「地下鉄サリン事件 知られざる格闘の真実」2024-07-18

2024年7月18日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 地下鉄サリン事件 知られざる格闘の真実

一九九五年のこの事件のことは記憶している。その前年ぐらいから、オウム真理教をめぐって様々に報道があり、そのいくつかはテレビで見ていた。(事件の発端となった目黒の公証人役場の事件のことについては、学生のとき目黒に住んでいたので、テレビに映った映像を見て、あのあたりかななども思ったものである。)

その日、朝、テレビをつけたら何か東京で事件があったらしいというぐらいの認識であった。それが、オウム真理教のやったことがわかって一件落着となるのは、上九一色村で潜んでいた麻原彰晃(ATOKでは、この人名は変換してくれなかった)が捕まってからのことになる。

番組を見ながらいろいろと思ったことはある。

おそらく聖路加病院は大混乱だったにちがいない。たしか、この病院の場合、サリンに対する治療薬をストックして持っていたということが幸いしたかと、何かで見たと憶えているのだが、このあたりは実際はどうだったのだろうか。都会の普通の病院に大量にストックがあるような医薬品ではないだろう。サリンであるということを特定するプロセス、その治療薬を確保して使用にいたるプロセス、このことだけでもかなり興味深いところがある。

自衛隊の任務も命がけということになる。日頃の訓練のときから、自衛官は死というものを意識せざるをえない職業なのだが、もし、この事件のとき、自衛官に犠牲が出ていたら、日本の社会としてどう対応することになったろうか、考えてみることになる。(自衛官が靖国神社に参拝することが、問題視されるのが今の日本である。では、自衛官の信仰とか精神的よりどころとか、改めてきちんと考えておくべきことである。)

しかし、封印された命令書を勝手に開封していいのだろうか。もう退官したから、ということではあったろうが。

自衛隊が現場に向かうときの映像を見ると、前を警察のパトカーが走っていた。緊急事態であったも、自衛隊の車両がサイレンをならして優先的に通行できるという法的な制度になっていなかったはずである。(これは、いまではどうなっているのだろうか。)

犯人のひとりが、もとは東京大学で物理学を学んでいた(あるいは、研究していた)ということで、取りあげられていた。そのような人物が何故オウム真理教にのめりこんでいったのかは、謎ということなのだろうが、それよりも、岸田一隆のことばが印象に残る。宇宙の一三八億年の歴史は人間を抜きに語れる。その全体を理解するには、人間の脳の能力では限界がある。それは確かにそのとおりかと思う。

サイエンスという方法論で、この世の中の一切合切を理解できるのか、これは難しい問題をはらんでいるかと思う。ある立場としては、サイエンスというのは人間がこの世界を理解するための方法論の一つである、ということもできるだろう。サイエンスの認識、方法論、そして、その限界というものについて、科学者と一般の人びとの間で、どのような社会的合意がなりたっているのか、これは、これからの社会にとって、重要な課題であるにちがいない。

2024年7月17日記

「男子バスケ 世代を越えた逆転劇〜オリンピック 48年の挑戦〜」2024-07-18

2024年7月18日 當山日出夫

新プロジェクトX 男子バスケ 世代を越えた逆転劇〜オリンピック 48年の挑戦〜

もうじきパリでオリンピックである。それを意識しての企画なのだろうと思う。だが、たぶんバスケットの試合は見ないと思う。そもそも、オリンピック自体にほとんど興味がない。

バスケットボールについては、Bリーグというのがあるのは知っている。私の地元にもチームがあるので、夕方のNHKのローカルニュースの時間には、かならず取りあげられる。ただ、そのことを知っているだけのことである。

まあ、スポーツというと、プロ野球だけというような時代が長く続いてきたことを思うと、最近は風向きが変わってきた。といって、別にサッカーに興味があるということでもない。まあ、なんとなくプロ野球べったりの状態がいやなだけである。

ところで、番組であつかっていた、自力でのオリンピック出場は、これはこれとして関係者にとっては、非常に大きなことであるにちがいない。これは、日本の企業のあり方の問題でもある。有名で勝てるスポーツには、金を出すが、経営が苦しくなってきたら手をひく。それも、スポーツの競技大会などで、スポンサーとして企業名を多く目にするようになってきた。これも、世の中全体の意識の変化ということかとも思う。だが、その一方で、スポーツにからむ利権が大きな問題となったことは、前回の東京オリンピックのときのこととして記憶に新しい。

バスケットボールに身長別クラス分けというのは、どうしてないのだろうかとも思う。格闘技では、体重別に分けられている。バスケットボールとかバレーボールなど、身長別(チームの平均身長別)というようなルールがあってもいいようなものかもしれない。だが、これも、実際にプレーをしている選手にとっては、そんなことは関係なく、技術と体力の勝負ということなのかとも思う。

それにしても、この番組の作り方、昔昔のスポ根ドラマである。こういう作り方は、もう古いのではないかと思うが、どうだろうか。むしろ、近年のスポーツ科学の研究成果として、どんなトレーニングが有効なのか、というような観点をもっととりこんだほうがいいのではないかと思う。

2024年7月15日記

「シリーズ 知られざる島の歴史旅 (1)八丈島 絶海の孤島に流された武士」2024-07-17

2024年7月17日 當山日出夫

英雄たちの選択 シリーズ 知られざる島の歴史旅 (1)八丈島 絶海の孤島に流された武士

八丈島は、はっきりいって名前を知っているというだけの島である。流人の島であることは知っていたが、歴史の知識というよりは、時代小説などで憶えたことかと思う。「木枯し紋次郎」のシリーズに「赦免花は散った」というのがある。

宇喜多秀家は名前は知っていたという程度である。八丈島に流罪になったということは知らなかった。近藤富蔵のことは、この番組で知った。近藤重蔵の子どもである。『八丈実記』という本のことは、どこかで見たかと憶えているのだが、実際にどんな本で誰が書いたのかは、知らないでいた。

一八世紀から一九世紀、この時代について、「百科全書」の時代、と言っていたが、そういう見方もできるだろう。たしかに江戸時代、多くの記録や随筆というものが書かれた。一番有名なのは『北越雪譜』だろうか。日本の近世における、雑多な知的好奇心の一つの表れとみることもできるだろう。

この番組は、磯田道史の余談が面白い。京都の伏見の城下町の墓を調べると、成人男性の三分の二が性病にかかっていた。(典拠の論文を探してみようという気には、もうならないでいるので、そんなものかと見ていたのだが。)三密の状態で人が暮らせば、疫病からは逃れられない。それにくらべれば、八丈島はゆったりと生活することができる。まあ、たしかにそのとおりだろう。

他人のモノサシで自分を評価してはいけない。これもそのとおりである。

宇喜多秀家も近藤富蔵も、結局は八丈島で生涯を終えることを選択した。島には、それなりの魅力があったということになるのだろう。

ところで、八丈島は、どのような歴史のある島なのか、江戸時代はどのように統治されていたのか、人びとの生活はどんなだったのか……ということについては、まったく触れることがなかった。そのようなことは自分で調べてくださいということなのかと思うが、少しぐらい解説があってもよかったと思う。

2024年7月16日記

「調査報道 新世紀 File4 オンラインカジノ 底知れぬ闇」2024-07-17

2024年7月17日 當山日出夫

調査報道 新世紀 File4 オンラインカジノ 底知れぬ闇

オンラインカジノというものが、一般に知られるようになったのは、COVID-19のとき、山口県阿武町で給付金を四〇〇〇万円以上、誤送金してしまった事件のときだったと記憶する。このとき、金を受け取った男性は、それをオンラインカジノに使ったと言った。その後、普通にインターネットを見ていても、オンラインカジノの広告が出るようになった。今では見なくなったが。

まず、ギャンブル依存症というのが、ただの趣味や嗜好という範囲を超えて、脳の機能障害であり、治療すべき状態ということは、広く知られるべきだろう。

オンラインカジノの場合、スマホで出来る。これが、普通のというか、従来の賭博場であれば、そこに出かけて行かなければならない。これは、ある意味では、日常から離れた別世界として認識することになるので、意識の切り替えが可能なのだろう。しかし、日常的に手元にあるスマホでは、これから離れることは容易ではないだろう。

地中海のマルタで、カジノのディーラーとして働く日本人が多くいるということは、この番組で知った。まあ、円は安くなっているし、ワーキングホリデーというような感覚であるのかもしれない。

そもそも、ギャンブルというのは、胴元が絶対に損をしないように設計されているものだというのは、常識的なことだろう。それが、コンピュータが介在するようになれば、純然と乱数で作られているとは、信じられない。恣意的な操作があることは、容易に想像がつく。

ギャンブルは、全体として見れば、客が損をして、胴元がもうかるものであるというは、古今東西にわたっていえることのはずである。まあ、なかには、たまたま運がよくて儲ける人もいるかもしれないが。

日本から巨額のお金がオンラインカジノを通じて、外国に流れていくということも、大きな問題かもしれない。だからといって、日本にもカジノを作って逆に海外の客を相手に儲ければいいということにはならないが。(まあ、大阪には作るらしいが、しかし、儲けの多くは海外の運営会社に持っていかれるにちがいない。)

それから、番組の趣旨とはまったく関係ないのだが、いや、これがむしろ私の専門領域のことになるのだが、「賭」という漢字の字体が揺れていた。NHKは、あまり気にしていないようである。

2024年7月11日記

「岐阜・長良川 流れを見つめながら」2024-07-16

2024年7月16日 當山日出夫

ドキュメント72時間 岐阜・長良川 流れを見つめながら

ただ何をするともなく、ぼんやりと川の流れを眺めている、それだけのことである。

今の時代、何か目的をもって行動しなければならない、価値のあることをしなければならない、という強迫観念のようなものが強くある。そのようなものから解き放たれて、特に目的があるではなく、時間をすごす、そのようなことがあっていい。

この前の、日本海のフェリーで海を眺めている人とか、去年だったろうか、琵琶湖の湖岸のベンチで湖面を見ているだけの人とか、さらに、そういう人の様子を見ているだけの人がいる、世の中こんなもんでいいのである、そう思うことにする。あまり効率とか、コスパとか、求めているとやはり人間は疲れてくるものである。

たまたまそういう編集にしてあったのかとも思うが、スマホの画面を見ているという人はいなかった。流れる川面をぼんやりと眺めている方が、人間の精神にとっては生産的な時間なのかもしれない。

2024年7月15日記

『光る君へ』「宿縁の命」2024-07-15

2024年7月15日 當山日出夫

『光る君へ』「宿縁の命」

う~ん、これまで大弐三位の父親は、藤原宣孝だと思ってきたのだが、はたして実際はどうだったのか。

まあ、平安時代の貴族のことである。現代の我々のような、厳格な一夫一婦制のもとでの、夫婦関係、親子関係を考えるべきではない、ということになるのだろう。そういえば、『源氏物語』でも、光源氏は結構いろんな女性に手を出している。いわゆる「いろごのみ」である。この場合、光源氏のいいところは、相手にしたどの女性についても、その後の面倒をきちんと見ていることである。この意味では、宣孝は光源氏に重なるところがある。

このドラマをこれまで見てきて、なるほどなあと思っているのが、詮子である。詮子と一条天皇のシーンは迫力があった。このような女性がいて、一条天皇がいて、ということになる。そして、これからの展開としては、彰子がその後の朝廷に君臨することになる、ということでいいのかなと思う。まだ、今の段階で彰子はその片鱗も見せていないが。

彰子の入内のシーンで牛車が映っていたが、これまでドラマのなかで牛車はほとんど登場してきていない。花山院が矢を射かけられる場面では出てきていた。牛車というのは、平安時代の貴族の生活を考えるとなくてはならないものだと思っているのだが、これはドラマ制作の予算の関係だろうか、ほとんど出てこない。賀茂の祭りのときの、牛車の争い……『源氏物語』に描かれる……など期待したところだが、難しいのかもしれない。

それにしても、まひろの家についてかねてから思っているのだが、あんなに水のすぐ上に建物を建てていて、大丈夫なのだろうか。前回の鴨川の洪水のときには、被害にあった。それもあるが、普段からあんなに湿気たところでは、建物がもたないと感じざるをえないのだけれど。

それから、彰子のところで、「閨房」と何度も言いすぎのように思うが、どうなのだろうか。

猫が久しぶりに登場してきていた。親(母親)の影響だろうか。入内するとき、猫は連れていけたのか。

出産のとき、定子の場合とまひろの場合とで、読経などの格差があるのは、そうかなと納得するところがあった。まあ、どちらも無事に産まれてよかったが。

出てくるだろうかと思って見ているのが、「六の宮の姫君」。芥川龍之介が小説に書いたので有名だが、もとの話しは、『今昔物語集』にある。頼った男に捨てられ哀れな最期をむかえることになる女性の話が、このドラマのなかに登場してきていてもいいように思う。

藤原実資は何事においても先例主義である。一方、安倍晴明は先例がなければ作ってしまえばいいという。このふたりが登場すると、このドラマは面白い。

2024年7月14日記

『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」2024-07-14

2024年7月14日 當山日出夫

『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」

あいかわらずこのドラマは視聴率はいいようであるし、SNSでは絶賛されている。それを見ていると、これまで朝ドラは見ていなかったが、このドラマは見ているというものがある。このような人たちをふくめての視聴者、視聴率ということになる。

私の感じるところとしては、特にきわだって面白いとは思わない。そんなにつまらないとも思わない。朝ドラとしては、普通の出来だと思っている。ただ、このドラマは、これまでの朝ドラとは違う作り方を考えて作ってあると感じるところはある。

SNSなどでは、あまり話題になっていないようなことについて、私の思うところを書いてみたいと思う。

大きなドラマの流れとしては、前の週で、ボスを倒して、新たなステージにはいったことになる。ボスは、この場合、穂高先生に設定されていた。ステージを新たにして、新たなパワーを得るために、アメリカに行ってくることになる。そして、イニシエーション(通過儀礼)を経て、生まれかわってさらにパワーアップして、次の段階をめざして旅に出る。イニシエーションは、この場合は家族会議による自己否定(これは擬制的な死でもある)である。擬死から再生して、次の目的地(新潟)へと旅立つ。

非常に分かりやすい物語の作り方である。あまりにも分かりやすいので、なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもない。ほら、みんなが昔遊んだゲームとおんなじでしょ……と。

かつての自分の恩師が、成長したのちには、倒すべき宿敵として現れることになる、どこかで見たと思ったら、『オードリー』のなかの映画で、この設定が使ってあった。はっきりいって、『寅に翼』は昔のチャンバラ時代劇映画をなぞっているである。だから、分かりやすい。いろいろ新機軸で作ってあるドラマでありながら、意外とオーソドックスというかステレオタイプの作り方になっている。

ところで、ラジオ番組で寅子が言っていたことは、かなり重要である。最高裁長官が、家庭裁判所の仕事は女性にふさわしいと言ったのに対して、寅子は、全面的に否定する。ここで、ラジオの放送で家裁の判事補が最高裁長官にまっこうから反論するということの是非はおいておく。それよりも重要なことは、寅子は、家裁の仕事に男性女性の区別は関係ないと言っていた。その人間の適性で判断されるべきであると。

これは、裁判官として適切な仕事ができるなら、別に全員が男性であってもかまわない、あるいは、逆に女性ばかりであってもかまわない、ということになる。これは、一般に同意できることだろうか。

機会の平等が保証されているのならば、結果の平等は特に重要ではない、ということになる。機会の平等と結果の平等、これは重要な論点である。機会の平等は社会のなかで制度的にはっきりしていることであるが、結果の平等とはどのような状態であるのか、難しい問題をふくむかもしれない。単純に考えれば、結果的にも男女同数という形になるが、実際にはなかなかそうはならない。だからこそ、「ガラスの天井」として問題になる。そして、場合によっては強引なアファーマティブアクションの導入ということもある。

このような重要な問題をふくむ発言であったのだが、この論点をめぐって、このドラマをめぐる話題として大きく取りあげられることはなかったようである。これは何故なのだろう。女性の社会進出をめぐっては、今でも大きな論点となるところなのだが、ドラマのなかでは、寅子が最高裁長官にたてついたというエピソードで終わってしまっていた。

また、寅子が担当した離婚裁判。寅子は、男女平等にあつかって判断しますということを言っていた。裁判官が女性であるからといって、妻に有利になるようなことはない、と。

これはたしかにそのとおりのまさに正論である。しかし、男性と女性とで、微妙な心情の理解ということになると、違いがまったくないといっていいだろうか。このあたりは、男女の平等ということと関係して、かなりややこしい議論があることかもしれないと思うのだが、ドラマのなかでは、特にさらにつっこんで考えるという方向にはむかっていなかった。ここでは、最高裁長官が言った、女性の考え方や発想という観点が意味をもつかもしれないという部分である。

現代、首相が女性閣僚の任命のとき、女性ならではの感性、と言っただけで批判される時代である。見方によっては、一種のタブーになっている論点かもしれない。

その一方で、女性の医師であることを求める女性がいることも事実である。女医と書いてある看板は目にする。あるいは、女性であることを明示してあるような弁護士事務所の広告なども目にする。これは、社会の人びとの意識が遅れていると言っていいことになるのだろうか。

それから、戦後まもなくの離婚裁判である。決して男女は平等ではない。その数年前まで、姦通罪などがあったことになる。また、売春も違法ではなかった。このような時代背景を考えるならば、妻の不貞を、夫の場合とまったく同等に考えることは妥当なことなのだろうか。どちらに厳しくあるべきかということではなく、法的な平等と、人びとの意識においてどうであったかはまた考えるべきことかもしれない。その後、不貞が原因で離婚した男性が再婚するのと、女性の場合とでは、同じであるということでいいだろうか。

このときの寅子の語った、法の下の平等ということは、社会的な不平等を前提にした、あるいは、無視したことではなかったろうか。寅子は、このことについて考えた形跡はなかった。

ドラマは、不満を持った妻が剃刀をふりまわす、裁判所内での傷害未遂事件として終わってしまうことになっていた。そして、その結果、寅子は裁判官として法律的に判断を下すことなく終わった。このドラマでは、極力、寅子に法律的な判断をさせないように作っているようである。これで、リーガルエンターテイメントと言っていいのだろうか。

さらに、このような観点(この時代の男女の非対称性)から考えてみるならば、このドラマで、パンパン(占領下で主に米兵相手の街娼である)が出てきていないということは、考えてみるべきことだと思う。これまでの朝ドラで、パンパンが出ることは珍しいことではない。『虎に翼』の前作『ブギウギ』では、ラクチョウのおミネ、として登場して重要な役割であった。ちょっとさかのぼれば、『カーネーション』でも登場してきていた。特にドラマのなかで役が割り当てられているということではなくても、戦後の闇市の風景のなかに、見るからにそれとわかる派手な洋装の女性が映っていることはかなりあった。逆に、このような女性をまったく映さない戦後の街を映した作品もあった。これは、脚本、演出の方針なのであろう。

だが、今回の『虎に翼』では、パンパンは登場させるべき、すくなくとも、画面に映すべきだったと、私は思っている。なぜなら、このような女性たちこそ、いわゆる透明な存在として、寅子には見えなかった可能性があるからである。この時代、パンパンなどは違法ではなかった。だから、犯罪者として、少女であっても家庭裁判所の保護の対象となる少年としてはあつかわれることはなかった。寅子の家に道男がころがりこんできたのは、窃盗などの法律に規定された犯罪をおかしたからである。もし、少女が売春をしていたとしても、寅子にとっては、犯罪をおかしたという目で見ることはなかったはずである。逆に、自分で自立して仕事をして稼いでいたということになる。

無論、売春はほめられたことではないし、また、戦前からあった廃娼運動ということも考えなければならない。だが犯罪ではない以上、法律ではどうすることもできない。

はたして、街をあるく寅子には、パンパンの女性たちはどのようなものとして見えていたことになるのだろうか。ここは、是非ともドラマのなかに描いておいてほしかった部分である。街角にたたずむ少女のそばを、まったく無視して通り過ぎるのでもいい、あるいは、ちょっといやな顔をしてみせるのもいい、この少女たちをどうすることもできないのが法律であると、その限界を心のどこかで感じる寅子の姿を、伊藤沙莉なら演じてみせることができたはずである。

女性の権利、社会進出、ということをメッセージとして打ち出そうとしている、このドラマであるこそ、画面に一瞬でもいいから映しておくべきだったと私は思うのである。傷痍軍人に小銭をめぐむが、パンパンには気づかない(透明な存在)。そんな寅子であってもいいではないだろうか。寅子の人権意識は万能ではなかったかもしれない。そのような時代であったのである。傷痍軍人は映すが、パンパンは映さないという考え方には、私は同意できない。

このドラマは、戦後になってから世相を表現しなくなっている。戦前までは、ラジオのニュース、新聞などで、世相や歴史の流れを描いていた。戦後になって、東京裁判も、サンフランシスコ講和条約(日本の独立)も、朝鮮戦争も、まったく出てきていない。これはどうしたことなのだろうと思う。

世相を描くことがあってこそ、崔香淑/汐見香子のことも、よりいっそうきわだってくる。朝鮮戦争のことを報じる新聞記事が画面に映ることぐらいあってもよかったと思う。(だが、崔香淑の朝鮮での出自、社会的階層、出身地によっては、日本での暮らしも安心できるものではなかったかもしれない。だからこそ、日本で汐見香子として生きていくことになったのだろうが。)

私にとって、『虎に翼』は、朝鮮人女性が登場したドラマであるとともに、パンパンの登場しなかったドラマとして記憶することになると思う。

さて、次週以降、新潟に舞台を移して新たなステージなる。どんなドラマになるか期待して見ることにしよう。

2024年7月13日記

「課外授業ようこそ先輩 みんな生きていればいい」2024-07-13

2024年7月13日 當山日出夫

時をかけるテレビ 課外授業ようこそ先輩 みんな生きていればいい

思うことはいくつもある。だが、ここでは次のことだけを書いておきたい。

この番組を見て、私がテレビの画面で見ていたのは、福島智の横に座っている指点字通訳の人だった。

他者とのコミュニケーションの重要性はそのとおりである。この場合、ひょっとすると誤解や思い違いであるのかもしれないが、自分が他者とコミュニケーションできている、少なくとも、その可能性のある状態にあることを自覚できること、ということになるだろうか。さらにいえば、その場合の他者とは、現に生きている人間だけに限らず、過去の死者たちであるかもしれない。

このように一般化はしてみるものの、さしあたって自分のとなりに人がいて、その声が聞こえ、姿が目に見え、あるいは、その存在の気配を感じることができる……この原初的な感覚が基本となることはたしかだろう。

最初に書いたように、番組を見ながら気になったのは、番組の内容からはすこしはずれたところになるかもしれないが、福島智の横にいて指点字で通訳している人の、所作とか表情や視線の動きである。人がコミュニケーションを求めてきたときに即座に対応できるというのは、こういうふるまいのことなのかと、思うところがあった。(この意味では、最近のSNSでの、自分とは異なる立場の人への非難合戦は、本来の意味での人間のコミュニケーションとは対極的なあり方だと思わざるをえない。)

2024年7月12日記

「東京 戦後ゼロ年」2024-07-13

2024年7月13日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 「東京 戦後ゼロ年」

昭和二〇年の終戦後、いわゆるパンパンといわれた女性たちがいたことは、広く知られていることである。これも、時代の流れとともに移り変わっている。かつては、そのような女性たちがいたことは周知の事実であったがゆえに、特にことさら表だって言うことは避けていた雰囲気があった。それが、忘れられようとする時代になると、逆に、そのような女性たちがいたことを、ことさら表面に出して語る傾向になる。(この意味では、従軍慰安婦をめぐる言説もこのような流れのなかでとらえることもできる。)

『星の流れに』(菊池章子)を知っている人は、いまどれぐらいいるだろうか。(わたしが持っているのは、ちあきなおみがカバーしたものであるが。)

アメリカの軍人相手の女性たちについて、カラーの映像で見るのは初めてかもしれない。番組で使っていたのは米軍側の映した映像資料であるが、このときに考えなければならないことは、なぜそのような女性たちが被写体として映っているのか、ということでもある。映像資料の社会的歴史的文化的な観点からの意味ということになる。

それから、このような女性たちが着物姿であったことも気になった。一般に、パンパンというと、派手な洋装をイメージすることが多いかと思うのだが、そのようなパンパンのイメージは、どのようにして形成されてきたものなのか、これはこれとして興味深いことである。

ラクチョウのお時の街頭でのインタビュー音声が残っている。パンパンは、当時の価値観において決して良い仕事ということではなかったけれども、違法であったわけではない。

闇市で売られていた品物はいったいどこからやってきたのだろうか。そのかなりは隠匿物資であったことになるが、戦時中のいろんな物資の管理や流通は、実際どうなっていたのだろうか。様々なとこころに隠されていたのだろう。

海から引き上げられた金塊は、その後いったいどうなったのだろうか。

闇市のカラー写真が残っていることは興味深い。何がどんな値段で売られていたのか、もっと分かると面白い。

戦後の人びとの生活というと、私は、『名もなく貧しく美しく』(松山善三)を思い出す。若いとき映画館で見た。

ただ、このような番組を作るとき、どうしても残っている映像資料に依拠することになる。そのため、都市部の人びとの生活を映すことになる。タイトルがまさに「東京 戦後ゼロ年」である。これはこれでいたしかたのないことではあるが、では、都市部以外、地方の農村などではどうだったのだろうか、ということも気になることである。

坂口安吾の『堕落論』を読んだのは、高校生のころだったろうか。

八月一五日の玉音放送のシーン。野外で人びとは起立して聞いていた。しかし、玉音放送の昭和天皇のことば(音声)だけで、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになった、ということを理解できたのだろうか。この意味では、終戦のことを伝えるニュース映画があったことは、なるほどそうなのだろうと思う。八月一五日の玉音放送以外、NHKではどのような放送をしたのか。また、新聞はどうだったのか。おそらく、研究されていることかもしれないが、一般的な書物では分かりにくいことである。

2024年7月11日記

「深圳のハゲタカ」2024-07-12

2024年7月12日 當山日出夫

BSスペシャル 深圳のハゲタカ

今の中国の一面を描いていたと感じる。

場所は深圳。中国におけるハイテク産業の街である。そこでも中国経済の不況の影響がある。飲食店の閉店があいついでいる。全国展開のスーパーマーケットが閉店する。(これは、ネット通販の普及、配送サービスということもあり、これはこれで興味深いことであるが。)

この街の中古の厨房機器とりあつかい業者のことだった。

中国経済が不況になったらなったでしたたかに生きていく中国人のたくましさ、というものを感じる。たぶん、これから中国経済が破綻することがあったとしても、このようなビジネスに生きる人びとは、しぶとく生きのびていくにちがない。

また、中国ならではというべき、商売の交渉のあり方をかいまみるところもあった。本心かどうかはわからないが、ビジネスではない、友情なのだ……ということを言っていた。さて、どこまで信用していいのか。

それにしても、深圳の街でも廃墟となった建築がたくさんある。ということは、この建設にたずさわった労働者たち……その多くは農民工なのだろうが……の生活はどうなっていくのだろう。この番組ではここのところに触れることはなかったが、失業者問題が、国家のゆくすえにかかわることは、歴史から学ぶことである。

四〇円のビールというのは、どうなのだろうか。すさまじいデフレというべきだろうか。

どうでもいいことだが、番組に映っていたもののなかで、日本のものというとカシオの電卓だけだった。載っている自動車は、アウディとポルシェだった。

2024年7月8日記