はじめに ― 2007-11-24
別に論文を書いているつもりではないが、まず、「はじめに」と書かないと文章がつづかない。だが、いつ、「おわりに」と書くことになるのか、それは、そのときになってみないとわからない。
これまで、人文学研究とコンピュータの世界にかかわってきた。しかし、いろいろ思うところあって、あえて、自分のホームページをつくらずにきた。
だが、ここにきて、ブログぐらいは、やってみようかという気になった。このように思うような過程については、おいおい書いていくことになるだろう。
今のところ考えているテーマは、
1.人文学研究とコンピュータ、人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)について
2.大学生を対象としての、情報処理教育や作文技術教育について
「学知」というものが、なにがしか、コミュニケーションやプレゼンテーションとかかわるものであるならば、これらのことは、どこかで、つながるはずである。
が、ともあれ、スタートすることにしよう。
「デジタル・ヒューマニティーズ」をつくったわけ ― 2007-11-25
新しくブログを始めるにあたって、「デジタル・ヒューマニティーズ」というカテゴリーを設定した。カタカナを漢字なおせば、人文情報学、とでもなるだろう。デジタル・ヒューマニティーズにかかわる、HPやブログは、すでに数多く存在している。そのなかにあって、あえて、このカテゴリーを持つブログを作ったのは、次のように考えたからである。
いろいろとわけあってのことであるが、秋(2007年)から、
立命館大学「グローバルCOE:日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」
というところの、研究員(客員)を、やるはめになった。客員ということであるから、特に、仕事(研究)のノルマがあるわけではない。だが、その一方で、比較的自由にものが言える、という立場でもある。
このGCOEは、すでに、中核となるアート・リサーチセンターをはじめとして、各研究班で、HPやブログが、たちあがっている。
そのなかにあって、わざわざ、このようなものを作らなくても・・・とは思うだが、時と場面、話題によっては、言いにくい(書きにくい)こともあるだろう。これは、私のみならず、関係者それぞれが、それぞれの事情において、あるだろう。
とりあえず、ここは、私が、自分なりの考えを書くところとしておく。そして、同時に、GCOEやデジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)に興味関心のある人が、見てくれればよいと思う。
研究会での発表や質疑応答
GCOEのブログでのコメント
この、私(當山日出夫)個人のブログ
これらを、つかいわけていきたい。この種のコミュニケーションの作法も、また、デジタル・ヒューマニティーズを構成する一部であろうと考える。
「アカデミック・ライティング」を教える ― 2007-11-25
人文学の本質は、その教授法とともにある・・・このような趣旨のことを、『漢字文献情報処理研究』の第7号(2006)、第8号(2007)、に書いた。文章のタイトルは、「なぜ文系と理系の議論はすれ違うのか」。
第7号に書いたのは、編集部からの依頼原稿として。その後、あれこれ考えるところがあって、第8号に続編を書くことになった。そのためというわけではないが、今は、この研究会(漢字文献情報処理研究会)の会員の一人でもある。
「アカデミック・ライティング」・・・これは、私が、昨年度(2006)から担当している、大学の授業科目名を、そのまま借用した。そして、このブログのカテゴリーに使うことにした。漢字をつかって書けば、大学生のための文書作成技法、とでもなるだろう。
いま、もともとの専門領域である日本語(その歴史)を、大学で教えるのは、ごくわずかのコマしかない。そのほかは、コンピュータであったり、アカデミック・ライティング、であったり、という状態である。
コンピュータも文書作成技法も、私は、大学では学んでいない。
大学生のころ、確かにコンピュータの授業もあったと記憶する。しかし、三田の文学部の国文科の学生にとっては、FORTRANもCOBOLも、縁の無いものであった。
論文の書き方は、みようみまねで覚えていくしかなかった。まだ、ワープロ専用機(いまはもう無くなったが)も、パソコンも無い時代、ひたすら、原稿用紙に万年筆で字を書いていた。専門の論文を読みながら、そのマネをして、身につけていくだけであった。
日本語について教える場合であれば、相手の学生のレベルの違いはあるとしても、基本的に、自分の学んできたことを、教えればよい。これは、日本語学にかぎらず、他の人文学の研究分野においても、同様であろう。学生のとき、先生にならったことを、学生に教える。
しかし、学生のときに、まったく「授業」として習ったことのないことを、あらたに、教師の立場で学生に教えるとなると、いろいろ、とまどうことがある。そもそも、いったい何を教えればいいのか、わからないのである。
アカデミック・ライティング・・・人によって、このことばからイメージする内容は異なっているだろう。私は、とりあえず、こう考えてみることにした。「論文の書き方」とは、学知の継承のあり方の一部を、ある視点から見たものであろう、と。
この意味において、「デジタル・ヒューマニティーズ」と「アカデミック・ライティング」を、ならべて考えることにしたい。学知のデジタル化の流れのなかで、むかしながらの原稿用紙に万年筆という作文教育の方法は、もはや通用しないと考えた。
デジタルの世界における、作文教育・文書作成技法、といっても、まったく試行錯誤である。ここでは、私なりの、試行錯誤を語っていくことになろう。
(注)漢字文献情報処理研究会 http://www.jaet.gr.jp/
情報処理教育と作文教育 ― 2007-11-28
アカデミック・ライティングの授業を担当してくれませんか・・・と依頼されて、引き受けることにした。理由は、依頼されたから、というだけではない。それ以前から、担当していた、コンピュータ関係の授業(情報処理入門、人文科学のための情報処理・応用)で、実際に教えていたのは、コンピュータ(ワープロ=Word)による、文書作成技能、であったからである。
いまの時代、文章を書く=パソコンを使う、である。であるならば、コンピュータ教育と、作文教育とは、連続的につながるものでなければならない。それは、基本的に、アカデミックな世界での文書作成を目的とする。同時に、そこで身につけた技能が、一般のビジネス文書作成にも、役立つものでなければならないだろう。
大学教育=高等教育で、はあるが、高等教育=研究者養成、ではない。これは、私の認識である。
まずは、大学で提出するレポート・論文の書き方、それも、きわめて形式的なことがらを、きちんと教える。
Wordの使い方入門の本など、書店で、選択に困るほど売っている。だが、それらの解説書で、「脚注」のつけかた、をきちんと解説したものが、あるだろうか。
言うまでもないが、アカデミックなレポート・論文には、「脚注」はつきものである。そして、いかんともしがたいことであるが、Wordの脚注の機能は、日本語の文書に適さない。だが、これを、使うしかない。
そして、重要なのが、文献リスト。この書き方が、ややこしい。特に、文学部の場合・・・心理学・地理学などの分野と、日本文学・日本史などの分野では、文献リストの書き方の、ルールが異なる。それが、同じ学部の中に同居しているのだから、困る。「このルールで書きなさい」と、強制するわけにはいかない。専門の科目なら、こういう言い方もできる。しかし、一般教養的な科目では、無理である。
文献リストの整理には、Excelを使うのが常道だろう。となると、
1、まず、Excelの基本操作ができないといけない。
2、Excelから、Word文書に、文字列として、変換できないといけない。
3、そのとき、書いているレポートや論文のルールにしたがったものが作れないといけない。
これらの事柄はワンセットである。コンピュータの操作(WordやExcel)と、アカデミックな文書作成(文献リストや脚注)とは、同時に、あるいは、連続的に教えるのが、効率的である。
当然、この続きには、インターネット上の学術情報、その利用のルールやマナーということもある。
限られた授業時間内で、なにをどう教えていくか、まさに試行錯誤のはじまりである。
HAL ― 2007-11-29
師(もろ)さんのブログ「もろ式:読書日記」を読んでいる。最近の話題は、「表象としてのコンピュータ」。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20071030/1193751261
ここで、師さんは、今の学生に、コンピュータについて、考えさせるとき、映画『マトリックス』を事例に出すと、記している。私なら、『2001年宇宙の旅』を例に出す。コンピュータの名前は、ハル(HAL)。
この映画におけるHAL(コンピュータ)は、人間がイメージするところの、究極のコンピュータの一つの形であろう。今は、あまりはやらなくなったが、「人工知能」ということばが、よく使われていたころがある。
もちろん、現在のコンピュータの性能において、このHALのようなことはおこりえない。だが、やはり、考えてみるに値する問いかけではある。現時点で、私の明確な思考が形成されているわけではないが、最終的に、「こころ」「知識」「意識」というようなレベルにまで、射程がおよぶことだけは理解できる。
デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)といったとき、ともすれば、目の前にある、研究課題について、どのように、コンピュータが利用可能であるか・・・ありていに、ざっくばらんにいえば、業績となる研究ができるかどうか・・・に、目がいってしまう。
確かに、デジタル・ヒューマニティーズを名乗る限り、「コンピュータを利用した研究」は、進行させなければならない。だが、それだけに、とどまってはいけないとも思う。
私個人の例でいえば、世の中にパソコン(NECのPC-9801)が登場して、利用し始めたとき・・・これで、何かが変わるはずだ、という直感があった。
そのときの直感とは何だったのだろう。
ところで、このようなラディカルな、あるいは、メタレベルの問いかけの中で思うのだが、「ロボット」と「コンピュータ」は、どう違うと考えればよいのか。アトムやドラえもん、鉄人28号やマジンガーZ(例が古くなってしまうが)の違いは、何か。
『論文の教室』を読む(1) ― 2007-11-30
アカデミック・ライティングの授業を、はじめるにあたって、まず、困ったのが教科書。
毎回、A4で4ページ(A3で二つ折りにする)を、作って配布することを、原則としている。これは、他の授業でも、基本的に同じ。あるいは、短い場合は、A4で1枚(場合によっては、裏表の両面に印刷する。)
コンピュータの時代・・・になっても、ぜんぜん、ペーパーレスにはならない。
紙にプリントしたレジュメを配って、一方で、パワーポイント(これは、スクリーンにではなく、パソコン教室の各学生の前のディスプレイに表示される)を使って説明していく。観察していると、かなりの学生は、説明を聞きながら、くばったレジュメに、メモを書き込んだり、あるいは、重要と判断した箇所にマーカーで印をつけたりしている。
何が重要であるかは、学生それぞれの判断によってわかれるだろう。やはり、紙メディアで、プリント配布、というのは、教育的には意味のあることと思う。
ただ、大学が導入している、授業支援システム(WEB-CT)があるので、そこに、休んだ学生のため、ということで、PDFにしたものを、授業の後でアップロードしておく。
ところで、レジュメだけで授業をすすめるのは無理。何かテキストを指定しておく必要がある。
いろいろ候補はあるのだが、私が選んだのは、『論文の教室』(戸田山和久)。
木下是雄の本も考えてみた。確かに、『理科系の作文技術』(中公新書)、『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫)なども、いい本である。
ただ、時代の流れというものがある。今の時代には、今の学生のための、論文の書き方の本が、ある。この意味において、『論文の教室』がふさわしいと判断した。
しかし・・・文学部の2回生対象の授業で使うには、すこし無理があったかもしれない。
このあたりの事情は、続けて書いていきたい。
戸田山和久(2002),『論文の教室―レポートから卒論まで―』(NHKブックス),日本放送出版協会
木下是雄(1994),『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫),筑摩書房,(原著は、1990,筑摩書房)
木下是雄(1981),『理科系の作文技術』(中公新書),中央公論社
データベースはどう評価されるか ― 2007-11-30
ある時、ある場所でのこと・・・COEを決める側の立場の人と同席したことがある。もう、次の年度には退官ということで、かなり自由にものを言う気分であったようだ。
いわく・・・COEの計画書を見ると、どれもこれも、データベースを作るというものばかりだ。近頃の若い研究者は、ろくな研究をしない。データベースばかり作っている。
さて、どう考えるべきか。私としては、内心、非常な複雑な気持ちで、このことばをきいた。
たしかに、半分は、あたっていると、思わざるをえない。現在、各研究分野で、データベースが、さかんに構築されつつあることは、確か。そして、まだ、それが、途上であることも、確か。
だが、一方で、こうも思う。
1. 若い研究者が、まさに、データベース構築に動員されて、現場での作業にあたっている。専門的なデータベースは、それなりの学識がないと作れない。そのため、業績となる論文を書くための時間がうばわれてしまう。データベースを作ったスタッフの一員というだけでは、業績として、高く評価されるということはない。
2. 現在では、ある程度の利用価値のあるデータベースは、いろいろと蓄積されている。だが、それを、本格的に使った研究が乏しいのも現状ではなかろうか。データベースの価値を決めるのは、それを使って専門の研究者が、どのような研究成果をあげられるか、である。どんなに充実したデータベースであっても、使う研究者がいなければ、評価の対象とならない。
3. さらには、次のようなこともある。たとえば、東京大学史料編纂所のデータベース。今、日本の歴史学研究者で、ここを利用しない人はいないだろう。ある意味、ここまでになってしまうと、作った人のことが、逆に、忘れ去られてしまう。
『日本国語大辞典』(小学館)は、いったい誰が実際の編集・執筆にたずさわったのか。どれほど知られているだろうか。『大漢和辞典』(大修館書店)は、一応、諸橋徹次、ということになっている。しかし、実際の編集に、自ら手をくだしてはいないことは、周知のこと。「データベース」が「工具書」として充実して利用価値が高まるほど、その実際の作成者は、忘れ去られていく。
理想をいえば・・・データベースを使った研究がどんどん発表されて、そして、それが同時に、データベースを作った人の評価にもつながる・・・このようになってほしい。
最近のコメント