『サル化する世界』内田樹/文春文庫2023-03-31

2023年3月31日 當山日出夫

サル化する世界

内田樹.『サル化する世界』(文春文庫).文藝春秋.2023(文藝春秋.2020)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167920029

この本、単行本が出た時に読んでいるのだが、文庫本になったので再度読んでみることにした。この本については共感するところがいくつかある。二つばかり書いておく。

第一には、大阪市長選についてのこと。

内田樹は、平松候補を応援した。その時のメッセージがよい。市長とは、全体の代表者であるべきである。当選したとしても(結果的には、この時の選挙ではやぶれたことになったが)、敵対する陣営……具体的には維新ということになる……のことも配慮しなければならない。維新に票を入れた人びとの気持ちをもくみ取ることを希望すると、述べている。

これには同意する。選挙では敵対することがあっても、当選すれば全体のことを考えなければならない。これは当然のことである。この当然のことが、今の時代の政治のなかでは忘れられているといってよい。

第二には、外国語教育と古典教育について。

母語の檻のなかから出て外を見る必要がある。それには、外国語を学ぶこと、そして、母語の古典を学ぶことが必要であると説く。これにも、私は深く同意するところがある。

ただの実用語学ではなく……そんなものは、場合によっては、AIの自動翻訳で取って代わられるかもしれない……自分の母語を省みる契機としての外国語学習の必要がある。そして、古典も同様である。古典を学ぶことによって、現代語の母語の枠組みとの、連続性と不連続性を確認することになる。母語で見る世界を、相対化して見ることが可能になる。私のことばで言いかえてみるならば、このようなことが主張されている。これにも、私は同意する。

今、古典教育についての風当たりが厳しい。極言するならば、それを学ぶことによって、個人の年収の増加につながらないような学習は無意味であると切り捨てる論もあったりする。だが、古典は、その言語をつかう集団が集団として生きのびるために必要である、と言うこともできよう。言葉の共同体にとって古典とは何か、この観点からの議論も重要であると私は考える。

以上の二点ぐらいを書いてみる。

だからといって、この本に書いてあることの全部に賛同ということでもない。評論家として何について語ってもよいようなものかもしれないが、しかし、同時にその分野の専門家に対するリスペクトは必要なものとして守るべきである、このように感じるところがいくつかあることは確かである。

もとの本は、二〇二〇年の刊行。COVID-19パンデミックの前であり、また、ロシアによるウクライナ侵略の前である。この二~三年の間に世の中は激動した。その観点からふり返って読んでみても、この本に書いてあることは、なるほどと思うところがかなりある。

2023年2月11日記

世界サブカルチャー史 日本 逆説の60-90s 第4回2023-03-30

2023年3月30日 當山日出夫

世界サブカルチャー史 日本 逆説の60-90s 第4回

日本の「サブカルチャー」を四回にわけて、六〇年代から九〇年代まであつかったことになる。四回目、九〇年代を見て思うことはいろいろとある。

以前にも書いたが、九〇年代を考えるということは、断絶をいかに克服できたか/出来なかったかということにポイントがある。昭和という時代の終わりであり、冷戦の終結であり、湾岸戦争であり、バブルの崩壊である。この一連の出来事をどうふりかえって、何を考えることができるのか、あるいは、できなかったのか。私の考えるところとしては、ここで日本はこの時代を考えることに失敗してしまった。その後、一九九五年以降、今にいたるまでの失われたというべき時代は、ここからスタートするのではないだろうか。

思い起こせば、昭和という時代の終わりは劇的でもあった。報道などでは、さかんに昭和の時代を総括する番組や文章が流れていた。この時代を生きてきた人間が今になって回顧して見るならば、この時、徹底して昭和という時代、あるいは、戦後日本という時代を反省することができなかった。表面的に出来事をなぞっただけで終わってしまった。昭和天皇崩御のかげで、本当に考えるべきことを考えずにすごしてしまったという思いがある。

さて、九〇年代、何をしていただろうか。番組で取り上げなかった事柄の一つに、パソコン通信がある。今となっては時代遅れかもしれないが、しかし、今のインターネット社会を予見させる様々な事柄が、すでにパソコン通信の時代にはあったように思い出される。パソコン通信から、インターネットへの時代が、私にとっての九〇年代を考える大きなキーになることは確かである。

しかし、そもそも、サブカルチャーの歴史とは何だろうか。サブカルチャーと言われるものは確かにある。だが、それだけを取り出してあつかうことに、どれほど意味があるのかという気もしないではない。この番組(四回)の中で登場していない人物としては、たとえば、丸山眞男があり、鶴見俊輔があり、吉本隆明がある。これらは、メインの部分として論じることで、サブカルチャーではない、そう考えてのことだろう。しかし、その言論の消費のされかたは、サブカルチャー的であったと言ってもいいのかもしれない。このように思えてしかたがない。

「朝日ジャーナル」を読む一方で、漫画雑誌も読み、また、「諸君」なども読まれてきたというのが、私の、経験的に感じるところでもある。その一部分だけを取り出して論じるのでは、やはり時代の全体像は見えてこないのではないか。あるいは、サブカルチャーという視点を設定することで、もうそれは諦めることで、場合によっては、時代考証的なトリビアな知識の羅列に終わってもしかたないのではないか。このようにも思える。

だが、ともあれ、この四回を見て、思い出すこと、考えることがかなりあった。戦後日本とはどのような時代であったか、改めて考えるいいきっかけになったと思う。

2023年3月28日記

山茱萸2023-03-29

2023年3月29日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日は山茱萸である。

梅の花から桜の花が咲きはじめようかというころに、黄色い花をつける。まだ寒いうちから、つぼみが割れて中の黄色い花が見え始める。山茱萸の黄色い花が見えてくると、春が近づいてきたことを感じる。

今、桜が満開である。梅の花はもう終わってしまった。木瓜の花が咲いている。地面を見ると蒲公英の花が咲きはじめている。今年は桜の花の咲くのが早い。雨でどうなるかと思っていたが、散らずに満開となったようだ。

本格的に春の花のシーズンになってきた。

山茱萸

山茱萸

山茱萸

山茱萸

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2023年3月28日記

『どうする家康』あれこれ「氏真」2023-03-28

2023年3月28日 當山日出夫

『どうする家康』第12回「氏真」

これまで大河ドラマで今川は何回も登場してきていると思うのだが、今回の描き方はちょっと変わっている。たいていは、桶狭間の戦いで義元が討たれるというあたりが中心であったろうか。氏真が大きく取り上げられることはあまりなかった(と思う。)

この回であつかっていたのは、家康と氏真のこと。幼いころから今川に人質として暮らしてきた家康にとって、氏真とは何であったのか。戦国の世のならいとして敵になってはいるが、しかし、心情としては身内に近いものがあるのだろう。

氏真は、いわば二代目である。義元のようなカリスマ性は感じられない。将の器量ではないと言われればそれまでである。だが、人の良さ、あるいは、人間味というものがある。結局、歴史の結果としては、氏真は戦国の世を生きのびることになる。これもまた一つの生き方である。

天賦の才能と努力と、さてどう考えるべきであろうか。

結果的に家康が天下を治めることになるのだが、それに到る道筋はまだまだのようである。次週は上洛をめぐって物語は展開するようである。楽しみに見ることにしよう。

2023年3月27日記

『英語達人列伝Ⅱ』斎藤兆史/中公新書2023-03-27

2023年3月27日 當山日出夫

英語達人列伝Ⅱ

斎藤兆史.『英語達人列伝Ⅱ』(中公新書).中央公論新社.2023
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/02/102738.html

先に刊行の『英語達人列伝』は読んでいる。非常に面白く読んだのを覚えている。これは、その続編である。

取り上げてあるのは、

嘉納治五郎
夏目南方熊楠
杉本鉞子
勝俣銓吉郎
朱牟田夏雄
國弘正雄
山内久明

よく知っている名前もあれば、名前だけ知っているという人もあり、始めて目にする名前もある。が、読めば分かるが、どれも先の『英語達人列伝』と同様に、英語の達人ばかりである。それも、基本的には、日本で英語教育の基礎を学んだ人を集めてある。時代としては、明治から現代にまでおよぶことになる。

タイトルのとおり英語の達人の紹介、短い評伝なのだが、総じて、英語教育論になっている。昨今の口頭でのコミュニケーション重視の英語教育ではなく、読み書きを基本においた、オーソドックスな英語教育の方法に価値を再発見している。

この本を読んで、私なりに思うこととしては、次の二点。

第一には、英語教育について。

何のための英語教育なのか、分からなくなっているのが昨今の状況ではないだろうか。子供の小さい時から英語を学べばいいのか。それは何のためか。英会話が出来ればいいということなのか。あるいは、高度で専門的な英語による議論のためなのか。すべての子供、学生に課すものとしての英語教育はどうあるべきなのだろうか。

一部の、それを必要する学生に対する英語教育であるならば、それなりに目的がはっきりしているかもしれない。そうではなく、将来、英語を日常的に使う必要がさほどあるとは思えない、一般の多くの人びとが英語を学ぶことの必然性はいったいどこにあるのか。まあ、このようなことを言い出せば、学校教育そのものの必用性という議論になってしまうのであるが。

母語とは異なる言語に触れることの意味、これにつきるかもしれない。この意味では、学ぶ言語は、特に英語に限る必要はないかもしれない。中国語でも、朝鮮語でも、ロシア語でも、何語でもかまわなともいえる。

ただ、世界の趨勢として、英語の時代であることは確かなので、英語の実用的な優先順位は高くなるだろうとは思う。

第二に、古典ということ。

この本では、まったく触れていないことなのだが、この本で語られていることの多くは、古典をめぐる最近の議論にも通じるところがあると私は思う。実用性という観点からは、実務的な英会話と、古典教育は、相反することかもしれない。しかし、その教授法、勉強法、そして、真の意味での教養として身につけるべきものはなんであるのかという考え方からして、英語教育と古典教育には、通じるものがあると思う。

教育において何をどう教えることに意味があるのか、再度考えてみる必要を強く感じる。その一つの事例として、学校での英語教育ということで読むと、いろいろと考えところの多い本である。

以上の二点のようなことを思ってみる。

もうこの年になって、新たに外国語を学ぶという気力も無いようなものではあるが、しかし、日本語とは違った言語の世界があること、そして、それは学ぶに価するものであるということは、確認できる。

さらに思うこととしては、どのような人物を取り上げるかとなったとき、政治家、軍人が入っていてもよかったのではないかとも思う。近代の日本の英語ということを考えるとき、政治家、軍人といった人びとが、どのように英語教育をうけ、そして使ったのか興味あるところでもある。

2023年2月23日記

『舞いあがれ!』あれこれ「未来を信じて」2023-03-26

2023年3月26日 當山日出夫

『舞いあがれ!』第25週「未来を信じて」
https://www.nhk.or.jp/maiagare/movie/week25/

この週で描いていたのは、空飛ぶクルマのこと、そして、貴司の歌のこと。

空飛ぶクルマは、どうにか資金のめどもつき開発が軌道に乗ったようである。このあたり時代考証としては、まさに今の時代のことだと感じる。ただ、私は、空飛ぶクルマに乗ってみたいとはまったく思わない。高いところがそもも苦手なのである。

貴司は歌人として行き詰まっている。まあ、破滅型の文学者なのであろう。家庭的な幸福感のなかにあっては、歌を詠むことができない。貴司は、パリに行くことになるのだが、はたしてどうなるだろうか。このあたり、文学者の創作にかかわる機微を丁寧に描いていたと感じる。

さて、このドラマも次週で最終週である。物語は、二〇二二年の一月であったが、その後、どの時代まで描くことになるのだろうか。空飛ぶクルマは、実現するだろうか。最後を楽しみに見ることにしよう。

2023年3月25日記

「テレビとはあついものなり」2023-03-25

2023年3月25日 當山日出夫

NHKスペシャル テレビとはあついものなり
https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/tereatsu/

なにごとも草創期というのは、面白いものである。見て思うことはいろいろとある。

高橋圭三も宮田輝も、私は記憶している。だが、その最初のとき、テレビの始まりのときはまだ生まれていない。私は、一九五五年の生まれである。そして、小さいとき、我が家にテレビはまだなかった。ただ、東京オリンピックをテレビで見たのは記憶にある。我が家にテレビがあったのは、いつからだったろうか。

黒柳徹子が語っていた。テレビは平和のためにあるものであると。この意味するところは、考えるところがある。今では、戦争の実況中継がテレビで可能になっている。いや、それが普通になっている。思い起こせば、テレビと戦争は関係が深い。かつては、ベトナム戦争がそうであった。あるいは、湾岸戦争の時のことも思い出す。今のウクライナの戦争では、リアルタイムで放送されている。

気になるのは、宮田輝の残した資料。これは、NHKで受け取ってきちんとアーカイブしておかなければならないものも、かなりあるはずである。分類整理して、少なくとも中性紙のフォルダーや箱に保存するぐらいのことはしておくべきだろう。

番組中の「テネシーワルツ」が良かった。

通信と放送の融合ということが言われて久しいが、しかし、良質のドキュメンタリーやエンターテイメント、さらに、報道などは、いくらSNSが普及しても、代替されることはないだろう。(楽観的には、AIがSNSの情報を整理して提示してくれる未来を考えることも不可能ではない。しかし、それでもAIにまず何をどのように学習させるかという課題はあるはずである。)

テレビに求められるもの、少なくとも私が求めているのは、「質」である。あるいは、作り手の良心と誠意と言ってもいいかもしれない。これからテレビはどんどん変わっていくだろうが、亡びることはないだろうと思う。

2023年3月23日記

世界サブカルチャー史 日本 逆説の60-90s 第3回2023-03-24

2023年3月24日 當山日出夫

世界サブカルチャー史 欲望の系譜 シーズン3 日本 逆説の60-90s 第2回

第三回は、一九八〇年代のこと。

この時代、私は何をしていただろうか。大学の学部の学生が終わって、大学院に行って、研究に没頭していた時期でもある。「神田本白氏文集」の漢字索引、訓点語索引の仕事をしたのは、一九八〇年代の初めのころである。

さて、一九八〇年代の世相としては、あまり覚えていない。番組に出てきたなかでは、西部美術館のことを、比較的はっきりと覚えているだろうか。池袋には行くことがあった。西部美術館の展示はかなり見ている。それから、その下のフロアにあった、書店にもかなり行ったものである。そのころ、池袋西部の書店は、独自の品揃えをしていたものである。それが、後に今泉棚と呼ばれるものであったことを知った。確かにここには、ある「知」があった。

浅田彰や中沢新一は、あまり傾倒することなくすごした。「なんとなく、クリスタル」も読むことなく今にいたっている。(今になって特に読んでみようという気もおこらない。)

バブルといわれる時代である。その時代の雰囲気として、NTT民営化があって、そのとき、NTT株を買わないものは愚か者であるというようなことが、私の周囲でも語られることがあった。(私自身は、まったく興味がなかったが。)

そして、一九八〇年代から、次の九〇年代は、大きな時代の変わり目になる。昭和の終わり、冷戦の終結、ベルリンの壁の崩壊、それから、湾岸戦争。この時代の変わり目をどう生きてきたのだろうか。今となっては、この時代の節目を通り抜けた、過去の一時期として懐古されるのが一九八〇年代であるように思えてならない。この総括の時代をくぐり抜けたものとして次の九〇年代があり、その前の時代として八〇年代があると、私には思えてならない。

この時代、まさにテレビの時代だったと思うのだが、番組ではテレビのことはほとんど扱っていなかった。ユーミンの歌は出てきていた。が、竹内まりや、中島みゆき、それから、桑田佳祐などは登場していなかった。この時代のサブカルチャーを語るのに、映画をあつかうのは、ちょっと無理があるように思えてならない。(ただ、この番組の方針として、映画をキーにして時代を見るということがあるのだろうとは思うが。)

2023年3月23日記

ドキュメント72時間「異国の地のアフガニスタン食堂で」2023-03-23

2023年3月23日 當山日出夫

ドキュメント72時間 「異国の地のアフガニスタン食堂で」

海外ロケで作ったもの。ドキュメンタリー番組としては、アフガニスタン、パキスタンという国やそこに住む人びとのことについて、いろんな語り方があるだろうと思う。これは、そんなに国際的な問題に踏み込むことなく、わりとあっさりとした切り口に作ってあった。まあ、三〇分の七二時間の番組である。そう深く切り込むことは難しいのかもしれない。

とはいえ、やはりアフガニスタン、パキスタンの現代史を感じさせる作りになっていたことはたしかである。私の世代であれば、旧ソ連のアフガニスタン侵攻のことは記憶している。

国家と民族と宗教が錯綜する中央アジアの地域にあって、そこには、人びとの生活がある。番組のなかでは(そう編集してあるのだろうが)、出てくる人びとは明るかった。問題を抱えているとしても、前向きに歩んでいこうとしている。(おそらく、この番組には出てこないような悲惨な状況も、同時にあるのだろうとは思って見ることになったのではあるが。)

はやくこの地域に住む人びとに安寧な暮らしが戻ってくればと思う。

2023年3月21日記

オオイヌノフグリ2023-03-22

2023年3月22日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日はオオイヌノフグリである。

今年は、この花の咲き始めのころに気づいた。三月のはじめである。例年、もっとあたたかくなって桜の咲く頃になって、地面を見ると青い花が見えるということで気づくことが多かった。今年は、もう咲くだろうかと思って注意して見ていた。

今年気づいたことがある。この花は、花全体がポロリと落ちる。椿の花のようにである。写真を撮っているときに、二度ほど、花がポロリと地面に落ちるのを目にした。

ちょうど昨日ぐらから我が家の桜の花が咲きはじめている。梅の花は散りはじめというところ。上を見ると藪椿の花が目にはいる。その横にはシキミの木がある。木瓜の花も咲きはじめた。

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

オオイヌノフグリ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2023年3月21日記