クライアントという視点2008-03-19

2008/03/19 當山日出夫

佐藤さんの写真論に続いて、原尞の作品に、話題がとんでしまっているが、私の頭のなかでは、連続している。その連続のキーワードは「クライアント」である。

今、読み始めている本(まだ、全部、読んでいない)が、

村上陽一郎.『科学・技術の二〇〇年をたどりなおす』.NTT出版.2008

である。この始めの方にこのような記述がある。「科学」と「技術」を比較してである。

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(技術は)必ず、その外部に、技術やその成果を「買って」くれる利用者、つまり、クライアントがあったことだ。これは技術を語るときに、見落とすことのできないポイントである。(p.10)

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一方で、ミステリについては、

高橋哲雄.『ミステリーの社会学』(中公新書).中央公論社.1989

この本の第三部は、「読む人、読ませる人」として、コナン・ドイルや、アガサ・クリスティなどの作品が成立した、つまり、商品としての書物が流通した社会的背景の説明にあてている。この意味では、ここ近年、さかんになってきている、近代の書物論・読者論としても、すぐれた論考であると、私は思う。

では、写真は、どうであろうか……クライアントの存在する写真と、存在しない写真、とに分けられるだろうか。前者は、いわゆるプロの写真、例えば、写真館(用語としては古いかもしれないが)の肖像写真であったり、報道写真であったり、カレンダーなどに使われる写真であったり……だろう。クライアントの無い写真というのは、典型的には、写真雑誌『アサヒカメラ』などへの投稿写真かもしれない。視点を変えれば、撮影者自身が、その写真のクライアントになる。

今の我々の視点から見て、その技術のレベルや、作品の芸術性を言うのではなく、その当時にあって、どのようなクライアントのために、制作されたもの(絵画・写真・小説、など)であるのか。「マンガ」や「京都」が何かを表象するのであるならば、それは、どのようなクライアントに向けてのメッセージであるのか。

そして、その表象は、メディアと無縁ではない。この意味では、再び、マクルーハンを読み直す必要がある。

宮澤淳一.『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』.みすず書房.2008

當山日出夫(とうやまひでお)

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