『星落ちて、なお』澤田瞳子2021-07-31

2021-07-31 當山日出夫(とうやまひでお)

星落ちて、なお

澤田瞳子.『星落ちて、なお』.文藝春秋.2021
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163913650

第一六五回の直木賞作品ということで読んでみることにした。なるほど、この作品が直木賞に選ばれるのは理解できる。

河鍋暁斎……若いころ、どこだったか美術館で、その展覧会を見たという記憶はあるのだが、はっきりしない。近年になって評価の高くなっている画家であるという印象は持っていたのだが、そう詳しく知ろうと思ったことはなく、すぎてしまっていた。

小説は、明治二二年、河鍋暁斎が亡くなったときからスタートする。主人公は、その娘のとよである。

読んで思うこととしては、次の二点ぐらいを書いてみる。

第一に、家族の物語であること。

河鍋暁斎の娘として生まれた、とよ。おおむねそのおいたちからはじまって、晩年にいたるまでを描いている。その周囲に登場するのは、河鍋暁斎の子どもなど。とよにとっては、きょうだいになる。その家族の絆、というよりは、同じ画業にたずさわるものとして、あるいは、河鍋暁斎の血をひくものとしての、愛憎劇といった方がいいだろう、その心情の交錯が描かれる。

第二、画鬼。

河鍋暁斎は、「画鬼」として出てくる。ある種、芸術至上主義であるともいえるし、あるいは、古風な狩野派の流れを頑として墨守しようとした、頑固さもある。その子どもたち……とよをふくむ……は、その死後も、自由にはなりえない。生きていくうえで、何かしら、河鍋暁斎にあやつられているようなところがある。その束縛から自由にはなれられないといってもいいだろうか。

以上の二点を思って見る。

家族の物語であり、画業の物語として、この小説は、明治の半ばから、大正の終わりごろまでの時期を、東京を舞台に、四季折々の風物、時代の出来事をなどをおりまぜながら進行していく。

この小説に、実は河鍋暁斎は登場しないといってもよい。その死後からスタートしている。だが、この小説の全編にわたって、河鍋暁斎の影が映り込んでいると感じる。死後もその影響から自由になることができなかった、子どもや縁者の物語である。

画鬼を父にもつことになった娘のとよの人生を追っているのだが、はたして、その人生は苦悩だけだったのか、喜びがないわけではなかったろう、が、それは、まさに業として背負っている画業のなかにしか見いだせないものでもあった。

ところで、この作品を読みながら、知らないことばがいくつか出てきたので、調べながら読むことになった。澤田瞳子の文章は、芯がしっかりしていると同時に、よどみがない。そして、ことばの選び方が的確である。時代小説という流れのなかにあって、独自の作風を確立しているといっていいのではないかと思う。

2021年7月29日記

『見知らぬ人』エリー・グリフィス2021-07-30

2021-07-30 當山日出夫(とうやまひでお)

見知らぬ人

エリー・グリフィス.上條ひろみ(訳).『見知らぬ人』(創元推理文庫).東京創元社.2021
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488170035

文庫本の帯には、「この犯人は見抜けない」とある。これはそのとおりである。古典的なフーダニットの作品である。だが、いったい誰が犯人か……読んでみて、あまり意外性は感じなかった。また、理詰めで、犯人を探索していくというタイプの作品でもない。

私が、この作品を読んで感じるのは、特に英国ミステリがもっている、文学的重厚さとでもいうべきものである。古典的なミステリの枠組みでありながら、同時に、ビクトリア朝のことが、色濃く投影されている。むろん、シェークスピアなどからの引用に満ちてもいる。

一方で、現代の小説ということで、社会における多様性の尊重ということが、作品の重要なモチーフにもなっている。

このような作品を読むと、英国という社会の、あるいは、少なくともミステリという文学のもっている、歴史と文学的厚みというものを、強く感じることになる。これは、残念ながら、あまり現代日本のミステリには感じられないものでもある。(強いていえば、北村薫ぐらいの名前が思い浮かぶが、しかし、ゴシックロマンという傾向の作家でない。)

ミステリというよりも、現代英国における、小説、文学の面白さを感じさせる作品である。(さて、これが今年のミステリベストにはいるかどうか、ちょっと微妙なところかなと思ったりもする。)

2021年7月27日記

プロジェクトX「われら茨の道を行く」2021-07-29

2021-07-29 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX われら茨の道を行く 国産乗用車攻防戦

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月24日
プロジェクトX「トランジスタラジオ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/24/9401070

この回は、国産乗用車、トヨタのクラウンの開発物語。

見て思うことはいろいろあるが、二点ばかり書いてみる。

第一には、技術開発について。

クラウンの開発には二つの側面があるだろう。

一つには、戦前からの技術の継承。特に、飛行機……具体的には軍の戦闘機ということになるが……の技術の継承という面。

二つには、それでも日本独自の技術開発の苦労。番組では、ほとんどゼロからの技術開発ということで描かれていたが、確かに、クラウンを開発するにあたって、相当の苦労と工夫があったろうことは、よくわかる。そして、その開発の物語は、感動的でもある。

第二には、その技術の寿命について。

今では、世界の自動車の流れは、電気自動車の方向に向かっている。ガソリンエンジン車の時代ではない。たしかにクラウンは、ガソリンエンジン車としては、国産のトップであり、世界でもトップクラスの自動車であったかもしれないが、この先どうなることだろうか。トヨタという会社が自動車の会社として生き残るためには、電気自動車しか道はないはずだが、はたしてどうかという気がしないでもない。

とりあえず、以上の二点のことを思って見る。

それにしても、この番組の終わりが印象的であった。クラウンを開発して、その後、技術開発に取り組んだ結果が、ハイブリッド車であった。番組は、二〇〇四年の放送なので、まだ、今のように電気自動車の方向が明確にはなっていない時代である。ハイブリッド車が、先端の技術であったころのことになる。

私は、クラウンを運転したことはない。特に乗ろうと思ったこともない。もし、電気自動車のクラウンの時代になるとしても、たぶん乗らずに終わるかと思う。いや、その時代まで生きていて、運転をつづけていられるかどうかという気にもなる。

この「プロジェクトX」も、再放送は続きそうである。たぶん、この番組の背景にあるのは、ノスタルジーだろうと思う。かつての、戦後の復興の時代、何もかも失ったときから、高度経済成長への時代への、日本の良かった時代、その時代への郷愁というようなものを感じる。これはこれとして悪いことではないと思うが、では、これからの先の将来の日本のあるべき姿を、どのように展望するかということが、問題としてはあることになる。過去への郷愁だけからは、何も生まれない。脱炭素は、日本の再復興の灯か、それとも、凋落への弔鐘か。

2021年7月28日記

ニワゼキショウ2021-07-28

2021-07-28 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日はニワゼキショウである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月21日
桔梗
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/21/9400088

ここしばらく、日中は暑い。というよりも、熱い。あまりカメラを持って外を歩く気になれないでいる。撮りおきのストックからである。

ニワゼキショウの花のことを覚えたのは、いつごろのことだったろうか。今のところに住まいするようになって、身近に咲く草花を目にするようになってからのことである。(東京に住んでいたときには、この花のことは知らなかった。)

初夏のころになると、空き地や路傍に花をつける。散歩の途中などで、気づいて写真に撮る。あるいは、他の花を撮ろうと思って外に出て、ついでに写真に撮ってみる、そんな感じの花である。特に、この花のことを写真に撮ろうと思って出ることはあまりない。

見ていると、かなり花の時期は長い。初夏のころ、かなり長く花をつけている。それも、場所によって、微妙に花の色や大きさなどが異なる。写真に撮っておいて、後から見て、その違いに気づくことが多い。

今年はというと、カリンやスイカズラの花を撮ろうと思って出たついでに写していることが分かる。写真の記録につかっているSDカードを順番に見ていくと、どの花をどの順番で写しているか分かる。

今、庭に出ると、万両の小さな白い花が咲いているのを目にする。これが、これから青い実になって、冬になると赤くなる。紫陽花の花はもう終わりである。百日紅の花がそろそろ咲くかと思って見ているのだが、今年はまだ咲かないようだ。

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年7月27日記

『氏名の誕生』尾脇秀和2021-07-27

2021-07-27 當山日出夫(とうやまひでお)

氏名の誕生

尾脇秀和.『氏名の誕生-江戸時代の名前はなぜ消えたのか-』(ちくま新書).筑摩書房.2021
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480073761/

面白く、刺激的な内容の本といえるだろう。(あるいは、歴史学に造詣のあるひとならば、とっくに承知のことであるのかもしれないが。)

近代……明治維新の後……日本人(この場合には、「日本人」といっていいと思う)の「氏名」が、戸籍の制度の必要から、半ば強制的につけられていった経緯、そして、それは、それまでの江戸時代までの人の名前の常識からすると異なるものであった、このあたりのダイナミックな歴史を分かりやすく解説してある。

人間の名前は、生まれた時に親がつけるもので、それは一生変わらないものである。また、名前は、苗字と名から構成される……このようなことが一般化するのは、明治なってからのことである。それまでは、人の名前というのは、一生のうちにおいて、様々に変わりうるものであり、ある意味で自由なものであった。それが、明治維新になって、王政復古ということで、京都の公家の間での名前の風習が、武家式の名前のあり方に、影響を与えるようになる。

読んで面白いと思って点としては、次の二点ぐらいをあげておくことにする。

第一には、明治維新のドタバタ騒ぎである。

明治維新は、新しく近代国家を作っていくプロセスであると同時に、王政復古として、旧来の昔に帰そうとという動きもあった。両者の関係のなかで、様々な混乱が生じる。この本でとりあげてある人の名前のルールなどは、その最たるものかもしれない。明治維新が、どれほど、混乱をきわめてものであったか、この観点から見ても、非常に面白い。

第二には、江戸時代の身分制度の自由さである。

一般のイメージとしては、近世までは身分社会で、いわゆる士農工商として、がっちりとした身分秩序があった、そう思われている。しかし、実は、江戸時代の身分というものは、かなり流動的なものでもあった。それに応じて、人の名前も、かなり自在に変わりうるものであった。

以上の二点ぐらいが、特に興味深いところかと思う。

だが、はっきりいって、近世以前の人名のルールは、かなりわかりずらい。それが、武士を中心とした名前のルールと、公家たちのルールが異なるものであったことは、興味深い。また、農民、庶民の名前も、また、かなり自由なものであったことが知られる。

人名について、今のわれわれが持っている、唯一無二という性格は、かなり近年になってからものである。名前のありかたも、歴史とともに移り変わる。

この本は、そのことを意図して書かれたものではないが、いわゆる夫婦同姓ということも、制度的にきまったのは、新しいことになる。日本人の誰でもが苗字を持つようになっても、夫婦は別姓があたりまえであった。それが、民法の制定以降のこととして、同姓ということになった。これは、日本の人びとの歴史からするならば、つい最近の出来事にすぎない。

夫婦の同姓、別姓の議論についても、また、一人の人間の名前を戸籍に一元的に管理するシステムのあり方についても、さらには、最近の話題としては、戸籍に読み方の情報をつけようとする動きについても、とにかく、現代の日本人の名前をめぐる議論を考えるうえでは、一読の価値のある本だと思う。

さらに書いてみるならば、人名の漢字とか、あるいは、行政用の漢字……これらのことを考えるときに、そもそも日本人の人名はどのような歴史があるのか、ちょっと振り返っておく必要があるとも思う。その読みや表記について、現代の法的な制度のなかでだけ考えるのではなく、過去をふりかえって、なぜ、こうなっているのか考える視点も必要である。

2021年7月9日記

「中央公論」8月号「教養と自己啓発の深い溝」2021-07-26

2021-07-26 當山日出夫(とうやまひでお)

中央公論2021年8月

中央公論 2021年8月 教養と自己啓発の深い溝

基本的に雑誌の類は、読まないのだが、この号の「中央公論」だけは特集に関心があったので買って読んでみた。

知識の豊かさが本質ではない 村上陽一郎
修養ブームが生み出した潮流 大澤絢子
格差ゆえに教養が求められた時代 福間良明
「ビジネスマンの教養」の系譜と現在 牧野智和
新たな知の共同体を作れるか 隠岐さや香
独学のススメ 読書猿

付箋をつけた箇所を引用してみる。

自己啓発と教養には、個人の問題なのか、知の共同体かという前提の違いがあると思う。
隠岐さや香 pp.66

真面目な話、まともな書物を一冊ちゃんと読めば、その書物が検索エンジンで収集できる情報のみでできていると信じることはおよそ不可能でしょう。
読書猿 pp.75

「古典は本当に必要なのか」という議論がある。否定論の言い分としては、古典教育は、個人の利益に資するものでなければならないという。具体的にいうならば、それを勉強することによって、年収が上がるということである。また、国家レベルでは、GDPの増大に貢献しなければならない。(みもふたもないいい方になるが、このような議論が堂々と語られる時代になったことはたしかである。)

それに対していろいろと反論はあるが、その一つの論点は、教養としての古典という観点である。

少なくとも数十年前までは、古典……日本のみならず外国をふくめてよいが……についての造詣があることは、教養の中核をしめる部分であった。それが、今はどうだろうか。古典についての好き嫌いはあるかもしれないが、教養として必須であるという価値観は、かなり薄れてきているといっていいのではないか。

教養とはなにか、あるいは、その教養に何をもとめるのかは、時代とともに変わっていく。その時代の変遷のなかに、古典もあると、私は考えている。

「中央公論」を読んでみて思うことであるが、上述の、時代とともに教養にもとめられるものが、変わっていくのであるということへの切り込みが浅いように感じられてならない。まあ、確かに現代においては、社会で生きていくうえにおいて、コンピュータのスキルは必要になってきてはいるだろう。だが、それを、人格を豊かにするものとしての教養といっていいかどうかは、また別の問題があるように思う。

ここで、「人格を豊かにする」と書いてみた。これは、教育、特に教養教育についていえることだろう。だが、教育に何を求めるか、ということも、時代とともに変わりつつある。「古典は本当に必要なのか」の議論は、教養とは何か、教育とは何か、という議論とふかくかかわってくることは確かなことである。

2021年7月25日記

『おかえりモネ』あれこれ「気象予報は誰のため?」2021-07-25

2021-07-25 當山日出夫(とうやまひでお)

『おかえりモネ』第10週「気象予報は誰のため?」
https://www.nhk.or.jp/okaerimone/story/week_10.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月18日
『おかえりモネ』あれこれ「雨のち旅立ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/18/9399169

この週から東京編である。東京に出てきて怒濤の一日だった。

印象に残っているのは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、百音のこと。

この週で描いていたのは、実は、時計のうえではほとんど一日のことにすぎない。東京に出てきてお風呂屋さんのシェアハウスについてから、会社の下見に行って、テレビ局につれていかれて番組にたずさわることになる。帰ってきたと思ったら、またテレビ局。結局、家に帰ってコインランドリーで洗濯するまでの、ほぼ一日のことであった。

この一日の間で、百音はいろんなことを学ぶことになった。テレビ局の気象情報の裏側、ニュース番組製作の現場、そこにうずまくいろんな人間模様。

一日の体験は、百音にとって、貴重な体験であったにちがいない。

第二に、テレビ局のこと。

ドラマだから架空のテレビ局であるが、かなりNHKのことは意識して作っているのだろうと思う。(これまでの間、コマーシャルの時間のことが出てきていない。普通のニュース番組だと、天気予報の前後のコマーシャルが入るのが普通である。)

なかで印象的だったのは、朝岡のことばである。番組の内容を変更するかどうかの判断のときに、きっぱりと、責任はとりますと言っていた。また、天気予報は、誰のための報道であるのかについても、なやみ、そして、示唆するところがあった。

その他、実際のテレビ局で、ニュース番組を作っている現場が、かなりリアルに描写されていたと思う。

以上の二点が印象に残っていることである。

それから書いてみるならば、テレビ局においてあった、ディスプレイになる机。これは、面白いと思って見ていた。実際に使われているものなのであろう。

コサメちゃんと傘イルカくんもよかった。これから、百音の天気予報には登場してくることになるのかもしれない。

それにしても、最後のコインランドリーでの菅波とのすれちがい。これは見ていてもどかしい。が、これも、次週には何か発展があるようだ。

次週以降、気象予報士としての百音の生活がはじまることになるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2021年7月24日記




プロジェクトX「トランジスタラジオ」2021-07-24

2021-07-24 當山日出夫(とうやまひでお)

プロジェクトX トランジスタラジオ 営業マンの闘い

前回は、
やまもも書斎記 2021年7月17日
プロジェクトX「オートフォーカスカメラ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/17/9398803

私が今つかっているソニーの製品としては、Walkmanがある。(以前は、パソコンはVAIOだったのだが。)だが、そのどこを見ても、「MADE IN JAPAN」の文字はない。いや、どこで作っているの表示がまったくない。もう「MADE IN JAPAN」とする価値、どこで作ったものなのか示す必要は無いのかもしれない。「SONY」というブランドがあれば十分ということなのだろう。

だが、それも二一世紀の今日なってからの状況である。かつて、「MADE IN JAPAN」は粗悪品の名前だった。それを、すぐれた工業製品のブランドにかえていったのが、戦後の日本の高度成長経済の時代であった。そして、それを象徴するものとして、ソニーのトランジスタラジオがある。

この番組ではあえてそのような方針で製作したのだろうが、トランジスタラジオを作った技術の問題は、まったくとりあげることがなかった。それよりもメインにあつかっていたのは、そのすぐれた製品を、アメリカ、ヨーロッパに売り込んでいった、営業マンたちの奮闘の様子であった。

なるほど、いわれてみればそうである。いくらすぐれた工業製品をつくったところで、それを売る人間がいなければ、どうにもならない。この意味では、営業マンに焦点をあてた、この放送の企画の意味があろうかというものである。

ところで、トランジスタラジオもまた、戦後の日本の人びとの生活のなかにあって、大きな役割をはたしたものの一つである。だが、これもいまではほとんど消え去ってしまっている。今、ラジオを聞こうと思えば、パソコンで聞く、スマホで聞く、という時代かもしれない。せいぜい、自動車を運転しながらであろうか。一方、ラジオドラマ、オーディオドラマは、今でもつづいている。たぶん一〇年以上前に買ったラジオがまだつかえるはずである。出してきてホコリをはらって、電池をいれてみようかと思う。ソニー製である。

2021年7月23日記

追記 2021年7月29日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年7月29日
プロジェクトX「われら茨の道を行く」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/29/9402708

新・映像の世紀(6)「あなたのワンカットが世界を変える」2021-07-23

2021-07-23 當山日出夫(とうやまひでお)

新・映像の世紀 あなたのワンカットが世界を変える~21世紀の潮流~

続きである。
やまもも書斎記 2021年7月
新・映像の世紀(5)「若者の反乱が世界に連鎖した」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/07/16/9398517

この最終回で描いていたのは、二一世紀のあたらしい「映像の世紀」の時代の幕開け。放送は、二〇一六年である。今から、五年前のことになるが、見ていて、もう過去のことになってしまったという印象をもつシーンがいくつかあった。が、一方で、それらの映像は、今でも生々しく歴史の証言でありつづけている。

二〇〇一年九月一一日、日本時間では夜になるが、たまたまテレビを見ていた。ニュースの時間で、アメリカで何か事件がおこったらしいというので、そのまま見ていた。そして、アメリカでの同時多発テロの、二機めの飛行機がビルにつっこむシーンを、中継でリアルタイムで目にしたことになる。このときは、この事件のもつ歴史的な意味とでもいうべきものは、分からなかった。それが、明らかになってくるのは、後日……それも、かなり年月がたってからのことになる。いや、このことについては、今でも、答えがあるということはなく、その問題を引きずって今の国際社会があるといってもいいだろう。

そういえば、アラブの春ということもあった。しかし、これは、混迷を深める中東情勢のなかで、決着点が見いだせないままでいる。

二一世紀になって、「映像の世紀」は大きく変わった。

その一つは、スマートフォンの登場である。だが、番組では、このことについて、触れることがなかった。スマートフォン(iPhone )を作ったのは、アップルであるが、このことへの配慮であったのかもしれない。

そして、番組で触れていないことがある。YouTubeについては、言及があったが、しかし、これが、今では、グーグルのものであることについては、触れていなかった。世界最大の映像プラットフォームが、アメリカの一企業のものであることは、これはこれとして、考えておくべきことかもしれない。

そして、さらにいうならば、YouTubeが自由につかえない国がある。Twitterもつかえない。中国である。このことについても、新たな「映像の世紀」を考えるとき、考えておくべきことかもしれない。

さて、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と再放送をずっと見てきて思うことはいろいろとある。最初の「映像の世紀」においては、何よりも、昔の映像資料を発掘してくる、物珍しさというものがあったように思える。こんな映像がのこされていたのか、という興味である。これは、これとして、時代のことを考えるならば、悪いことではない。

それが、「新・映像の世紀」になると、歴史を見る目が、ずっと批判的になる。なぜ、今の世界はこのようであるのか……についての問いかけの姿勢がある。映像からさぐるとしても、それは、第一次世界大戦のあたりまでさかのぼることになる。今の中東情勢の要因をさぐってみるならば、第一次世界大戦のあたりから考えてみなければならない。

ただ、「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、不満に思うこととしては、中国のことにあまりふれていないことである。映像資料がないわけではないだろう。だが、これも、今の国際情勢、日本と中国の関係などを勘案すると、中国の二〇世紀を「映像の世紀」として描くのは、難しいことなのかもしれないと思う。この時代は、まさに中国共産党の歴史と重なる。

中国のことを描いた「映像の世紀」がつくられるのは、もうちょっと時代が変わってからにならざるをえないかとも思う。(いつまでも、今の中国の国家体制がつづくとは私は思っていない。だが、その変化のときまで生きていられるかどうかは、分からないと感じるが。)

ともあれ、集中的に「映像の世紀」「新・映像の世紀」と見てきて、歴史というものへの見方が、少し変わったような気がする。今の世界がこのようであるのはなぜか、その問いかける姿勢は、(その語ることに賛否はあるかもしれないが)これはこれとして、きわめて貴重なものであると感じる。

2021年7月22日記

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ2021-07-22

2021-07-22 當山日出夫(とうやまひでお)

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ブレイディみかこ.『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮文庫).新潮社.2021 (新潮社.2019)
https://www.shinchosha.co.jp/book/352681/

話題になっている本と思ってはいたが、なんとなく手を出さずにいた。文庫本になったのをきっかけに読んでみることにした。なるほど、この本がベストセラーになるのは、理解できる。

著者は、いわゆる日本人であるが、英国で結婚して、そこで働いて子育てをしている。その現地の生活の視点……強いていえば労働者階級ということになるが……から、英国の社会の様々な問題を描き出している。

読んで思うことは、次の二点ぐらいであろうか。

第一は、読み物として面白いことである。

とにかく、読んで面白い。これにつきる。著者の夫婦は、その子どもを、地域の、元底辺中学校に通わせることになる。そこでおこる様々なできごとが綴られるのだが、なるほどいろいろと大変なことがあるよなあ、と共感して読んでしまう。無論、日本と英国と、国情がおおいに異なる。同じものさしではかることはできないのだが、しかし、子育ての苦労、そして、中学にはいり自立していく子どもの姿、これがどことなくユーモアのある筆致で描かれている。これが、読み物として非常に面白い。

第二は、さまざまに考えることの多い本であること。

PC(ポリティカルコレクトネス)というが、どの社会環境において、どのような価値観が、PCであるかは、多様性がある。社会の多様性を重視するといっても、では具体的にどうすればいいのか、その状況によって判断していかなければならない。

そこで重要になることとして、著者は、「エンパシー」……シンパシーではなく……といっている。異なる立場の身になって考えてみること。端的に、これを、「他人の靴をはいてみる」こと……といっている。

日本において考えるPCと、英国ロンドンの労働者階級のなかで考えることになるPCでは、おおいに違う。だが、そこに共通していえることは、自分は何者であるかの認識と、自分とは異なる人びと……ジェンダー、人種、国籍、社会的階層、文化など……への、「他人の靴をはいてみる」という配慮である。

これは、おそらくは、今の日本において、あるいは、これからの日本において、きわめて重要な視点になることである。

以上の二点のことを、思ったことして書いてみる。

この本が文庫本になって多くの人びとに読まれるようになるのは、よろこばしいことといっていいだろう。

2021年7月16日記