『されど われらが日々―』2008-01-04

2008/01/04 當山日出夫

Googleで、この本について検索してみると、けっこういろんなブログで言及している。書いているのは、若い人ではなく、この本を、昔、愛読した、かなり年配の世代、とおぼしい。

いま、私の手元にあるのは、昨年(2007)の11月に、文春文庫で再刊されたあたらしい版のもの。もちろん(というと、歳がばれるが)、むかし、学生のころ、古い文庫本で読んでいる。

『されど われらが日々―』について語り出すと、なんとなく感傷的になってしまうので、やめておく……で、このブログとしては、デジタル・ヒューマニティーズの視点から。

この本、1964年の芥川賞受賞。作者は、柴田翔。当然ながら、パーソナルコンピュータもなければ、インターネットの影も形もない時代。主人公は、東大の学生(大学院生)。舞台となる人物設定は、本郷を中心とした学生たち。

冒頭の一節、(主人公が古本屋で本を見る場面)


そういう時、私は題名を読むよりは、むしろ、変色した紙や色あせた文字、手ずれやしみ、あるいはその本の持つ陰影といったもの、を見ていたのだった。(p.11)


そして、主人公は、H全集を手にとることになり、その蔵書印から、もとの所有者へと話題がつづいていくのだが、最後にも、また、H全集への言及がある


あの時、H全集のたたずまいから発して、私にからみついてきたその奇妙な雰囲気、私をして自分の意志にさえ反してH全集を買わせたあの悪寒は、果たして私一人のものであったのだろうか。(中略)それは、私たちと同じ時代を生きた人たち全てのものであったのではないだろうか。(p.222)


ここでは、『H全集』という個人の著作の編纂物、それが書物として存在すること、その「奇妙な雰囲気」について語られている。『全集』というものが、ある人物の著作のアーカイブであるとするならば、それを、デジタル化したとき、はたして、「その奇妙な雰囲気」を、感じ取るということがあり得るだろうか。

ところで、私は、人文学にかかわる人間として当然のことであるが、本は、かなり持っている。(ごく稀にであるが、自分の蔵書は一切持たないという主義の研究者もいる、しかし、これはあくまでも例外中の例外。)そして、本は、なかなか棄てられない。

棄てることができないものは、研究書ではなく、むしろ、文学書、特に、詩集である。いまだに、北原白秋は、むかしの岩波文庫の古い活字本(本当の活版)でないと、読んだ気がしない。夏目漱石ぐらいになると、昔の文庫本でも全集(岩波版)でも、さほど違和感なく読める。

もし、北原白秋の詩集がテキストデータとしてあったとき、パソコンで文章を書くときに、引用するのに便利だから使うということはあっても、その詩を読むために、ディスプレイで見るということは、たぶんありえない。

このような感覚を書物に対して持っているのは、『されど……』を、昔、学生のとき読んだような、私ぐらいの世代までのことなのかもしれない。文学をデジタルアーカイブするとき、何が抜け落ちてしまうのか、このことをどうしても考えてしまう。

それを逆にさかのぼれば……『源氏物語』を、古写本の変体仮名のテキストで読めといわれれば、私は読める(大学は、文学部国文科の出身であるから)。しかし、普通には、活字本で読んでしまう。このとき、手書きの写本から、何かが脱落していることは確かであろう。料紙・墨跡から感じ取るものが、無い。

にもかかわらず、『源氏物語』は、やはり『源氏物語』である。活字になっても、残る本質的な部分がある。それならば、それを、さらにデジタル化しても、本質の部分は、継承されるのだろう……と、思わなければならない。

もう10年以上も前のことになる。情報処理学会CH(人文科学とコンピュータ研究会)で、「読書とコンピュータ -テキストデータで本が読めるのか-」という発表を、私はしている。第11回、大日本印刷、1991年。

このときに考えたことから、あまり、状況は変わっていないのではないか。『されど……』を、読み返して感傷的になってしまうような人間の、そこはかとない思いである。

當山日出夫(とうやまひでお)