『べらぼう』「願わくば花の下にて春死なん」2025-07-14

2025年7月14日 當山日出夫

『べらぼう』「願わくば花の下にて春死なん」

この回の演出は、かなりオーソドックスな構図で撮ってあったが、やはり、画面が暗い。夜の室内の行灯の明るさ、提灯の明るさ、まあ、実際にはもっと暗かったはずだが、これまでの時代劇ドラマでは、あえて明るい照明にしてあった。それが、この『べらぼう』では、可能な限り、室内の特に夜のシーンは、暗く撮影する方針である。(日曜日の昼に、4Kで『八重の桜』から続けて『べらぼう』を見ているので、その画面の暗さが非常に印象に残る。)

また、あえて逆光で人物を撮っている。室内で、障子を背景にしてということであるが、人物の表情が分かる範囲で、暗く写している。背景が障子であるから、その紙があることが感じられ、人物の表情も見える、このギリギリのラチュチュードの範囲で、照明と構図が考えられている。このような撮影が可能になっているというのは、やはり撮影機材の技術の進歩、テレビの性能の向上ということがあってのことになるだろう。

天明の飢饉である。これまでずっと思ってきたことなのだが、飢饉となって、地方の農村部では飢え死にというようなこともあったらしい。そのなかで、少なからぬ人びとが、村落を離れて江戸市中まで流れてくる。無論、江戸市中では米はとれない。だが、江戸には米があった、ということなのだろう。この時代、米の生産と流通は、実際にはどうなっていたのだろうか。米の生産をしている農村部で飢餓状態になるが、都市部では生きのびることができたということになる。それだけ、強引に年貢米をとりたてて江戸に集積していたということでいいのだろうか。また、米を作らない漁民などは、どうしていたのだろうか。(中世から近世にかけての、さまざまな歴史の勉強ということになるのだが、もうこの年になると、本を読んでみようという気にもならないでいる……)

お米の流通を、(今でいう)マーケットの論理にまかせておくと、安売りで顧客獲得のために値段が下がると思っていたのが、逆に、高騰してしまう。世の中とは、こんなものだろう。

大坂でお米の業者がつぶれて、幕府がそれを買い上げて、江戸で売る。市場への政府の介入である。江戸まで運ばなければならないが、その輸送コストは、かなりかかったかもしれない。

これも、日本では、食管法があった時代は、政府は農家から高く買って、消費者に安く売る、ということがあった。これは、さんざん批判されて、今のように、自由な市場になったのであるが、輸入については、厳しく制限がある。私の世代だと、お米の通帳、というのをかろうじて記憶していることになる。

江戸時代の人たちは、いったいどんな食事をしていたのだろうか。こういうことについては、江戸城とか、吉原とかで、どんな料理があったのかは、分かることかもしれないが、一般の人びとのことは、記録に残りにくい。江戸時代には、多くの料理本も刊行されているのだが、それに掲載されているような料理を、一般の人びとが日常的に食べていたというわけではなかっただろう。

江戸城内の刃傷事件というと、どうしても元禄時代の赤穂事件、つまり忠臣蔵の事件のことを思ってしまうが、田沼意知も切りつけられたことになる。この事件の真相はよくわかっていないことかと思うが、ドラマとしては、恨み辛み(それが誤解であっても)の積み重なったあげくのことであり、さらには、これは背後に策謀した人物がいたらしい、という、まあ陰謀論的な筋書であった。これは、ドラマとしては、よく考えてあるとは思う。狩りの場面での雉のエピドードは、なんかうさんくさい。陰謀にまんまとはめられたようである。これなら事件がおこっても、そうだろうなあと思うことになる。

意知の事件と、誰袖のこと、これをたくみに描いていたが、これは上手に作ってあると感じた部分である。

世の中が飢饉で景気が悪くなると、逆に、吉原が活気づく……こういうこともあったと思うのだが、あまり吉原の歌舞音曲を強く表現するところはなかった。

普通の着物(吉原の花魁姿ではない)誰袖が、とても美しく可愛い。

この回の演出でうまいと思ったこととしては、田沼意次が白眉毛の言ったことを思い出す(金は食えない、役に立つのは米である)シーン、それから、系図の巻物を池に投げ入れるシーン、これを台詞の説明だけにして、映像としての回想場面にしていなかったことである。見ている人は、これらのシーンを覚えているはず、これは、視聴者に対する信頼感というべきだろう。

来週は選挙のためお休みである。これからどうなるのだろうか。

2025年7月13日記

『八重の桜』「薩長の密約」2025-07-14

2025年7月14日 當山日出夫

『八重の桜』「薩長の密約」

幕末の歴史においては、薩長同盟ということが大きな転機になったことは確かなのだが、誰がどう判断してこういうことになったのか、いろいろと考えるべきパラメータが多くて、よく分からないところがある。普通の幕末ドラマだと、ここで坂本竜馬の活躍ということである。だが、この『八重の桜』では、坂本竜馬は出てこない。いや、出てはくるのだが、この回で、土佐藩脱藩浪士として背中が映るだけである。これはこれで、一つのドラマの作り方だと思うが。

西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、といった志(といっていいだろうか)は、薩摩とか長州とかの藩をこえて、日本のことを考えている。会津藩においては、覚馬は日本という国ことを考えることができるようだが、その他の家臣たちは、会津藩のことしか見えていない。藩主の松平容保は、朝廷・孝明天皇への忠誠心はあり、幕府への忠義もあるのだが、今のところ、これは、公武合体という名前のもとに、なんとかバランスが保たれている。幕府は、家茂が亡くなり、慶喜が宗家を継ぐのだが、将軍は空位でいいと言う。なんだか、カオスというべき状態である。

八重のことはほとんど出てこなかった。

新島襄は、アメリカのボストンに着いた。さて、新島襄は、どのルートでアメリカに渡ったのだろうか。このあたりのことは、調べれば伝記として明らかになっていることだろう。ただ、太平洋を横断してアメリカに行ったのではないことになる。

2025年7月13日記

所さん!事件ですよ「まさかの盗難も!?中古自動車ブームの裏側」2025-07-14

2025年7月14日 當山日出夫

所さん!事件ですよ まさかの盗難も!?中古自動車ブームの裏側

たまたまテレビをつけたら放送していたので、なんとなく見ていた。

かなり前のことになるが、家の近くの駅の近い駐車場で、34のナンバーをつけた、GTRを見かけたことがある。これは、分かる人にしか分からないが、こういうのが好きな人もいるものだなあと思って見ていた。

GTRに乗りたいために、日本にやってくる観光客がいるということは知らなかった。まあ、確かに、魅力的なクルマだろうとは思うが、そうまでして乗ってみたいと思う気持ちが私には分からない。(まあ、私自身でも、使っているカメラとして、Nikonの一眼レフを手放せないのは、そのシャッター音の良さの魅力があるから、というようなこともあるのだが……)

日本の中古車が、アフリカとか、ロシアとかに、大量に輸出されていることは知っていたのだが、それにパキスタンの人がたくさんかかわっているということは知らなかった。たまたまのきっかけがあってのことのようなのだが、これは、世界におけるパキスタンの人びとのネットワークの強さということになるだろう。日本の中古車販売以外でも、このような人的ネットワークのビジネスの分野があるにちがいないと思うが、どのようになっているのだろうか。

世界で日本の中古の自動車が売られて走っているということは、そのメンテナンスのための各種の部品を提供するサプライチェーンがあるということになると思う。一般には、新しい新車の製造のための原材料から部品供給のサプライチェーンが、話題になることが多い。だが、実際に走っている自動車を維持するためには、中古車部品をふくめて総合的にどうなっているのか、全体はどうなっているのか、ということになるはずである。これが、もし次世代の電気自動車に変わってくるとすると、はたしてどうだろうか。ガソリン自動車は古くなってもメンテナンスすれば乗れるが、古くなった電気自動車はどうだろうか。バッテリーの劣化は致命的だと思うが、そのリサイクルなど、世界的にはどう考えることになるのだろうか。

2025年7月13日記

『あんぱん』「いざ!東京」2025-07-13

2025年7月13日 當山日出夫

『あんぱん』「いざ!東京」 

このドラマは、それぞれのシーンを見ると、よく作ってあると感じるところが無いではない。しかし、とおして見て、何かうったえるものがあるかとなると、はっきりいってほとんど何も感じない。もう駄作といっていい。

嵩はのぶのはたらきで、新聞社に入社することができた。このプロセスが不自然である。新聞の原稿に穴があきそうになって、急遽、うめぐさとしてイラストを使うことになり、嵩が呼ばれて、その結果として新聞社に採用ということだった。

新聞社で余分な原稿の用意がまったくなかったとは考えがたい。普通に考えて多めに取材して原稿を書いて、それを整理して紙面にするはずである。何かあったときの差し替えようの原稿をキープしておくぐらい、新聞編集の常識だろう。それをイラストで埋めるというのが、おかしい。これは、紙面のデザインをまったく破壊することになる。新聞の紙面とは、記事の配列をかなり考えて作ってあるはずである。文字の記事が、イラストに変わるということは、ありえないだろう。イラストは四角でなければならないが、もともと新聞の文章は四角になるように配置しないものである。(少なくとも私の知る限りの新聞の紙面のデザインはそうである。)

嵩が描いたイラストをすぐに印刷にまわすことは無理である。この時代の新聞は活版印刷である。そこにイラストをはめ込もうとすると、そこの部分だけ凸版に作って組版しなければならない。このイラスト用の版を作るのにどれだけ時間がかかったか、私は素人だから知らないが、紙に描いた原稿があればすぐに印刷できるということは絶対になかったはずである。

「月刊くじら」の場合もそうである。急に一ページが空いてしまったので、嵩がイラストを描く。そのイラストが描き上がったときに、東海林編集長は、校了、と言っていたが、そんなことは絶対にありえない。どんなに急いでいても、かならずゲラを見て確認しなければならない。最悪の場合、イラストが上下逆になっていたりしかねない。こういうことは、印刷や本作りの常識である。責了ということはあるが、それもかならずゲラを見てからである。

新聞社で紙面にイラストを使うことはあったとしても、それは、その専門家に依頼することだったはずだが、どうだろうか。嵩のように、記者の仕事をして(これは役立たずだったようだが)イラストも描くというのは、かなり不自然な設定であると感じる。

今では、活字、というものが無くなってしまっている。見ようと思えば、印刷博物館(凸版印刷)にでも行く必要がある。活字の実物で文選(ぶんせん)・組版をしている現場の工場に行ったことがある、という経験があるのは、私ぐらいが最後の世代かもしれない。現在では、DTPの時代になって、コンピュータのディスプレイで見ているものが、そのままオフセット印刷の版下になる、という時代である。だが、それでも、印刷や出版の現場ではゲラの確認は必須であるはずである。こういう時代の流れがあることは割り引いて考えるとしても、このドラマにおける印刷の工程についての無理解は容認しがたい。

なぜならば、嵩はおそらくこれからデザインや漫画の方向の仕事をするはずである。戦後の漫画(マンガ)の歴史をたどるならば、それは、出版のメディアの歴史であると同時に、その印刷技術の歴史でもある。こういう印刷技術であるから、このような原稿が必要になる、カラーで描いた場合どれだけの色彩が利用可能なのか、この印刷技術と密接なところで、漫画(マンガ)の歴史があったはずである。それが、今では、コンピュータで原稿を描ける時代になっているし、見るメディアにもなっている。技術とメディアとコンテンツの歴史的な関係に無理解なままで、戦後の漫画(マンガ)が語れるはずがない。

のぶが新聞社に子どもたちを集めて座談会をするとき、新聞社で使っていたのはスピグラだったとおぼしいのだが、この時代の報道用の写真撮影で、室内であるならば、フラッシュが必須だったはずだと思う。また、のぶは、やわらかい光でおねがいします、と言っていたが、印刷(網目になる)すればそんなことはふっとんでしまう。この時代の写真印刷(活版と一緒に)の技術では無理である。このことは、むしろ逆に、のぶが写真と印刷について何も知らないと理解できてしまう場面である。

この時代に、非常に高額で貴重品だったライカを持って東京に行くということも、かなり無理がある。(もしものときに換金するために持っていった、ということなら別であるが、そうではなさそうである。)

戦後の闇市の様子は、高知の場合も、東京の場合も、エキストラを多く使って、売っているものもたくさん並べて、これを見ると頑張って作っているとは思う。だが、テレビの画面を見て、この時代の雰囲気というものが、まったく感じられない。

戦後の混乱、絶望、不安、しかし、新しい時代への期待と希望……いろんな感情が入り交じってかもしだされる、まさしく混沌とした時代の空気、としかいいようのないものだが、これがまったく感じられない。こういうのを見ると、もう、今では戦後という時代を描けなくなってしまったのかと、感じるところでもある。

どうしても気になるのは、新聞社の人たちの気持ちである。このドラマは、逆転しない正義、ということでスタートした。端的にいえば、戦時中の正義は、戦後になって完全に否定されてしまったということである。ここで、戦前の正義(大東亜戦争の正しさ)が、否定されていく経緯が、描かれていなかった。ただ、終戦になり、墨塗教科書があって、のぶが教師をやめた、というだけのことだった。では、どのようなプロセスを経て、別の正義が人びとに認識されるようになったのだろうか。このドラマのなかでは、当時の新聞も、ラジオも、報道映画も、なんにも出てきていない。ラジオからは、のど自慢の音楽が聞こえてくるだけである。ここは、NHKがどんな放送をして、戦争中の日本がいかに誤っていたかを国民に知らせたか、出てきてもいいところであるが、まったくない。そして、これは、戦後になればGHQの厳格な管理下でおこなわれたことであり、「放送100年」のNHKとしては、黒歴史として無かったことにしてしまいたいことなのかもしれないが。

新聞社も同様である。戦後のGHQのプレスコードがあったはずだが、これは、新聞社なら知っていなければならないことであった。しかし、一般の国民は、そんなことは知らされず、それを新しい本当の正義と理解してうけとめたことになる。

逆転しない正義……ということを言いたいのであれば、戦時中の日本政府と軍による言論統制(という名の実際には自主規制)から、GHQのプレスコードと検閲に代わったことを、新聞の現場にいる、東海林編集長などがどう思っていたか、ここは語るべきところである。これは、かならずしも、戦時中の報道についての懺悔ということではない。GHQへの不満ということでもない。新聞人としての矜恃を持った台詞がほしいところである。(NHKのスタッフには、時代に翻弄された言論人の矜恃というものが理解できないのだろうか。無理だからこんなドラマになってしまっているのだろうが。)

東京に行って、高知出身の代議士を取材するという。だが、その前に、この時期であれば、戦後の第一回の衆議院議員選挙があって、男女の普通選挙がおこなわれ、女性の代議士も当選した。のぶも選挙権はあったはずだが、選挙に行けるようになったことをどう思ったのだろうか。戦後の最初の選挙を、高知の新聞はどう報道したのだろうか。(質屋が広告料を払わないというようなことを描く閑があったら、こういうことこそ語るべきではないか。質屋のエピソードがあって、ドラマが面白くなったとはまったく思えない。)

東京に、高知出身の代議士を訪ねて取材するのはいいだろう。地元選出の代議士が、どんな活動をしているか報道するのは、地方の新聞や雑誌のつとめでもある。であるならば、まず、確認すべきは高知の地元の事務所や実家であり、いきなり東京に押しかけていくというのは、かなり不自然な気がする。それはいいとしても、そのために、「月刊くじら」の編集部の全員でそろって行くことはない。何人かは高知に残って、継続的に地元の高知の話題を取材する必要がある。この仕事をおろそかにして、地元密着の雑誌ということはできない。

余計なこととしては、「なめたらいかんぜよ」という台詞で、『鬼龍院花子の生涯』を思い出す視聴者は、もう少ないのではないだろうか。

これからどうなるかわからないが、国会議員の仕事は基本は立法である。人助けは、まず法律にもとづくべきである。(『虎に翼』で三権分立をまったく無視したAKが、さてどうするだろうかと思っている。)

2025年7月11日記

『とと姉ちゃん』「常子、職業婦人になる」2025-07-13

2025年7月13日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、職業婦人になる」

和文タイプライタというのは、1980年代ぐらいまで、かなり使われていた。大きな変化があったのは、無論、ワープロの誕生による。ワープロ専用機……オアシスとか、文豪とか、書院とか……もう、このような記憶のある人間の方が少数派になってしまっただろうか。パソコンが普及しはじめたころ、ソフトウェアとしてのワープロがあった。今では、マイクロソフトのWordの独占状態になっているが、松とか、一太郎とか(これは今でもある、現に、この文章を書いているのは、ATOKを使っている)、その他、いろいろとあった。個人的には、管理工学研究所の作った松は、非常に優れたワープロだったと思っている。この時代の製品としては、きわめてユーザインターフェースが良かった。少なくとも、私の感覚にはあっていた。

タイピスト……英文、和文……が、女性の花形職業であった時代である。かつてこういう時代があったことは確かなことである。

ちょっと気になることとしては、この週のタイトルで、職業婦人、と使ってある。タイピストは職業婦人ということでいいのだが、では、森田屋で働いている女性は、職業婦人ではないのか……つまり、働く女性=職業婦人、ではなかったということになる。強いていえば、ホワイトカラー限定、といっていいだろうか。(バスの車掌さんなどをふくめて考えるべきかもしれないが。)

森田屋のような家内労働で働いていても、働く女性と見なしてこなかった、これは、いまでもあるだろう。森田屋の仕事を見ると、若い富江などのやっていることは、男性の仕事と同等のことをしているように見えるのだが。(ここれは、女性についての労働観の歴史として、あらためてふりかえってみる必要のあることである。)

それにしても、このドラマを作ったとき、まだ稼働する和文タイプライタが残っていて、使える人がいた、ということになる。おそらく、時代的には、ギリギリのところだったかもしれない。

2025年7月12日記

3か月でマスターするアインシュタイン「第2回 光より速いものはない?」2025-07-13

2025年7月13日 當山日出夫

3か月でマスターするアインシュタイン 第2回 光より速いものはない?

第二回を見ながら思ったことを書いてみる。

もし、光よりも速いものがあって、ただ、それがまだ見つかっていない(観測できる技術がないだけ)ということになったら、はたしてどうなるのだろうか。理論的には、もし光よりも速いものがあったとしたら、ということで新たな理論を構築することになるはずであり、おそらく科学者としては考えていることなのだろうと思う。だが、今のところ、それはまだ見つかっていないので、とりあえずアインシュタインの考えたことの範囲内で説明のつくところで、満足している……やや意地悪い言い方かもしれないが、このようなことを思うことになる。

光の速度が不変である、ということについても、番組のなかでは、そう仮定すると、という言い方であった。そう仮定した場合、そのことを説明するために、「だしざん」ということを考え出した、という理解でいいだろうか。

この理屈で、現在の技術で観測できることを「合理的」に説明できるのなら、それでいいじゃないか、と思ったことになるのだが、シニカルにすぎるであろうか。無論、だからといって、反論したいわけではない。おおまかな思考の枠組み、ものの考え方について、感じることとしてなのである。

観測できていることを「合理的」に説明する理論、という枠組みとしては、はるか古代の、天動説の時代と、そう変わらないことになる。もちろん、理論的には精緻になり洗練されたものになっているのだが。(ここに、全知全能の神という存在を持ち込まないで、という条件があって、ということはいっていいだろうが。)

気になるのは、アインシュタインの考えたことを反証するためには、どういうことが証明できる、あるいは、観測できればいい、ということになるのだろうか。

光の速さを測定する実験の理屈は分かるつもりだが、光が明滅するという現象をどうやったら、その瞬間を判定できるのだろうか、そこのところがいまひとつよく分からなかった。そのときの歯車の回転速度から、光の速さが計算できるということは、分かると思うのだが。

2025年7月12日記

おとなのEテレタイムマシン「ETV2002 83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」2025-07-12

2025年7月12日 當山日出夫

おとなのEテレタイムマシン「ETV2002 83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」

録画してあったのをようやく見た。

やなせたかしについては、NHKでいろんな番組で取りあげている。これは、今から20年以上前に、やなせたかしの生前に作ったものとなる。特に、(今から見れば)晩年のやなせたかしの仕事ぶりを描いたドキュメンタリーということで、見ることができる。

非常に興味深かったのは、やなせたかしが、漫画(あんぱんまん)を描くとき、何かにとりつかれたようになる、自然と頭のなかにアイデアが浮かんでくる、というよりも、天から降りてくる、というようなことがあって、描き終わったら、自分でも何を描いたか忘れてしまって思い出せない……これは、まさに創作という仕事にかかわっている人間が経験することだろうと思う。

時間を決めて、この時間内にこれだけのことをやる、こういうことでは創作はできない。行き詰まったときは、何にも浮かんでこない。比喩的にいえば、創造の女神が微笑んでくれるのを待つしかない。

このようなことは、漫画家だけではなく、芸術などにかかわっている人なら、同じようなことがあるはずである。ただ、ドラマなどで、芸術家を描くとき、こういう部分をあまり描かないように思っている。昨年の『光る君へ』では、平安時代を生きた藤式部(まひろ)という女性の物語としては面白かったのだが、『源氏物語』を書いた紫式部の物語にはなっていなかった。

この番組のときは、「詩とメルヘン」が刊行されていた。

いくつもの仕事を同時に進めていくのだが、そのためにも、仕事部屋を分けておく、これは合理的な考え方だと思う。

2025年7月11日記

こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典 第3回 実践のヨーガ」2025-07-12

2025年7月12日 當山日出夫

こころの時代「闘うガンディー 非暴力思想を支えた聖典 第3回 実践のヨーガ」

このシリーズは見ているのだが、今一つ納得できないところがある。それは、ガンディーの政治的な側面、具体的な活動、特にメディア戦略(今のことばでいえば)について、ほとんど語ることがないからである。

糸車を回すガンディーの姿は、たしかに人間の生き方として、一つの理想を指し示しているとは思う。これは貴重だと思うのであるが、しかし、現実には、これは明確な反近代主義でもある。だが、それと同時に、伝統的なインドの価値観、特にカーストの制度に対しては否定的である。この伝統的な意識の否定と、反近代主義、そして、それをメディア(この時代であれば、新聞やニュース映画)にどう見せることになるのか、こういうことについて、どう考えていたのだろうか。

結果的にガンディーは、インド独立をなしとげる原動力となったことは確かであるので、そこから見て、理想化して見ることにはなるかとも思う。しかし、実際にインドの独立にいたる過程には、現実的な利害打算、政治的軍事的、国際政治における判断など、さまざまなリアリズムにもとづく考え方が交錯してのことだと思う。こういう部分をまったく切り捨ててしまって、その思想的な面だけをとりだして語ることには、どうしても違和感を感じることになる。

見ていて、どうにも歯切れの悪いという印象があるのは、思想と政治的活動が混在しているところで、無理矢理、思想的な部分だけを論じようとしているからかもしれない。

別にガンディーの思想を否定するつもりはないのだが、もし、結果としてインド独立ということがなかったとしたら、現代において、その思想と活動はどう評価されることになるのだろうか。

2025年7月8日記

よみがえる新日本紀行「野焼きのころ〜熊本県・阿蘇山麓〜」2025-07-12

2025年7月12日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 野焼きのころ〜熊本県・阿蘇山麓〜

再放送である。2022年。オリジナルは、昭和50年(1975)。

小学校で子どもたちが、20年後の夢を語っていたのが印象に残る。1975年の番組から、20年後であるから、1995年ということになる。日本では、バブル経済の崩壊後ということになるが、まだ、その実感はなかったかと覚えている。神戸で地震のあった年であり、オウム真理教の事件(地下鉄サリン事件)のあった年である。

看護婦さんになりたいと言っていた女の子、歌手か漫画家になりたいと言っていた女の子、自衛隊のパイロットになりたいと言っていた男の子、宮大工になりたいと言っていた男の子……みんな、その後はどうなったのだろうか。

日本の牧畜は、はたしてどうなっただろうか。国際的な環境のなかで、国内の産業として生きのこっていけるだろうか。阿蘇の草原では、放牧がおこなわれているようではあるが。

番組の始まりが、お祭りからだった。火をついた縄を振り回していたが(これはかなり危ないと思うのだが)、これを綺麗に撮影していた。この時代のテレビのカメラの技術で、夜の暗いところで、動く明るいものをとらえるというのは、難しかったはずだが。(4K放送したときに、加工してあるのだろうか。)

昭和50年のころなら、耕運機(もう今ではこういうことばをあまり使わないかもしれないが)で、干し草を運ぶということが行われていた。今では、どうなっているだろうか。

温泉のあるおかげで、岳の湯の集落もなんとかやっていけているようである。

地熱発電は、太陽光発電のように、自然環境の破壊ということは少ないだろうから、もっと実用化されればいいと思うのだが、全国のどこでもというわけにはいかないだろう。

2025年7月9日記

新日本風土記「軽井沢の夏」2025-07-11

2025年7月11日 當山日出夫

新日本風土記 「軽井沢の夏」

再放送である。最初は、2023年9月5日。

軽井沢が明治になってから、西洋人によって発見された別荘地であるということは、よく知られていることであろう。現代にいたるまで、日本における避暑地、別荘地として屈指の場所といってよい。

見ながら思ったことを書いてみる。

最初に出てきた、西村伊作(文化学院の創設者)の残した別荘は、洋風の建物になっている。これは、作ったままではなく、後に立て直したものもあることになるのだろうが、欧米式のスタイルである。ただ、ここで、質素な生活、と言われても、近代の日本の庶民の生活感覚からすれば、とても「質素」などと言うべきものではない。おそらく、軽井沢の近隣の農山村は、かなり貧しい生活があったにちがいないが、そのような人びとのことは、西村伊作の目にははいらなかった、透明な存在、であったのだろう。

川端康成、室生犀星の別荘は、和洋折衷であり、畳の部屋がある。日本的な生活様式としては、夏の間は、畳の部屋でねっころがりたい、ということだったかと思う。(ちなみに、このような和洋折衷の建築様式の歴史は、興味深いところである。近年では、高齢者向けの住宅の設計としては畳の座敷は敬遠されがちかと思う。畳の上に座る時代ではなくなってきているということである。今、この文章を書いている私自身も、リビングのテーブルで椅子に座って書いている。使っているVAIOにWi-Fiがつながっていれば、特に書斎の机である必要はない。)

川端康成や室生犀星の別荘の所有と管理は、今はどうなっているのだろうか。

軽井沢商店街のビジネスは、夏の間の避暑の人を相手にしてのものである。近年では、観光客もある。季節限定であり、お金持ちの多い地域かと思うので、商品単価はかなり高く設定してあってもいいのかもしれない。

その一方で、夏以外のオフシーズンの様子はどんなだろうという気がする。おそらくは、多くの商店が店を閉め、地元の人たちのための店舗だけが営業しているということになるのだろう。私としては、このオフシーズンの様子の方が興味がある。また、この時期に、別荘を管理するために働いている人たちがいるはずで、その仕事がどんなであるか、これは知りたいと思う。

浅間山のふもとである。火山噴火の被害は、歴史的に繰り返してきた地域である。その災害の歴史ということは、どのように記録され、伝承されてきているのか、災害史という視点からは、重要な土地であろう。

アメリカ軍の演習場を作る計画があったのは、この時代の朝鮮戦争後、東西冷戦の時代ということを考えれば、計画を考えること自体は、合理性があったと、今からなら、言うことができるかと思う。無論、これに反対する地元の人たちの理由は、尊重されねばならない。(ただ、番組のなかで、昔を語っていた男性が、演習場を基地と言っていたのは、意図的なのか、そういう認識だったのか、どうなのだろうか。)

貧しい地域だったからこそ、戦前は満州の開拓におもむくことになり、戦後は、荒廃した土地の開拓に従事することになった……この貧しさの歴史は、改めて考えるべきことだと思う。

地元のローカルテレビのこころみは面白い。だが、これがいつまで継続するか、どうか。夏に成人式をおこなうということは、人口過疎地ということである。しかし、地元に生活する人にとっては、重要なテレビということである。おそらく、地方紙(新聞)よりも、ローカルテレビ、ということなのかもしれない。この意味では、ローカルテレビの、これからのビジネスを考えることになるかとも思う。あるいは、特定の地域に話題を限定した、YouTubeチャンネルであってもおかしくない。これは、もうすでにあるかとも思うが。(このテレビ局の記録メディアは、いったい何をつかっているのか、ということも気になる。)

このローカルテレビの番組で使っていた音楽が、「となりぐみ」の曲である。戦時中の国民啓発のための宣伝の歌であるが、このメロディを堂々とつかっているという感覚が、私には、いまひとつ納得できない。この地域の人たちにとっては、懐かしいメロディということなのだろうか。しかし、戦時中の記憶につながり、封建的な村の相互監視支配システムにつながる、ということは確かだと思うのだが。

アメリカ軍の演習場に反対するという気持ちと、「となりぐみ」のメロディが、同居しているというのが、この地域の人びとの生活ということになるのだろうか。

アメリカ人と結婚して、軽井沢に移住してきた家族。地域の行事に積極的に参加している。これも、肯定的に描かれている。

だが、古くからの村落の共同体意識については、これを、封建的遺制であり個人の尊厳にそむくものとして、全力で否定してきたのが、近現代の進歩的な考え方でもあったはずである。これから、どこでどうおりあいをつけていくことになるのだろうか。

軽井沢を終の住処とする人がいてもいいと思うが、この地域としての老人の介護のサービスはどうなっているのだろうか。場合によっては、お金持ち相手の、特別の高額サービス(介護や医療)を提供する会社などがあってもなりたつかと思うが、はたしてどうなのだろうか。自宅から歩いて、日常の買物や、病院へ行くことはできないのが、別荘の地域と思う。少なくとも自分で自動車の運転をしなくても、運転手をやとえるぐらいの資産がある人でないと、ここで冬場もふくめてずっと定住するのはむずかしいだろう。

イノシシやクマが出てもおかしくないと思うが、どうなのだろうか。

近い将来、ニセコ、白馬のようになってしまうだろうかという危惧もあるのだが、杞憂だろうか。あるいは、そのきざしはすでにあるのか。

2025年7月7日記