雑談「昭和」への道「第五回 明治政府のつらさ〜軍人勅諭〜」2023-09-28

2023年9月28日 當山日出夫

司馬遼太郎 雑談「昭和」への道「第五回 明治政府のつらさ〜軍人勅諭〜」

この回は軍人勅諭をめぐって。

軍人勅諭については、今ではアジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで見ることができるようになっている。

印象に残ることとしては、司馬遼太郎の明治維新についての考え方、近代天皇制の成立について、そして、それが昭和になってどのように変質していったのか、というあたりだろう。いわゆる司馬遼太郎史観ということになる。明治という時代を肯定的に考える対極に昭和を否定的に考える。

このあたり、現代の歴史学ではどのように考えられているのだろうかと思う。明治という時代も、そんなにいい時代ではなかったことになるだろうか。

この回の話しのポイントとしては、明治になって作られた軍隊がどのような過程を経て天皇の軍隊になり、さらには、統帥権がからんで軍隊の専横がはじまったのか、ということになるだろうか。

『坂の上の雲』の作者である。やはり明治という時代を明るく肯定的にとらえたいという気持ちが伝わってくる。それは、昭和の暗い時代を体験した司馬遼太郎ならではの思いということになる。なぜ司馬遼太郎が、このような明治についての考え方を持つようになったのか、ここのところを読みとっておく必要があるかと思う。

軍人勅諭の一人歩き、統帥権、これもまた昭和という時代の暗さということになる。

2023年9月24日記

「同時ドキュメント 定時制通信制高校の甲子園」2023-09-27

2023年9月27日 當山日出夫

同時ドキュメント 定時制通信制高校の甲子園

「ドキュメント72時間」の枠の中で作った特別版ということになるだろうか。

この夏の甲子園の野球は、見た方だと思う。(まあ、今年は慶應高校が出ていたということもあるのだが。)

その一方で、定時制通信制高校の軟式野球の全国大会があるということは、知識としては知っていたと思うのだが、実際にどのようなチームが参加して、どのように行われているのかということについては、知らなかった。これについては、ほとんど、いやまったくかもしれないが、ニュースでは報じられていない。

ドキュメンタリー番組も、今、様々に試行錯誤しているところだろうと思う。特にNHKは、すぐれたドキュメンタリー番組を作ってきている。ドキュメント72時間も、そのなかで成功していると言えるだろう。これも、ある意味でマンネリと感じるところもある。だが、これはこれでいいのだと思っている。

その枠のなかで、新しい対象を見つけてくるのも、制作スタッフの力量だろう。

この番組の良さは、あくまでも野球の試合を中心に構成してあったところにあると感じる。登場していた、個々の学校や選手には、それぞれ複雑な事情があるようだ。しかし、そこにはあまりふみこまないで、試合の運びを淡々と伝えていた。

軟式野球に自分の居場所を見つけることになった選手それぞれに、いろんな事情があることだろう。ここを掘り下げていくならば、今の学校教育のあり方や、あるいは、野球のあり方にまで、踏み込んで考えなければならない。だが、その一歩手前のところで、押さえた内容に作ってあった。

こういう高校生がいるということは、忘れてはならないことであると感じた次第である。

2023年9月24日記

神田伯山のこれがわが社の黒歴史「(11)凸版印刷 泡沫の平成メタバース」2023-09-26

2023年9月26日 當山日出夫

神田伯山のこれがわが社の黒歴史 (11)凸版印刷 泡沫の平成メタバース

インターネットはかなり初期のころからのユーザである。(いや、それ以前のパソコン通信の時代から、使ってきている。)

凸版印刷のこのサービスのことは、知らなかった。

番組を見て思うこととしては、時代の流れよりいくぶん先を行きすぎていたということになるのだろう。3D仮想空間は、今でこそ一般的になってきているが、三〇年前には、まだ無理だったろうと思う。まだ、パソコン通信の延長としてのチャットという段階と考えていいのかもしれない。たしかに、一部の熱心なユーザはいただろうが、それが生活の中に根づいて、さらにビジネスとして展開するには、無理があったということになる。

番組では触れていなかったが、PCの性能や、通信環境ということもあるかもしれない。広告料収入に大きく依存する、現代のネットビジネスから見ても、やはり時代がまだそこまで追いついていなかったということになるだろう。

このサービスの撤退ということの要因に、携帯電話のことが指摘されていた。なるほど、そんな時代もあったと思う。時代的には、現代のスマーフォンより前のことになる。

ところで、私の専門にかかわるところでは、凸版印刷は、印刷博物館の会社である。ここには、何度か行ったことがある。また、デジタルアーカイブ事業は、これからのコンピュータと人文学研究において、重要な意味を持つものになっている。

さて、この番組は続くのだろうか。次回の予告がなかったが、どうなることか。出来れば続けていってもらいたい番組の一つである。

2023年9月21日記

『どうする家康』あれこれ「於愛日記」2023-09-25

2023年9月25日 當山日出夫

『どうする家康』第36回「於愛日記」

タイトルのところで、茶々として北川景子の名前があった。いったいどのような登場の仕方をするか気になって、肝心の於愛の方の話しが、あまりよく分からなかったというのが、正直な感想。最後の鉄砲のシーンで、それまでのドラマが吹っ飛んでしまった。

とはいえ、興味深いと思うのは、このドラマは、戦国ドラマとしては、女性のことをかなり多く描いている、ということがある。築山殿のことが前半では大きくあつかわれていた。また、お市の方のこともある。それから、(架空の人物であろうが)千代のこともある。戦国の時代に生きた女性というものを、丁寧にあつかっていたと感じる。

この回から、秀吉が方言を使わなくなっている。これは、時代劇におけることばのあり方としては、かなり面白い。実際に秀吉がどんなことばを使っていたかということではなく、時代劇のドラマとして、その役がどのようなことばを使うかということである。これは、現代の日本語学の用語でいえば、役割語の概念で考えることになる。

さて、次回以降、茶々はどのように振る舞うだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2023年9月24日記

『らんまん』あれこれ「ムラサキカタバミ」2023-09-24

2023年9月24日 當山日出夫

『らんまん』第25週「ムラサキカタバミ」

これまでの朝ドラで、関東大震災が出てきた作品というと、『おしん』がある。『おしん』が放送された時代と、今とでは、関東大震災についての捉え方も変わってきていると思うところがある。

今年は、関東大震災から一〇〇年ということで、いくつかのテレビ番組の特集があったりした。本も出ている。

あくまでも朝ドラという枠の中でのことになる。そんなに凄惨な場面とか、描くこともないかと思う。ただ、震災後のこととして自警団のことなどは、近年になってからの傾向を反映したものだろう。また、大杉栄、伊藤野枝のことも出てきていた。

ただ、史実としては、牧野富太郎の標本は震災にあうことなく無事に残ったことになる。死後、東京都に寄贈されて、現在は東京都立大学で保存、利活用されているはずである。蔵書は、高知の牧野植物園にある。

また、牧野富太郎は大学の助手から、講師になって、これはかなり長くつとめている。ここも、ドラマでは、大学を辞めて在野の植物学者として生きるということに作ってある。

震災をきっかけとして、万太郎と寿恵子は、練馬に新しい住居を求めることになった。

さて、このドラマも最後の週となった。予告が無かった。これからの万太郎と寿恵子の晩年をどう描くことになるのか、図鑑はどうなるのか、楽しみに見ることにしよう。

2023年9月23日記

100分de名著「“シャーロック・ホームズスペシャル” (3)ホームズと女性」2023-09-23

2023年9月23日 當山日出夫

100分de名著 “シャーロック・ホームズスペシャル” (3)ホームズと女性

ホームズの作品についても、いわゆるジェンダーの観点から読み解くとするならば、いろんなことが見えてくるだろう。簡潔ながら、そのお手本のような内容であったと思う。

といって、特にホームズの女性観を否定的に見ているわけではない。(これは番組の趣旨からして、そのようになるだろうとは思うが。)ともあれ、ドイルは、その時代の流れのなかにあって、女性がどのような生き方をしているのか、感じとって描いていたということになる。

ところで、ミステリと女性というテーマで考えてみるならば、これは面白い仕事になるだろう。(もうすでにあるかもしれないとは思うが。)

番組のなかで登場していた『ジェーン・エア』は、昔読んだことはあると憶えているのだが、はっきりとした記憶がない。

時代とともに女性観、女性像というものも変化する。大衆小説としてのミステリは、その時代における女性というものを描いてきたし、また、これからも描いていくことになるだろうと思う。

2023年9月19日記

ザ・バックヤード「東洋文庫」2023-09-22

2023年9月22日 當山日出夫

ザ・バックヤード 東洋文庫

東洋文庫は、私の勉強してきた領域とかなりかかわりのある施設である。

これのもとは、岩崎家がモリソン文庫を入手したところから始まる。このあたりのことは、古典籍の勉強をしている人間なら、たいてい知っていることになるかと思う。たしかに、和漢洋の東洋学にかんする書物のコレクション、あるいは、東洋学の研究機関としては、世界有数の施設である。

番組では、一般に分かりやすい書物を見せていたと思うが、専門的にはもっと貴重で面白いものがたくさんある。

後半に登場していた、紙をマイクロスコープで拡大して研究する手法。これは、近年になってから非常にさかんになった研究方法である。紙(料紙)を研究することによって、その書物の成立、来歴に新たな光をあてることができるようになった。まさに、これからの研究分野である。

2023年9月21日記

雑談「昭和」への道「第四回 近代国家と“圧搾空気”〜教育勅語〜」2023-09-22

2023年9月22日 當山日出夫

司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第四回 近代国家と“圧搾空気”〜教育勅語〜

司馬遼太郎の話は、あっちこっちに行ったり来たりする。この回も、なるほどと思うところもある一方で、今一つ焦点の定まらないところがあった。

見ていて思うことはいくつかある。

明治憲法と教育勅語を並べて論じるということは、現在ではごく普通のことになっていると思うのだが、このような歴史観はいったいいつごろからのものなのだろうか。歴史学史には疎いので分からない。ただ、ここで司馬遼太郎が言ったことは、そうとっぴなことを語ったということではないと理解していいだろう。

その明治憲法と教育勅語が、江戸時代の朱子学の影響下にある。このあたりはどうなのだろうか。現代の研究ではどう考えられているのか、興味のあるところである。

司馬遼太郎が語りかけて(この回では)途中で止めてしまったのが、近代になってからの日本語の文章。確かに、正岡子規や夏目漱石より以前のことである。明治二二年、二三年というと、ちょうど二葉亭四迷が『浮雲』を発表していたころになる。二葉亭四迷については、司馬遼太郎は触れていなかった。無論、それより以前に福澤諭吉の『学問のすゝめ』は出ている。

個人的な思い出として書いてみれば、福澤諭吉の文章をどう考えるべきか、学生のときから、おりにふれて考えてみたことである。まあ、このことについては、特に深く研究を進めるということはなく、論文にしようと思ったこともない。このあたりのことは、近代の資料のデジタル化とコーパスの構築によって、これからの日本語の歴史的研究の一つの課題になるところである。もう私としては、新しい研究が出てくるのを眺めているだけ、ということでいいと思っている。

番組の冒頭で語っていた、坂東三津五郎の勧進帳と、京都府立一中にあった教育勅語のエピソードは面白い。私が通った小学校にも昔は、おそらく昔は奉安殿があったのだろうと思う。子供のころ、校内には二宮金次郎の像があって、学校に隣接して忠魂碑があった。

戦前まで各地の学校にあった教育勅語は、その後どうなっているのだろうか。教育勅語をどう評価するかという論点とは別にして、歴史の史料として、残すべきものであるにちがいない。残っていないならば、それは誰がいつどのようにして廃棄したのかも、興味あるところである。

2023年9月19日記

ブラタモリ「稚内」2023-09-21

2023年9月21日 當山日出夫

「流氷とけて 春風ふいて」

学生のころ、東京で一人暮らしをしていたとき、ラジオだけがあった。ラジオから流れてきた歌の歌詞であるが、今でも憶えている。「宗谷岬」である。

NHK的には、日本最北端を定義するのは難しいことなのかもしれないが、そこにあまりこだわってもしかたないだろう。番組のなかでは、北方領土ということばは使ってはいなかったが。

蝦夷錦は、知識として知っている。司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいると、何度か出てくる。それが、北方の交易ルートを通じて、清朝の衣服が日本にもたらされた経緯は、興味深い。

アイヌとの歴史をどうとらえるかも微妙な問題があるかとは思う。が、ここは、北海道のアイヌと松前藩に限定せずに、近世以前の北方の広い地域における、広大な交易圏を考えておくのがいいのかもしれない。(司馬遼太郎は、そのように考えているようだが。)

なるほど、樺太の一部は、かつて日本の領域であった。国境があった。そこを越えてソ連に行ったのが、岡田嘉子なのだが、この名前は出てこなかった。

ともあれ、最果てと言ってよい土地で、人びとがたくましくくらしているという印象で、番組は作ってあった。これはこれで一つの方針だろう。

ところで、稚内はホタテの産地であるとのことだったが、今現在はどうなのだろうか。ちょっと気になったところでもある。

2023年9月17日記

「カラーで蘇る古今亭志ん生」2023-09-20

2023年9月20日 當山日出夫

寄席にはまったく縁の無い生活をしている。しかし、落語には興味がある。いや、日本語の研究資料として、その価値はあると思っている。無論、それだけではなく、芸能としての落語も好きである。まあ、時々、テレビで見るぐらいではあるが。

古今亭志ん生は、名前は知っている。だが、その生の舞台を見たという経験はない。私が大学生になったころに亡くなっている。

番組は、一九五五年に収録したもののカラー化である。一九五五年というと、ちょうど私が生まれた年になる。そのときの映像が、今まで残っていたことに驚く。

昔の映像のカラー化ということについては、私はあまり賛同しない。基本は、その当時の技術で残されたものを、そのまま残すべきと思っている。

しかし、古今亭志ん生についていえば、今回のカラー化は成功していると思う。何よりリアルであり、芸能としての落語の魅力を高めるものになっている。歴史的な資料として見るよりも、純然と娯楽として見て、十分に堪能できるものになっている。

おそらく落語について詳しい人が見れば、いろいろとコメントなどあるのだろうと思う。だが、落語に素人の私としては、見て楽しめればいいと思って見た。

余計な感想かもしれないが、この演目、今の時代にそのまま演ずることは、ちょっと難しいかもしれない。「女、三界に家なし」など、今では使わないことばになってしまっている。今の若い人たちは、知らないだろう。その他、たぶん今の時代では普通には使わないだろうということばがいくつかあった。まあ、これなどは、ことばの資料としての価値ということにはなる。

ともあれ、古今亭志ん生が名人であるゆえんの一端に触れた感じがした。

2023年9月19日記