『そっと耳を澄ませば』2008-01-18

2008/01/18 當山日出夫

『文章のみがき方』.辰濃和男.岩波書店(岩波新書).2007

で、紹介されていた本で、私も、これに関連して、過去に言及したことがある。2007年12月26日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2007/12/26/2530892

やはり、引用されている部分だけではなく、全部を読んでおきたいと思った。これは、是非、学生にすすめたい。それも、できるなら、映像学部の学生に、である。

すでに映像が見えるもの、音が聞こえるもの、このことを大前提にして、現代の映像コンテンツは、なりたっている。しかし、世の中には、そうでない人もいる。視覚障害・聴覚障害、などの人たちである。

これは「誤解」であるのかもしれないのだが、目の見えない人にも、映像の世界は、ある。耳の聞こえない人にも、音の世界は、ある。

現代の脳科学から人間の感覚器官の認知のシステムにアプローチするのも、ひとつの方向である。おそらく、目が見えない・耳が聞こえない、という世界が、実は、きわめて豊かな感受性をふくんでいることに、気づくことになるだろう。ただ、あくまでも実験で、それを立証するのは、かなり困難であるかもしれない。

この本については、いろんな人が感想を書くだろうから、言語(表記)の研究の視点から気づいたことを、すこし。

非常に読みやすい。漢字と仮名のバランスが、きわめてよい。

おそらく、このことは、著者が視覚障害(目が見えない)ということが、ある意味で作用してのことと考えてよいのかもしれない。どのようなシステムで、実際に原稿が書かれたか、点字で書くにせよ、コンピュータの音声読み上げソフトを利用するにせよ、日本語の表記では、漢字と仮名のバランスと、句読、特に、読点「、」のうちかたが、重要になる。

具体的にいえば、このようなことになる。

「私は毎日新聞を読む。」

この文は、2通りに解釈できる。「私は、毎日、新聞を読む。」と「私は、『毎日新聞』を読む。」である。つまり、不用意な漢字熟語連続は、文章の可読性をそこなうばかりか、場合によっては、違った意味に解釈されてしまう危険性がある。

このような不用意な漢字連続が、『そっと耳を澄ませば』には、見あたらない。

もうかなり以前のこと、このブログの運営主体であるアサヒネットが、パソコン通信であった時代のとき。なかに、視覚障害の人がいた。あるメッセージのボードで、「だれそれさんの文章は、読みやすく書いてありますね」という趣旨のことが、書いてあった。(音声読み上げソフトか、点字ディスプレイによって、メッセージを読んでいた人であると、記憶する。)

これは、漢字と仮名のつかいわけ、句読法、これらを総合しての可読性ということになる。私の書いている、この文章の書き方が、はたして、この視点から、合格であるかどうか、まったく自信はない。しかし、そのように書こうと努力している。むかし、パソコン通信のメッセージで、上記の文章を読んだときから、そのようにこころがけている。

三宮麻由子.『そっと耳を澄ませば』.集英社(集英社文庫).2007 (原著は、2001年に、日本放送出版協会)

なお、余計なことかもしれないが、この本のオリジナル版には、「校正者」の名前が書いてある。文庫では、省略されている。やはり、これは、この本の成り立ちを考えれば、残しておくべきであろう。いや、あるいは、書かないのが正しいのかもしれない。難しい問題である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『構造化するウェブ』2008-01-18

2008/01/18 當山日出夫

岡嶋裕史.『構造化するウェブ』(講談社ブルーバックス).講談社.2007

概括してしまえば、今、はやりの言葉いう「Web2.0」関連の書物のひとつ、ということになるが、その中では、ひと味ちがう。

まず、「はじめに」で、

『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書).西垣通.岩波書店.2007

『ウェブ進化論』(ちくま新書).梅田望夫.筑摩書房.2006

の2冊をしめし、これらの本をふまえている旨が明記されている。読者に対して、読んでおいてほしいとある。(私は、読んではいるが。)

つまり、この本自体が、「ウェブ社会」について、その技術の流れと、それに対して、社会がどう反応しているかの流れ、異なる次元について、総合的に見る視点で書かれている。

そして、私がこの本から学ぶべきだと、読み取ったことは、「理念」と「現実」とを、きちんと分けて考えること、である。この本では、まず、インターネットを現実的な社会のインフラとして、ウェブ社会が目指している理念(Web2.0)の方向について、語っている。

現実に今のインターネットで何が起こっているか、の議論も大事である。グーグルやアマゾンのシステムがどうなっていて、それによって社会が、私たちの生活が、今現在、どうなっているのかについての認識は重要である。この方向では、たとえば、

『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書).森健.光文社.2006

などは、きわめて参考になる。

ところで、『構造化するウェブ』から、興味深い記述をひろってみる。

明確な法則があるわけではないが、利用者に面倒だと感じさせる技術は普及しない可能性が非常に高い。これは利益と不利益の差をとって不利益が大きいという場合、という意味ではない。利益と不利益を比較してどんなに利益が大きくても、不利益のレベルがある一定の水準を超えると使われなくなってしまうのである。特にウェブ利用者の不利益に対する感受性はナーバスだ。(pp.104-105)

そして、この本の基調となっている、技術のめざしている「理念」と、実際に実現していることがらとしての「技術」、これを区別して、将来の「理念」を見据えるという姿勢、これは、きわめて学ぶべきものがあると考える。

このブログのテーマでもある、人文学研究とコンピュータ(人文情報学/デジタル・ヒューマニティーズ)にとって、貴重な視点である。つまり、

1.デジタル・ヒューマニティーズとして何を目指すのか、それは、従来の人文学研究とどう違うのか、という未来に向けての「理念」。

2.今のコンピュータ技術では、いったい何が可能であるのか、実現していることは何であるのかという、現実の「技術」。

この両者を整理して議論しないといけないだろう。今の技術で可能なことだけで、デジタル・ヒューマニティーズを語ってはいけない。また、実現不可能な空想の世界のことにしてしまってもいけない。

とはいえ、技術はどんどん進歩する。今から20年前、今のインターネットの社会を、どれほどの人が想像しえただろうか。だが、現在では、すくなくとも、「Web2.0」という、「理念」の方向は確実に定着している。これに沿った、デジタル・ヒューマニティーズ論を、考えていきたいものである。

人文学研究者にとって、「不利益」「面倒」と感じさせる閾値を可能な限りひくくすること、また、実際の人文学研究者が、コンピュータやインターネットにどう反応しているかについて、観察をおこたらないことが、重要である。

コンピュータを使わない研究者を排除するようになってしまっては、デジタル・ヒューマニティーズの未来はない……このように予見させる本である。

當山日出夫(とうやまひでお)

ARG3052008-01-18

2008/01/18 當山日出夫

ARG(ACADEMIC RESOURCE GUIDE)について、書く。つまり、メールマガジン『ARG』についての、個人的な書評(あるいは感想文)である。書評(あるいは感想文)が、紙の本だけに対するものである、という認識を、超えたいのである。

最新のものは305号(2008-01-15)。

もっとも興味深いのは、なんといっても、巻頭の、

田中浩朗さん、サイト「帝国日本の科学技術動員体制」を公開

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080106/1199622811

http://ohst.jp/douin/2008/01/post_2.html

である。

個人の研究者が、その研究のプロセスそのものを、公開していくこと、これは画期的である、と思う。学術の世界は、結果で勝負である、これは言うまでもない。(もっと露骨に言ってしまえば、業績にする、ということである。)

これまで、その研究のプロセスは、特に人文学研究では、「公開する」という性質のものではなかった。資料の集め方とか、その整理の仕方、などは、研究者から学生へ、個人的に伝授する、というものであった。あるいは、弟子は、その師匠の方法を「盗む」もの、とされてきた。たとえていえば、芸能の世界における、内弟子、に相当すると考えればよいかもしれない。

このあたりの私の考え方については、『漢字文献情報処理研究』の第7号に書いておいた。

だからこそ、研究の方法論について、そのノウハウを記した『知的生産の技術』(梅棹忠夫、岩波新書)や、『発想法』(川喜多二郎、中公新書)が、売れたということになるのだと、思う。前者は、いわゆる「京大型カード」が一世を風靡することになり、後者はKJ法の名で知られている。初期のパソコンの時代、「京大型カード」「KJ法」は、いくつかのソフトウェアの、モデルとされた。

しかし、今、カード形式で表示のデータベースソフト、などは、ほとんど世の中から姿を消してしまっている。「ハイバーテキスト」がそれにとって変わったということなのかもしれないが、文書やデータの「構造」についての考察が深まったということではなさそうである。

一方で、大学生を対象として、「勉強の仕方」のノウハウ本、というか、教科書が、売られるようになった。講義のノートの取り方、などについて、説明した、大学でつかう教科書、である。その先駆的なものは、『知の技法』(東大)かもしれないが、最近のものは、こんなことのレベルまで教える必要があるのだろうか、と感じるまでに下がっている。

田中浩朗さんのサイトを、紹介された時点で見る限りであるが、これは、若手の研究者にとって、非常に有益であると思う。特に、大学院生で、研究の具体的な手順(資料の収集や整理)について悩んでいる人には、参考になるにちがいない。

自分の研究の手のうちをあかす、ということは、非常に決断を要することである。田中浩朗さんの英断に敬意を表したい。

當山日出夫(とうやまひでお)