『カムカムエヴリバディ』「1962-1963」「1963-1964」 ― 2025-02-09
2025年2月9日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1962ー1963」「1963ー1964」
この週は、るいとジョーの関係が深まる展開になり、金曜日に放送の回で、ジョーがるいとの結婚の意思を、竹村クリーニング店の夫婦に伝える、ということになった。
印象的なシーンがいくつかある。
海岸にるいとベリー、そして、ジョーとトミーで、ドライブに出かける。四人の登場人物の海辺での会話のやりとりで、それぞれが、それぞれの気持ちに気づいていくという運びになっていた。
ジョーがトランペットのコンテストに出場するための衣装選びを、るいと一緒にするシーン。最後の、試着室での場面は、実にたくみである。
Night and Day でのコンテスト。このとき、テレビの画面では、ステージでの演奏と、映画……モモケンと虚無蔵が出ている……が、切り替わる演出になっていた。これは、このドラマが、これから京都に舞台を移して、映画村や撮影所、時代劇の役者たち、こういう人びとを描くことになる、非常にたくみな伏線になっている。なるほど、殺陣のこのシーンが、これからドラマのなかでどう使われることになるのかと、思って見たことになる。
コンテストに着る衣装を汚してしまったジョーは、るいに洗濯を頼むことになる。楽屋で待っているジョーの姿と、店で洗濯の仕事をするるいの姿が、印象に残る。このドラマの良さの一つは、仕事をする人間の動作を具体的に描いていることである。るいの仕事をする姿を描くことを通じて、るいのジョーに対する思いが、画面で表現されていたと感じる。
ジョーは、クリーニング店を訪れて、竹村夫妻に、るいと結婚することを許してほしいと告げる。このとき、ジョーと竹村夫妻の前で、るいが畳のうえでお辞儀をするのだが、その動作がきれいである。るいの気持ちが表現されていると同時に、そのお辞儀の動作で、るいが岡山の雉真の家できちんとしたしつけを受けて育ってきた娘であったことが、分かる。
岡山の定一の喫茶店、ディッパー・マウス・ブルースにいた少年は、ジョーであったことが明らかになる。このとき、安子とるい、それから、ジョーが、同じ店のなかにいて、「On the Sunny Side of the Street」を聞いていたことになる。この曲は、やはりるいにとっても、ジョーにとっても、特別な曲である。
2025年2月7日記
『カムカムエヴリバディ』「1962ー1963」「1963ー1964」
この週は、るいとジョーの関係が深まる展開になり、金曜日に放送の回で、ジョーがるいとの結婚の意思を、竹村クリーニング店の夫婦に伝える、ということになった。
印象的なシーンがいくつかある。
海岸にるいとベリー、そして、ジョーとトミーで、ドライブに出かける。四人の登場人物の海辺での会話のやりとりで、それぞれが、それぞれの気持ちに気づいていくという運びになっていた。
ジョーがトランペットのコンテストに出場するための衣装選びを、るいと一緒にするシーン。最後の、試着室での場面は、実にたくみである。
Night and Day でのコンテスト。このとき、テレビの画面では、ステージでの演奏と、映画……モモケンと虚無蔵が出ている……が、切り替わる演出になっていた。これは、このドラマが、これから京都に舞台を移して、映画村や撮影所、時代劇の役者たち、こういう人びとを描くことになる、非常にたくみな伏線になっている。なるほど、殺陣のこのシーンが、これからドラマのなかでどう使われることになるのかと、思って見たことになる。
コンテストに着る衣装を汚してしまったジョーは、るいに洗濯を頼むことになる。楽屋で待っているジョーの姿と、店で洗濯の仕事をするるいの姿が、印象に残る。このドラマの良さの一つは、仕事をする人間の動作を具体的に描いていることである。るいの仕事をする姿を描くことを通じて、るいのジョーに対する思いが、画面で表現されていたと感じる。
ジョーは、クリーニング店を訪れて、竹村夫妻に、るいと結婚することを許してほしいと告げる。このとき、ジョーと竹村夫妻の前で、るいが畳のうえでお辞儀をするのだが、その動作がきれいである。るいの気持ちが表現されていると同時に、そのお辞儀の動作で、るいが岡山の雉真の家できちんとしたしつけを受けて育ってきた娘であったことが、分かる。
岡山の定一の喫茶店、ディッパー・マウス・ブルースにいた少年は、ジョーであったことが明らかになる。このとき、安子とるい、それから、ジョーが、同じ店のなかにいて、「On the Sunny Side of the Street」を聞いていたことになる。この曲は、やはりるいにとっても、ジョーにとっても、特別な曲である。
2025年2月7日記
『カーネーション』「あなたを守りたい」 ― 2025-02-09
2025年2月9日 當山日出夫
『カーネーション」 「あなたを守りたい」
この週から、娘たち、優子、直子、聡子、がドラマの表舞台に登場することになる。
直子は、賞をとって服飾デザイナーとして認められ、東京のデパートで自分の店を持つことになる。しかし、その発想が奇抜すぎて、お客さんの反応は今一つである。それを見かねた糸子が何とかしようとするが、最終的には、優子が東京に行って直子の店を手伝うことになる。
女性のファッションにはほとんど関心の無い生活を送ってきたのだが、その当時のこととして、最新の流行のデザイン……それが、パリのデザイナーの発案になるものであったとして……それを、そのまま使って洋服を作るということが、どれぐらいあったのか、という気はしている。最新のヨーロッパのファッションは、それはそれとして、それをどう日本の生活の中にアレンジして着こなすか、というあたりが、この時代の日本の服飾デザイナーに求められたことではなかったろうか、という気がしている。
直子のデザインは、確かにいいものにはちがいないが、商品として売るには、お客さんの好みにあわせてどうアレンジするか、ということがポイントになる。ここのところが分かっているのが、優子ということになる。ここは、岸和田の店で、母親の糸子を手伝いながら、たたき込まれたという経緯があってのことである。
ドラマでは、糸子は常に世界で最新のファッションに追いつこうとしている。そうして頑張ってきた糸子であるが、自分の娘の直子のデザインを理解しているかというと、かならずしもそうではない。これは、世代の差というか、時代の流れである。言いかえれば、人間は時代の流れの中で、年をとっていくということである。このことを、このドラマは、正面からきちんと描いている。
朝ドラでは、女性の半生記というようなことが多いのだが、人間が年をとり、時代も変化していくものであるということを、きちんと描いたドラマは、希かもしれない。今、再放送している『カムカムエヴリバディ』は、三代にわたる家族の物語だが、世代ごとのものの考え方の変化、時代の移り変わりを、たどっている。かならずしも、古い考え方だとして、昔の人を否定的に見るということにはなっていない。
『カーネーション』を見ると、糸子は、時代の流れのなかで遅れつつあるのかもしれないが、それでも、常に最新の情報を得ようとしているし、自分のセンスと、娘たちの新しい時代のセンスが、変化してきていることを、実感している。この変化を、特に是非を論ずるのではなく、そういう時代の流れであるという視点で描いている。ある時代、ある世代には、その時代の考え方やセンスがある、ということを肯定的に描いている。
思いおこせば、父親の善作は、家父長制的暴君であったということにもなるが、それを、その時代における一つの人間の生き方として描き、否定するということはしていない。その時代に生まれ、その時代に育った人間は、そのように生きるものなのである、という肯定的な発想が根底にある。
商店街の変化もそうである。安岡の髪結い店は美容室になったし、隣の電器屋はアメリカの雑貨店になった。これも、時代の変化である。
組合長(近藤正臣)が、いい雰囲気である。この時代、昭和三〇年代ぐらいまでは、このような長老というか、地域の大人というべき人がいて、その社会の調整にあたっていたということになる。それが、急速に失われていくことになるのが、その後の日本の社会である。次の世代としては、糸子や北村のような人間であり、さらにその次の世代として、優子や直子の時代ということになる。
時代による社会の変化や、人びとのものの考え方の世代による違い、ということを、対立的にではなく、親和的な視点で見ている。こういうところが、このドラマが、多くの世代の支持を得て名作とされるゆえんであろう。
さりげない描写だが、喫茶店の太鼓の店内で、カウンターの向こう側で動いている人の姿が、きちんと画面に映っている。無言ではあるが、仕事をしている人の姿であり、また、店を引き継いだ米の姿だったりするが、こういうところの描写がとてもいい。また、糸子がミシンを使っている描写がある。仕事をする女性としての糸子を、その仕事をする姿を通じて描いている。
2025年2月8日記
『カーネーション」 「あなたを守りたい」
この週から、娘たち、優子、直子、聡子、がドラマの表舞台に登場することになる。
直子は、賞をとって服飾デザイナーとして認められ、東京のデパートで自分の店を持つことになる。しかし、その発想が奇抜すぎて、お客さんの反応は今一つである。それを見かねた糸子が何とかしようとするが、最終的には、優子が東京に行って直子の店を手伝うことになる。
女性のファッションにはほとんど関心の無い生活を送ってきたのだが、その当時のこととして、最新の流行のデザイン……それが、パリのデザイナーの発案になるものであったとして……それを、そのまま使って洋服を作るということが、どれぐらいあったのか、という気はしている。最新のヨーロッパのファッションは、それはそれとして、それをどう日本の生活の中にアレンジして着こなすか、というあたりが、この時代の日本の服飾デザイナーに求められたことではなかったろうか、という気がしている。
直子のデザインは、確かにいいものにはちがいないが、商品として売るには、お客さんの好みにあわせてどうアレンジするか、ということがポイントになる。ここのところが分かっているのが、優子ということになる。ここは、岸和田の店で、母親の糸子を手伝いながら、たたき込まれたという経緯があってのことである。
ドラマでは、糸子は常に世界で最新のファッションに追いつこうとしている。そうして頑張ってきた糸子であるが、自分の娘の直子のデザインを理解しているかというと、かならずしもそうではない。これは、世代の差というか、時代の流れである。言いかえれば、人間は時代の流れの中で、年をとっていくということである。このことを、このドラマは、正面からきちんと描いている。
朝ドラでは、女性の半生記というようなことが多いのだが、人間が年をとり、時代も変化していくものであるということを、きちんと描いたドラマは、希かもしれない。今、再放送している『カムカムエヴリバディ』は、三代にわたる家族の物語だが、世代ごとのものの考え方の変化、時代の移り変わりを、たどっている。かならずしも、古い考え方だとして、昔の人を否定的に見るということにはなっていない。
『カーネーション』を見ると、糸子は、時代の流れのなかで遅れつつあるのかもしれないが、それでも、常に最新の情報を得ようとしているし、自分のセンスと、娘たちの新しい時代のセンスが、変化してきていることを、実感している。この変化を、特に是非を論ずるのではなく、そういう時代の流れであるという視点で描いている。ある時代、ある世代には、その時代の考え方やセンスがある、ということを肯定的に描いている。
思いおこせば、父親の善作は、家父長制的暴君であったということにもなるが、それを、その時代における一つの人間の生き方として描き、否定するということはしていない。その時代に生まれ、その時代に育った人間は、そのように生きるものなのである、という肯定的な発想が根底にある。
商店街の変化もそうである。安岡の髪結い店は美容室になったし、隣の電器屋はアメリカの雑貨店になった。これも、時代の変化である。
組合長(近藤正臣)が、いい雰囲気である。この時代、昭和三〇年代ぐらいまでは、このような長老というか、地域の大人というべき人がいて、その社会の調整にあたっていたということになる。それが、急速に失われていくことになるのが、その後の日本の社会である。次の世代としては、糸子や北村のような人間であり、さらにその次の世代として、優子や直子の時代ということになる。
時代による社会の変化や、人びとのものの考え方の世代による違い、ということを、対立的にではなく、親和的な視点で見ている。こういうところが、このドラマが、多くの世代の支持を得て名作とされるゆえんであろう。
さりげない描写だが、喫茶店の太鼓の店内で、カウンターの向こう側で動いている人の姿が、きちんと画面に映っている。無言ではあるが、仕事をしている人の姿であり、また、店を引き継いだ米の姿だったりするが、こういうところの描写がとてもいい。また、糸子がミシンを使っている描写がある。仕事をする女性としての糸子を、その仕事をする姿を通じて描いている。
2025年2月8日記
『おむすび』「おむすび、管理栄養士になる」 ― 2025-02-09
2025年2月9日 當山日出夫
『おむすび』「おむすび、管理栄養士になる」
突然、結が管理栄養士になって活躍する。
褒めるところとしては、本来の朝ドラのテイストというのは、こんなもんだったということになる。特別に面白い展開ということでもないし、逆に、特段につまらないということもない。朝の決まった時間に放送する、時計代わりのドラマとは、そもそもこんなものなのである。その本来の姿を見せてくれているということになる。
病院の仕事、そのなかでの管理栄養士の仕事とはどんなものなのか、ちょっと説明的にすぎる感じではあるが、まあ、ドラマで描くとなるとこんなものだろうとも思う。週の終わり、金曜日になって、一件落着でおさまるというのも、これはこれで安心して見ていられる。
しかし、不満が無いわけでもない。
管理栄養士になって病院に勤務するというのは、かなり無理がある。これまで、結が栄養士になったのは何だったのか、という気がしてくる。ドラマとして、管理栄養士になって仕事をするという筋ならば、始めから結は四年生の大学に入学して、まず、栄養士の資格を取り、そのうえで管理栄養士の試験の受験資格を得る、というふうにした方がよかった。(たぶん、世の中の管理栄養士の多くは、こういうルートで勉強しているはずである。結のような例があることは確かであるけれど。)
栄養士の専門学校の同級生で、卒業後に病院勤務となった友達がいたはずだが、ここは、病院で仕事をするとしても、栄養士と管理栄養士で、どのような仕事ができるのか、できないのか、ということをきちんと説明しておくべきところである。そうでないと、何故、結が管理栄養士の資格を目指したのか、説得力を持って描くことができないことになる。
もし四年生の大学で管理栄養士を目指していたら、その進路としては、病院以外にも、食品関係の会社とか、教員(栄養教諭)の道があることになり、学生生活でのことを描くと同時に、様々な仕事を通じて、今日の社会のいろんな問題を、ドラマのなかに取り込むこともできたはずである。
それにしても、娘の花が生まれてからこのかた、糸島の祖父母のことが出てきていない。どうしているのだろうか。また、結は、糸島で農業の経験があることになっているはずだが、この設定が、栄養士や管理栄養士の仕事に、そんなに生かされているとは感じられない。
番組制作のセット制作の都合かもしれないが、ヨネダの理容店で、商店街の人たちがたむろするのは、どうかなと思う。店がよほどひまなのか、あるいは、そんな店だからお客が来ないのか、と考えてしまうことになる。
2025年2月7日記
『おむすび』「おむすび、管理栄養士になる」
突然、結が管理栄養士になって活躍する。
褒めるところとしては、本来の朝ドラのテイストというのは、こんなもんだったということになる。特別に面白い展開ということでもないし、逆に、特段につまらないということもない。朝の決まった時間に放送する、時計代わりのドラマとは、そもそもこんなものなのである。その本来の姿を見せてくれているということになる。
病院の仕事、そのなかでの管理栄養士の仕事とはどんなものなのか、ちょっと説明的にすぎる感じではあるが、まあ、ドラマで描くとなるとこんなものだろうとも思う。週の終わり、金曜日になって、一件落着でおさまるというのも、これはこれで安心して見ていられる。
しかし、不満が無いわけでもない。
管理栄養士になって病院に勤務するというのは、かなり無理がある。これまで、結が栄養士になったのは何だったのか、という気がしてくる。ドラマとして、管理栄養士になって仕事をするという筋ならば、始めから結は四年生の大学に入学して、まず、栄養士の資格を取り、そのうえで管理栄養士の試験の受験資格を得る、というふうにした方がよかった。(たぶん、世の中の管理栄養士の多くは、こういうルートで勉強しているはずである。結のような例があることは確かであるけれど。)
栄養士の専門学校の同級生で、卒業後に病院勤務となった友達がいたはずだが、ここは、病院で仕事をするとしても、栄養士と管理栄養士で、どのような仕事ができるのか、できないのか、ということをきちんと説明しておくべきところである。そうでないと、何故、結が管理栄養士の資格を目指したのか、説得力を持って描くことができないことになる。
もし四年生の大学で管理栄養士を目指していたら、その進路としては、病院以外にも、食品関係の会社とか、教員(栄養教諭)の道があることになり、学生生活でのことを描くと同時に、様々な仕事を通じて、今日の社会のいろんな問題を、ドラマのなかに取り込むこともできたはずである。
それにしても、娘の花が生まれてからこのかた、糸島の祖父母のことが出てきていない。どうしているのだろうか。また、結は、糸島で農業の経験があることになっているはずだが、この設定が、栄養士や管理栄養士の仕事に、そんなに生かされているとは感じられない。
番組制作のセット制作の都合かもしれないが、ヨネダの理容店で、商店街の人たちがたむろするのは、どうかなと思う。店がよほどひまなのか、あるいは、そんな店だからお客が来ないのか、と考えてしまうことになる。
2025年2月7日記
サイエンスZERO「“生態系が始まる大地” 密着!西之島・生物調査」 ― 2025-02-08
2025年2月8日 當山日出夫
サイエンスZERO “生態系が始まる大地” 密着!西之島・生物調査
西之島についての番組は、見つけたら見るようにしている。この島のことが、このような番組で、ほぼ同時期に見られるというのは、やはり幸運であったというべきだろう。
絶海の孤島で、生態系を作るのは、まず鳥になる(らしい)。そして、その次に昆虫がやってくる。登場していたのは、ハサミムシである。このような昆虫が、土を作ることになる。
また、カニ(スナガニ)も来ていた。番組のなかでは、これは小笠原にはいない種類とあったのだが、では、どうやって来たのだろうか。
西之島についての番組はいくつか見てきているのだが、気になるのは、周囲の海流のことである。小笠原の近くだから、黒潮の流れはあると思っているのだが、この海流の影響はどのように考えることになるのだろうか。これは、海中や海底の調査などをふまえてのことになるだろう。
生態系というのは、積み重なって増えていくという単純なものではなく、ある種の生物が絶滅したりして、入れ替わりながら出来上がっていくものである、ということは、面白い。誤解かもしれないが、生物の生存競争のダイナミズムということになるのだろうが。
こういう調査に参加して、わくわくしている研究者の姿というのは、とてもいいものだと思う。こういう人がいないと、サイエンスのみならず、学問はなりたたない。
2025年2月3日記
サイエンスZERO “生態系が始まる大地” 密着!西之島・生物調査
西之島についての番組は、見つけたら見るようにしている。この島のことが、このような番組で、ほぼ同時期に見られるというのは、やはり幸運であったというべきだろう。
絶海の孤島で、生態系を作るのは、まず鳥になる(らしい)。そして、その次に昆虫がやってくる。登場していたのは、ハサミムシである。このような昆虫が、土を作ることになる。
また、カニ(スナガニ)も来ていた。番組のなかでは、これは小笠原にはいない種類とあったのだが、では、どうやって来たのだろうか。
西之島についての番組はいくつか見てきているのだが、気になるのは、周囲の海流のことである。小笠原の近くだから、黒潮の流れはあると思っているのだが、この海流の影響はどのように考えることになるのだろうか。これは、海中や海底の調査などをふまえてのことになるだろう。
生態系というのは、積み重なって増えていくという単純なものではなく、ある種の生物が絶滅したりして、入れ替わりながら出来上がっていくものである、ということは、面白い。誤解かもしれないが、生物の生存競争のダイナミズムということになるのだろうが。
こういう調査に参加して、わくわくしている研究者の姿というのは、とてもいいものだと思う。こういう人がいないと、サイエンスのみならず、学問はなりたたない。
2025年2月3日記
Asia Insight「コーヒーラッシュに沸く少数民族の村〜中国 雲南〜」 ― 2025-02-08
2025年2月8日 當山日出夫
Asia Insight コーヒーラッシュに沸く少数民族の村〜中国 雲南〜
中国の雲南のワ族のコーヒー農家の話しである。
雲南は、プーアル茶の産地だったが、近年では、コーヒーの栽培がさかんになってきている。番組で語っていたこととしては、中国国内の消費が主なようである。これも、今後は、輸出されるということもありうるだろう。
コーヒーは、嗜好品である。別に、コーヒーなど飲まなくても人間は生きていける。しかし、日々の食事の後とか、休憩時間などに、コーヒーは必要なものなってきている。これは、人びとの生活のスタイルの変化にともなうものということになる。
たしか、一~二年前ぐらいのニュースだったと思うが、中国で生活のスタイルが変わってきて、コーヒーの消費が増えてきたこともあって、世界的にコーヒーの価格が上昇している、ということを憶えている。だが、中国国内で見ると、雲南以外の地域でもコーヒーの栽培を始めて、価格は低下しているという。さて、このあたりの事情は、今ではどうなのだろうか。
雲南のワ族であるが、この人びとは、どのような暮らしをしてきたのだろうか。清朝の時代から、辛亥革命を経て、中国共産党の支配にいたるまで、この人びとの暮らしは、どうだったのだろうか。気にはなるところだが、しかし、これはこの番組のあつかう範囲を超えたことになる。
興味深かったのは、コーヒー農家からコーヒー豆を買い付けて、その支払いが現金(紙幣)であったこと。中国は、キャッシュレス社会になっているとは言われているが、それでも、現金を使った経済というものもあるのだろう。映ってはいなかったが、カフェなどでの支払いはどうなっているのだろうか。
中国でのコーヒーのいれかたは、ペーパーフィルターを使ったドリップのようである。今は、これが主流ということなのだろう。(昔、私が学生のころ、半世紀ほど前の東京の喫茶店、コーヒー専門店だと、サイフォン方式が普通だった。朝ドラの『ちゅらさん』の再放送を見て、一風館の大家さんが、昔ながらの方式でコーヒーをいれるシーンがあり、懐かしく思ったものである。)
ワ族独特のコーヒーのいれかたも、興味深い。コーヒーのいれかたや飲み方にも、それぞれの地方の違いがある。そういえば、北杜夫の『輝ける碧き空の下で』は、昔のブラジルに渡った日本人移民を描いた小説であるが、このなかで、ブラジルのコーヒー農園で働く日本人のコーヒーのいれかたが描写してあったことを思い出す。
コーヒーを料理に使うというのも面白い。調べてみると、日本でも雲南料理の店はいくつかあるらしい。
チョコレートもそうだが、コーヒーについても、フェアトレードということがある。さて、中国のコーヒーは、世界の市場でフェアトレードの商品として流通することになるだろうか。
2025年2月6日記
Asia Insight コーヒーラッシュに沸く少数民族の村〜中国 雲南〜
中国の雲南のワ族のコーヒー農家の話しである。
雲南は、プーアル茶の産地だったが、近年では、コーヒーの栽培がさかんになってきている。番組で語っていたこととしては、中国国内の消費が主なようである。これも、今後は、輸出されるということもありうるだろう。
コーヒーは、嗜好品である。別に、コーヒーなど飲まなくても人間は生きていける。しかし、日々の食事の後とか、休憩時間などに、コーヒーは必要なものなってきている。これは、人びとの生活のスタイルの変化にともなうものということになる。
たしか、一~二年前ぐらいのニュースだったと思うが、中国で生活のスタイルが変わってきて、コーヒーの消費が増えてきたこともあって、世界的にコーヒーの価格が上昇している、ということを憶えている。だが、中国国内で見ると、雲南以外の地域でもコーヒーの栽培を始めて、価格は低下しているという。さて、このあたりの事情は、今ではどうなのだろうか。
雲南のワ族であるが、この人びとは、どのような暮らしをしてきたのだろうか。清朝の時代から、辛亥革命を経て、中国共産党の支配にいたるまで、この人びとの暮らしは、どうだったのだろうか。気にはなるところだが、しかし、これはこの番組のあつかう範囲を超えたことになる。
興味深かったのは、コーヒー農家からコーヒー豆を買い付けて、その支払いが現金(紙幣)であったこと。中国は、キャッシュレス社会になっているとは言われているが、それでも、現金を使った経済というものもあるのだろう。映ってはいなかったが、カフェなどでの支払いはどうなっているのだろうか。
中国でのコーヒーのいれかたは、ペーパーフィルターを使ったドリップのようである。今は、これが主流ということなのだろう。(昔、私が学生のころ、半世紀ほど前の東京の喫茶店、コーヒー専門店だと、サイフォン方式が普通だった。朝ドラの『ちゅらさん』の再放送を見て、一風館の大家さんが、昔ながらの方式でコーヒーをいれるシーンがあり、懐かしく思ったものである。)
ワ族独特のコーヒーのいれかたも、興味深い。コーヒーのいれかたや飲み方にも、それぞれの地方の違いがある。そういえば、北杜夫の『輝ける碧き空の下で』は、昔のブラジルに渡った日本人移民を描いた小説であるが、このなかで、ブラジルのコーヒー農園で働く日本人のコーヒーのいれかたが描写してあったことを思い出す。
コーヒーを料理に使うというのも面白い。調べてみると、日本でも雲南料理の店はいくつかあるらしい。
チョコレートもそうだが、コーヒーについても、フェアトレードということがある。さて、中国のコーヒーは、世界の市場でフェアトレードの商品として流通することになるだろうか。
2025年2月6日記
『あ・うん』「(4)「弥次郎兵衛」」 ― 2025-02-08
2025年2月8日 當山日出夫
『あ・うん」 (4)「弥次郎兵衛」
先に、このドラマをもとにした小説の『あ・うん』を読んでいるのだが、それぞれに良さがあると感じる。小説の方が、より客観的な視点で描いている。ドラマは、語りが娘のさと子に設定してあることもあり、どちらかといえば、さと子の感情の流れを細やかに描いていると感じる。おそらく、さと子の気持ちについては、作者の向田邦子の経験を反映したものかとも思うことになる。少なくとも、戦前の時代の中流階層の人たちのなかの若い女性の感覚を描こうとしている。
ドラマは四回までで終わっている。千吉と水田の奇妙な友情は、その後、どうなるのだろうか。このドラマは、時代背景をほとんど画いていないが、歴史としては、太平洋戦争となり、その後の戦後の時代を迎えることになる。これからの激動の時代に、千吉と水田、それから、妻のたみ、娘のさと子、水田の妻の君子、二号さんの禮子、これらの人びとはどうなるだろうか。さと子の恋のゆくえはどうなるか。いろいろと想像することになるが、これは見る者の想像力にまかされることになる。小説版でも、向田邦子は、戦後のことまでは描いていない。
やはり、このドラマは、向田邦子しか書けなかったものだと感じるところが多い。特にさと子の心情を、今の作家は、これほど細やかに実感をこめて描くことは、もう無理だろう。
2025年2月6日記
『あ・うん」 (4)「弥次郎兵衛」
先に、このドラマをもとにした小説の『あ・うん』を読んでいるのだが、それぞれに良さがあると感じる。小説の方が、より客観的な視点で描いている。ドラマは、語りが娘のさと子に設定してあることもあり、どちらかといえば、さと子の感情の流れを細やかに描いていると感じる。おそらく、さと子の気持ちについては、作者の向田邦子の経験を反映したものかとも思うことになる。少なくとも、戦前の時代の中流階層の人たちのなかの若い女性の感覚を描こうとしている。
ドラマは四回までで終わっている。千吉と水田の奇妙な友情は、その後、どうなるのだろうか。このドラマは、時代背景をほとんど画いていないが、歴史としては、太平洋戦争となり、その後の戦後の時代を迎えることになる。これからの激動の時代に、千吉と水田、それから、妻のたみ、娘のさと子、水田の妻の君子、二号さんの禮子、これらの人びとはどうなるだろうか。さと子の恋のゆくえはどうなるか。いろいろと想像することになるが、これは見る者の想像力にまかされることになる。小説版でも、向田邦子は、戦後のことまでは描いていない。
やはり、このドラマは、向田邦子しか書けなかったものだと感じるところが多い。特にさと子の心情を、今の作家は、これほど細やかに実感をこめて描くことは、もう無理だろう。
2025年2月6日記
アジアに生きる「インド 変革の風」 ― 2025-02-07
2025年2月7日 當山日出夫
シリーズ アジアに生きる インド 変革の風
私の基本的な立場は、人は自由意志で決められないことについて責任を問われたり、不平等なあつかいをうけることがあってはならない、ということである。
男性であるか、女性であるかは、自分で選んで産まれることはできない。どのような「人種」であるかも、選択することはできない。社会的階層や、生まれる地域や国などについても同様である。
このなかに性的指向もふくめて考えることができる。異性(男性/女性)を好きになるのか、同性でなければだめなのか、どちらも好きになれるのか、それとも、自分でもどうだか分からないのか……これらは、自らの自由意志で選択できることではない。だから、同性愛者だからといって、不当なあつかいがあってはならない。これが基本であると思っている。
ただ、現代のセクシュアリティについての議論は、その先のことになっている部分がある。人は、自分の性的指向を自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志は、何よりもとうとい。これが侵害されることがあってはならない。だから、同性愛を選択したとしても、それは自由として尊重されなければならない。(これは、理屈としては分からなくはないが、しかし、人間の性(ジェンダー)の文化的側面について見るならば、それがかなり社会構築的な部分を持っていることを、考慮すべきかと思う。まったくの自由意志での選択と、自分の意志では変えることのできないこと、これらの中間的要素がある。)
インドの場合でみるならば、つい近年まで、同性愛が犯罪であったことから、いきなり、同性婚を法律的に認めるところまで求めるのは、ちょっと飛躍がありすぎるので、ついてこれない人が多くいるのは当然だろうとは思う。まずは、同性愛というのも、人間の性的指向として、少数ではあるが確実に存在するものである、という事実を認めるところからスタートすべきであろう。
このような番組では、多くの場合、同性愛者がすすんだ考えの持ち主で、それを認めないのは遅れている、という価値観を提示することが多い。これを、考え方が進んでいるか遅れているか、という基準でとらえようとするから、あまり建設的な議論にならないと感じるところである。
同性愛が、人間において、さほど不自然なものではなく、少数ではあるが確実に存在するものである、ということを認めた上で、では、社会の制度としてどうあるべきか……法的な結婚を認めるのか、実質的にはそれぞれの好みの問題として自由であることにするのか、このあたりのことについては、それぞれの文化や歴史のもとに、判断の違いがあってもいいだろうと、思う。これが、絶対に法的な結婚に固執すると、妥協点が見いだせなくなる。また、法的な結婚だけが、家族のあり方であるとすることになり、これはこれで、また議論を呼ぶことになる。
性的指向の多様性を認めるならば、同時にそれは、家族のあり方についての多様性も認めるものでなければならない。少なくとも理論上はそうなる。
この番組に登場していた女性は、インドのなかで、どれぐらいの社会的階層の人びとなのだろうか。ことの是非は別にして、社会の階層と、その生活の価値観は多くの場合、関連があるといっていいだろう。伝統的価値観から自由であっても生活できる人びともいれば、逆に、その中に埋もれて生きるしかない人びともいるはずである(私は、それが不幸だとは思わないが)。
インドの王様というのが、テレビに登場するのは珍しいかなと思う。こういう人たちは、今のインドで、どんな暮らし方をしているのだろうか。
2025年1月31日記
シリーズ アジアに生きる インド 変革の風
私の基本的な立場は、人は自由意志で決められないことについて責任を問われたり、不平等なあつかいをうけることがあってはならない、ということである。
男性であるか、女性であるかは、自分で選んで産まれることはできない。どのような「人種」であるかも、選択することはできない。社会的階層や、生まれる地域や国などについても同様である。
このなかに性的指向もふくめて考えることができる。異性(男性/女性)を好きになるのか、同性でなければだめなのか、どちらも好きになれるのか、それとも、自分でもどうだか分からないのか……これらは、自らの自由意志で選択できることではない。だから、同性愛者だからといって、不当なあつかいがあってはならない。これが基本であると思っている。
ただ、現代のセクシュアリティについての議論は、その先のことになっている部分がある。人は、自分の性的指向を自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志は、何よりもとうとい。これが侵害されることがあってはならない。だから、同性愛を選択したとしても、それは自由として尊重されなければならない。(これは、理屈としては分からなくはないが、しかし、人間の性(ジェンダー)の文化的側面について見るならば、それがかなり社会構築的な部分を持っていることを、考慮すべきかと思う。まったくの自由意志での選択と、自分の意志では変えることのできないこと、これらの中間的要素がある。)
インドの場合でみるならば、つい近年まで、同性愛が犯罪であったことから、いきなり、同性婚を法律的に認めるところまで求めるのは、ちょっと飛躍がありすぎるので、ついてこれない人が多くいるのは当然だろうとは思う。まずは、同性愛というのも、人間の性的指向として、少数ではあるが確実に存在するものである、という事実を認めるところからスタートすべきであろう。
このような番組では、多くの場合、同性愛者がすすんだ考えの持ち主で、それを認めないのは遅れている、という価値観を提示することが多い。これを、考え方が進んでいるか遅れているか、という基準でとらえようとするから、あまり建設的な議論にならないと感じるところである。
同性愛が、人間において、さほど不自然なものではなく、少数ではあるが確実に存在するものである、ということを認めた上で、では、社会の制度としてどうあるべきか……法的な結婚を認めるのか、実質的にはそれぞれの好みの問題として自由であることにするのか、このあたりのことについては、それぞれの文化や歴史のもとに、判断の違いがあってもいいだろうと、思う。これが、絶対に法的な結婚に固執すると、妥協点が見いだせなくなる。また、法的な結婚だけが、家族のあり方であるとすることになり、これはこれで、また議論を呼ぶことになる。
性的指向の多様性を認めるならば、同時にそれは、家族のあり方についての多様性も認めるものでなければならない。少なくとも理論上はそうなる。
この番組に登場していた女性は、インドのなかで、どれぐらいの社会的階層の人びとなのだろうか。ことの是非は別にして、社会の階層と、その生活の価値観は多くの場合、関連があるといっていいだろう。伝統的価値観から自由であっても生活できる人びともいれば、逆に、その中に埋もれて生きるしかない人びともいるはずである(私は、それが不幸だとは思わないが)。
インドの王様というのが、テレビに登場するのは珍しいかなと思う。こういう人たちは、今のインドで、どんな暮らし方をしているのだろうか。
2025年1月31日記
3か月でマスターする江戸時代「(5)華やかな「元禄文化」はどのように生まれた?」 ― 2025-02-07
2025年2月7日 當山日出夫
3か月でマスターする江戸時代 (5)華やかな「元禄文化」はどのように生まれた?
元禄文化についてであったが、ちょっと気になったことがある。
近松門左衛門のことが出てきていたが、その時の映像は、現代の文楽のものであった。これはいいとしても、近松門左衛門の時代の人形浄瑠璃は、人形は一人でつかっていた、というのが私の知っているところである。三人づかいになったのは、後のことである。(人形浄瑠璃と言うのは正しい。現代は、文楽と言っているが、これは、文楽座という劇団の名称に由来する、新しい言い方である。)
井原西鶴の『好色一代男』のことについては、世之介が三〇〇〇人の女性を相手にしたというのはいいとして(たしかにそのように書いてある)、男性も相手にしている。決して、世之介の性の対象は、女性に限定されていたわけではない。男色もあった。さて、これは、この番組を作るときに、意図的に言わなかったことなのだろうか。(国文学など勉強したことからいえば、江戸時代の男色は、近代になってからのような潔癖な倫理観にもとづくタブーではなかった。陰間茶屋のことなどは、国文学の常識である。)
近世の出版文化史ということは、確かに近年になって研究が非常にすすんだ分野である。その背景には、近世になってからのリテラシーの向上ということもある。また、国語史、日本語史の立場からいうと、浮世草子に見られるような、漢字仮名交じりの文章の成立と普及ということがある。それは、もうすこしさかのぼって、近世初期の仮名草子ぐらいから歴史をたどる必要がある。(余計なことかもしれないが、近世の出版文化を語るならば、古活字版のことには触れておいてほしい。)
元禄時代になって、全国の耕地面積が増大した。農業生産力が向上したということは、そのとおりなのだろうが、同時に気になるのは、そこで増大した農作物が、どのように流通し、消費されたということである。また、農業以外の、漁業はどうだったのか。また、農業の生産力の増大が、年貢に依存する武士の生活にどう影響することになったのか、ということも気になる。
西回り航路、東回り航路で、ものの流通があって、大阪が天下の台所になった、ということはそうなのだろうと思うが、これは、同時に、それぞれの航路にある港と港をつなぐ文化の伝搬があったことにもなる。また、大阪に集められた物資は、どのように、消費され、流通したのかということも、気になることである。
松尾芭蕉について、重要なのは、その旅をささえる人びと……全国にちらばる徘徊の仲間……があったことは、そのとおりだと思う。ここで気になったのは、俳句と言っていたこと。これは、NHKのこの番組としてはしかたないことかと思うが、文学研究の立場からすれば、芭蕉の時代であれば、俳諧でなければならない。
それから、前近代の時代において、旅から旅に生きる人びとがいたことも重要だろう。その延長に、宮本常一のような仕事もありえたことになる。ただ、歴史学として、『忘れられた日本人』の生活を、江戸時代以前のどこぐらいまでさかのぼって考えることができるのか、ということは、かなり難しいことにはちがいない。
このシリーズで、これまでに、江戸時代の人口とか村落の家族構成ということについては、触れていない。あつかいには難しいところもあるかとも思うが、歴史人口学の成果は、認めるべきではないだろうか。(なお、私が慶應義塾大学の学生のころ、経済学部の速水融さんのことは知っていたのだが、その受業をこっそりと聞いてみようというところまではしなかった。)
農書、農業全書というような書物が、どのような人びとに読まれたかということは、重要なことにちがいない。まったく受容がないところに、このような書物の出版はありえない。それだけ、生活に余裕があり、リテラシを持った、上層の農民という人びとが、各地に存在したということになる。本の書き手、その刊行にかかわった本屋、それを読んだ人たち……これらを、総合的に考えなければならないことになる。
2025年2月6日記
3か月でマスターする江戸時代 (5)華やかな「元禄文化」はどのように生まれた?
元禄文化についてであったが、ちょっと気になったことがある。
近松門左衛門のことが出てきていたが、その時の映像は、現代の文楽のものであった。これはいいとしても、近松門左衛門の時代の人形浄瑠璃は、人形は一人でつかっていた、というのが私の知っているところである。三人づかいになったのは、後のことである。(人形浄瑠璃と言うのは正しい。現代は、文楽と言っているが、これは、文楽座という劇団の名称に由来する、新しい言い方である。)
井原西鶴の『好色一代男』のことについては、世之介が三〇〇〇人の女性を相手にしたというのはいいとして(たしかにそのように書いてある)、男性も相手にしている。決して、世之介の性の対象は、女性に限定されていたわけではない。男色もあった。さて、これは、この番組を作るときに、意図的に言わなかったことなのだろうか。(国文学など勉強したことからいえば、江戸時代の男色は、近代になってからのような潔癖な倫理観にもとづくタブーではなかった。陰間茶屋のことなどは、国文学の常識である。)
近世の出版文化史ということは、確かに近年になって研究が非常にすすんだ分野である。その背景には、近世になってからのリテラシーの向上ということもある。また、国語史、日本語史の立場からいうと、浮世草子に見られるような、漢字仮名交じりの文章の成立と普及ということがある。それは、もうすこしさかのぼって、近世初期の仮名草子ぐらいから歴史をたどる必要がある。(余計なことかもしれないが、近世の出版文化を語るならば、古活字版のことには触れておいてほしい。)
元禄時代になって、全国の耕地面積が増大した。農業生産力が向上したということは、そのとおりなのだろうが、同時に気になるのは、そこで増大した農作物が、どのように流通し、消費されたということである。また、農業以外の、漁業はどうだったのか。また、農業の生産力の増大が、年貢に依存する武士の生活にどう影響することになったのか、ということも気になる。
西回り航路、東回り航路で、ものの流通があって、大阪が天下の台所になった、ということはそうなのだろうと思うが、これは、同時に、それぞれの航路にある港と港をつなぐ文化の伝搬があったことにもなる。また、大阪に集められた物資は、どのように、消費され、流通したのかということも、気になることである。
松尾芭蕉について、重要なのは、その旅をささえる人びと……全国にちらばる徘徊の仲間……があったことは、そのとおりだと思う。ここで気になったのは、俳句と言っていたこと。これは、NHKのこの番組としてはしかたないことかと思うが、文学研究の立場からすれば、芭蕉の時代であれば、俳諧でなければならない。
それから、前近代の時代において、旅から旅に生きる人びとがいたことも重要だろう。その延長に、宮本常一のような仕事もありえたことになる。ただ、歴史学として、『忘れられた日本人』の生活を、江戸時代以前のどこぐらいまでさかのぼって考えることができるのか、ということは、かなり難しいことにはちがいない。
このシリーズで、これまでに、江戸時代の人口とか村落の家族構成ということについては、触れていない。あつかいには難しいところもあるかとも思うが、歴史人口学の成果は、認めるべきではないだろうか。(なお、私が慶應義塾大学の学生のころ、経済学部の速水融さんのことは知っていたのだが、その受業をこっそりと聞いてみようというところまではしなかった。)
農書、農業全書というような書物が、どのような人びとに読まれたかということは、重要なことにちがいない。まったく受容がないところに、このような書物の出版はありえない。それだけ、生活に余裕があり、リテラシを持った、上層の農民という人びとが、各地に存在したということになる。本の書き手、その刊行にかかわった本屋、それを読んだ人たち……これらを、総合的に考えなければならないことになる。
2025年2月6日記
映像の世紀バタフライエフェクト「ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」 ― 2025-02-07
2025年2月7日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生
これまでに「映像の世紀」シリーズでは、溥儀は何度も登場している。こういう人生もあるのか、という気持ちで見ていた。この回を見て、最後に気になることは、溥儀ははたして思想改造を受け入れたのか、ということである。共産党に屈服するようにみせかけただけで、その本心は違っていたのかもしれない。ひょっとすると、清朝復辟を思っていたとしても不思議ではない。
溥儀について、中国共産党のプロパガンダに利用したという言い方をしたのは、「映像の世紀」シリーズのなかでは初めてのことかもしれないと思うが、どうだっただろうか。
おそらくこのような人生を経た人間は、もうどのような人も思想も信じなくなるのではないか。人を愛することも、信頼することも、出来なくなってしまったのかと想像してみることになる。
溥儀が紫禁城から持ち出した財宝の行方も気になることだが……そのいくつかは、今の中国から出てしまった富豪が持っていたりしても、これはおどろくことではないと感じる。おそらくは、表には知られていないだけで、闇の裏世界では、美術コレクターの間を流れているのかもしれない。まあ、そのうちいくつかは、戦禍の犠牲になったものもあったかとも思うが。
これをふくめて、清朝の財宝を、今、どこでだれが持っているのか……「故宮博物院」の所蔵をふくめて……というのは、非常に面白い歴史があるのだろう。今から、勉強してみようとは思わないけれど。
どうでもいいことだが、以前、立命館大学の文学部で非常勤で教えることがあったとき、講師室のメールボックスの始めの方に……あいうえお順でも、abc順でも始めにくる……愛新覚羅という名前を見たときは、正直、おどろいたものである。が、これも考えれば、不思議なことではない。満州語の専門家としてであったが。
2025年2月4日記
映像の世紀バタフライエフェクト ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生
これまでに「映像の世紀」シリーズでは、溥儀は何度も登場している。こういう人生もあるのか、という気持ちで見ていた。この回を見て、最後に気になることは、溥儀ははたして思想改造を受け入れたのか、ということである。共産党に屈服するようにみせかけただけで、その本心は違っていたのかもしれない。ひょっとすると、清朝復辟を思っていたとしても不思議ではない。
溥儀について、中国共産党のプロパガンダに利用したという言い方をしたのは、「映像の世紀」シリーズのなかでは初めてのことかもしれないと思うが、どうだっただろうか。
おそらくこのような人生を経た人間は、もうどのような人も思想も信じなくなるのではないか。人を愛することも、信頼することも、出来なくなってしまったのかと想像してみることになる。
溥儀が紫禁城から持ち出した財宝の行方も気になることだが……そのいくつかは、今の中国から出てしまった富豪が持っていたりしても、これはおどろくことではないと感じる。おそらくは、表には知られていないだけで、闇の裏世界では、美術コレクターの間を流れているのかもしれない。まあ、そのうちいくつかは、戦禍の犠牲になったものもあったかとも思うが。
これをふくめて、清朝の財宝を、今、どこでだれが持っているのか……「故宮博物院」の所蔵をふくめて……というのは、非常に面白い歴史があるのだろう。今から、勉強してみようとは思わないけれど。
どうでもいいことだが、以前、立命館大学の文学部で非常勤で教えることがあったとき、講師室のメールボックスの始めの方に……あいうえお順でも、abc順でも始めにくる……愛新覚羅という名前を見たときは、正直、おどろいたものである。が、これも考えれば、不思議なことではない。満州語の専門家としてであったが。
2025年2月4日記
ドキュメント20min.「NOフカシTV」 ― 2025-02-06
2025年2月6日 當山日出夫
ドキュメント20min. NOフカシTV
録画してあったのをようやく見た。
カニの映像。日本海でのカニ漁については、漁船から海にカゴを入れるシーンは、ニュースなどで見たことあるが、その中にエサとしてサバがいれてあって、一〇日ほど沈めておくというこは、始めて知った。
深海だが、一〇〇〇メートルなら、光はとどかないはずである。水圧に耐える構造も必要だろうが、照明をどのようにしたのか、ということが気になる。普通の可視光線で撮ったということのようだが、このような光は、海底にいるカニが目にするものではないはずである。この光にどう反応していたのか、ということも気になる。
しかし、海底のカニが、あんなに俊敏に動くものだということは、始めて知った。
ボーリングの映像。この装置を作った人が、『光る君へ』で曲水の宴の鳥を作った人であるというのは、とても面白かった。これは、「100カメ」で見た。他にも、『まれ』のお人形も作ったらしい。
たしかにボーリングのピンから見たらどうなるか、という映像は、これが始めてだろう。映像の面白さもあるが、そのためのカメラの設定と、保護用のペットの取り付けが、言われてみれば、湾曲させて衝撃を分散するというのは、そういうものかと思う。
この企画、映像の興味というよりも、むしろ、それを撮影するための機材の準備ということの方が、私には面白い。
2025年2月3日記
ドキュメント20min. NOフカシTV
録画してあったのをようやく見た。
カニの映像。日本海でのカニ漁については、漁船から海にカゴを入れるシーンは、ニュースなどで見たことあるが、その中にエサとしてサバがいれてあって、一〇日ほど沈めておくというこは、始めて知った。
深海だが、一〇〇〇メートルなら、光はとどかないはずである。水圧に耐える構造も必要だろうが、照明をどのようにしたのか、ということが気になる。普通の可視光線で撮ったということのようだが、このような光は、海底にいるカニが目にするものではないはずである。この光にどう反応していたのか、ということも気になる。
しかし、海底のカニが、あんなに俊敏に動くものだということは、始めて知った。
ボーリングの映像。この装置を作った人が、『光る君へ』で曲水の宴の鳥を作った人であるというのは、とても面白かった。これは、「100カメ」で見た。他にも、『まれ』のお人形も作ったらしい。
たしかにボーリングのピンから見たらどうなるか、という映像は、これが始めてだろう。映像の面白さもあるが、そのためのカメラの設定と、保護用のペットの取り付けが、言われてみれば、湾曲させて衝撃を分散するというのは、そういうものかと思う。
この企画、映像の興味というよりも、むしろ、それを撮影するための機材の準備ということの方が、私には面白い。
2025年2月3日記
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