題の一つは、政府がもとめたのは主に自粛であって、法的な強力な規制があったということではなかったことがある。自粛要請が効力を発揮したのは、社会の、非常に強固な同調圧力があってのことである。人びとがマスクをする生活をするようになったのは、街を歩いて、他の人みんながしているから、その目を意識してのことである。日本の社会の同調圧力を、どう考えればいいのか、大きな課題となったことだと認識している。
神戸の震災のとき、東日本大震災のとき、人びとの助け合い、共同体の価値、絆、ということが、強く言われた。だが、この人びとの共同体こそが、場面によっては、強い同調圧力となって、人びとの行動を抑制することになる。これはいいことなのだろうか。このことについて、まだ結論は出ていないし、明確な問題提起という段階にもない。だが、多くの人は、この矛盾を感じとっているはずである。
もし、社会の共同体の同調圧力によらないとするならば、中国がやったように強権的に封じ込めるか、あるいは、韓国とか台湾でおこなわれたように、スマホを介して個人の行動を把握し、誘導することになるのか。これは、一歩まちがえば、政府による高度な監視社会ということにもなる。(コロナ禍という緊急事態だから許容されたということかもしれないが。)
この先にあるのは、ディストピアかもしれない。
感染症のパンデミックなどのとき、人びとは、何を感じ、どう行動するものなのか。これは、将来の社会を考えるときに、重要な課題である。
だから、コロナ禍のとき、あのときは、あんなだった、こんなふうだった、みんなこまった、という共感を得やすいエピソードの羅列で終わらせてしまうことは、社会の重要な問題から目をそらしてしまうことになってしまう。
人びとの助け合いの気持ちは、もちろん大事であるが、社会の共同体の持っている、強いていえば負の側面、同調圧力による抑圧ということが、あきらかになったのが、コロナ禍であったのであり、だからこそ、その描き方には、十分な配慮が必用であったと思うのである。怖いのは、コロナよりもむしろ世間の人の目である、という感覚が支配したのが、ちょっと前の日本であったともいえる。
コロナ禍をドラマで描こうとするならば、共同体と個人の問題、社会の監視の問題、同調圧力の問題、それから、具体的な政策(安倍晋三、菅義偉、岸田文雄の各政権)の検証、ということなどが必須になる。それを避けて、ただ、あのときは、こんなことがあったという、見る人が思い出して共感しやすいエピソードを並べただけの、非常に安直な作り方をしたとしか思えないのである。(朝ドラだからこの程度の描きかたでいいと思ったのなら、それはおかしいとしかいいようがない。)
ここでも、栄養士の専門学校の友達のことが出てきていない。東京の病院で働いているかもしれないし、飲食店をやっているかもしれないのだが、連絡し合って、お互いに情報交換するようなことがあればいいと思うのだが、それができない。やはり、栄養士から、無理に管理栄養士になる設定変更のためとしか思えない。
最後に思うこととしては、結や医療関係者が、コロナ禍をのりきるのに、ギャル精神で頑張ればなんとかなる、ということではなかった。これは、あたりまえである。であるならば、ドラマの最初の設定のギャルとしての結は、どこに行ってしまったことになるのだろうか。かろうじて、姉の歩にギャルをやりつづけさせて、話しのつじつまを合わせているだけである。
2025年3月15日記
『おむすび』「離れとってもつながっとうけん」
このドラマについては、賛否が分かれている。同じものを見ても感じ方が異なるのは確かなことだろう。だが、それ以前のこととして、このドラマは、何をどう伝えようとしているのか、どう表現しようとしているのか、というあたりがはっきりしない、ということがそもそもの問題かもしれない。
部分的なエピソードで、共感して、絶賛する人もいる一方で、何が言いたいのか分からないと、批判的に見る人もいる。
私の立場としては、このドラマを最初から見てきて、何をどう表現しようとして作っているのか、その意図がまったく混乱している、と感じることになる。そして、作り方が粗雑である。
金曜日まで見て、驚いたのが、新型コロナパンデミックが、この週で終わりになってしまったことである。2020年になって、クルーズ船での集団感染からはじまって、その後、緊急事態制限が解除になった時点で、終わった、ということになっていた。
だが、多くの人が体験したこととしては、本格的にコロナ禍といわれる状態になったのは、これからであったはずである。いったんは落ち着いたものの、その後急激に増え、翌年になってようやくワクチンの接種が始まり、なんとか感染者数が一定程度に収まってきたのが、2023年になってからであった。3~4年の間のことが、半年に満たない期間のことに短縮されてしまっている。(これは今でも完全に終わったわけではない。感染者は毎日出ている。NHKのHPを見れば分かることである。)
ドラマの進行の都合でそうなったということはありうるとしても、ここで問題になるのは、このコロナ禍の間に起こった、社会や人びとの気持ちの変化ということを、まったく無視することになってしまう。このときのことは、さまざまな形で、現在にまで、また、これからも影響を与えていくことになるはずだが、それを非常に矮小化していることになる。(強いていえば、同じことは、神戸の震災の描写にも、また、東日本大震災の描写も、言えることである。総合的にすべてを描くことは無理なのだが、エピソードのつまみ食いになってしまっていて、これらの出来事を描くことで、トータルとして何が言いたいのかが、まったく伝わってこない。)
ドラマで、コロナ禍を描くことは、今までほとんどなかった。この意味で、『おむすび』がこれを描いたことを、高く評価する人もいる。そういう人もいていいだろう。見ていて、たしかにあのころはそうだったなあ、と感じるところがあることは確かである。
しかし、エピソードのつまみ食いで、この週のなかに詰めこんだという印象がどうしてもある。
たとえば、聖人と、市役所の若林が、離れて指切りをするシーン。このころ、確かにソーシャルディスタンスということが、強く言われたときだったから、こういうことはあっただろう。だが、ドラマとして描くなら、それまでに、この二人が実際にリアルに指切りをするシーンが、話しの進行のなかで印象に残る場面としてあってこそ、価値があることになる。これが、なかったはずである。(あったのかもしれないが、思い出せない。)
結がおにぎりを作るシーンも同様である。これまでに、結が、家族のためにおにぎりを作る場面があり、それを、家族みんなで食べる場面がいくつかあって、その積み重ねがあってこそ、おにぎりを作るときにラップでくるむことになることが、生きてくる。そして、そうであれば、何の説明的なナレーションも必要がないし、見ている人に印象深いものになったはずである。
結が、突然、大阪で一人で暮らすと言い出すのも不自然である。これは、事前に家族に相談すべきことにちがいない(常識的な判断としては)。
花は、サッカーの練習もできなくなっているはずだが、このことをどう思っているか、出てこなかった。
聖人が仕事がひまになって、料理の腕があがって、作ったチャーハンを結のすむマンションまで翔也がとどける、というのも、無理なストーリーのように思える。愛子が糸島に行ってしまっているので、聖人の仕事は増えているはずである。店の仕事は、聖人と愛子の二人でなりたっているというのは、以前に、ドラマで描いていたことである。このことが無意味になってしまっている。人間の髪の毛は、コロナ禍など関係なく、一定に伸びるものだから、理髪店の仕事が、(ある程度は減っただろうが)激減するはずはなかったと思うのだが、どうだろうか。
結の仕事として増えたのは、食事のトレーを運ぶ仕事と、紙にメッセージを書く仕事ぐらいである。メニューの検討は、通常の管理栄養士の仕事のうちである。これが、そんなに過重な労働になり、家に帰って何もできないぐらい、というのは、どう考えても大げさである。(強いていえば、管理栄養士としてプロなら、自分の食事のことを考えられないといけない。たとえ、コンビニで買って帰るだけであっても、そこでの商品の選び方に、専門家としての知見があるべきである。もし結が疲れ果てていたとしても、ここの部分は妥協してはいけないところである。おそらく、もし結が四年生の大学で学んで管理栄養士を目指したということなら、学生のときに先生にたたきこまれたはずのことであろうと思う。)
もし、このドラマが、コロナ禍の人びとの生活の感覚を描こうとし意図していたなら、それに向けて、これまでに伏線となるべきこととして、描いておくべきことが多くあったはずだが、準備としてあるべきなのだが、それがまったくない。この週になって、クルーズ船のことから、いきなりコロナ禍のことを描こうとしても、それまでのことと連続して、ドラマとして何がいいたいのか、説得力に欠けることになってしまっている。
相変わらず、結は、病院の管理栄養士としての仕事が見えていない。まず、食品成分表が、これまでに出てきていない。神戸の栄養士の専門学校のときも、出てきていなかったはずである。病院で管理栄養士の仕事をするときには、オンラインのデータベースになっているころになるだろうが、PCでそれを見ている場面もない。
管理栄養士のプロなんだから、そんなものは頭のなかに全部入っている……ということなのかもしれない。しかし、もし、そうであっても、基本的なことは、その都度、間違いがないように確認するのが、本当のプロだろう。
食品成分表が画面のなかに出てこない、栄養士や、管理栄養士を主人公にしたドラマというのが、そもそもおかしいと思わないのだろうか。(まあ、六法がほとんど出てこない、リーガルエンターテイメントと称するドラマもあったのだから、それでもいいのかもしれないが。)
ところで、コロナ禍をドラマに描くことの難しさは、もっと本質的なところにある。
それは、社会の共同体と個人、それから、国家との関係にどうしても、ふみこまざるをえないからである。
以下、私の思っていることになるが……コロナ禍において、顕在化した問題の一つは、政府がもとめたのは主に自粛であって、法的な強力な規制があったということではなかったことがある。自粛要請が効力を発揮したのは、社会の、非常に強固な同調圧力があってのことである。人びとがマスクをする生活をするようになったのは、街を歩いて、他の人みんながしているから、その目を意識してのことである。日本の社会の同調圧力を、どう考えればいいのか、大きな課題となったことだと認識している。
神戸の震災のとき、東日本大震災のとき、人びとの助け合い、共同体の価値、絆、ということが、強く言われた。だが、この人びとの共同体こそが、場面によっては、強い同調圧力となって、人びとの行動を抑制することになる。これはいいことなのだろうか。このことについて、まだ結論は出ていないし、明確な問題提起という段階にもない。だが、多くの人は、この矛盾を感じとっているはずである。
もし、社会の共同体の同調圧力によらないとするならば、中国がやったように強権的に封じ込めるか、あるいは、韓国とか台湾でおこなわれたように、スマホを介して個人の行動を把握し、誘導することになるのか。これは、一歩まちがえば、政府による高度な監視社会ということにもなる。(コロナ禍という緊急事態だから許容されたということかもしれないが。)
この先にあるのは、ディストピアかもしれない。
感染症のパンデミックなどのとき、人びとは、何を感じ、どう行動するものなのか。これは、将来の社会を考えるときに、重要な課題である。
だから、コロナ禍のとき、あのときは、あんなだった、こんなふうだった、みんなこまった、という共感を得やすいエピソードの羅列で終わらせてしまうことは、社会の重要な問題から目をそらしてしまうことになってしまう。
人びとの助け合いの気持ちは、もちろん大事であるが、社会の共同体の持っている、強いていえば負の側面、同調圧力による抑圧ということが、あきらかになったのが、コロナ禍であったのであり、だからこそ、その描き方には、十分な配慮が必用であったと思うのである。怖いのは、コロナよりもむしろ世間の人の目である、という感覚が支配したのが、ちょっと前の日本であったともいえる。
コロナ禍をドラマで描こうとするならば、共同体と個人の問題、社会の監視の問題、同調圧力の問題、それから、具体的な政策(安倍晋三、菅義偉、岸田文雄の各政権)の検証、ということなどが必須になる。それを避けて、ただ、あのときは、こんなことがあったという、見る人が思い出して共感しやすいエピソードを並べただけの、非常に安直な作り方をしたとしか思えないのである。(朝ドラだからこの程度の描きかたでいいと思ったのなら、それはおかしいとしかいいようがない。)
ここでも、栄養士の専門学校の友達のことが出てきていない。東京の病院で働いているかもしれないし、飲食店をやっているかもしれないのだが、連絡し合って、お互いに情報交換するようなことがあればいいと思うのだが、それができない。やはり、栄養士から、無理に管理栄養士になる設定変更のためとしか思えない。
最後に思うこととしては、結や医療関係者が、コロナ禍をのりきるのに、ギャル精神で頑張ればなんとかなる、ということではなかった。これは、あたりまえである。であるならば、ドラマの最初の設定のギャルとしての結は、どこに行ってしまったことになるのだろうか。かろうじて、姉の歩にギャルをやりつづけさせて、話しのつじつまを合わせているだけである。
2025年3月15日記
サイエンスZERO「人類の未来を変える! “昆虫科学”最前線in九州大学」 ― 2025-03-15
2025年3月15日 當山日出夫
サイエンスZERO 人類の未来を変える! “昆虫科学”最前線in九州大学
別に昆虫は、人間の役に立つために地球上に生きてきたわけではないのだが、それを研究することで、人間の役にたつ場面もある。
九州大学で、カイコの多くを、種を保存してきたということは、貴重である。養蚕に役立たないようなものは、途中でやめてしまうということもあったのかもしれないが、集める、続ける、ということの価値が理解できる。(番組では言っていなかったが)選択と集中というのが、いかにおろかなことであるか、ということでもある。
虫の会話、というが、人間以外の生物、植物を含めて、互いにどのようにコミュニケーションしているか、というのは、おそらく近年の生物研究の一つ流れなのだろうと思う。その応用として、人間にとって害虫となる昆虫の繁殖をおさえることも可能になる。これは薬品を使わないし、また、状況によってはすぐに止めることができる。
折り紙と、ハサミムシの羽と、太陽光パネル……一つのことについての知見が、視点を変えることによって、様々に応用ができるという事例になるのだろう。研究者間のコミュニケーションと、柔軟に連携できる研究機関同士の関係性というのも、重要なことかと思う。
ところで、九州大学の昆虫の標本は、どのように管理され保存されているのだろうか。そのバックヤードも見てみたい。
2025年3月11日記
サイエンスZERO 人類の未来を変える! “昆虫科学”最前線in九州大学
別に昆虫は、人間の役に立つために地球上に生きてきたわけではないのだが、それを研究することで、人間の役にたつ場面もある。
九州大学で、カイコの多くを、種を保存してきたということは、貴重である。養蚕に役立たないようなものは、途中でやめてしまうということもあったのかもしれないが、集める、続ける、ということの価値が理解できる。(番組では言っていなかったが)選択と集中というのが、いかにおろかなことであるか、ということでもある。
虫の会話、というが、人間以外の生物、植物を含めて、互いにどのようにコミュニケーションしているか、というのは、おそらく近年の生物研究の一つ流れなのだろうと思う。その応用として、人間にとって害虫となる昆虫の繁殖をおさえることも可能になる。これは薬品を使わないし、また、状況によってはすぐに止めることができる。
折り紙と、ハサミムシの羽と、太陽光パネル……一つのことについての知見が、視点を変えることによって、様々に応用ができるという事例になるのだろう。研究者間のコミュニケーションと、柔軟に連携できる研究機関同士の関係性というのも、重要なことかと思う。
ところで、九州大学の昆虫の標本は、どのように管理され保存されているのだろうか。そのバックヤードも見てみたい。
2025年3月11日記
NHKスペシャル「国境を越える“言論弾圧” 〜その男は中国のスパイだったのか〜」 ― 2025-03-15
2025年3月15日 當山日出夫
NHKスペシャル 国境を越える“言論弾圧” 〜その男は中国のスパイだったのか〜
中国共産党としては、NHKがこういう番組を作ることを、黙認しているのか、内心では快く思っていないのか、わざと作るようにしむけているのか……さて、どうなのだろうと思う。どれであってもおかしくない。
どうであったところで、中国共産党の監視の目は世界中に広がっており、批判的な活動をする人間に対しては容赦しない、という姿勢は伝わってくる。そして、重要なことは、おそらく今の中国共産党は、このような姿勢でいることを、隠そうとはしていないということだろう。
そして、結果的には、海外で中国共産党に対する批判活動をする人たちに対して、萎縮させるメッセージにはなる。
これはアメリカの事例としてであったが、同じようなことが、日本でおこなわれていても不思議ではない。まあ、日本の警察が、表だって中国批判となるようなことを避けているということもあるのかもしれない。場合によると、知られないところで、水面下で、様々な活動があり、それへの、弾圧的な動きがあり、ということなのかもしれない。
かつての天安門事件のときのように、露骨な武力弾圧は、もうできないということであろう。やる気になればできるかもしれないが、もしそういうことが再びあれば、中国共産党は、国際的信用(もし、そんなものがまだあるとしてであるが)を、決定的に失う。せいぜい、香港での民主化運動弾圧のように、死者が出ないように(実際は、こっそりと殺されてしまった活動家がいてもおかしくはないと思うが)、デモを鎮圧するということであり、その映像が世界に流れることを意図していることになるのだろう。結果的には、香港の民主化運動を強権的に弾圧すると同時に、(人が死ぬような)武力弾圧はしないという、見せかけのメッセージを発信していることになる。
中国の民主化……もし、これが実現する時代がくるとして、それは、どのような形として実現することになるだろうか。これはこれとして、改めて考えなければならないことではある。独裁によってでしか統治できない国、ということではないと思うことにしておきたい。
2025年3月10日記
NHKスペシャル 国境を越える“言論弾圧” 〜その男は中国のスパイだったのか〜
中国共産党としては、NHKがこういう番組を作ることを、黙認しているのか、内心では快く思っていないのか、わざと作るようにしむけているのか……さて、どうなのだろうと思う。どれであってもおかしくない。
どうであったところで、中国共産党の監視の目は世界中に広がっており、批判的な活動をする人間に対しては容赦しない、という姿勢は伝わってくる。そして、重要なことは、おそらく今の中国共産党は、このような姿勢でいることを、隠そうとはしていないということだろう。
そして、結果的には、海外で中国共産党に対する批判活動をする人たちに対して、萎縮させるメッセージにはなる。
これはアメリカの事例としてであったが、同じようなことが、日本でおこなわれていても不思議ではない。まあ、日本の警察が、表だって中国批判となるようなことを避けているということもあるのかもしれない。場合によると、知られないところで、水面下で、様々な活動があり、それへの、弾圧的な動きがあり、ということなのかもしれない。
かつての天安門事件のときのように、露骨な武力弾圧は、もうできないということであろう。やる気になればできるかもしれないが、もしそういうことが再びあれば、中国共産党は、国際的信用(もし、そんなものがまだあるとしてであるが)を、決定的に失う。せいぜい、香港での民主化運動弾圧のように、死者が出ないように(実際は、こっそりと殺されてしまった活動家がいてもおかしくはないと思うが)、デモを鎮圧するということであり、その映像が世界に流れることを意図していることになるのだろう。結果的には、香港の民主化運動を強権的に弾圧すると同時に、(人が死ぬような)武力弾圧はしないという、見せかけのメッセージを発信していることになる。
中国の民主化……もし、これが実現する時代がくるとして、それは、どのような形として実現することになるだろうか。これはこれとして、改めて考えなければならないことではある。独裁によってでしか統治できない国、ということではないと思うことにしておきたい。
2025年3月10日記
Asia Insight 「離婚できない女性たち 〜フィリピン〜」 ― 2025-03-15
2025年3月15日 當山日出夫
Asia Insight 離婚できない女性たち 〜フィリピン〜
フィリピンが離婚できない国である、ということを始めて知った。国民の多くがカトリックの信仰を持っている国としては、離婚のハードルが高いことは確かかもしれないが、法的に出来ない(まったく無理ということではない、結婚の無効化はかろうじてできるが、きわめて困難)というのは、どうかなあ、と思うところではある。
法的に禁止すると、ヤミでことがすすむ。これは、人間の社会において、どこでも見られることである。売春がそうであるし、禁酒法もそうであった。実質的に破綻した結婚も多くあるし、また、ニセの証明書を偽造するビジネスも横行している。それが、通りに、どうどうと看板を出しているのは、ほとんど野放しということなのかもしれない。
この番組でいいと思ったのは、結婚が破綻した夫婦について、妻の側の言い分だけではなく、夫の側も言い分を、取材していたことである。(このようなテーマの場合、おうおうにして、女性の側の主張だけが大きく取り上げられることが多いが。)
また、離婚を法的に認めることに反対する意見をもつ夫婦の考え方も取材していた。
考え方としては、人それぞれだろうとは思うが、実質的に破綻した結婚を無理してつづけるよりは、離婚を認めた方がいいだろうと感じる。だが、これも、その当事者のひとたちから見ると、日本にいての考えということになるのかもしれない。
また、離婚を認めるとしても、家族を社会の基本の単位とする考え方が大きく変わるわけではないようである。いや、それが基本であると考えるからこそ、破綻してしまった結婚を続けることが無意味ともなる。
離婚が認められないと、DVの被害にあう女性が増える。そのとおりかと思う。番組のなかでは、殺されてしまう女性がいるかもしれないと言っていたのだが、実際は、殺されてしまう男性がいてもおかしくはない。フィリピンで、結婚、離婚をめぐる要因で、どれぐらいの犯罪が実際におきているのか、ということは気になる。(その事情が表面化する事例は少ないのかもしれないが。)
どうでもいいことだが、フィリピンでは、食事をするとき、スプーンとフォークで食べるらしい。こういうのは、映像を見て、そうなのかなと思うところである。
2025年3月14日記
Asia Insight 離婚できない女性たち 〜フィリピン〜
フィリピンが離婚できない国である、ということを始めて知った。国民の多くがカトリックの信仰を持っている国としては、離婚のハードルが高いことは確かかもしれないが、法的に出来ない(まったく無理ということではない、結婚の無効化はかろうじてできるが、きわめて困難)というのは、どうかなあ、と思うところではある。
法的に禁止すると、ヤミでことがすすむ。これは、人間の社会において、どこでも見られることである。売春がそうであるし、禁酒法もそうであった。実質的に破綻した結婚も多くあるし、また、ニセの証明書を偽造するビジネスも横行している。それが、通りに、どうどうと看板を出しているのは、ほとんど野放しということなのかもしれない。
この番組でいいと思ったのは、結婚が破綻した夫婦について、妻の側の言い分だけではなく、夫の側も言い分を、取材していたことである。(このようなテーマの場合、おうおうにして、女性の側の主張だけが大きく取り上げられることが多いが。)
また、離婚を法的に認めることに反対する意見をもつ夫婦の考え方も取材していた。
考え方としては、人それぞれだろうとは思うが、実質的に破綻した結婚を無理してつづけるよりは、離婚を認めた方がいいだろうと感じる。だが、これも、その当事者のひとたちから見ると、日本にいての考えということになるのかもしれない。
また、離婚を認めるとしても、家族を社会の基本の単位とする考え方が大きく変わるわけではないようである。いや、それが基本であると考えるからこそ、破綻してしまった結婚を続けることが無意味ともなる。
離婚が認められないと、DVの被害にあう女性が増える。そのとおりかと思う。番組のなかでは、殺されてしまう女性がいるかもしれないと言っていたのだが、実際は、殺されてしまう男性がいてもおかしくはない。フィリピンで、結婚、離婚をめぐる要因で、どれぐらいの犯罪が実際におきているのか、ということは気になる。(その事情が表面化する事例は少ないのかもしれないが。)
どうでもいいことだが、フィリピンでは、食事をするとき、スプーンとフォークで食べるらしい。こういうのは、映像を見て、そうなのかなと思うところである。
2025年3月14日記
ザ・バックヤード「文化服装学院」 ― 2025-03-14
2025年3月14日 當山日出夫
ザ・バックヤード 文化服装学院
未経験の学生が入学してきて、一年間の勉強で、ミシンで服が作れるようになる、というのは、これはかなりすごいことかなと思う。(ただ、実際には、そこまで生きのこる学生ならば、という限定にはなるかもしれないが。)実際にミシンで服を作る技術があってこそ、その上のデザインなどのことが身につく、と理解していいのだろう。ただ、デザイン画を描ければいいということではない、ここのところが、この学校のポイントになるかと思う。
3Dデータを使って、バーチャル空間で、服をデザインする。これと、型紙の制作がインクしているので、実際にその服を作ることができる。現代の技術なら、こういうことも可能であるとは理解できる。
メタバースにおいて服を売る、これも世界的規模で見れば、かなり巨大なビジネスになっているらしい。これからは、このような分野に、活躍の場を見出していく人が増えてくることだろう。
気になるのは、ここの卒業生の進路である。学校のHPでは、成功したと考えられる事例が出ていることになるが、大多数の学生は、はたしてどうなのだろうか。これも、縫製の技術として、手に職がある、ということで、なんとかなっているかもしれないと思うが、どうなのだろうか。
2025年3月7日記
ザ・バックヤード 文化服装学院
未経験の学生が入学してきて、一年間の勉強で、ミシンで服が作れるようになる、というのは、これはかなりすごいことかなと思う。(ただ、実際には、そこまで生きのこる学生ならば、という限定にはなるかもしれないが。)実際にミシンで服を作る技術があってこそ、その上のデザインなどのことが身につく、と理解していいのだろう。ただ、デザイン画を描ければいいということではない、ここのところが、この学校のポイントになるかと思う。
3Dデータを使って、バーチャル空間で、服をデザインする。これと、型紙の制作がインクしているので、実際にその服を作ることができる。現代の技術なら、こういうことも可能であるとは理解できる。
メタバースにおいて服を売る、これも世界的規模で見れば、かなり巨大なビジネスになっているらしい。これからは、このような分野に、活躍の場を見出していく人が増えてくることだろう。
気になるのは、ここの卒業生の進路である。学校のHPでは、成功したと考えられる事例が出ていることになるが、大多数の学生は、はたしてどうなのだろうか。これも、縫製の技術として、手に職がある、ということで、なんとかなっているかもしれないと思うが、どうなのだろうか。
2025年3月7日記
最近のコメント