東洋学へのコンピュータ利用(5)2008-04-03

2008/04/03 當山日出夫

とりあえず最後まで発表が終わって、ほっとする。なお、最後のセッションは、私が司会をすることになった。ほぼ、定刻に終了。その後は、例によって、「懇親会に行く人!」と、手を挙げて、人数を数えて、目的の店にむかって歩く。お店は、去年と同じ。

来年は、3月27日(金)。いつのまにか慣習として、3月の最後の金曜日ということになっている。来年は、20回記念になる。どういう企画を考えるかは、今後の相談ということになるだろう。

今回のセミナーでは、最初の安岡さんの発表「神と榊」についてのものが印象深い。この発表は、非常に精緻なものなのであるが……個人的には、「文字の正しさとはいったい何であるのか」ということが、どうしても気になってしかたがない。

歴史的には、『説文解字』あたり、あるいは、秦の始皇帝あたりから、考えねばならない。その一方、直近の問題としては、新しい常用漢字の現代日本語における位置づけの問題だろう。いまさら印刷標準字体に文句を言ってもしかたがない。しかし、正しい(あるいは標準)の文字を、ある種の権威のもとに制定すること自体が、当該の言語(日本語)にとって、どのような意味があるのか。

また、その示し方の問題もある。いわゆる「許容3部首」については、両方を並記して字体表に掲げるべきものである……と、私は、考える。でなければ、「許容」といいながら、暗黙のうちに、片方の選択(いわゆる旧字体)を強いることにつながる。現実にそうなってしまっている。0213:04、において。

それから、永崎研宣さんの発表は、きわめて面白かった。今回の発表(論集)でも触れているが、永崎さんは、『デジタルアーカイブの弁証法』『人文科学のためのデジタル・アーカイブにおけるステイクホールダー』などの、発表(論文)がある。これらは、私も、直接、発表を聞いている。

人文学研究の中で、特に仏教学における仏典デジタルアーカイブの仕事にたづさわりながらも、同時に、コンピュータの利用が、人文学にどのように影響を与えるのか、人文学の研究方法がどう変わっていくのか、本質的な議論を展開してきている。ただ、研究にコンピュータをつかえば……というのではなく、さらに、その先を見通している。

デジタル・ヒューマニティーズの今後を考えるうえで、今回の「東洋学へのコンピュータ利用」は、非常に有益な研究会であったと、思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『人は見た目が9割』2008-04-03

2008/04/03 當山日出夫

基本的に、ベストセラー、の類には手を出さないことにしているが、ちょっと落ち着いたところで買って読んでみる。

Amazonなどのコメントでは、きわめて、評判が悪い。そうなると、天の邪鬼な人間としては、かえって、評価してみたくなる。

まず、何故、この本が売れたのだろうか。確かに、タイトルの良さ、はあるだろう。だが、タイトルだけで本が売れるものではない。この本を買った多数の読者は、何をもとめていたのか。

おそらく、それは、円滑な対人コミュニケーションとは……ということであろうと思う。全体として、非言語コミュニケーション入門の軽いエッセイ集、として読めば、いいのだと思う。全体を、非言語コミュニケーション論の学術的な本、としてうけとってしまうと、(私であっても)酷評したくなる。もちろん、マンガ論として読めば、レベル以下としか言いようがない。だが、ざっと通読した印象は、さほど悪くはない。

かたくるしい「文章読本」や「礼儀作法」から、少し距離をおいて、かるく読める本として、ちょうど時代に要請にこたえた本である、というところであろうか。

ところで、「人は見た目が9割」という。では、残りの1割は、何であるのか。「見た目」ではない「言語」によるコミュニケーションであっても、9割と1割がある。

音声言語では、その「声」や「話し方」によって、伝わる内容は違う。また、書記言語(文書)であっても、用紙の選択や、文字サイズ・フォント、全体のレイアウトによって、「それらしく」見える。

アカデミック・ライティングという名称で、学生に、論文の書き方の初歩を教えている。その冒頭で、まず、こう言う……アカデミック・ライティングというのは、論文を、それらしい体裁で書くことである、と。つまり、論文も「見た目」なのである。

その「見た目」の内容のなかには、参考文献の書き方・引用の仕方・注の付け方、などがふくまれる。「見た目」といっても、それを考えると、「文書」(文章ではない)の構造、が見えてくる。

當山日出夫(とうやまひでお)