東洋学へのコンピュータ利用(4)2008-04-02

2008/04/02 當山日出夫

人文科学のためのデジタルアーカイブにおけるコンテンツのサイクル 永崎研宣

個人的に理解した範囲では、人文学における各種学術情報の蓄積と相互利用・相互参照、また、そのデータの真正性の確保、ということがらについての、かなりメタなレベルの議論である。そのなかで、具体的な事例として、永崎さんがかかわっておいでの、大正新修大蔵経がとりあげられていた。

今後の人文学研究とコンピュータがどのような方向にすすむのか、軽々に判断することはできない。外側からの枠組み(学部・学科・学会などの構成)は、徐々にであろうが、壊れていくだろう。だが、その先に、何が見えているのかは、まだ、判然としない。

しかし、永崎さんの関係している仏教学であっても、私の関与するところの日本語の歴史的研究分野であっても、ひととおり、一次資料(オリジナルの文献・写本など)が、読めるようになるには、少なくとも数年の集中的トレーニングを必要とする。この意味では、研究室単位での、師弟関係は、そう簡単に壊れることはない。あるいは、学問の継承のためには、不可欠であるともいえる。

その一方で、コンピュータの利用は、専門外の分野の文献(一次資料)へのアクセスを容易にする。よく言えば、「学際的研究」が促進される。

人文学におけるコンテンツは、誰のためのものなのか……狭義にその分野の専門家のためのものなのか、あるいは、その周辺の研究者をもふくめて考えるのか、このあたりが、今後の課題として重要ではないかと思った。

漢字字形管理環境GlyphWiki 上地宏一

GlyphWikiについては、これまでに、何度か発表を聞いている。インターネット上で、自由に文字をデザインして、それを、共有するシステムと、理解している。

このシステムの価値は十分に認める。たとえば、『今昔物語集』(岩波の旧古典大系版)などでは、既存の活字では表記できないので、その組版においてかなり苦労があった。このシステムをつかえば、論文での引用などにおいて、かなり重宝するに違いない。

だが、その一方で、現実に必要な文字は、どれほどか……という立場もある。実際の近代の活版印刷で、使用されていた文字(キャラクター・セット)は、どれほどであったかという、発想である。これで、ほとんどの人は、特に不満は無かった。この実態。

個人的に興味があるのは、このGlyphWikiのシステムで、どれほどの「異体字」が生み出されるのか、逆に見れば、どのような文字が、「包摂」されることになるのか……実際の運用のプロセスにおいて、このあたりの事情が、現実の文字使用に即して明らかになると、面白い。

當山日出夫(とうやまひでお)

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