JADS(3)2008-06-13

2008/06/13 當山日出夫

『非/アートとしてのマンガの収集・保存・公開に関する諸課題』

吉村和真さん

まず、吉村さんの肩書きであるが、論集には次のように記されている。

京都国際マンガミュージアム 京都精華大学国際マンガ研究センター 研究統括室長

京都精華大学マンガ学部准教授

実は、「京都国際マンガミュージアム」というのは、法人ではない。いいかえれば、法的には、博物館・美術館・図書館ではない、ということになる。建物は、以前の公立小学校(龍池小学校)。それを、地元の人と、京都市と、精華大学で、共同で、運用している、ということらしい。

この事情は、HPにも記載されている。

http://www.kyotomm.com/

現在は、これでいいのだが、将来はどうなるか、やや個人的には不安にならないでもない。司書・学芸員がいないということであり、あるいは、コレクションの所有権は、誰なのか、このあたりがはっきり見えない。(これは、私の誤解であるかもしれないし、杞憂であるのかもしれない。間違っていたら、指摘してほしい。)

ところで、吉村さんの発表自体は、とても興味深いものであった。まず、発表の視点の設定がいい。「非/アートとしてのマンガ」である。これを、「アート・ドキュメンテーション学会」で発表するのは、かなりのインパクトがある。少なくとも、私は、このように感じた。

マンガが「アート」であるか否か、これは、議論が分かれるかもしれない。それを、逆に、「非/アートとしてのマンガ」として、「非/アート」でないものを、「アート」として定義可能かどうかを、問いかけることになる。

そして、重要なのは、かりに、手塚治虫のマンガを「アート」として認定するとしても、その背後には、B級・C級クラスの、読み捨てにされる、即、ゴミにされてしまう、膨大な作品がある、という指摘。また、このような、B級・C級クラスのマンガこそ、コレクションが難しい。

このあたりの発想、私が、昔、慶應の国文科で学んだ、折口信夫の用語でいうところの「文学と文学以前」に相当するのかとも、思う。「A級作品」、あるいは、「文学」だけを見ていたのでは、それを支える社会・文化の全体像が見えない。ゴミとして棄てられたものこそ、文化史的には価値がある。

「非/アート」という視点から「アート」を見る、これが、この発表の眼目であると、思った次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)