研究会をいろんな立場から見ることの意味2008-01-09

2008/01/09 當山日出夫

実に様々な学会・研究会・セミナー・シンポジウム・ワークショップ……がある。メーリングリストで流れてくるものもあるし、また、ARGのイベント案内で知ることもある。(最近では、京大のGCOEのフィールド情報学、行きたいけど、授業日で行けない。残念だ。)

研究会をやりますという案内・プログラムは分かる。概要が記されていることもある。これら全部に出席するのは無理であるにしても、どんな研究会が行われているのか、何が研究テーマになっているのか、その全体としての方向を知るうえで、インターネット上の各種の情報源は、きわめて貴重である。

「じんもんこん2007」について、勝手な個人的感想を書いてみた。このブログに書いたのは、あくまでも、私個人の感想にすぎない。評価したいと思う発表もあれば、そうではないものもある。

研究会である以上、たしかに、研究のレベルが問題ではある。しかし、それだけではないと思う。特に、「じんもんこん」シンポジウムのように、文系・理系いりみだれての研究会(シンポジウム)であれば、それを、見る・聞く人の立場や専門、考え方によって、いろんな受け止め方がある。

研究会は、研究成果を発表する場である。そして、それが、業績になる、これは、これでよい。

だが、それに加えて、参加した人が、どのような感想をいだいたかでもよいから、コメントを加えて、相互につながっていくとしたら、その研究会の知的価値は、倍増するのではないだろうか。通常の業績となる評価とはまた違った意味で、知的な活動の価値が増大する。そして、それが、刺激になって、次の研究活動の契機なる。このようなエネルギーを持っているのが、知的なネットワークの世界の可能性だろう。

批判的な意見があれば書く。しかし、間違っていれば謝る。書いたことには責任を持つ。否定的なことを書いても、批判するためだけに終わるのではなく、次のステップへのきっかけになる……そういう方向性を、基本的姿勢として持っているかどうか、これが重要だと思う。

オープンな知の世界を肯定的にとらえてチャレンジしていくこと、この基本さえ持っていれば、たとえ、一時、批判的な応酬があったとしても、やがては、さらなる高みへと、止揚していくことになろう。(止揚などという言葉、ちょっと古いかな。)

2008年になって、学校もはじまった。今年は、「じんもんこん2008」をはじめとして、たくさんの研究会・学会などがある。発表するだけでおわらず、参加した人たちの、小さなコメントの集積が、これからの知の世界を、ゆたかなものにしていくのだと確信したい。

當山日出夫(とうやまひでお)

『理科系の作文技術』2008-01-09

2008/01/09 當山日出夫

超有名な本である。いまさら、この本の内容について、私などが口をはさむことはない。

木下是雄(1981).『理科系の作文技術』.中央公論新社

ここで書いておきたいのは、この本といより、出版社の方。つまり、中央公論社(=現在の、中老公論新社)、についてである。もっと端的にいえば、その奥付の表記法について。

私は、この本、何冊か持っている。たとえば、

1.最初に出たときの初版本。たしか、大学院生のとき。書名に『理科系の……』とあるのが、とても新鮮であった記憶がある。(これは、いま、てもとにある。)

2.その後、書庫のなかの本を探すのが面倒なので、新しく買ったもの。

3.長男が大学生になった時に、買って渡したもの。このとき、『論文の教室』と『理科系の作文技術』を、新しくそのために買って渡した。一応、今は、人間科学専攻ということなので、多少は役にたっているかもしれない。(後期試験、単位おとすなよ……ひとりごと。)したがって、これは手元にない。

4.上記の3を買ったときに気づいた。「版」が新しくなっている。で、自分のために、最新の「版」を買った。

中公新書(中央公論新社)は、通常であれば、「第~版、第~刷」と、奥付に書くべきところを、すべて「版」にしている。例えば、2000年のものは、「43版」とある。通常は、「43刷」と書く。

これが、2006年のものになると、「53版」になっている。これが単なる「刷」の意味でならいい。しかし、この、2006年の本は、「改版」している。

216ページに、「改版のためのあとがき」として、著者(木下是雄)が、その経緯を書いている(日付は2001年)。活版から、オフセット印刷になっても、やはり酷使すると「版」はいたむもののようである。「改版」して、すこし書き改めた箇所がある旨、しるしてある。

立命館GCOEで、江戸時代の版木をデジタルで研究する方向に動いている。江戸時代の出版文化は、版木を軸に考えると、実に、面白い。私は、この研究には、とても期待している。

だが、今現在でも、『理科系の作文技術』のような、著名な本について、その書誌を正確に記載するとなると、複雑怪奇な現象に出会うことになる。

このブログをお読みの方には、『理科系の作文技術』(木下是雄)を、お持ちの方は多いであろうと、推測する。もっておいでの場合、奥付、あるいは、「改版のためのあとがき」があるかどうか……確認してみてほしい。学生は新しいのを見ていて、先生は古い本のまま、ということがある。

たまたま気づいたので記してみた。

當山日出夫(とうやまひでお)

土曜講座2008-01-10

明後日(12日)、立命館大学の土曜講座で話しをする。発表というよりも、講演、といったほうがいいかもしれない。今、たくさんの大学でやっている、一般市民向けの公開講座である。その「しにせ」といえるかもしれないのが、土曜講座(立命館)。

発表のタイトルは、次のとおり、

デジタルがひらく文字研究の世界 ― 「祇園」はどう書くか、景観文字研究の視点から ―

この「祇」の字には困ってしまう。今日、発表(講演)のときのレジュメを、大学のオフィスに持っていった。Wordの文書ファイルにして、メールで添付で送って、ということができない。昨日、とりあえず、フォント埋め込みのPDFを送ったのだが、ねんのためということで、今日、自分でプリントアウトした原稿(紙)を持っていった。

「祇」を、「ネ氏」と表示するか、「示氏」と表示するか、XPパソコンと、新しい(といっても1年になるが)VISTAとでは、異なる。「0208」と「0213:2004」の問題になる。

だからこそ、景観文字研究の対象として選んだのであるが……実際に発表するとなると、非常に困る。まず、レジュメ・発表要旨には、「この原稿の作成・印字は、0208によっているので」とか、書かないといけない。また、発表のときに、「今、これからのプレゼンテーションでつかうパソコンは、XPなので……」と、話しを始めないといけない。また、場合によっては、文字を画像化して見せる必要がある。

実際、昨年の秋の、訓点語学会(東大山上会館)のときは、そうやった。

パソコンで表示の文字を画像化する……といって、普通の人にわかってもらえるだろうか。

今回は、完全に、VISTA環境で臨む予定。レジュメには、VISTAで作成した旨をまず、冒頭に書いてある。また、今、つくりかけ(……明日のうちになんとかしないといけない……)の、パワーポイントでも、「この発表ではVISTAを使用なので、こう見えます」の、ことわりを入れないといけない。

むかし、PC-9801を使っていたとき、78JISと83JISとで、相当に混乱した経験がある。(まあ、だからこそ、JIS漢字研究などという領域に足を踏み込んでしまったのだが。)

ただ、文字史として重要なポイントは、83JISで使用の、いわゆる「拡張新字体」(「ネ氏」や「区鳥」=カモメなど)が、実際にどうなっていくのか、である。京都の「祇園」については、非常に興味深い現象が観察できている。それを含めて話しをする予定。

研究発表にするには、もうすこし材料が集まってから。

當山日出夫(とうやまひでお)

学会発表と市民講座2008-01-12

2008/01/12 當山日出夫

今日(12日)の朝になって、ようやく、土曜講座のパワーポイントをつくりおえた。あまり、時間がなかったので、これまでの学会発表(訓点語学会)に使用したものを、ほとんど流用して、その前後に、「はじめに」と「おわりに」を追加する方式。

一般向け講座であるから、専門用語(と思われるもの)は、除いておくか、少し書き換える。また、その後、いろいろ工夫してみている、カラーユニバーサルデザインになるように、配色を(文字色・矢印など)を変える。

とにかく、景観文字(デジタルカメラの写真)が中心で、「こんな字が使ってあります」ということであるから……見れば、分かる(はず。)

JIS漢字の改訂の細かな経緯とか、それ以前に、どのような仕組みで、コンピュータの文字は見えているのか(文字コードとグリフ)などの説明は、一切、省略することにした。時間的余裕もないし、これにかかわると、話しがややこしくなりすぎる。

文字の議論をするために、専門家にはすでに了解のこと……字体の包摂とか、表外漢字の許容三部首とか、話しはしない。もちろん、何が正しい字であるか、字体の規範意識、というようなことは、極力、避ける。ただ、拡張新字体という用語・概念については、少しだけふれる。「祇」(ネ氏)については、まさに拡張新字体であるので、説明しておく必要がある。

それから、これは大学の授業でもしていることであるが、最初に、「自己紹介」のスライドを2~3枚いれること。

これから話しをする人(先生)はいったいどんな人なんだろう、事務の方から紹介があるかもしれない。しかし、まずは、自分から、語るのが説得力がある。そして、自分の学んだこと、研究していることの話しから、今日の本題へと向かうようにしてみた。

で、今朝になって、(寝ている間におもいついたので)、自分の書斎の机の写真を、まず最初に、見せることにした(実は、あんまり見せたくはないが)。パソコンとキーボード、それにスキャナで、ほとんど机の上がいっぱい。そこに、デジタルカメラを置く。本・書物はない。このような環境での、「文字研究」であることを、印象深くするため。もちろん、私自身、文字の確認のために、たくさんの辞書・字典を見たりはしているが、ここでは、あえて、写さない。パワーポイントの中では、辞書・字典のスキャナ画像など、少し使用する。

ある程度の研究水準のレベルをたもつことは重要であるが、それを可能な限り一般的な常識の知識の範囲内でわかりやすく説明するのは、実に、疲れるのが正直なところ。

コンピュータの文字ならず、文字は、普通の人々のものである。文字について語るとき(いくら学問的なものであっても)、普通の人の感覚でわからないものであってはならないだろう、と考える。

今日の京都は雨。さて、どうなるか。まずは、持って行くレッツノートを、会場のプロジェクタが正しく認識して、画面を映し出してくれることを、期待しよう。(担当の人の話しによると、時々、トラブルがあるようなので、USBメモリでも持っていくことにする。XPの2003形式。)

當山日出夫(とうやまひでお)

学会発表には予備のデータが必須2008-01-12

2008/01/12 當山日出夫

今日(12日)は、立命館の「土曜講座」。内容についてのことは別に、困ったことについて。

持っていったのは、レッツノート(CF-Y7)の昨年の秋モデル。OSは、VISTAのBUSINESS版。

会場について、まず、担当のかかりの人に挨拶。で、すぐに、パソコンの接続テスト。

映った……でも、なんか、へんな感じがする。観察してみると、画面が、スクリーンの右によって、ずれている。右側の、4分の1ほどが、白いスクリーンに映らない。

これは、プレゼンテーション用のプロジェクタだけが、おかしい。他の、ディスプレイやモニタの類は、きちんと見えている。

担当の方が、会場に設置の、ノートパソコンを持ってきてくれた。しかし、である。私が、今回、話しをしたいと思っているのは、まず、パソコンで字が変わってしまうということ。XPとVISTAでは、見える字が違う。そのプレゼンテーションをするにの、VISTAで用意してあるのを、XPで、と言われても……いったい、どうしよう……こまった、困った、コマッタ。

パワーポイントのプレゼンテーションを用意したとき、一部は、画像化して見えるようにしておいた。また、祇の字については、

XP(0208)では「ネ氏」

VISTA(0213:04)では「示氏」

と、表記しておいた。一部に、「今日の発表はVISTAで」と書いた箇所があるが、そこを訂正すれば、どうにかかる……と、講演者の控え室で、悩んだあげくに、決断。会場に行って、XP用に設定を変更。一部を、急遽、書き換える。USBメモリで持って行った方をつかう。

まあ、どうにかなりはしたが……冷や汗ものである。これまで、いろんなトラブルを自身でも、また、他の発表者でも経験してきたが、今回のようなケースは、はじめて(画面が横にずれる。)

たいていは、画面の解像度の変更、あるいは、アスペクト比の変更などで、どうにかなるのだが、今回のように、横にずれてしまうと、どうしていいか分からない。

結局、発表のときには、自分のパソコンを用意しておくのとは別に、USBメモリなどでの予備が絶対に必要である……ということを、痛感した。

當山日出夫(とうやまひでお)

校正記号を教える必要性2008-01-13

2008/01/13 當山日出夫

なぜ、大学で普通に教えないのだろう……と、思うことのひとつに、「校正記号」がある。印刷用語でいえば、ゲラ刷りを見て、著者(あるいは編集者)が、間違った箇所(誤植など)について、訂正を加えるときの記号類である。

これには、きちんとした「きまり」がある。印刷・出版関係の仕事・業界では、常識である。本としては、日本エディタースクールから、専門の本も出ている。

日本エディタースクール編(2000).『実例校正必携』.日本エディタースクール出版部

この他にも、いくつかある。

ところで、以前に書いた『理科系の作文技術』(木下是雄)。この本には、簡単ではあるが、校正記号のつかいかたの説明がある。1981年の本であるから、活版印刷が、まだ生きていた時代(私の持っている、初版本は、活版である)。「論文を活字にする」という言葉が、文字通りの意味を持っていたころ。

今や、活字(鉛の活字)は、姿を消してしまった。コンピュータ製版によるオフセット印刷の時代になっている。では、校正記号の意味がなくなったか、というと、そうではない。むしろ、その必要性が増している。

しかし、私の見るところ、論文の書き方のマニュアル本で、この校正記号について、ふれているものは、数少ないと思われる。最近の本では、

小笠原喜康(2007).『論文の書き方-わかりやすい文章のために-』.ダイヤモンド社

が、簡単ではあるが解説のページをもうけてある。

たいていの論文の書き方のマニュアル本には、自分の書いた文章を他の人に読んでもらうことを推奨している。それは、そのとおりである。だが、読む側は、どうすればいいのか……つまり、人の論文やレポートを読まされる側にたった場合、どうすればいいのか……について解説した本は、ほとんど無いように、おもう。

内容にかかわることであれば、文章なり、口頭なりで、伝えることができる。だが、単純な、誤字(誤変換)やレイアウトのミスなど、気づけば、適切に指示しないといけない。

また、他人に見せないまでも、論文やレポートを書くときには、自分で、プリントアウトしたものを何回も読み直す。そのときに気づいたミスは、自分自身で、訂正(朱筆)を入れないといけない。

例えば、章や節の見出しが、本文(明朝)と同じであったとき、そこに、「12ポG」などと記入する(これは、12ポイントのゴシック体に、の意味である。印刷業者が相手のときは、「G」ではなく、「ゴシック」と明記した方がいいが)。「トルツメ」「トルアキ」では、意味が違う。改行すべき箇所は、それ専用の記号を使う。

このような、共通のルールを基盤にしていないと、後で訂正しようとしたとき、どうしていいか分からなくなってしまう。単に、チェックの印をつけただけでは、自分でも、何故ここに印をつけたか、忘れてしまう。ましてや、他人の文章についてであれば、ここはこう直すべきだ、と正確に伝えなければならない。

論文やレポートは、ワープロで書く時代。校正記号は、もはや、「本」を書く人のためのものではなくなっている。一般に、ワープロのプリントアウトについて、間違いがあれば、それを的確に訂正するために、みんなが必要とする時代になっている。

ワープロの使い方(現実には、Wordの操作法であるが)や、論文やレポートの書き方の本はたくさんある。そのなかで、校正記号の重要性を、はっきりと説明したものが少ない、というのは、どうしたことだろう。

ワープロで文書作成が普通になった今、校正記号も、文書作成の技能のうちの一部である、という認識が必要だと、考える。

アカデミック・ライティングの一部としても必須であると思うのだが、そこまで、教えている時間の余裕が無いのが、残念ながら現実である。

當山日出夫(とうやまひでお)

ワープロ時代の校正と文書作成2008-01-15

2008/01/15 當山日出夫

ワープロで原稿を書く時代、である。論文によっては、カメラレディ、つまり、プリントアウトしたそのままが、論文誌に掲載される。このような時代にあっては、単に、「文章の書き方」を教えるという範囲を超えて、「文書の作成」という視点から、考える必要がある。

この意味では、校正記号についても、再考してみなければならないだろう。しかし、一般に出回っている、「校正」についてのマニュアル的な本は、依然として、紙の本を印刷する……印刷・出版業界を相手にしている、あるいは、その慣習をひきずっているように思える。

たとえば、ワープロ文書であれば、字(活字)が、横になるなどのことは、原則的にあり得ない。実際に問題になるのは、フォントの指定・サイズなどである。

また、誤字(誤変換)については、旧来の校正の考え方では、間違っている字だけに、訂正を加える。活字(鉛活字)は貴重であり、いちど植字した字は、原則的に生かす、ということが根底にあった。

「保証」を「保障」と間違えていた場合であれば、「証」→「障」、の訂正になる。

しかし、ワープロで仮名漢字変換で文字(漢字)を入力している状況では、漢字一字よりも、熟語単位で、訂正を指示した方がわかりやすいし、合理的である。

上記の例であれば、「保証」→「保障」、とまとめて、訂正するようにする。この方が、わかりやすい、というよりも、実際のキーボードからの操作に適合している。この場合、「保」の字は共通するが、ワープロでの文書作成においては、わざわざ、昔の活版印刷のように「文選(ぶんせん)」からやりなおす必要はない。「障」の字だけを、単漢字でだすよりも、「ほしょう」から変換する方が、はるかに楽であるし、確実である。

実は、私自身、上記の文章を書くときに、そのように、つまり、熟語単位で文字を出す(余計な字は削除する)という方式によって、書いている。でなけば、「しょう」の読み方から、「障」を変換候補のなかから探し出すのは、かえって面倒であるし、さらなる誤変換・誤字を、生み出しかねない。

プロの印刷業においては、また、違った考え方があるだろう。

だが、個人レベルので、ワープロによる原稿執筆や、カメラレディ原稿の作成においては、新しい時代に即した、「校正」のやり方があってよいように思う。

「校正」もまた、文章を書く、あるいは、文書作成の技術の一部である……という認識で、この項を書いてみた。

當山日出夫(とうやまひでお)

積んである本2008-01-16

2008/01/16 當山日出夫

年度末で、試験だとか・採点だとか・補講だとか、あれこれと忙しい。こうい うのは、どうにも日程が動かせない。

でありながら、本だけは、どんどん増えていく。

とりあえず、現時点、机の上にある、あるいは、カバンの中にある本としては、

『陸奥宗光』(上).萩原延寿.萩原延寿集(2).朝日新聞社.2007

『大学授業入門』.宇佐見寛.東信堂.2007

『円朝芝居噺』.辻原登.講談社.2007

『構造化するウェブ』.岡嶋裕史.講談社ブルーバックス.講談社.2007

『時間のパラドックス』.中村秀吉.中公新書.中央公論新社.1980

『空間の謎・時間の謎』.内井惣七.中公新書.中央公論新社.2006

『1ドルの価値/賢者の贈り物』.O・ヘンリー/芹澤恵訳.光文社古典新訳 文庫.光文社.2007

……など、など、など、である。

あれっ……自分の専門の領域であるはずの、日本語学関係の本がない……まあ、 自分の専門の本は、買ったら、ざっと見て、書庫の方に、いうことで。専門書 というのは、使うのは、10年後かもしれない、ひょっとすると使わずに終わ るかもしれない、しかし、今から買って持っておく……そういうものだと思っ ている。

さて、このうち、いくつが、読後感など、書くことができるだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『そっと耳を澄ませば』2008-01-18

2008/01/18 當山日出夫

『文章のみがき方』.辰濃和男.岩波書店(岩波新書).2007

で、紹介されていた本で、私も、これに関連して、過去に言及したことがある。2007年12月26日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2007/12/26/2530892

やはり、引用されている部分だけではなく、全部を読んでおきたいと思った。これは、是非、学生にすすめたい。それも、できるなら、映像学部の学生に、である。

すでに映像が見えるもの、音が聞こえるもの、このことを大前提にして、現代の映像コンテンツは、なりたっている。しかし、世の中には、そうでない人もいる。視覚障害・聴覚障害、などの人たちである。

これは「誤解」であるのかもしれないのだが、目の見えない人にも、映像の世界は、ある。耳の聞こえない人にも、音の世界は、ある。

現代の脳科学から人間の感覚器官の認知のシステムにアプローチするのも、ひとつの方向である。おそらく、目が見えない・耳が聞こえない、という世界が、実は、きわめて豊かな感受性をふくんでいることに、気づくことになるだろう。ただ、あくまでも実験で、それを立証するのは、かなり困難であるかもしれない。

この本については、いろんな人が感想を書くだろうから、言語(表記)の研究の視点から気づいたことを、すこし。

非常に読みやすい。漢字と仮名のバランスが、きわめてよい。

おそらく、このことは、著者が視覚障害(目が見えない)ということが、ある意味で作用してのことと考えてよいのかもしれない。どのようなシステムで、実際に原稿が書かれたか、点字で書くにせよ、コンピュータの音声読み上げソフトを利用するにせよ、日本語の表記では、漢字と仮名のバランスと、句読、特に、読点「、」のうちかたが、重要になる。

具体的にいえば、このようなことになる。

「私は毎日新聞を読む。」

この文は、2通りに解釈できる。「私は、毎日、新聞を読む。」と「私は、『毎日新聞』を読む。」である。つまり、不用意な漢字熟語連続は、文章の可読性をそこなうばかりか、場合によっては、違った意味に解釈されてしまう危険性がある。

このような不用意な漢字連続が、『そっと耳を澄ませば』には、見あたらない。

もうかなり以前のこと、このブログの運営主体であるアサヒネットが、パソコン通信であった時代のとき。なかに、視覚障害の人がいた。あるメッセージのボードで、「だれそれさんの文章は、読みやすく書いてありますね」という趣旨のことが、書いてあった。(音声読み上げソフトか、点字ディスプレイによって、メッセージを読んでいた人であると、記憶する。)

これは、漢字と仮名のつかいわけ、句読法、これらを総合しての可読性ということになる。私の書いている、この文章の書き方が、はたして、この視点から、合格であるかどうか、まったく自信はない。しかし、そのように書こうと努力している。むかし、パソコン通信のメッセージで、上記の文章を読んだときから、そのようにこころがけている。

三宮麻由子.『そっと耳を澄ませば』.集英社(集英社文庫).2007 (原著は、2001年に、日本放送出版協会)

なお、余計なことかもしれないが、この本のオリジナル版には、「校正者」の名前が書いてある。文庫では、省略されている。やはり、これは、この本の成り立ちを考えれば、残しておくべきであろう。いや、あるいは、書かないのが正しいのかもしれない。難しい問題である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『構造化するウェブ』2008-01-18

2008/01/18 當山日出夫

岡嶋裕史.『構造化するウェブ』(講談社ブルーバックス).講談社.2007

概括してしまえば、今、はやりの言葉いう「Web2.0」関連の書物のひとつ、ということになるが、その中では、ひと味ちがう。

まず、「はじめに」で、

『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書).西垣通.岩波書店.2007

『ウェブ進化論』(ちくま新書).梅田望夫.筑摩書房.2006

の2冊をしめし、これらの本をふまえている旨が明記されている。読者に対して、読んでおいてほしいとある。(私は、読んではいるが。)

つまり、この本自体が、「ウェブ社会」について、その技術の流れと、それに対して、社会がどう反応しているかの流れ、異なる次元について、総合的に見る視点で書かれている。

そして、私がこの本から学ぶべきだと、読み取ったことは、「理念」と「現実」とを、きちんと分けて考えること、である。この本では、まず、インターネットを現実的な社会のインフラとして、ウェブ社会が目指している理念(Web2.0)の方向について、語っている。

現実に今のインターネットで何が起こっているか、の議論も大事である。グーグルやアマゾンのシステムがどうなっていて、それによって社会が、私たちの生活が、今現在、どうなっているのかについての認識は重要である。この方向では、たとえば、

『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書).森健.光文社.2006

などは、きわめて参考になる。

ところで、『構造化するウェブ』から、興味深い記述をひろってみる。

明確な法則があるわけではないが、利用者に面倒だと感じさせる技術は普及しない可能性が非常に高い。これは利益と不利益の差をとって不利益が大きいという場合、という意味ではない。利益と不利益を比較してどんなに利益が大きくても、不利益のレベルがある一定の水準を超えると使われなくなってしまうのである。特にウェブ利用者の不利益に対する感受性はナーバスだ。(pp.104-105)

そして、この本の基調となっている、技術のめざしている「理念」と、実際に実現していることがらとしての「技術」、これを区別して、将来の「理念」を見据えるという姿勢、これは、きわめて学ぶべきものがあると考える。

このブログのテーマでもある、人文学研究とコンピュータ(人文情報学/デジタル・ヒューマニティーズ)にとって、貴重な視点である。つまり、

1.デジタル・ヒューマニティーズとして何を目指すのか、それは、従来の人文学研究とどう違うのか、という未来に向けての「理念」。

2.今のコンピュータ技術では、いったい何が可能であるのか、実現していることは何であるのかという、現実の「技術」。

この両者を整理して議論しないといけないだろう。今の技術で可能なことだけで、デジタル・ヒューマニティーズを語ってはいけない。また、実現不可能な空想の世界のことにしてしまってもいけない。

とはいえ、技術はどんどん進歩する。今から20年前、今のインターネットの社会を、どれほどの人が想像しえただろうか。だが、現在では、すくなくとも、「Web2.0」という、「理念」の方向は確実に定着している。これに沿った、デジタル・ヒューマニティーズ論を、考えていきたいものである。

人文学研究者にとって、「不利益」「面倒」と感じさせる閾値を可能な限りひくくすること、また、実際の人文学研究者が、コンピュータやインターネットにどう反応しているかについて、観察をおこたらないことが、重要である。

コンピュータを使わない研究者を排除するようになってしまっては、デジタル・ヒューマニティーズの未来はない……このように予見させる本である。

當山日出夫(とうやまひでお)