岡崎から帰った2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

岡崎市(愛知県)に行って、文字の調査(の予備調査)。直接の目的は、岡崎における多言語景観(ここは、ブラジルから来たポルトガル語を母語とする人が多い)の調査。

厳密には、多言語、と、文字とは、別に考えなければならないのだが、とりあえずは、多言語表示の例を集めることになる。また、この意味では、岡崎よりも、近隣の豊田市の方が、事例は豊富に見られるだろう。今回は、国立国語研究所の岡崎調査の一部ということで、岡崎市内に限定。

街で写真を写しながらいろんなことを考えた。

景観・風景というものは、アーカイブ可能であろうか。京都のように意図的に「歴史的景観」、として保全する場合もある。そのようにモノとしての建物などを残すことはできるだろう。

だが、その一方で、景観・風景というのは、人間が見る、文化的な事象でもある。それを、景観・風景として、写真や絵画におさめたとき、それは、別のものに変質する。そして、写真や絵画は、それとして、記録・保存(アーカイブ)できる。

現在のコンピュータ技術であれば、「現在」の街の様子を、CG・VRで、再現して見せることも可能である。これが、後世に残った場合、それを、アーカイブとして見るだろうか。

この逆の方向では、「昔」の町並みを、CG・VRで「再現」しようという研究もある。(これは、アーカイブとはいわない。)

景観文字(街頭の看板など)は、文字資料として、非常に面白い。だが、このとき気をつけなければいけないのは、文字が無い景観、という存在。実は、古い住宅地などでは、むしろ、景観のなかに文字が無い方が普通というべきかもしれない。

写真や絵画を残すことと、風景の関係。

また、そもそも、文字をアーカイブするとは、どういう行為であるのか。このあたりのことから、基礎的な議論が必要であると、歩きながら考えた。

當山日出夫(とうやまひでお)

問題な文字2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

人文情報学シンポジウムをめぐって、いろいろ議論がさかんである。特に、文字・キャラクタをめぐって。

現時点での最新のものとしては、次のようなものであろうか。これらのコメントやトラックバックをたどると、なかなか面白い。

もろさんの、hi-2008に向けて (2)

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080306/1204764982

小形さんの、「束縛」という視点について (3)

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080305/p1

ここでの議論からはずれることを承知で、とりあえず、自分の考え方の基本的スタンスをまとめてみたいと思う。

一般論になるが、日本語研究という立場にいると、まず、次のように考える。近年のベストセラーのひとつが『問題な日本語』(北原保雄、大修館書店)であることは、周知であろう。

あくまでも私見であるが(そして、やや誇張してであるが)、日本語研究者は、「問題な日本語」とは考えない。それよりさらにメタのレベルで、「問題な日本語があるという意識」の存在の方を考える。言い換えれば、日本語における規範性意識とはどのようなものであるのか……ということになる。

絶対的な「正しい日本語」がある、という意識が、日本語においては、かなり根強いものがある、とはいえそうである。でなければ、「問題な日本語」が話題になることがない。

この延長で考えれば、正しい文字・文字の規範性とは、いったい何であろうか。「常用漢字(当用漢字)」の字体(新字体)は、正しい文字であるかどうか。これを「正しい文字」と認識する人もいるだろうし、あるいは、康煕字典体が「正しい字」であって、常用漢字体は、略した字であると、考える人もいる。

これは、どちらの立場が正しいか、正しい文字はどれか、ということではない。多様な価値観があることを、客観的に語るとどうか、ということである。

さらにいえば、近代になってからの「国語」「標準語」をどの方向で考えることになるのだろうか……ただ、現在の日本語研究者の多くは、このような視点を超克しようと模索している、とはいえそうである。

正直いってあまりかかわりたくないが……文字の規範性の問題は、「国語」の問題でもある。近年の国語学批判を超えたレベルから、総合的に考える視点を確保したい。このあたりが、今の私の基本の立場だろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『カムイ伝』2008-03-07

2008/03/07 當山日出夫

小形さんのブログ「もじのなまえ」の

「束縛」という視点について (1)

で、白土三平の『カムイ伝』がまず引用(言及)してある。最初の段落で、「遠くまで行けるから」ということばにつけてある。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080302/p1

ここで使われているのは、小学館文庫版の『カムイ伝』の表紙画像。

ところで、私は、『カムイ伝』『カムイ外伝』は、2セット持っている。小学館文庫版と、最近の、カムイ伝全集版、である。そのうち、小学館文庫版の『カムイ外伝』第11巻の解説を、宮崎学、が、書いている。その第9巻に言及して次のように記している。


カムイが属していたとされる忍者群は、権力的諜報機関であるために、軍隊的規律を持っている。白土はこの規律を掟として、カムイに立ち向かわせたのである。離反という形を持ってである。

しかし、安兵衛たちアウトローの間に存在する掟とは、現代的表現を使うならば、市民的自治としての掟である。規律イコール掟一般として否定してしまったところに白土の限界があり、安兵衛の心理を大雑把にしか描けないということになったのだろう。(p.379)


では、文字における規範・基準・規格……は、どうであろうか。軍隊における規律のようなものか。あるいは、市民社会における共同体のルールのようなものか。

JISは「日本工業規格」、いわば軍隊的規律に近いだろう。では、常用漢字はどうか。印刷標準字体は。

一方で、康煕字典でもない、印刷標準字体でもない、拡張新字体などが、一般的であるという現実もある。これは、景観文字調査などから、明らかになる。

難しい問題なので、いろいろ考えねばならないが……白土三平では、個人的には、『ワタリ』が一番好きである。特に、「ゼロの忍者」……本当の敵は人間の心のなかにいる。

當山日出夫(とうやまひでお)