『鍵・瘋癲老人日記』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-29

2022年1月29日 當山日出夫(とうやまひでお)

鍵・瘋癲老人日記

谷崎潤一郎.『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫).新潮社.1968(2001.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100515/

新潮文庫のこの巻には、「鍵」と「瘋癲老人日記」を収録してある。どちらも若い時に読んだかと覚えている。若くなくなってひさしい。老人の立場になって、このような作品を読むと、また、それなりの面白さがあることに気づいた。

思うこととしては、次の二点ぐらいがある。

第一に、日記ということ。

「鍵」はかなり錯綜した構成になっている。夫と妻と、それぞれに日記をつけている。その日記を互いに読んでいるということはわかっているのだが、そのことは隠して日記をお互いに書き続けている。

「瘋癲老人日記」は、「鍵」ほど複雑な構造はないが、やはり日記になっている。

なぜ、日記という形式を選んでいるのだろうか。日本文学に造詣の深い谷崎潤一郎のことである。日本文学における日記というものは、当然のことながら意識して書いたのだろう。であるとするならば、日記とは必ずしも本当のことばかりを書くものではない、ということも考えのうちにあったはずである。

第二、性ということ。

「鍵」も「瘋癲老人日記」も、性の問題をあつかっている。いや、全編にわたってまさに性のことを題材にしているといってよい。これを書いたのは、谷崎潤一郎の晩年である。老人と性のことをあつかった文学作品としては、やはり谷崎潤一郎のこれらの作品が、出てくることになるのだろうと思う。

実際、これらの作品が発表された当時としては、かなりスキャンダラスであったことも、文学史の教えてくれるところでもある。

今日の目で読んで見て、そして、すでに老人の生活になっている自分として、これらの作品を読むと、なるほど性、そして、それによりそってある生というものを、感じ取ることになる。このような性と生の描き方も、文学としてはあり得るものだと思う。

それは、今日になって読んでそう感じることであって、谷崎潤一郎が、この小説を書いた時点においては、かなりの文学的冒険であったのかもしれない。が、これをなしえたということが、谷崎潤一郎の仕事といってよいのであろう。

性と生のことを描いた作家としては、他には、たとえば川端康成がいる。川端康成は、新潮文庫版の谷崎潤一郎を読み終わったら、読んでみようと思っている。

2022年1月27日記

『蓼食う虫』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-28

2022年1月28日 當山日出夫(とうやまひでお)

蓼食う虫

谷崎潤一郎.『蓼食う虫』(新潮文庫).新潮社.1951(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100507/

新潮文庫は、現代仮名遣いの方針だから、『蓼食う虫』になる。しかし、本文は現代仮名遣いでもいいのだが、タイトルは元の形を残して『蓼食ふ虫』であった方がいいような気がする。まあ、なんとなくの好みの問題ではあるのだが。

『蓼食う虫』の新聞連載は、昭和三年から四年にかけてである。いうまでもなく、谷崎の関西移住後の作品になり、この作品の背景には、その細君の譲渡事件ということがある。これは、日本の近代文学史のなかで著名なできごとだろう。

ここに谷崎潤一郎の女性観というべきものを見てとることもできようが、しかし、純然とこの作品のテクストを読んでおきたい気になる。そこでうかびあがってくるものは、谷崎潤一郎ならではの、美意識、美的感覚というものである。それは、女性に対してのものもあるし、日常生活のあれこれについてのものもある。また、人形浄瑠璃などの芸能についてのものもある。

これを読んで思ったことは、この作品の根底にある美意識が、『陰翳礼讃』などにつらなるものである、ということである。

ところで、この作品のなかに、淡路人形浄瑠璃を見物に行くシーンがある。淡路人形浄瑠璃は、見た記憶がある。どこでだったろうか。東京の国立劇場の小劇場での公演だったろうか。文楽の人形にくらべて、ひとまわり人形が大きくつくってあることを、覚えている。(東京にいたころは、文楽公演は大体見ていたし、また、民俗芸能、伝統芸能などの公演も、かなり通ったものである。)

読んでいて、昔、若い時に見た、淡路人形浄瑠璃のことを思い出しながら読んだ。

その他、この作品の随所に出てくる、美的感覚……それは、女性に対するものもある。妻を別の男に譲るということは、常識的にはあまりないことのようだが、この作品を読んでいると、そういうふうに考える男の気持ちに、なんとなく納得できる。ここにあるのは、男女の関係というよりも、どのような女性とどのような関係をもっていきたいかという、美意識である。美意識に基づいて、あり得べき夫婦の関係も導き出されている。

この作品を読んで、作者の美意識を軸に……男女関係ではなく……読んでいるというのも、私自身がそれなりに歳をとってしまったということなのかとも思ったりする。

2022年1月27日記

『猫と庄造と二人のおんな』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-27

2022年1月27日 當山日出夫(とうやまひでお)

猫と庄造と二人のおんな

谷崎潤一郎.『猫と庄造と二人のおんな』(新潮文庫).新潮社.1951(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100505/

日本の文学作品のなかで、猫が登場するものとしては、やはり夏目漱石の『吾輩は猫である』が出てくると思うのだが、この作品は、それに次ぐかもしれない。

若い時に読んだ記憶はあるのだが、もうすっかり忘れている。久しぶりに読みなおしてみて、こんな小説だったのかと、得心がいったところである。また、若い時にこの作品の良さが分からなかったということもあるが、これはいたしかたないことかもしれない。

まさに、小説のタイトルどおりの作品である。登場するのは、猫、その飼い主である庄造、庄造をとりまく二人の女性……ほぼ、これでつきる。ところどころに、ちょっとだけ登場する人物がいるが、まあ、ほぼ全編、この一匹と三人の話しである。

それにしても、なんとも頼りない男であることかと思う。ふがいないというか、優柔不断というか、頼りないというか、ともかく、庄造という人物を見ていると、何故こんな男に二人の女性が惚れるのかと思ってしまう。が、そこは、男女の機微である。このような男女関係があっても、谷崎潤一郎の小説の世界としては別におかしくはない。

それよりも猫である。名前はリリーと付けられている。このリリーの描写、それから、このリリーを可愛がる、いや溺愛するといった方がいいか、庄造の様子が、まさに猫好きなら共感して読むことができる。谷崎潤一郎は猫をかわいがっていたということである。(谷崎研究の分野で、このあたりは詳細に分かっていることだと思うのだが、近代文学研究に疎い私としては、よく知らない。)

もし、猫が登場しない設定であっても、二人の女の間を行ったり来たりしている庄造という男を描くだけで十分に小説としてはなりたつだろう。それを、猫のリリーをからめてくることで、魅力的な作品になっている。そう長くない作品である。ほぼ一息に読める。

2022年1月25日記

紫陽花の冬芽2022-01-26

2022年1月26日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日は紫陽花の冬芽である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月19日
雪柳の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/19/9457219

真冬である。我が家で花の咲いているものは見当たらない。千両や万両の実も、かなりを鳥が食べてしまっている。

庭に出て、紫陽花の冬芽を写してみた。これは、二~三年前になるが、植木屋さんに頼んで植えてもらったものである。咲く花の種類は、異なる。その冬芽を見ると、花の種類の違いによってか、冬芽の様子もそれぞれに微妙にことなるようだ。だが、見ていくと、なるほど紫陽花の冬芽はこんな形をしているのかと思うところがある。

使ったのは、タムロンの90ミリ。このところ、植物の写真を撮るのには、これか、さもなくば、シグマの150ミリマクロを使うことが多い。DXのD500で使っているのだが、花の写真をとったりするのには、ちょうどいいと感じる。

この冬は、まだ雪が積もらない。例年、冬の間に一回ぐらいは雪の積もる日がある。ことし、雪がちらほらと舞う日はあるが、地面が白くなるということはない。寒い日もあるのだが、池の水が凍るということはまだない。

見ていると、梅の蕾も徐々に大きくなってきているのが分かる。真冬にあって、少し春を感じるようになってきている。

紫陽花

紫陽花

紫陽花

紫陽花

紫陽花

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年1月25日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「挙兵は慎重に」2022-01-25

2022年1月25日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第3回「挙兵は慎重に」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/03.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年1月18日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「佐殿の腹」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/18/9456974

このドラマは、歴史の時間のすすむのが速い。この回で、もう小さい子どもができていた。

見ていて印象に残った、というか気になったのは次の二点。

第一に、政子のこと。

確か以仁王の令旨をうけとるあたりにも、政子が同席していたかと思う。はて、これはどうなのだろう。その当時、女性として、奥向きのことに専念するということではない……少なくとも、このドラマにおける政子というのは、常に政治の正面に出てくる存在として描かれている。これも、まあ、裏側でこっそりと頼朝と会話するよりも、正面切って登場していた方が、すっきりした印象はある。

第二に、木簡のこと。

これは、おそらく歴史的な考証を経てつかったものだろう。荘園の管理のための木簡が登場していた。木簡というものが、古代だけのものではなく、中世においても使用されたものであることは、今では歴史の常識といっていいのかもしれない。

しかし、その当時の武士の土地の支配の様相、荘園の人びとがどんな暮らしをしていたのか、このあたりは描かれていない。あるいは、このドラマ、武士ということを描きはするものの、その領地とか、経済的な基盤とか、という方面のことは、あまり踏み込まないということなのかもしれない。

以上の二点ぐらいが、歴史考証にからんで、ちょっと印象に残ったところである。

それにしても、平家=悪、源氏=善、という図式は、きわめて分かりやすくはあるが、ちょっと短絡的ではないだろうか。平家、源氏をふくめて、平安末期の武士とはどんなものであったかを、描くということがあってもいいように思う。

次回は、頼朝の挙兵ということをめぐって展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年1月24日記

『春琴抄』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-24

2022年1月24日 當山日出夫(とうやまひでお)

春琴抄

谷崎潤一郎.『春琴抄』(新潮文庫).新潮社.1951(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100504/

これも若い時に読んだ作品である。ストーリーの概要は覚えていたのだが、改めて読みなおしてみることにした。

書誌を書いておどろくことは、この新潮文庫の本は、一九五一(昭和二六)年に出ている。私が生まれるよりも前のことになる。谷崎潤一郎のまだ生きているときである。それほど長く、この作品は読まれてきている。谷崎潤一郎の代表作の一つというべきである。

久しぶりに手にとって、こんな字面の作品だったのかと、ちょっとおどろいた。句読点が非常に少ない。見た目、本が黒い印象がある。

しかし、読んでいくと、これが不思議な効果になっていることに気づく。『春琴抄』はいうまでもなく、盲人の物語である。谷崎潤一郎は、『盲目物語』『聞書抄 第二盲目物語』などを書いている。盲人のことを描くことに、谷崎潤一郎は作家としての興味をもっていたことがわかる。そして、その盲人のことを描く文章は、通常の日本語文とちょっと違うように書いている。

純粋なことばの世界を構築しようとしているといってもいいかもしれない。盲目の世界は、耳と触角に頼る世界ともいえようか。視覚の情報が無い。その世界を描くのに、耳で聴いてどうなるかという、音のことばの世界を構築しようとした。だが、そのときに、それを支えるものとして、視覚的な句読点の使い方、漢字仮名の使い方、これを工夫することになる。結局、非常に視覚的効果をふくんだ、ちょっと変わった日本語文を書いたことになる。

『春琴抄』であるが、そう長い作品ではないが、ほぼ一息に読んでしまった。読み始めると、その独特の句読点の極めて少ない文章の世界、それは、音で聞いても独特の効果を持った日本語文なのであるが、その世界のなかに引き込まれる印象がある。そこにあるのは、独特の美意識であるとも感じる。

日本語の文章の妙……このようなことを感じる作品である。

2022年1月23日記

『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第12週」2022-01-23

2022年1月23日 當山日出夫(とうやまひでお)

『カムカムエヴリバディ』第12週
https://www.nhk.or.jp/comecome/story/details/story_details_12.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年1月16日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第11週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/01/16/9456457

この週は、どちらかというとるいよりもジョーをめぐる展開であったかと思う。

ジョーは、コンテストに優勝して、東京に行くことになる。その時るいについてきて欲しいと言う。先に東京に行ってレコーディングにはげむジョーであったが、突然トランペットが吹けなくなってしまう。結局、ジョーは挫折して大阪に戻る。るいとも分かれるという。

るいは、ひたすら大阪でジョーのことを思っている。手紙を書こうと思うが、寄宿先が社長の家ということでためらっている。ジョーのデビューが延期になると聞いて心配しているところに、ジョーが帰ってくる。だが、ジョーはるいと分かれようとしている。

なんとももどかしいすれ違いの二人である。ジョーは、はたして本心ではどう思っているのだろうか。トランペットが吹けなくなってしまって、便りにできるのは、あるいはるいしかいないのかもしれない。

何故、突然トランペットが吹けなくなってしまったのだろうか。東京でのデビューという重圧のせいかもしれない。このあたりは、医学的な考証をふまえての脚本なのだろうとは思う。

そして、ジョーの素性が明らかになった。やはり岡山での、進駐軍のクラブ、それから、ジャズ喫茶で見かけた少年だった。戦災孤児だという。身よりもない、天涯孤独の身の上なのであろう。そのジョーにとって、トランペットが吹けて、そして、るいがいてくれることが、何よりの心の安寧であったと思われる。

ところで、劇中劇の映画が良かった。黍之丞のシリーズ。駄作であるという評判だが、しかし、殺陣のシーンはよく作ってあったと思う。これで、モモケンは、安子の時に出ていて、るいの時にも出てきたことになる。さて、今後、どうなるだろうか。

次週、お菓子作りのことが出てくるようだ。楽しみに見ることにしよう。(しかし、気になるのは、ラジオ英語講座のなりゆきであるが、るい編ではどうなるのだろうか)。

2022年1月22日記

『吉野葛・盲目物語』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-22

2022年1月22日 當山日出夫(とうやまひでお)

吉野葛・盲目物語

谷崎潤一郎.『吉野葛・盲目物語』(新潮文庫).新潮社.1951(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100506/

新潮文庫版の『吉野葛・盲目物語』は、タイトルどおり、「吉野葛」と「盲目物語」を収録してある。「盲目物語」については、中公文庫版で読んだ。ここは、「吉野葛」を読んでおきたくなって手にした。

「吉野葛」も、確か若いときに手にしたような記憶はあるのだが、もう今では忘れてしまっていた。読みかえしてみて、こんな小説であったのかと、思い出したところがある。

吉野……といえば、何を思い浮かべるだろうか。この小説は、「吉野」という土地への憧憬の小説といってもいいかもしれない。そして、「母」の小説である。谷崎潤一郎における、古典趣味、それから、「母」の問題については、おそらく谷崎潤一郎研究において、すでに言われていることだろうと思う。

若いころ、「吉野」にはあこがれたものである。慶應の文学部の国文科で、折口信夫につらなる勉強を経験した身としては、やはり「吉野」は、特別な思い入れがある。万葉の「古代」につらなる「吉野」である。

が、この小説は、万葉の「吉野」ばかりではなく、南北朝時代の「吉野」のこともあつかってある。いや、こちらの方がメインかもしれない。私の世代だと、南北朝時代といわれても、あまりピンとこないところがある。歴史の知識として知っていても、あるいは、南北朝の正閏論についての知識はあるとしても、あまり身近な存在ではない。『太平記』をまとめて通読することも、近年になってからのことである。

『万葉集』を一冊……塙書房の本になるだろうが……を、鞄にいれて吉野など旅をしてみたいと思っていたのは、はるか遠い昔のことである。今、吉野に行こうと思えば、そう遠いところではない。日帰りで十分に行ける。だが、心理的には、なんとなく遠い。今も、私にとって「吉野」というのは、「古代」の土地なのである。

2022年1月21日記

『刺青・秘密』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-21

2022年1月21日 當山日出夫(とうやまひでお)

刺青・秘密

谷崎潤一郎.『刺青・秘密』(新潮文庫).新潮社.1969(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100503/

谷崎潤一郎の初期の短篇集である。新潮文庫版では、次の作品が収録してある。

刺青
少年
幇間
秘密
異端者の悲しみ
二人の稚児
母を恋うる記

やはり印象に残るのは、『刺青』であろうか。谷崎潤一郎の最初の作品といってよいものである。描かれているのは、エロティシズムであり、江戸趣味、日本趣味とでもいうべき美意識、それから、マゾヒズムもふくまれている。短い作品であるが、印象が強い。この作品は、いろんな作品集などで、なんどか読んでいるかと思う。何度読んでも、完璧な美意識だと感じるところがある。

ところで、今回読んでみて、この作品中にも、女性の足に対するフェティシズムが見られることを確認したことになる。これは、谷崎の作品の特徴の一つといっていいだろう。晩年の『瘋癲老人日記』まで、いろんな作品に見られる。

『秘密』も、忘れてしまったが、近年、何かのアンソロジーで読んだかと覚えている。これも、これまでに何度か接したことのある作品である。これを読むと、大正時代の東京という街のことを考える。これは、漱石が『三四郞』などの作品で描いた東京の街の延長線上にあるものともいえる。これを、鷗外は「普請中」といったことは、知られていることであろう。関東大震災、太平洋戦争の前の東京である。その中心は、今の下町といわれる界隈にあった時代である。その東京の街を、魅力的に、あるいは、幻想的、蠱惑的に描き出した、絶妙な作品といえるだろう。

それから、この作品に見られる、探偵趣味というべきもの。これは、大正時代に流行ったものと捕らえておいていいのかと思う。そういえば、芥川龍之介なども、探偵趣味的な作品を残してもいる。

『異端者の悲しみ』は、自伝的作品であるという。そういわれて読むと、そのように読める。が、今日広く読まれる谷崎潤一郎の作品群からすると、ちょっと、まさに「異端」の作品である。谷崎潤一郎の文学を理解するためには、重要な位置をしめる作品となる。

その他、なるほど、これは谷崎潤一郎の世界だなと感じさせるものが収録されている。

2022年1月20日記

『痴人の愛』谷崎潤一郎/新潮文庫2022-01-20

2022年1月20日 當山日出夫(とうやまひでお)

痴人の愛

谷崎潤一郎.『痴人の愛』(新潮文庫).新潮社.1957(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100501/

この作品は若いときに手にしたことを覚えているが、もうあまり覚えていない。ただ、読んで、その西洋趣味とでもいうべきものに、いくぶんの違和感を感じたことは記憶している。

読みなおしてみて思うこととしては、次の二点ぐらい。

第一に、悪女小説ということ。

登場する女性(ナオミ)は、なんと言ったらいいのだろうか、悪女、妖婦、毒婦……やや古風なことばで今はあまり使わないと思うが、このようなことばが思い浮かぶ。そして、いったい賢いのか、あるいはそうではないのか、このあたりもはっきりしない。さんざん男をたぶらかし、一方では、もてあそばれ、この女性の本性はいったい何なのか、読み終わってよくわからなくなる。

だが、このような、悪女を描き出したということが、谷崎潤一郎の文学的才能といっていいのだろう。ともあれ、おそらく、日本の近代文学史上にのこる悪女であることはたしかである。その一方で、非常に魅力的でもあるのだが。

第二に、マゾヒズム小説ということ。

なぜ、主人公の男は、この悪女のナオミとわかれることができなのだろうか。追い出してしまえばいいものをと、思わないではない。しかし、その悪女に虐げられること、あるいは、奉仕することに、男は快感を感じている、このように読める。いってみれば、マゾヒズム小説、ということになる。

以上の二つのことを思ってみる。

やはりこの作品は、谷崎潤一郎の代表作の一つといっていい。ただ、ナオミというような希代の悪女のことを除いて、随所に書き込まれた、その当時の時代背景、風俗的描写、このあたりも、興味深いところがある。そして、日本趣味と西欧趣味とが、渾然となっている。このところも、谷崎ならではの文学世界といっていいのだろう。

そして、感じることは、『痴人の愛』のナオミと、『細雪』の雪子と、対照的な女性ではあるのだが、どこか通じるところがあるのかもしれないということである。男を虜にする魅力ということでは、通い合うところがあると感じる。いずれも、谷崎潤一郎の描き出した女性の姿ということにはちがいないが。

2022年1月17日記