ザ・バックヤード「天王寺動物園」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
ザ・バックヤード 天王寺動物園
天王寺動物園には、入ったことがない。我が家から比較的簡単に行けるところにあるのだが、行ったことがない。行くなら、京都の動物園か、さもなくば、和歌山の方になる。無論、パンダが目的である。
このごろの動物園、また、水族館でもそうだが、なるべく自然の環境に近い展示をしようとこころみていることは、ここでもそうである。だが、ライオンとシマウマが、同じ視野で見られることに、それほど意味があるとも思えないのだが、これは、ちょっとひねくれすぎた見方だろうか。
クロサイの行動の記録、分析は、興味深い。飼育下にある動物だからこそできる調査ということになる。おそらく、この他にも血液の検査とか、尿の検査とかも、化学的な分析は行っているのかと思うが、はたしてどうなのだろうか。
コンポストで、草食動物の糞を処理するというのは、合理的といっていいだろう。気になったのは、肉食動物の糞はゴミとして廃棄するということであったが、なぜ、そうなのか、ちょっと気になる。自然界では、草食動物の糞と、肉食動物の糞と、どういう過程で、分解されていくことになるのか、研究はあるのかとも思うが、はたしてどうなのだろうか。
2025年2月14日記
ザ・バックヤード 天王寺動物園
天王寺動物園には、入ったことがない。我が家から比較的簡単に行けるところにあるのだが、行ったことがない。行くなら、京都の動物園か、さもなくば、和歌山の方になる。無論、パンダが目的である。
このごろの動物園、また、水族館でもそうだが、なるべく自然の環境に近い展示をしようとこころみていることは、ここでもそうである。だが、ライオンとシマウマが、同じ視野で見られることに、それほど意味があるとも思えないのだが、これは、ちょっとひねくれすぎた見方だろうか。
クロサイの行動の記録、分析は、興味深い。飼育下にある動物だからこそできる調査ということになる。おそらく、この他にも血液の検査とか、尿の検査とかも、化学的な分析は行っているのかと思うが、はたしてどうなのだろうか。
コンポストで、草食動物の糞を処理するというのは、合理的といっていいだろう。気になったのは、肉食動物の糞はゴミとして廃棄するということであったが、なぜ、そうなのか、ちょっと気になる。自然界では、草食動物の糞と、肉食動物の糞と、どういう過程で、分解されていくことになるのか、研究はあるのかとも思うが、はたしてどうなのだろうか。
2025年2月14日記
英雄たちの選択「江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
英雄たちの選択 江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内
これも、『べらぼう』関連の番組の一つといっていい。だが、意図的にだろうが、蔦屋重三郎も、田沼意次も、名前が出てこなかった。
私ぐらいの世代だと、平賀源内は、学校の教科書で出てきたのを憶えている。それから、NHKのドラマ『天下御免』(調べてみると、このドラマの脚本は早坂暁である)のことを記憶している人も多いだろう。その後、平賀源内は、いろんな歴史番組などで取りあげられてきている。
高松藩の藩主、松平頼恭の作った『衆鱗図』のことは、以前にこの番組でもとりあげていたことがあった。江戸時代に、博物学に熱中した大名たちのことである。博物大名、本草学大名、という人たちが多く現れた時代であり、その時代の空気のなかに平賀源内もいたという理解でいいだろうか。
平賀源内は多才な人であったので、どこに焦点をあてるかで、いろいろと語り口がある。この番組の場合は、高松藩でのことから、江戸での活躍、そして、その死にいたるまでを、かなり分かりやすくまとめていたという印象がある。基本としては、平賀源内の才能を、どう活かすか……ということになる。
江戸時代に盛んだった学問として本草学がある。今でいう博物学である。現代の科学、厳密にはサイエンスという方法論、ではない、それ以前に、自然界にあるいろんな植物や動物などについて観察し記述していく学問である。本草学は、江戸時代までは、人文学(今でいう)と離れたものではなかった。
この流れなのかもしれないが、江戸時代以前、あるいは、中国に由来する本草学の書物についての文献学的な研究は、国語学、日本語学の研究分野の一つということもある。(私は、この方面については、あまり詳しい知識はないけれど。)
身分や階層を超えた、知の世界。知のエンターテイメントでの、さまざまな人びとの交流ということは、江戸時代を特徴付けることの一つといっていいだろう。
私の場合、自分の専門に近いところで理解できることとしては、本居宣長の仕事がある。『紫文要領』などは、江戸の知の一つの頂点といえるかもしれない。無論、宣長の研究としては、『古事記伝』をあげなければならないが。
平賀源内が、江戸で、薬品会を開催するとき、全国から展示品を集めた、その集め方が興味深い。全国に取次所を作って、そこに持って行く。そして、そこから、(いまでいう料金着払いで)江戸に集める。このようなシステムが可能になった、全国規模の情報通信と物流のネットワークが、形成されていたことになる。(番組ではこのことには言及がなかったが、私は、これこそ重要な歴史のポイントだと思う。)
平賀源内の戯作は、今までのところ、日本文学研究の領域では、名前は知っているが、その作品をまともに論じるということはあまりなかったかと思う。私もその一人である。その作品名は知識としては知っているのだが、それ以上ということはなかった。文学者としての平賀源内についての研究が、これからさかんになっていくことだろうと思う。
NHKの作った番組だから、大阪万博にかこつけて、何か役にたつ……という面をいいたかったという気がするのだが、知的エンタテイメントというのは、それが何の役に立つか、というようなことはあまり考えないものだと、私は思っている。とにかく、それをやって楽しいからやる、これにつきる。そして、これが、今の日本の大学や学問の世界において、急速に失われてきていることである。
讃岐の生まれということで、ため池を管理する農業は、商品作物の栽培を計画的に行うことである、と磯田道史がいっていたが、これはそのとおりだと思う。このような藩だからこそ、平賀源内が生まれたというべきだろうか。
和三盆の製造に平賀源内がかかわっていたということは、正直いって知らなかった。なるほどそういうこともあるのかと、思ったことになる。
平賀源内の西洋画と、歌麿の大首絵、興味深い問題だと思うが、学問的には慎重な議論が必要になるだろう。
江戸時代の「知的財産権」は非常に面白いテーマだとは思うが、いろいろと考えることがある。伝統芸能の伝承とか、同好の士によるサークル(俳諧や狂歌など)とか、家塾における門弟の立場とか、いろいろと今日とは違ったところがあったと思う。
2025年2月12日記
英雄たちの選択 江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内
これも、『べらぼう』関連の番組の一つといっていい。だが、意図的にだろうが、蔦屋重三郎も、田沼意次も、名前が出てこなかった。
私ぐらいの世代だと、平賀源内は、学校の教科書で出てきたのを憶えている。それから、NHKのドラマ『天下御免』(調べてみると、このドラマの脚本は早坂暁である)のことを記憶している人も多いだろう。その後、平賀源内は、いろんな歴史番組などで取りあげられてきている。
高松藩の藩主、松平頼恭の作った『衆鱗図』のことは、以前にこの番組でもとりあげていたことがあった。江戸時代に、博物学に熱中した大名たちのことである。博物大名、本草学大名、という人たちが多く現れた時代であり、その時代の空気のなかに平賀源内もいたという理解でいいだろうか。
平賀源内は多才な人であったので、どこに焦点をあてるかで、いろいろと語り口がある。この番組の場合は、高松藩でのことから、江戸での活躍、そして、その死にいたるまでを、かなり分かりやすくまとめていたという印象がある。基本としては、平賀源内の才能を、どう活かすか……ということになる。
江戸時代に盛んだった学問として本草学がある。今でいう博物学である。現代の科学、厳密にはサイエンスという方法論、ではない、それ以前に、自然界にあるいろんな植物や動物などについて観察し記述していく学問である。本草学は、江戸時代までは、人文学(今でいう)と離れたものではなかった。
この流れなのかもしれないが、江戸時代以前、あるいは、中国に由来する本草学の書物についての文献学的な研究は、国語学、日本語学の研究分野の一つということもある。(私は、この方面については、あまり詳しい知識はないけれど。)
身分や階層を超えた、知の世界。知のエンターテイメントでの、さまざまな人びとの交流ということは、江戸時代を特徴付けることの一つといっていいだろう。
私の場合、自分の専門に近いところで理解できることとしては、本居宣長の仕事がある。『紫文要領』などは、江戸の知の一つの頂点といえるかもしれない。無論、宣長の研究としては、『古事記伝』をあげなければならないが。
平賀源内が、江戸で、薬品会を開催するとき、全国から展示品を集めた、その集め方が興味深い。全国に取次所を作って、そこに持って行く。そして、そこから、(いまでいう料金着払いで)江戸に集める。このようなシステムが可能になった、全国規模の情報通信と物流のネットワークが、形成されていたことになる。(番組ではこのことには言及がなかったが、私は、これこそ重要な歴史のポイントだと思う。)
平賀源内の戯作は、今までのところ、日本文学研究の領域では、名前は知っているが、その作品をまともに論じるということはあまりなかったかと思う。私もその一人である。その作品名は知識としては知っているのだが、それ以上ということはなかった。文学者としての平賀源内についての研究が、これからさかんになっていくことだろうと思う。
NHKの作った番組だから、大阪万博にかこつけて、何か役にたつ……という面をいいたかったという気がするのだが、知的エンタテイメントというのは、それが何の役に立つか、というようなことはあまり考えないものだと、私は思っている。とにかく、それをやって楽しいからやる、これにつきる。そして、これが、今の日本の大学や学問の世界において、急速に失われてきていることである。
讃岐の生まれということで、ため池を管理する農業は、商品作物の栽培を計画的に行うことである、と磯田道史がいっていたが、これはそのとおりだと思う。このような藩だからこそ、平賀源内が生まれたというべきだろうか。
和三盆の製造に平賀源内がかかわっていたということは、正直いって知らなかった。なるほどそういうこともあるのかと、思ったことになる。
平賀源内の西洋画と、歌麿の大首絵、興味深い問題だと思うが、学問的には慎重な議論が必要になるだろう。
江戸時代の「知的財産権」は非常に面白いテーマだとは思うが、いろいろと考えることがある。伝統芸能の伝承とか、同好の士によるサークル(俳諧や狂歌など)とか、家塾における門弟の立場とか、いろいろと今日とは違ったところがあったと思う。
2025年2月12日記
『べらぼう』「好機到来『籬の花』」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
『べらぼう』「好機到来『籬(まがき)の花』
江戸の出版のなかで、吉原細見という類の本は、そんなに売れてもうかるものだったのだろうか。もし、売れる本だったとしても、単価が安いから、ものすごく売れないと儲からないにちがいない。まあ、吉原の案内として、確実に一定部数は出る本であったにはちがいないが。
このドラマの作り方というか、方針として、江戸の文化を、いわゆるサブカルチャーを軸に描きたいことは分かる。吉原細見であり、赤本、青本、黄表紙、それから、浮世絵、というジャンルにおよぶことになる。これからの登場人物を見ても、例えば大田南畝が出てきたりとか、狂歌や戯作を中心として展開するようだ。
これはいいとしても、これで、江戸のこの時代の文化を描いたことになるのか、となると、ちょっとどうだかなあ、という気にもなる。戯作以外の物之本、これがどうだったのかということも、もう少し出てきてもいいのではないだろうか。この時代は、日本の古典や漢籍、それから、浮世草子など、多くの本が刊行されている。また、いろんな実用書もあった。こういう部分が、このドラマを見ていて、どうも想像できないのである。
出版史の方面からは、蔦屋重三郎の作った細見は、どのように考えられているのだろうか。どう画期的だったのか。
ドラマの中で描いたポイントは、二つ。
一つには、河岸女郎まで掲載したこと。しかし、このような女郎たちは、次々と死んでいくので、入れ替わりも激しかった。このことは、このドラマの始めの方で言っていたことである。また、このレベルの女郎を相手にするような客が、細見を買うのだろうか、という気もする。現代の感覚で言うならばであるが、ほしい情報は、女郎の名前ではなく、見世の場所と、値段、である。
二つには、花の井、が襲名して、瀬川、になったこと。これならば、このクラスの花魁を相手にする客なら、記念のために買っておきたいと思うだろう。しかし、このような客なら、別に本の値段が半分だから買うということはないだろうし、そもそも、こんなお大尽は数が限られると思うから、販売部数も一定以上は伸びないかと想像する。
どうも、蔦屋重三郎のアイデアでは、細見がそれほど売れるような内容になったとは思えないのだけれども、実際はどうだったのだろうか。半値にして倍の部数を売るというのは、そんなに簡単なこととは思えないが。
これを現代の感覚で言いかえるならば、コンパクト(小さい、薄い)であり、ほしい情報が載っている。吉原に行く客が欲しい情報としては、見世の場所と値段であるかと思う。女郎の源氏名が分かったところで、その名前だけを目当てに、吉原に行くということがあったのだろうか。これが「瀬川」なら別格であろうが、この種の情報を伝える媒体としては、細見だけだったのだろうか。
このあたりのことは、吉原の歴史と、細見の歴史、これらを総合的に考えることになる。無論、他の岡場所などについても、江戸時代に、どのようなメディアで、どのような情報が流通していたのか、という関心で見ることになる。
最後に、花の井、が、瀬川、と襲名した。そのために、蔦屋重三郎は細見を部分的に作り直した、という展開になっていた。これはいいとして、では、どうやって改めたのか。その作業の工程を、描いていなかった。常識的な書誌学の知識としては、埋木による訂正ということになるが、この部分がまったく描かれていなかった。
それから、本の大きさと、流通する紙の大きさ、という観点からはどうなのだろうか。そう簡単に、サイズを大きくできるものなのだろうか。紙の価格は、現代よりもずっと高価であったにちがいない。本の製造コストのかなりの部分を、紙がしめていたはずである。なるべく無駄が出ないように、紙のサイズと本のサイズは、一定の規格……事実上の業界標準とでもいうべきもの……におさまるようにしていたはずである。また、これは、使用する板木のサイズとも関連する。テレビに映っていた本を作る場面では、化粧断ちするとき切り落とす紙の余白が大きすぎるように思えたのだが。(経験的にはということになるが、現存する江戸時代の板本は、おおむね一定の種類の大きさの規格におさまるように作られている。)
新之助が、李白の「静夜思」の詩のことについて言っていた。どうせならば、この時代に読まれたであろう、李白の詩集の本などが出てきていてもよかった。これを小道具で作るのは、手間ということになるかもしれないが。この場面は、江戸時代のある一定以上の知識階層にとっては、中国の漢詩などは、基本的教養であった、という側面として、もうすこし丁寧に描いておくべきだったかと思う。蔦屋重三郎が李白を知らなくてもいい。映っていた限りでは、蔦屋重三郎は知らなかった、まったく関心がなかったようである。そういう階層による知識や教養の違いがあった時代ということで、別に隠すようなことではないと思うが。その様々な知的階層のなかで、蔦屋重三郎が、どのような人びとを相手にしていたのか、という方向が見えてくると、その方がいいと、私は思う。
吉原で蔦屋重三郎にしがみついた少女、小童(こじょく)であったが、ここはお稲荷さんの説明があってもよかったところかと思う。
鱗形屋の作った偽物(?)の「節用集」だが、3000部があったと言っていた。板木で本を作るとき、そんなに大量の部数を一度に作ったのだろうか。
吉原細見が、お土産としての需要がある。おそらくこれは、確かなことなのだろうと思うが、といって専門の論文を探して読んでみようとは思っていない。細見にかぎらずであるが、参勤交代で江戸に出てきた武士たちが、地方の藩に帰るとき、いったい何をお土産に買っていたのか、こういう視点は、とても興味深いものである。現存する細見が、どの地方の、どのようなところに、どれぐらい残っているのか、ということの調査になる。
2025年2月16日記
『べらぼう』「好機到来『籬(まがき)の花』
江戸の出版のなかで、吉原細見という類の本は、そんなに売れてもうかるものだったのだろうか。もし、売れる本だったとしても、単価が安いから、ものすごく売れないと儲からないにちがいない。まあ、吉原の案内として、確実に一定部数は出る本であったにはちがいないが。
このドラマの作り方というか、方針として、江戸の文化を、いわゆるサブカルチャーを軸に描きたいことは分かる。吉原細見であり、赤本、青本、黄表紙、それから、浮世絵、というジャンルにおよぶことになる。これからの登場人物を見ても、例えば大田南畝が出てきたりとか、狂歌や戯作を中心として展開するようだ。
これはいいとしても、これで、江戸のこの時代の文化を描いたことになるのか、となると、ちょっとどうだかなあ、という気にもなる。戯作以外の物之本、これがどうだったのかということも、もう少し出てきてもいいのではないだろうか。この時代は、日本の古典や漢籍、それから、浮世草子など、多くの本が刊行されている。また、いろんな実用書もあった。こういう部分が、このドラマを見ていて、どうも想像できないのである。
出版史の方面からは、蔦屋重三郎の作った細見は、どのように考えられているのだろうか。どう画期的だったのか。
ドラマの中で描いたポイントは、二つ。
一つには、河岸女郎まで掲載したこと。しかし、このような女郎たちは、次々と死んでいくので、入れ替わりも激しかった。このことは、このドラマの始めの方で言っていたことである。また、このレベルの女郎を相手にするような客が、細見を買うのだろうか、という気もする。現代の感覚で言うならばであるが、ほしい情報は、女郎の名前ではなく、見世の場所と、値段、である。
二つには、花の井、が襲名して、瀬川、になったこと。これならば、このクラスの花魁を相手にする客なら、記念のために買っておきたいと思うだろう。しかし、このような客なら、別に本の値段が半分だから買うということはないだろうし、そもそも、こんなお大尽は数が限られると思うから、販売部数も一定以上は伸びないかと想像する。
どうも、蔦屋重三郎のアイデアでは、細見がそれほど売れるような内容になったとは思えないのだけれども、実際はどうだったのだろうか。半値にして倍の部数を売るというのは、そんなに簡単なこととは思えないが。
これを現代の感覚で言いかえるならば、コンパクト(小さい、薄い)であり、ほしい情報が載っている。吉原に行く客が欲しい情報としては、見世の場所と値段であるかと思う。女郎の源氏名が分かったところで、その名前だけを目当てに、吉原に行くということがあったのだろうか。これが「瀬川」なら別格であろうが、この種の情報を伝える媒体としては、細見だけだったのだろうか。
このあたりのことは、吉原の歴史と、細見の歴史、これらを総合的に考えることになる。無論、他の岡場所などについても、江戸時代に、どのようなメディアで、どのような情報が流通していたのか、という関心で見ることになる。
最後に、花の井、が、瀬川、と襲名した。そのために、蔦屋重三郎は細見を部分的に作り直した、という展開になっていた。これはいいとして、では、どうやって改めたのか。その作業の工程を、描いていなかった。常識的な書誌学の知識としては、埋木による訂正ということになるが、この部分がまったく描かれていなかった。
それから、本の大きさと、流通する紙の大きさ、という観点からはどうなのだろうか。そう簡単に、サイズを大きくできるものなのだろうか。紙の価格は、現代よりもずっと高価であったにちがいない。本の製造コストのかなりの部分を、紙がしめていたはずである。なるべく無駄が出ないように、紙のサイズと本のサイズは、一定の規格……事実上の業界標準とでもいうべきもの……におさまるようにしていたはずである。また、これは、使用する板木のサイズとも関連する。テレビに映っていた本を作る場面では、化粧断ちするとき切り落とす紙の余白が大きすぎるように思えたのだが。(経験的にはということになるが、現存する江戸時代の板本は、おおむね一定の種類の大きさの規格におさまるように作られている。)
新之助が、李白の「静夜思」の詩のことについて言っていた。どうせならば、この時代に読まれたであろう、李白の詩集の本などが出てきていてもよかった。これを小道具で作るのは、手間ということになるかもしれないが。この場面は、江戸時代のある一定以上の知識階層にとっては、中国の漢詩などは、基本的教養であった、という側面として、もうすこし丁寧に描いておくべきだったかと思う。蔦屋重三郎が李白を知らなくてもいい。映っていた限りでは、蔦屋重三郎は知らなかった、まったく関心がなかったようである。そういう階層による知識や教養の違いがあった時代ということで、別に隠すようなことではないと思うが。その様々な知的階層のなかで、蔦屋重三郎が、どのような人びとを相手にしていたのか、という方向が見えてくると、その方がいいと、私は思う。
吉原で蔦屋重三郎にしがみついた少女、小童(こじょく)であったが、ここはお稲荷さんの説明があってもよかったところかと思う。
鱗形屋の作った偽物(?)の「節用集」だが、3000部があったと言っていた。板木で本を作るとき、そんなに大量の部数を一度に作ったのだろうか。
吉原細見が、お土産としての需要がある。おそらくこれは、確かなことなのだろうと思うが、といって専門の論文を探して読んでみようとは思っていない。細見にかぎらずであるが、参勤交代で江戸に出てきた武士たちが、地方の藩に帰るとき、いったい何をお土産に買っていたのか、こういう視点は、とても興味深いものである。現存する細見が、どの地方の、どのようなところに、どれぐらい残っているのか、ということの調査になる。
2025年2月16日記
『カムカムエヴリバディ』「1963ー1964」「1954ー1965」 ― 2025-02-16
2025年2月16日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』「1963ー1964」「1964ー1965」
この週を見て思ったことなど書いておく。
ジョーの生いたちがあきらかになった。岡山のトランペットの少年であり、定一にひろわれて音楽の道で生計をたてるようになった。戦災孤児であった身の上があきらかになった。これは、家族というものを知らずに育ったジョーと、家族を棄てた(あるいは、棄てられたと思っている)るいと、こころのうちで響きあうものがある、といういことになる。この二人で、京都で、新しく回転焼き屋として生きていく。
ジョーは、トランペットが吹けなくなる。日常生活では何の問題もないのに、ある特定の場面でうまく動けない……このような症状については、現代の精神医学であれば、少なくともこういうことが人間には起こりうるものである、ということの判断はできるだろう。だが、この時代、一九六〇年代、現代のような知見を専門家にも、また、一般にも、求めるのは難しかっただろう。現代だからこそ、このようなことが人間には起こるものなのだ、ということは、一般に認識されることとなっているといえるだろうか。(それでも、そうはっきりと理解できる人は、ほとんどいないかもしれないが。)
ジョーがいなくなって、それをるいが追いかける。海岸で見つけて、海のなかに入っていくジョーに、るいがすがりつく。おそらく、このドラマのなかでも、もっとも印象に残るシーンの一つである。
このシーンの回のときの始まりで、ベリーが、るいのクリーニング店にやってきて、クリーニングを頼む。そのときに、ベリーの京都の連絡先を、店の用紙に書いていくことになる。これがきっかけとして、るいとジョーは、京都で新しい生活を始めるということになる。さりげない描写なのだが、ドラマの展開のなかでは重要な意味を持っていることになる。
京都のベリー(一子)のお茶をたてているときのシーン。京都方言としては、「ひつこい」かなと思うのだが、「しつこい」と言っていた。(私の感覚としては、「ひつこい」の方がしっくりくる。)
るいとジョーは、京都で回転焼き屋を始める。その動機が、天神さん……北野天満宮の縁日、毎月二五日……で、回転焼きの屋台を目にしたから、ということになっていたのだが、どうも安直かなという気がしないでもない。しかし、岡山でのたちばなの店のあんこの味を引き継いで、素人でも簡単に始められる商売としては、妥当なところかもしれない。
しかし、回転焼きを上手に焼くのは、これはこれで難しいことだと思う。
ちなみに、回転焼きは、地方によって名称が異なる。地域によっては、今川焼きとか、大判焼き、などの名称になる。私は、京都の宇治市の育ちなので、最初に憶えた名前が、回転焼きである。
このドラマの描き方としては、戦災孤児であったジョーが唯一できることだったトランペットを吹くことができなくなる、そして、それを思うるいの気持ち、これが情感深く描写されていたと思う。この二人を見守る周囲の人びと、クリーニング屋の夫婦、Night and Day のマスター、ベリー、トミー、それから、ササプロの奈々、これらの人びとの気持ちが、丁寧に描かれていたと感じるところである。
2025年2月14日記
『カムカムエヴリバディ』「1963ー1964」「1964ー1965」
この週を見て思ったことなど書いておく。
ジョーの生いたちがあきらかになった。岡山のトランペットの少年であり、定一にひろわれて音楽の道で生計をたてるようになった。戦災孤児であった身の上があきらかになった。これは、家族というものを知らずに育ったジョーと、家族を棄てた(あるいは、棄てられたと思っている)るいと、こころのうちで響きあうものがある、といういことになる。この二人で、京都で、新しく回転焼き屋として生きていく。
ジョーは、トランペットが吹けなくなる。日常生活では何の問題もないのに、ある特定の場面でうまく動けない……このような症状については、現代の精神医学であれば、少なくともこういうことが人間には起こりうるものである、ということの判断はできるだろう。だが、この時代、一九六〇年代、現代のような知見を専門家にも、また、一般にも、求めるのは難しかっただろう。現代だからこそ、このようなことが人間には起こるものなのだ、ということは、一般に認識されることとなっているといえるだろうか。(それでも、そうはっきりと理解できる人は、ほとんどいないかもしれないが。)
ジョーがいなくなって、それをるいが追いかける。海岸で見つけて、海のなかに入っていくジョーに、るいがすがりつく。おそらく、このドラマのなかでも、もっとも印象に残るシーンの一つである。
このシーンの回のときの始まりで、ベリーが、るいのクリーニング店にやってきて、クリーニングを頼む。そのときに、ベリーの京都の連絡先を、店の用紙に書いていくことになる。これがきっかけとして、るいとジョーは、京都で新しい生活を始めるということになる。さりげない描写なのだが、ドラマの展開のなかでは重要な意味を持っていることになる。
京都のベリー(一子)のお茶をたてているときのシーン。京都方言としては、「ひつこい」かなと思うのだが、「しつこい」と言っていた。(私の感覚としては、「ひつこい」の方がしっくりくる。)
るいとジョーは、京都で回転焼き屋を始める。その動機が、天神さん……北野天満宮の縁日、毎月二五日……で、回転焼きの屋台を目にしたから、ということになっていたのだが、どうも安直かなという気がしないでもない。しかし、岡山でのたちばなの店のあんこの味を引き継いで、素人でも簡単に始められる商売としては、妥当なところかもしれない。
しかし、回転焼きを上手に焼くのは、これはこれで難しいことだと思う。
ちなみに、回転焼きは、地方によって名称が異なる。地域によっては、今川焼きとか、大判焼き、などの名称になる。私は、京都の宇治市の育ちなので、最初に憶えた名前が、回転焼きである。
このドラマの描き方としては、戦災孤児であったジョーが唯一できることだったトランペットを吹くことができなくなる、そして、それを思うるいの気持ち、これが情感深く描写されていたと思う。この二人を見守る周囲の人びと、クリーニング屋の夫婦、Night and Day のマスター、ベリー、トミー、それから、ササプロの奈々、これらの人びとの気持ちが、丁寧に描かれていたと感じるところである。
2025年2月14日記
『カーネーション』「鮮やかな態度」 ― 2025-02-16
2025年2月16日 當山日出夫
『カーネーション』「鮮やかな態度」
娘たちの世代へと時代が変わっていく。このドラマの良さというべきところは、糸子の父の善作の時代、糸子の時代、糸子の娘たちの時代、それから糸子の晩年、というふうに時代をおって展開していく。そのなかで、各世代によってものの考え方に違いがある。それを、それぞれに肯定的に描いていることである。決して旧弊として否定していない。
最初の方では、糸子がミシンの技術を身につけるために働きたいと言ったところで、父親の善作は激怒していた。それでもなんとか糸子はミシンを憶え、洋裁ができるようになって、独立する。善作は、あっさりと岸和田の「小原呉服店」の看板を「オハラ洋装店」に変えて、糸子にゆずった。
娘たちの世代になって、糸子が、岸和田の「オハラ洋装店」の看板をゆずろうとしても、今度は、誰もそのことに関心をしめさない。東京のデパートで店をはじめる、心斎橋で店をひらく、あるいは、パリに行く、ということで、結局「オハラ洋装店」の看板を糸子は守り続けることになる。
このドラマは、ある見方としては、岸和田の小原の家(建物)の物語である。最初、畳敷きの座敷で商売をしていた呉服店が、格子の出窓がショーウィンドウに変わり、玄関の板戸が硝子戸に変わり、畳敷きだった部分が、外から直接入ってこれるように土間がひろくなった。(その後、糸子の晩年にかけてさらに姿を変えていくようになる。)
看板は、小原呉服店だったものが、オハラ洋装店になり、その看板を糸子は背負って仕事をし、その後も生きていくということになる。
このドラマは、基本的に岸和田のこの家と、前の通りと、隣近所の店のいくつか、それと喫茶店の太太鼓ぐらいが、主な舞台で、それ以外の場所はほとんど出てこない。(始めのころ、奈津の料理屋とか、学校とかが出てきていた。東京のアパートとか、直子の店も出てきた。しかし、メインのストーリーが展開するのは、基本的に岸和田においてである。)
この狭い(と言っては悪いかもしれないが)岸和田の小さなエリアだけの人物と描写だけで、時代の変化を描いている。昭和の初期から、戦争の時代になり、戦後を経て、東京オリンピックがすぎるまで、原則、岸和田の街の視点で描いている。ただ、東京オリンピックのことは、出てきていなかったが、時代の変化を象徴するものとして、だんじり祭りの変化、女性たちが参加するようになったことが出てきていた。
このように時代が変化し、人びとの考え方、社会の様相が変わっていくなかで、それぞれの時代を、それぞれの世代の人びとが、それなりに生きてきたことを、非常に肯定的に描いている。今の価値観からすれば、父親の善作は、前近代的家父長制の暴君となるところであるが、その時代の父親というもの、家族のあり方というものを、否定してはいない。そのような時代があったということで描いている。
ミニスカートが流行る時代になって、糸子は言う……時代が変わった、もう女はよめにいかなくてもいい時代になった、と。明らかに、時代の変化、人びとの価値観の変化ということを、実感させる。これは、ある意味では、糸子が時代遅れになってきてしまっているということにもなるのだが、しかし、糸子は、これまでの自分の生き方を変えようとはしない。「オハラ洋装店」の看板を背負って生きていくことになる。
ところで、昭和四一年、ミニスカートの流行のことが出てきていたが、私は、この時代のことは記憶に残っている。いきなり世の中の女性のスカートが短くなった。いったいなぜだか分からないまま、ただ流行ということで、そうなった。そして、おどろくことになったのは、その数年後、今度は急にそのミニスカートが姿を消したことである。これもまた流行ということになる。ただ、こういう時代の流行の変化を体験的に知っていると、いったい流行とはいったい何なのかと考えることにもなる。とにかく分からなかったのが、女性の気持ちである。
このドラマのなかで小原の家の食事の場面を見ていると、糸子は夕食のときに晩酌をするようになってきた。それが、やけ酒になったりするとコップに変わる。家のなかの火鉢が、石油ストーブになり、台所に電気冷蔵庫が加わった。こういう細かなところの変化で、時代がかわり、糸子もだんだんと歳をとってきて、生活のスタイルが変わってきていることが、表現されていると感じる。
2025年2月15日記
『カーネーション』「鮮やかな態度」
娘たちの世代へと時代が変わっていく。このドラマの良さというべきところは、糸子の父の善作の時代、糸子の時代、糸子の娘たちの時代、それから糸子の晩年、というふうに時代をおって展開していく。そのなかで、各世代によってものの考え方に違いがある。それを、それぞれに肯定的に描いていることである。決して旧弊として否定していない。
最初の方では、糸子がミシンの技術を身につけるために働きたいと言ったところで、父親の善作は激怒していた。それでもなんとか糸子はミシンを憶え、洋裁ができるようになって、独立する。善作は、あっさりと岸和田の「小原呉服店」の看板を「オハラ洋装店」に変えて、糸子にゆずった。
娘たちの世代になって、糸子が、岸和田の「オハラ洋装店」の看板をゆずろうとしても、今度は、誰もそのことに関心をしめさない。東京のデパートで店をはじめる、心斎橋で店をひらく、あるいは、パリに行く、ということで、結局「オハラ洋装店」の看板を糸子は守り続けることになる。
このドラマは、ある見方としては、岸和田の小原の家(建物)の物語である。最初、畳敷きの座敷で商売をしていた呉服店が、格子の出窓がショーウィンドウに変わり、玄関の板戸が硝子戸に変わり、畳敷きだった部分が、外から直接入ってこれるように土間がひろくなった。(その後、糸子の晩年にかけてさらに姿を変えていくようになる。)
看板は、小原呉服店だったものが、オハラ洋装店になり、その看板を糸子は背負って仕事をし、その後も生きていくということになる。
このドラマは、基本的に岸和田のこの家と、前の通りと、隣近所の店のいくつか、それと喫茶店の太太鼓ぐらいが、主な舞台で、それ以外の場所はほとんど出てこない。(始めのころ、奈津の料理屋とか、学校とかが出てきていた。東京のアパートとか、直子の店も出てきた。しかし、メインのストーリーが展開するのは、基本的に岸和田においてである。)
この狭い(と言っては悪いかもしれないが)岸和田の小さなエリアだけの人物と描写だけで、時代の変化を描いている。昭和の初期から、戦争の時代になり、戦後を経て、東京オリンピックがすぎるまで、原則、岸和田の街の視点で描いている。ただ、東京オリンピックのことは、出てきていなかったが、時代の変化を象徴するものとして、だんじり祭りの変化、女性たちが参加するようになったことが出てきていた。
このように時代が変化し、人びとの考え方、社会の様相が変わっていくなかで、それぞれの時代を、それぞれの世代の人びとが、それなりに生きてきたことを、非常に肯定的に描いている。今の価値観からすれば、父親の善作は、前近代的家父長制の暴君となるところであるが、その時代の父親というもの、家族のあり方というものを、否定してはいない。そのような時代があったということで描いている。
ミニスカートが流行る時代になって、糸子は言う……時代が変わった、もう女はよめにいかなくてもいい時代になった、と。明らかに、時代の変化、人びとの価値観の変化ということを、実感させる。これは、ある意味では、糸子が時代遅れになってきてしまっているということにもなるのだが、しかし、糸子は、これまでの自分の生き方を変えようとはしない。「オハラ洋装店」の看板を背負って生きていくことになる。
ところで、昭和四一年、ミニスカートの流行のことが出てきていたが、私は、この時代のことは記憶に残っている。いきなり世の中の女性のスカートが短くなった。いったいなぜだか分からないまま、ただ流行ということで、そうなった。そして、おどろくことになったのは、その数年後、今度は急にそのミニスカートが姿を消したことである。これもまた流行ということになる。ただ、こういう時代の流行の変化を体験的に知っていると、いったい流行とはいったい何なのかと考えることにもなる。とにかく分からなかったのが、女性の気持ちである。
このドラマのなかで小原の家の食事の場面を見ていると、糸子は夕食のときに晩酌をするようになってきた。それが、やけ酒になったりするとコップに変わる。家のなかの火鉢が、石油ストーブになり、台所に電気冷蔵庫が加わった。こういう細かなところの変化で、時代がかわり、糸子もだんだんと歳をとってきて、生活のスタイルが変わってきていることが、表現されていると感じる。
2025年2月15日記
『おむすび』「母親って何なん?」 ― 2025-02-16
2025年2月16日 當山日出夫
『おむすび』 「母親って何なん?」
このドラマ、朝ドラとしてのできは、まあまあというところかなと思って見ている。そんなに感動するほど良くできてもいないが、逆に、褒めるところが見つからないほど出来が悪いとも思わない。
だが、この週あたりのストーリーの展開を見ると、こういうふうに話しをもっていくのなら、これまでに描いておくべきことがあったはずなのに、と思うところはある。これまでの話しの展開が、チャラになってしまっている。そもそもギャルが栄養士になるというコンセプトだったはずだが、この設定が、どこかにとんでいってしまっている。
結は管理栄養士になる。管理栄養士としては、目で料理を見て、その食品の成分、栄養価とかカロリーとか、ざっと頭のなかでイメージできる……これは、そういう訓練というか、そうなる勉強をしてきたからである。しかし、これまで、このドラマのなかで、結がそのような勉強をしてきた、という部分が描かれていない。
料理を見て、その栄養的な問題点を指摘するのは、居酒屋で乾杯をするときにいうことではないだろう。もっと、それにふさわしい適切な場面があるはずである。ここは、管理栄養士としての専門知識と、一般の良識とのかねあいの問題である。この脚本には、一般的な良識的判断が欠如している。
やはり、ここは、結が四年制大学に行って、管理栄養士の受験資格をとるための専門のコースで勉強する、ということであった方が自然である。そこで、何を学んだか、どんな講義があったか、実習や実験があったか、具体的に描いてこそ、管理栄養士はこういう職掌の仕事なのだと、見ている側も理解できる。
昔、結が、栄養士の専門学校に行っていたときの友達は、病院に就職したり、食品会社(まんぷく食品)に就職したりだった。ここで、栄養士として病院に就職したとき、どんな仕事をしているのか、出てきていない。もし描くと、栄養士と管理栄養士の違い、ということになってしまうからまずい、ということなのかもしれない。また、食品会社でも、管理栄養士なら、その会社の製品開発などにかかわる仕事もある。さらに、学校につとめて栄養教諭という勤め先もある。公務員としても、かなり専門性を求められる職種もある。
ここにきて、結が、かつて栄養士の勉強をしたときのこと、その時の仲間のことなどが、まったく無かったかのようになっている。
管理栄養士というのは、どういう専門職なのか、ということを分かりやすく描いておくべきであった。そして、管理栄養士になるには、どういう学校で、どういう勉強をするのか、そして、国家試験はどんなものなのか、説明があるべきであった。
しかし、その一方で、限界もある。週の最後で、結が担当した患者の膵臓の腫瘍に気がつかなかったことを、手術した医者から責められる場面があったが、どう考えても、これは、管理栄養士の仕事の範囲外のことだろう。自覚症状はほとんどないはずだから、CTでも撮らないかぎり見つけるのは難しい。内臓のCT検査をするのは、よほどのときでないとしない。(私は、過去に二度、したことがあるが。)
医療のドラマとして描くならば、たとえそれが朝ドラの枠であっても、医師や看護師や管理栄養士や言語聴覚士や、その他多くのスタッフの職掌、その責任をとれる範囲ということを、明確にしておく必要がある。そして、それぞれの職掌の範囲内で、スタンダードが何なのかを求めるべきだろう。
自分自身をふくめてスタッフの職掌と責任の範囲をわかっていないで、それをプロと呼ぶことはできない。
拒食症(といっていいだろう)女子高生について、そんなにあっさりと解決することなのかとも思う。検査して入院ということになったのだが、その背景には、心理的な要因があったことは、推察される。貧困が理由で食べるものに不自由していたというわけではない。可愛くなりたい、だから食べたくない、可愛くなれないのはお母さんの料理のせい、このように考えるということは、かなり精神的に問題があるというべきだろう。
可愛い=痩せている=食べない、この連鎖をどうにかする必要がある。これは、病院で管理栄養士の仕事だろうか。とりあえず食べられるものについて、その栄養価を考慮してメニューを考える、ということになるのではないかと思うが、どうだろうか。
可愛くなりたいというのは、ギャルになりたいというのと同じこと、であるのかもしれないが、それが原因で食事をまともにとらない、あるいは、とれないようになる、その結果、病気にになるというのは、普通ではない。昔の結の博多のギャル仲間のときのこととは、根本的に違うと判断すべきである。すくなくとも結の立場はまったく違う。ここは、病院の専門のスタッフに引き継ぐのが、医療現場のプロであるべきだと、私は思う。
糖尿病のように、病気で食べられないものがあるわけではないのだから、何でも食べなさい……ということは、(素人判断になるが)おそらく決して言ってはいけない台詞のはずである。鬱病の患者に、絶対に頑張れと言ってはいけないように。ここは、まずは心理的なカウンセリングとなるべきだろう。あるいは、総合病院なのだから、心療内科などの出番になるはずである。このドラマの時代なら、十分にその考え方はあったはずである。(昔の震災の時代とは違うのであるから。いわゆる心のケアということが、認識されているはずである。)
愛子の浮気騒動(?)は、まあ、そんなものなのかな、ということになる。ブログの書籍化ということは、今でも、出版の企画としてはありうることだが、こういう展開にもってくるなら、愛子のブログを、もうすこし具体的にドラマの中で描いてあった方がよい。どんなコメントがついたのか、それについて愛子がどう思ったのか、というエピソードがあってもよかった。
商店街のことは、もう出てこなくなったが、どうなったのだろう。駅前の再開発でタワーマンションができる、ショッピングセンターができる、ということが、その後の地域にどういう影響を及ぼすか、今まさに日本の各地で問題が顕在化しているテーマの一つである。商店街の不振は相変わらずかもしれないし(固定客のいる理髪店ならなんとかやっていけるだろうが)、タワーマンションの将来の廃墟化という、大きな課題もある。それよりも、ネット通販の普及は、ショッピングセンターの経営にも影響を与えることになるかもしれない。
このドラマ、栄養士とギャルから、途中で、無理に病院の管理栄養士に路線変更したので、脚本が雑になってきていると、感じる。
結が膵臓の病気に気づかなかったことを云々する前に、食べない女子高生について、精神科やカウンセラーなどに事案を相談しなかったことの方が、問題だと私は思うのである。
2025年2月14日記
『おむすび』 「母親って何なん?」
このドラマ、朝ドラとしてのできは、まあまあというところかなと思って見ている。そんなに感動するほど良くできてもいないが、逆に、褒めるところが見つからないほど出来が悪いとも思わない。
だが、この週あたりのストーリーの展開を見ると、こういうふうに話しをもっていくのなら、これまでに描いておくべきことがあったはずなのに、と思うところはある。これまでの話しの展開が、チャラになってしまっている。そもそもギャルが栄養士になるというコンセプトだったはずだが、この設定が、どこかにとんでいってしまっている。
結は管理栄養士になる。管理栄養士としては、目で料理を見て、その食品の成分、栄養価とかカロリーとか、ざっと頭のなかでイメージできる……これは、そういう訓練というか、そうなる勉強をしてきたからである。しかし、これまで、このドラマのなかで、結がそのような勉強をしてきた、という部分が描かれていない。
料理を見て、その栄養的な問題点を指摘するのは、居酒屋で乾杯をするときにいうことではないだろう。もっと、それにふさわしい適切な場面があるはずである。ここは、管理栄養士としての専門知識と、一般の良識とのかねあいの問題である。この脚本には、一般的な良識的判断が欠如している。
やはり、ここは、結が四年制大学に行って、管理栄養士の受験資格をとるための専門のコースで勉強する、ということであった方が自然である。そこで、何を学んだか、どんな講義があったか、実習や実験があったか、具体的に描いてこそ、管理栄養士はこういう職掌の仕事なのだと、見ている側も理解できる。
昔、結が、栄養士の専門学校に行っていたときの友達は、病院に就職したり、食品会社(まんぷく食品)に就職したりだった。ここで、栄養士として病院に就職したとき、どんな仕事をしているのか、出てきていない。もし描くと、栄養士と管理栄養士の違い、ということになってしまうからまずい、ということなのかもしれない。また、食品会社でも、管理栄養士なら、その会社の製品開発などにかかわる仕事もある。さらに、学校につとめて栄養教諭という勤め先もある。公務員としても、かなり専門性を求められる職種もある。
ここにきて、結が、かつて栄養士の勉強をしたときのこと、その時の仲間のことなどが、まったく無かったかのようになっている。
管理栄養士というのは、どういう専門職なのか、ということを分かりやすく描いておくべきであった。そして、管理栄養士になるには、どういう学校で、どういう勉強をするのか、そして、国家試験はどんなものなのか、説明があるべきであった。
しかし、その一方で、限界もある。週の最後で、結が担当した患者の膵臓の腫瘍に気がつかなかったことを、手術した医者から責められる場面があったが、どう考えても、これは、管理栄養士の仕事の範囲外のことだろう。自覚症状はほとんどないはずだから、CTでも撮らないかぎり見つけるのは難しい。内臓のCT検査をするのは、よほどのときでないとしない。(私は、過去に二度、したことがあるが。)
医療のドラマとして描くならば、たとえそれが朝ドラの枠であっても、医師や看護師や管理栄養士や言語聴覚士や、その他多くのスタッフの職掌、その責任をとれる範囲ということを、明確にしておく必要がある。そして、それぞれの職掌の範囲内で、スタンダードが何なのかを求めるべきだろう。
自分自身をふくめてスタッフの職掌と責任の範囲をわかっていないで、それをプロと呼ぶことはできない。
拒食症(といっていいだろう)女子高生について、そんなにあっさりと解決することなのかとも思う。検査して入院ということになったのだが、その背景には、心理的な要因があったことは、推察される。貧困が理由で食べるものに不自由していたというわけではない。可愛くなりたい、だから食べたくない、可愛くなれないのはお母さんの料理のせい、このように考えるということは、かなり精神的に問題があるというべきだろう。
可愛い=痩せている=食べない、この連鎖をどうにかする必要がある。これは、病院で管理栄養士の仕事だろうか。とりあえず食べられるものについて、その栄養価を考慮してメニューを考える、ということになるのではないかと思うが、どうだろうか。
可愛くなりたいというのは、ギャルになりたいというのと同じこと、であるのかもしれないが、それが原因で食事をまともにとらない、あるいは、とれないようになる、その結果、病気にになるというのは、普通ではない。昔の結の博多のギャル仲間のときのこととは、根本的に違うと判断すべきである。すくなくとも結の立場はまったく違う。ここは、病院の専門のスタッフに引き継ぐのが、医療現場のプロであるべきだと、私は思う。
糖尿病のように、病気で食べられないものがあるわけではないのだから、何でも食べなさい……ということは、(素人判断になるが)おそらく決して言ってはいけない台詞のはずである。鬱病の患者に、絶対に頑張れと言ってはいけないように。ここは、まずは心理的なカウンセリングとなるべきだろう。あるいは、総合病院なのだから、心療内科などの出番になるはずである。このドラマの時代なら、十分にその考え方はあったはずである。(昔の震災の時代とは違うのであるから。いわゆる心のケアということが、認識されているはずである。)
愛子の浮気騒動(?)は、まあ、そんなものなのかな、ということになる。ブログの書籍化ということは、今でも、出版の企画としてはありうることだが、こういう展開にもってくるなら、愛子のブログを、もうすこし具体的にドラマの中で描いてあった方がよい。どんなコメントがついたのか、それについて愛子がどう思ったのか、というエピソードがあってもよかった。
商店街のことは、もう出てこなくなったが、どうなったのだろう。駅前の再開発でタワーマンションができる、ショッピングセンターができる、ということが、その後の地域にどういう影響を及ぼすか、今まさに日本の各地で問題が顕在化しているテーマの一つである。商店街の不振は相変わらずかもしれないし(固定客のいる理髪店ならなんとかやっていけるだろうが)、タワーマンションの将来の廃墟化という、大きな課題もある。それよりも、ネット通販の普及は、ショッピングセンターの経営にも影響を与えることになるかもしれない。
このドラマ、栄養士とギャルから、途中で、無理に病院の管理栄養士に路線変更したので、脚本が雑になってきていると、感じる。
結が膵臓の病気に気づかなかったことを云々する前に、食べない女子高生について、精神科やカウンセラーなどに事案を相談しなかったことの方が、問題だと私は思うのである。
2025年2月14日記
Asia Insight「新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
Asia Insight 新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜
カンボジアという国については、ほとんど知るところがないというのが、本当のところである。東南アジアの重要な国家の一つであり、かつて、ポル・ポト政権のもとで大虐殺があったことは、知っている。だが、現在の政治については、不案内である。
運河を建設する工事の意義は、まあ、分かる気がする。首都から海まで船で行けるようにして、物流の中心とする。これは、これまでのベトナムに対する依存度を下げることになる。また、運河の周囲の農業にとっては、農業用水の安定的な確保につながる。
まあ、いいことづくめのようなのだが、これを中国資本にたよって進めるというのは、どうなるだろうか。中国経済が、順調なままならいいが、普通に伝えられるところでは、これからの先行きはどうもあやういかもしれない。対外投資をこれまでのように潤沢に行うことができるだろうか。
運河を作ったはいいけれども、スリランカのように、運河の利用の権利を、中国企業にもっていかれてしまうという事態は、避けたいところだろう。
それにしても、この大規模公共工事のすすめかたは、日本の感覚からすればであるが、かなり強引な感じがする。土地を奪われる農民に対する、説明や補賞は、もっと丁寧であるべきだし、金額も非常に少ないと思う。こういう強引なことができる政治体制というのが、まあ、今のカンボジアの国の有様ということなのだろう。
立ち退きを命ぜられた夫婦は、孤児であったという。ポル・ポト政権の犠牲者である。このような人びとが、まだ数多くいるのが、今のカンボジアであることは確かなことなのだろう。
番組の中で映っていた、カンボジアの米作。機械化されているようでもあり、一方で、非常に前近代的なようでもある。これを、日本の田圃での米作と比較してみるということが、いけないのかとも思うが。米は輸出されているということだが、どこに向けてなのだろうか。米の袋には漢字が書いてあったので、中国向けかと思ったりするのだが、どうなのだろうか。
2025年2月12日記
Asia Insight 新運河は何をもたらすのか 〜カンボジア〜
カンボジアという国については、ほとんど知るところがないというのが、本当のところである。東南アジアの重要な国家の一つであり、かつて、ポル・ポト政権のもとで大虐殺があったことは、知っている。だが、現在の政治については、不案内である。
運河を建設する工事の意義は、まあ、分かる気がする。首都から海まで船で行けるようにして、物流の中心とする。これは、これまでのベトナムに対する依存度を下げることになる。また、運河の周囲の農業にとっては、農業用水の安定的な確保につながる。
まあ、いいことづくめのようなのだが、これを中国資本にたよって進めるというのは、どうなるだろうか。中国経済が、順調なままならいいが、普通に伝えられるところでは、これからの先行きはどうもあやういかもしれない。対外投資をこれまでのように潤沢に行うことができるだろうか。
運河を作ったはいいけれども、スリランカのように、運河の利用の権利を、中国企業にもっていかれてしまうという事態は、避けたいところだろう。
それにしても、この大規模公共工事のすすめかたは、日本の感覚からすればであるが、かなり強引な感じがする。土地を奪われる農民に対する、説明や補賞は、もっと丁寧であるべきだし、金額も非常に少ないと思う。こういう強引なことができる政治体制というのが、まあ、今のカンボジアの国の有様ということなのだろう。
立ち退きを命ぜられた夫婦は、孤児であったという。ポル・ポト政権の犠牲者である。このような人びとが、まだ数多くいるのが、今のカンボジアであることは確かなことなのだろう。
番組の中で映っていた、カンボジアの米作。機械化されているようでもあり、一方で、非常に前近代的なようでもある。これを、日本の田圃での米作と比較してみるということが、いけないのかとも思うが。米は輸出されているということだが、どこに向けてなのだろうか。米の袋には漢字が書いてあったので、中国向けかと思ったりするのだが、どうなのだろうか。
2025年2月12日記
フロンティア「ナスカの地上絵 知られざる全貌」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
フロンティア ナスカの地上絵 知られざる全貌
山形大学の研究の意義はたしかにすばらしいと思うのだが、しかし、それをこういう番組でこういう形にすることには、ちょっとどうかなあ、と思うところがある。ナスカ台地に未発見の地上絵があり、それAIを使った技術で見つけるということ自体は、まさに今日の研究である。
だが、そこから、古代のアンデスの信仰とか文化まですぐに結びつけて考えることになるのは、かなり飛躍があると感じる。
興味深かったことはいくつかある。
実際に現地で、地上に人間がたって地上絵を見たらどう見えるのか、ということ。以外と、これまで、こういう映像を見たことはないと思う。
また、現代の人間が同じように地上絵を描いてみようとしたら、これがとても簡単にできることだったという。これも、非常に面白い。(これは、その後もとにもどしたのだろうと思うが、どうだったのだろうか。)
しかし、学問的にはそういうことになるのだろうが(たぶん、専門家はそういう結論には同意するのだろうが)、なぜそう考えることになるのか、という過程の説明がかなり省略されている。
ナスカの地上絵が描かれた時期の推定は、どういう根拠にもとづくものなのだろうか。地上絵それ自体から、その年代を示すものは、何も見つかってはいないはずである。おそらくは、ナスカに古代国家があって、人びとが居住し、それは、地上絵を残すような規模の人間のまとまった集団であった……ということから、その年代を推定するということなのだろうと思うが、確証があってのこととは思われない。考古学的には、いったいどうなのだろうか。地質学、炭素同位体、などから確定的なことが言えるのだろうか。もし言えるなら、こういうことはきちんと番組のなかにとりこんでほしい。
カワチ神殿があったことは、発掘の結果としてそういうことになる。だが、この神殿の存在と、当時の古代アンデスの人びとと、文化や社会がどうであったか、このあたりのことが、強引に一つのストーリーに作りあげられているという印象になる。特に、地上絵が、聖地の巡礼の道筋を示すものであるならば、そのことを、もっと明確に示す必要がある。直線の地上絵が、そのルートを示していたとしても、だからといって、他の動物などの地上絵も、そのなかに同様にふくめて考えていいものなのだろうか。聖地の巡礼という概念も、かなり西欧的な考え方を、無理にもちこんでいるようにも思える。たしかに、古代の宗教について一般的にいえることかもしれないが、だからといって、すぐにそうだと断定するのは、どうかと思う。
聖地への巡礼で、多くの人びとが歩いた、ということはどうなのだろうか。これによって、消えてしまった地上絵もあるかもしれないし、また、歩いた跡が残っているということなのかもしれない。地面をわずかに掘るだけで地上絵が描ける場所である。このことをふくめた合理的な説明があったとは思えない。
地面を数センチ掘れば、地上絵を描くことができる。特殊な技術が必要ということではないようだ。となれば、地上絵を描いた人たちは、同じ人たちでなくてもいいかもしれない。複数の人間の集団がかかわっていてもいいと思うが、これを否定する根拠はいったい何なのだろうか。
そもそも、そのように簡単に描くことができる、ということは簡単に消すこともできるだろう、そのような地上絵が、千数百年以上も残ってきているのは、なぜなのだろうか、このあたりのことが最大の謎だと、私は思うのだが、番組ではこのことに言及はなかった。
古代のナスカの森が綿の栽培のために伐採された、環境破壊が起こったということは、これは非常に興味深い。このことと、この地域に古代からどのような人びとが、どんなふうにくらしてきたのか、これをからめてダイナミックに、人類史、気候変動、洪水、環境の変化、ということを、考えてみる……本来ならば、こういう方向であってもいいのではないか。その中の歴史の一コマとして、ナスカに地上絵が残された、ということになるのだろう。
この地域をふくめて、古代のアンデスの人類史、文明史の変遷の概略をしめすべきだっただろう。でなければ、現在、この地域に住んでいる人たちが、本当に、ナスカの地上絵を描いた人びとの子孫であるのか、分からないはずである。あるいは、これは、疑問をはさんではいけない、PCにかかわる領域のことになるのだろうか。だが、そうだとしても、学問的な知見は示すべきである。文字をもたなかったナスカの古代文化を継承するということは、はたして可能なことなのだろうか。
この回は、非常に興味深い部分がありながら、全体としては、かなり雑な印象をうける。古代のアンデスの人びとはこうだったと、想像に想像を重ねて言ってしまっている感じるところが、非常に多い。学問的裏付けのあることなら、それはきちんと示すことができるはずだし、想像で言っているなら、そうであると断りをいれておくべきである。
2025年2月13日記
カラーでよみがえる映像の世紀「第3集「それはマンハッタンから始まった」」 ― 2025-02-15
2025年2月15日 當山日出夫
カラーでよみがえる映像の世紀 第3集「それはマンハッタンから始まった」 〜噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした〜
これは前に見ている。「映像の世紀」シリーズで、AIによるカラー化を試みた最初が、この「それはマンハッタンから始まった」だったはずである。NHKの番組のHPには、このことは書いていないけれど。
何度も書くことになるが、この時代までは、記録映画は白黒フィルムしかなかった時代だから、カラー化にも、ある程度の意味を見いだせる。しかし、これからしばらくたって、太平洋戦争の近づくころになるとカラーフィルムが実用に使われるようになる。『風と共に去りぬ』は1939年の制作であるし、『ファンタジア』は1940年である。(アメリカがこういう映画を作れる国であるということは、日本でも知られていた。だが、それは一部にとどまっていた、ということになるだろうか。)
1920年代のアメリカ、好景気にわき、いわゆるバブル景気を謳歌していたころのアメリカということになる。番組の作り方としては、この時代のアメリカに、現代のアメリカに通じるものを読みとる、という方向性が感じとれる。十分に豊かさを実感できる生活、同時に、移民や黒人などへの差別もあった時代、この基本構造は、大枠ではたしかに今も変わっていないというべきかと思う。
ラジオ、新聞、映画、などの通信メディアの発達によって、人びとの考え方が左右される時代を迎えたことになる。これは、現代では、インターネットによって、途方もない状況になっている。少なくとも、1920年代のアメリカでは、人びとに共有の価値観と情報があったと思っていいと思うが、これが、今では、人によって見る世界と価値観が大きく変わってきてしまっている。見たいものしか見ないし、得たい情報しか得ないようになってきている。現代の社会では、自分と異なる意見を知るためには、かなりのコスト(時間的、精神的、経済的)をかけなければならないようになってしまっている。
アメリカ市民のリンドバーグへの熱狂は、まさに今の時代におけるトランプ大統領に重なるところがある。意図的にこうなったわけではないだろうが、このように解釈して見ることもできる。
それぞれのシーンは、興味深いものであるのだが、私が、この回を見て一番印象に残るのは、昭和天皇が皇太子だったときの映像である。大日本帝国の皇太子としての凜々しい姿が、映像として映しとどめられている。歴史学の方でも、この皇太子時代の外遊が、昭和天皇としての考え方に影響を与えたであろうことが、言われていると思っている。
この時代のアメリカを象徴するのは、フィッツジェラルドであろうか。日本においては、芥川龍之介の自殺から、昭和初期の自由な時代ということになるだろうか。関東大震災からの帝都復興のときでもある。
2025年2月11日記
カラーでよみがえる映像の世紀 第3集「それはマンハッタンから始まった」 〜噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした〜
これは前に見ている。「映像の世紀」シリーズで、AIによるカラー化を試みた最初が、この「それはマンハッタンから始まった」だったはずである。NHKの番組のHPには、このことは書いていないけれど。
何度も書くことになるが、この時代までは、記録映画は白黒フィルムしかなかった時代だから、カラー化にも、ある程度の意味を見いだせる。しかし、これからしばらくたって、太平洋戦争の近づくころになるとカラーフィルムが実用に使われるようになる。『風と共に去りぬ』は1939年の制作であるし、『ファンタジア』は1940年である。(アメリカがこういう映画を作れる国であるということは、日本でも知られていた。だが、それは一部にとどまっていた、ということになるだろうか。)
1920年代のアメリカ、好景気にわき、いわゆるバブル景気を謳歌していたころのアメリカということになる。番組の作り方としては、この時代のアメリカに、現代のアメリカに通じるものを読みとる、という方向性が感じとれる。十分に豊かさを実感できる生活、同時に、移民や黒人などへの差別もあった時代、この基本構造は、大枠ではたしかに今も変わっていないというべきかと思う。
ラジオ、新聞、映画、などの通信メディアの発達によって、人びとの考え方が左右される時代を迎えたことになる。これは、現代では、インターネットによって、途方もない状況になっている。少なくとも、1920年代のアメリカでは、人びとに共有の価値観と情報があったと思っていいと思うが、これが、今では、人によって見る世界と価値観が大きく変わってきてしまっている。見たいものしか見ないし、得たい情報しか得ないようになってきている。現代の社会では、自分と異なる意見を知るためには、かなりのコスト(時間的、精神的、経済的)をかけなければならないようになってしまっている。
アメリカ市民のリンドバーグへの熱狂は、まさに今の時代におけるトランプ大統領に重なるところがある。意図的にこうなったわけではないだろうが、このように解釈して見ることもできる。
それぞれのシーンは、興味深いものであるのだが、私が、この回を見て一番印象に残るのは、昭和天皇が皇太子だったときの映像である。大日本帝国の皇太子としての凜々しい姿が、映像として映しとどめられている。歴史学の方でも、この皇太子時代の外遊が、昭和天皇としての考え方に影響を与えたであろうことが、言われていると思っている。
この時代のアメリカを象徴するのは、フィッツジェラルドであろうか。日本においては、芥川龍之介の自殺から、昭和初期の自由な時代ということになるだろうか。関東大震災からの帝都復興のときでもある。
2025年2月11日記
3か月でマスターする江戸時代「(6)なぜ立て続けに「改革」した?(1)徳川吉宗〜田沼意次」 ― 2025-02-14
2025年2月14日 當山日出夫
3か月でマスターする江戸時代 (6)なぜ立て続けに「改革」した?(1)徳川吉宗〜田沼意次
この回は、吉宗と田沼意次。見ていて、なるほどなあ、と思うところがある一方で、今一つ隔靴掻痒という気がする。それは、前にも書いたことなのだが、江戸時代の幕藩体制は、米作が基本であり、それからの年貢で、すべて動いていた……まあ、たしかにそのとおりなのかとも思うが、これで本当にその時代の経済が回っていたのだろうかと、思ってしまうところにある。
米という穀物の利用価値は、とにかく食べることだけである。お米の御飯を炊いて、それを主食にする。あるいは、一部では、それを原料にしてお酒を造る。しかし、これ以外の利用法はたぶんないだろう。
このとき気になるのは、次のことである。
第一に、全国で、どこでどれぐらいの米が取れたのか。そして、それは、どのように流通して、消費されたのか。江戸時代の人びとは、身分や階層にもよるだろうが、いったい何を食べていたのか。お米を、いちいち江戸や大阪まで運んでいたとしても、その後、その米はどう消費されたのか。換金するとして、お米の流通と、貨幣のシステムは、どのように連動していたのか。
第二に、米が作れない地域、あるいは米作をしない人びとの生活はどのようなものであったのか。たとえば、漁民であったり、山間部に住む人びとであったり、あるいは、旅から旅へと移動する人びとであったり。また、商業従事者は、どのようにして暮らしていたのか。具体的には、どのようにして、お米を買っていたのか。それを、どのように食べていたのか。また、人間はお米の御飯だけを食べては生きていけない。それ以外の食物は、どうだったのだろうか。
お米を基準に考える江戸時代ということになると、どうしても、その流通のシステムが重要であることになるし、同時に、日本の農耕と食文化の歴史、これが密接にからんだ領域のことになる。
どうもこのあたりのことが、すっきりとしないのである。
吉宗を米将軍と称するのは、そうなのだろうが、だからといって、吉宗の時代から日本の人びとの食生活が結果的に米中心になった、というわけではあるまい。米将軍という言い方は、シンボリックに「米」と言っていることになるが、この時代の米とは、どんなものだったのだろうか。上げ米ということがあったとしても、現物のお米を江戸まではこんだのだろうか。そうだとしても、その米は、換金するしかなかったはずである。江戸市中に米があふれた、ということでもないだろう。その米は、誰が食べたと理解すればいいだろうか。米は、食べることしか最終的な利用価値がないものである。
もちろん、上述のようなことを考えるためには、「貨幣とは何か」という、経済学の、あるいは、哲学の、重要な問題があることを、考えなければならないことになる。歴史学者は、「貨幣とは何か」ということについて、どう考えているのだろうか。このことを考えずに、商品経済の発達、などと言っても、たしかにそのとおりだとは思うが、何か本質的なところを見誤っているようにも、思えてならない。
米をタテマエとしたのが江戸時代だったといっていいかもしれないが、それならそれで、実態の経済はどうだったのか、ということが気になるのである。このタテマエの論理の構成が気になるといってもいいだろうか。
おそらく、米をタテマエとしない社会の成立ということが、明治維新ということになるのかもしれない、とは思うところである。たぶん、明治になってからの地租改正、秩禄処分、というあたりの経済的、社会的意味を、考えるところから、さかのぼって江戸時代を見るとどうだったのか、というアプローチもあるかもしれない。近代的な税制度の確立から、それ以前の社会のあり方がどうであったのかを考えることになる。近世と近代の、政治的経済的な連続と不連続を見ることができるだろう。
もし、私が若くて学生だったら自分で勉強してみたいと思うのだが、もうその元気もないので、ただ思うだけである。歴史学の方面では、すでに研究が進んでいることかもしれないけれど。
2025年2月13日記
3か月でマスターする江戸時代 (6)なぜ立て続けに「改革」した?(1)徳川吉宗〜田沼意次
この回は、吉宗と田沼意次。見ていて、なるほどなあ、と思うところがある一方で、今一つ隔靴掻痒という気がする。それは、前にも書いたことなのだが、江戸時代の幕藩体制は、米作が基本であり、それからの年貢で、すべて動いていた……まあ、たしかにそのとおりなのかとも思うが、これで本当にその時代の経済が回っていたのだろうかと、思ってしまうところにある。
米という穀物の利用価値は、とにかく食べることだけである。お米の御飯を炊いて、それを主食にする。あるいは、一部では、それを原料にしてお酒を造る。しかし、これ以外の利用法はたぶんないだろう。
このとき気になるのは、次のことである。
第一に、全国で、どこでどれぐらいの米が取れたのか。そして、それは、どのように流通して、消費されたのか。江戸時代の人びとは、身分や階層にもよるだろうが、いったい何を食べていたのか。お米を、いちいち江戸や大阪まで運んでいたとしても、その後、その米はどう消費されたのか。換金するとして、お米の流通と、貨幣のシステムは、どのように連動していたのか。
第二に、米が作れない地域、あるいは米作をしない人びとの生活はどのようなものであったのか。たとえば、漁民であったり、山間部に住む人びとであったり、あるいは、旅から旅へと移動する人びとであったり。また、商業従事者は、どのようにして暮らしていたのか。具体的には、どのようにして、お米を買っていたのか。それを、どのように食べていたのか。また、人間はお米の御飯だけを食べては生きていけない。それ以外の食物は、どうだったのだろうか。
お米を基準に考える江戸時代ということになると、どうしても、その流通のシステムが重要であることになるし、同時に、日本の農耕と食文化の歴史、これが密接にからんだ領域のことになる。
どうもこのあたりのことが、すっきりとしないのである。
吉宗を米将軍と称するのは、そうなのだろうが、だからといって、吉宗の時代から日本の人びとの食生活が結果的に米中心になった、というわけではあるまい。米将軍という言い方は、シンボリックに「米」と言っていることになるが、この時代の米とは、どんなものだったのだろうか。上げ米ということがあったとしても、現物のお米を江戸まではこんだのだろうか。そうだとしても、その米は、換金するしかなかったはずである。江戸市中に米があふれた、ということでもないだろう。その米は、誰が食べたと理解すればいいだろうか。米は、食べることしか最終的な利用価値がないものである。
もちろん、上述のようなことを考えるためには、「貨幣とは何か」という、経済学の、あるいは、哲学の、重要な問題があることを、考えなければならないことになる。歴史学者は、「貨幣とは何か」ということについて、どう考えているのだろうか。このことを考えずに、商品経済の発達、などと言っても、たしかにそのとおりだとは思うが、何か本質的なところを見誤っているようにも、思えてならない。
米をタテマエとしたのが江戸時代だったといっていいかもしれないが、それならそれで、実態の経済はどうだったのか、ということが気になるのである。このタテマエの論理の構成が気になるといってもいいだろうか。
おそらく、米をタテマエとしない社会の成立ということが、明治維新ということになるのかもしれない、とは思うところである。たぶん、明治になってからの地租改正、秩禄処分、というあたりの経済的、社会的意味を、考えるところから、さかのぼって江戸時代を見るとどうだったのか、というアプローチもあるかもしれない。近代的な税制度の確立から、それ以前の社会のあり方がどうであったのかを考えることになる。近世と近代の、政治的経済的な連続と不連続を見ることができるだろう。
もし、私が若くて学生だったら自分で勉強してみたいと思うのだが、もうその元気もないので、ただ思うだけである。歴史学の方面では、すでに研究が進んでいることかもしれないけれど。
2025年2月13日記
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