『ユリイカ』:喫茶店で学問を語る2008-05-31

2008/05/31 當山日出夫

いま、師さんのブログが面白い。『ユリイカ』(2008年6月号)が、「特集:マンガ批評の新展開」となっている。師さん自身も執筆している。それよりも、マンガ研究とは何かということで、ブログでは、学問の方法論を論じている。

もろ式:読書日記

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080530/p1

で、私も、さっそく、くだんの本(ユリイカ)を買って読みはじめている。ちなみに、オンライン書店で買うと、1500円より安いと、送料がかかる。一緒に何かを買う。ちょうど出たばかりの、『ホモ・フロシエンシス』(NHKブックス)を上下で、注文。個人的には、人類の進化史に興味がある。我々の祖先は、どのようにして、言語(日本語)を獲得したのか、また、視覚(色覚)を持つようになったのか、知りたい。さらにいえば、一般に、考古学の研究者は、言語(日本語)について、語らない。

で、『ユリイカ』の方である。師さんが、語っている部分に重複して私見を述べてもしかたがない。私なりに、気のついた点を、まず、記しておきたい。

特集の最初は、「マンガにおける視点と主体をめぐって」(夏目房之介・宮本大人・泉信行、の鼎談)。読み始めて、ふと、次の箇所に目がとまった。

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(泉信行)だから本当のマンガ語りというのは、喫茶店のテーブルの上にしか存在しないんだというのが持論なくらいで、(p.53)

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師さんは、ブログで、アカデミズムとはという論点から、マンガ論の現在を分析している。しかし、現在の大学を中心とした、アカデミズムなるものは、所詮、日本が明治維新の後、近代化のプロセスで形成されたものである。

このあたりの事情については、以前、私のこのブログでも、ふれている。

『小説東京帝国大学』(松本清張)2008-3-28

『世界の大学危機』(潮木守一)2007-12-30

学知の形成が、大学という組織の中で、「講義」「演習(ゼミ)」(今の学生は、授業と言ってしまう)があり、「卒業論文」を書いて、卒業となる。このようなシステムは、万古不易のものではない。

私の大学生の時代、教室での講義が終わってから、先生が、教室に残っている学生に声をかけて、近所の喫茶店に行って、講義の「延長戦&雑談」ということは、決して珍しくなかった。あるいは、授業(5時間目からはじまるエンドレス)が終わると、じゃあみんなで食事をして帰りましょう、というので、一緒に夕食を食べて帰ったりしたこともある。

確かに、大学の教室での厳しい教えというものもあった。その一方で、喫茶店で、学問(この場合、狭義の学問というよりも、学知の背景とでもいうべきか)を語る、という、ある種の「学知の継承の文化」なるものも存在した。

今のアカデミズムの硬直化した学知を、相対化できるものは、マンガ論かもしれない。あるいは、デジタルの世界かもしれない。資料のデジタル化は、既存の、学部・学科などの枠組みを超えてしまう。いや、そこにおいて、あらたな、学知の組み替えがあるともいえる。

学生のとき、先生から、授業が終わって、「じゃあ、近所の喫茶店で、少し話しませんか」と、声をかけられて、いろいろ話しを聞く……このような体験をもつ学生が減っていくとなると、アカデミズムにおける負のスパイラル(これは、師さんが使っていた表現)がより加速されるのでは、と思う次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:国語研コーパスが利用されないのは何故か2008-05-31

2008/05/31 當山日出夫

新常用漢字について、考える。

小形さんのブログ「もじのなまえ」によれば、先日の、新聞報道以来、傍聴者が、急に増えたそうである。やはり、文字のことになると、世間は、いろいろい気にするようである。問題な日本語、ではなく、問題な常用漢字、といったところか。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080526/p1

さて、上記のブログのコメントを読むと、「憲法漢字」なるものが存在するらしい。ま、実際に、「憲法漢字」の有無・是非は、ともかくとして、現行の日本国憲法と並べて考えてみると、問題点がいろいろ共通していることが見える。

今のままで、とにかくうまくいっているのだから、強いて改正する必要など無い。(絶対に、第9条を守れ、というほどではないにしても。)

いや、現実の状態と、整合しない部分がある。ここは、現実的な判断をして、改正すべきである。(せいぜい、合法的に、自衛隊が、国連軍の活動に参加できるように、という程度か。)

憲法は、何よりも、その制定のプロセスに意味がある。GHQ(マッカーサー)が、英語で書いて、日本語に訳しただけの憲法に、日本国民としての合意はない。改正の是非をふくめて、現状のままにとどめるにせよ、再度、国民投票で、決着をつけるべきだ。

この「憲法」を「常用漢字」に代えてみると、そっくり同じ議論がなりたつ。それは、わざわざ、ここに書くまでもないだろう。

ところで、制定のプロセスという観点から問題になるのは、漢字の頻度調査データの信頼性である。活字資料としては、凸版、それに新聞社のデータによっている。まあ、これは、いいとしよう。

ここで問題になるのは、何故、国立国語研究所が作成の日本語コーパス(ことのは)が、使われていないのか、である。

国立国語研究所 ことのは

http://www2.kokken.go.jp/kotonoha/

私個人として、このコーパスが万全であると思っているわけではない。しかし、せっかく、独立行政法人として、税金を投入して作成した、この現代日本語コーパスが、新常用漢字の制定にあたって、活用されないのか。

国立国語研究所は、廃止(→大学共同利用機関法人に移管)、である。日本の言語政策を、ささえる基礎的な調査研究機関としての、役割は、もはや必要ない、ということであるのだろうか。

新常用漢字がどうなるにせよ、その基礎資料として、国語研の「ことのは」を利用しなかったことの、明確な説明責任が、委員会にはある。この点は、追求すべきであると私は考える。

當山日出夫(とうやまひでお)