『若い人』2008-09-01

2008/09/01 當山日出夫

しばらく、お医者さんの命にしたがって「安静」にしていたら、月が変わってしまった。特に、異常があるということでは無いようなので、順次、仕事にとりかからないと。

ARGについても書きたいが、とりあえずは、最近、読んだ本のことなど。

高校生の時から、だいたい、数年~十年おきぐらいに、定期的に読み直す本がある。『若い人』(石坂洋次郎)である。

この小説がNHKで、ドラマ化された時(銀河TV小説)、見ている(高校生の頃だったか。)したがって、私の中では、「江波恵子=松坂慶子」、なのである。間崎先生は石坂浩二郎、橋本先生は香山美子、江波恵子の母親は左幸子……小説を読んでも、TVの画面の記憶が甦る。

それはともかく、『若い人』を読み直すたびに、自分が、歳をとっていくのが実感できる。学生の視点で読むか、若い教師の視点で読むか、その上の年齢層の視点で読むか、読むたびごとに変わる。そして、これらの各視点に応じて、この作品は読める。石坂洋次郎が、大衆小説家であるゆえんであろう。

今回、読み直してみて、付箋をつけた箇所が、いくつかある。そのうちの一つ。間崎先生の下宿の主人である。このように記されている、

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この人は造船所の仕丁長を勤めており、中年から文字を読むことを覚えたとかで毎晩夜遅くまで講談本を耽読するのを何よりの楽しみにしていた。p.108

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ここでの「読む」は「音読」である。そして、読んでいる本は、おそらく総ルビであったと予想される。

このようなことが、昭和初期の北海道の港町のごく普通の光景として、描かれている。ことさら特殊な人物として登場してはいない。近代における、リテラシーの歴史、ということになるのであろうが、まずは、このようなことがらについての実証的研究の必要を痛感する。

戦前、GHQが「当用漢字」を強制するまで、「日本人」は「正字(旧字)」を、すべからくきちんと読み書きできたのである、というような一種の幻想がある限り、「新常用漢字」についての建設的な意見は無理だと思う。

『若い人』.石坂洋次郎.1937.(私が読んだのは、2000年の新潮文庫版.※なお、この作品が、刊行当時「発禁」の対象となったことは、あまりにも著名な文学史のできごとであるので、わざわざ記すまでもないであろう。新潮文庫版は、オリジナルの本文によっているはず。)

當山日出夫(とうやまひでお)

『パソコンは日本語をどう変えたか』2008-09-02

2008/09/02 當山日出夫

このての本が出れば、まずは買っておかないといけない。で、買って読んでの感想としては、個人的には「さほど……」という印象。だが、悪い本ではない。

かつて、PC-9801を買ってきて、その時、オプションの「第二水準漢字ROM」を、筐体を開けてセットした(プリンタの方も同様)。そして、運の悪かったことに、PC-9801の方は、78JIS。しかし、プリンタの方は、83JIS、という環境で使ってきて……今にいたっている。

このような眼から見れば、「何故、一太郎(ジャストシステム)がはやったのか」「PC-9801とMS-DOSとの関係」など、いろいろと意見を述べたい箇所はある。細かく言えば、文字の規格と、実装フォントと、その実装の方法については、そう単純な歴史というわけではない。

私のような人間が読むと、記述の不足している箇所に、どうしても関心が向いてしまう。

ケチをつけていてもしかたがないので、いいと思った点をあげるならば、最終的な編集の視点が、人間と日本語とその表記、という方向でなされていることであろうか。この方向性のなかで、「ことのは(国語研)」も紹介されている。

総じて、パソコンが登場してから、日本語はどう変わってきたか(変わらなかったのか)、また、人文学研究において、それは、どのような影響を及ぼしてきたのか、このようなことがらについて、ひとつの「歴史」として記述する必要がある。すでに、このような時代になっているのだ、とは思う。

かつては、「世代」を区切るのは、「戦争」であった、といえよう。今、若い人々を含めて「世代」を区切る目印になるのは、生まれてからどの時点で、パソコンやインターネットがあったのか、ということかもしれない。

本のタイトルは『パソコンは日本語をどう変えたか』であるが、同時に、『人々は日本語とパソコンの関係についてどう考えてきたか』、も重要である。「新常用漢字」が、もし、情報機器への対応ということを考えているのならば、この歴史を掘り起こすことから、はじめねばならないだろう。ユニコードとの整合性が、どのように問題になるか(あるいは、ならないのか)は、歴史をたどりなおすことによってしか、答えは得られないともいえよう。

『パソコンは日本語をどう変えたか-日本語処理の技術史-』.YOMIURI PC 編集部.講談社.2008.(講談社ブルーバックス)

當山日出夫(とうやまひでお)

『蝉しぐれ』2008-09-03

2008/09/03 當山日出夫

むか~し、出た時(文庫本)に買っておいて、そのまま、廊下の本棚におきっぱなしであった本。藤沢周平にはファンが多い。その代表作のひとつ。ということは知っていても、なんとなく手をだしそびれて今にいたっていた。

ま、この本のタイトルの「蝉」の字をどう書くか、というのも問題なのであるが、そのようなことはさておき、簡単な印象をいささか。(このブログの文章では、0208の範囲内で書いている。)

ここしばらく、文字とか表記とかについて考えている。そうした視点が頭のかたすみにあるせいか、藤沢周平の文章の読みやすさに、改めて気づく。

読みにくい、わかりにくい文章というのは、そのことで、印象に残るものであるが、逆に、わかりやすい文章は、すらっと読めてしまうので、その「わかりやすさ」が記憶に残らない。

『蝉しぐれ』の読みやすさには、いろんな理由はある。そのすべてを分析しきれるわけではない。しかし、表記の視点からみると、漢字と仮名のバランスが非常によい。誤読しかねない、漢字連続、あるいは、仮名連続が、無い。

現代日本語における漢字の機能の一つに、文章において、いわゆる「文節」の切れ目を示す機能がある。しかし、それが、漢字の連続になって、「どこで区切って読めばよいのかわからない」ということが、えてして起こる。仮名についても、同様。

『蝉しぐれ』の文章は、そこのあたりを、絶妙に回避している。読みながら、眼が、後戻りして文字列を確認する、ということが無い。この作品の文章は、見事であると思う。現代における、漢字仮名まじり文の傑作であると感じる。また、「時代小説」とはいっても、決して難解な漢字を使っていない。

余談 新しいもの好きなので、GoogleChrome をさっそく使ってみている。

當山日出夫(とうやまひでお)

『デジタルカメラ「プロ」が教える写真術』2008-09-04

2008/09/04 當山日出夫

いまだにニコンF2を持っている人間(もうあまり使うことはないが)、としては、デジタルになってから写真がつまらなくなったなあ……と常々感じている。つまり、昔の銀塩フィルムで、撮影のみならず、原像・焼き付けの暗室作業まで経験していると、新しく登場したデジタルカメラにある種のとまどいを感じる。

このことは、おそらく、この本の著者も同じであろうと推測する。デジタル写真は、銀塩写真とは別物である……と、明確に言い切っているのであるから。

ま、写真談義はともかくとして、デジタル化することによって、ある分野の仕事のワークフローが全く変わってしまう、ということの典型であるにちがいない。このことは、人文学研究や、その中でも、文字研究の分野でも、起こっている。

原稿用紙に万年筆、黒板にチョーク、図書館で参考文献を調べる、ごく当たり前の勉強の仕方が、デジタルになって変わってしまったことは、認めざるをえない。とにかく、変わってしまったという事実は、確かである。ただ、それがどのように変わっているのか、今後、どうなるのか、人文学研究者にとって、それぞれに考え方が異なるのが、一方での現状であろう。

ところで、この本、むかしの銀塩写真と、今のデジタルカメラと、両方を経験している人間でないと、少し理解がむずかしいかな、と感じるところがある。だからこそ、著者は、この本を書いたのであろうが。

で、私のオリンパスE-3、最近あまり使っていない。新しい、ニコンD70に乗り換えようか、迷うところである。この感覚は、デジタルカメラから写真を撮り始めた人には分からないかもしれない。35ミリフルサイズと、そのレンズ(画角・焦点距離と被写界深度)、これが、写真において、ある意味での文法を作ってしまったことは確か。

単に郷愁というべきなのか、あるいは、写真の文化というべきなのか。

長谷川裕行.『デジタルカメラ「プロ」が教える写真術』.講談社.2008.(講談社ブルーバックス)

當山日出夫(とうやまひでお)

ウィキペディアについての本が2冊2008-09-06

2008/09/06 當山日出夫

たてつづけに、ウィキペディア関連の本が出たので、とりあえず、紹介だけしておきたい。内容についてのコメントなどは、後日。

『ウィキペディア革命-そこで何が起きているのか』.ピエール・アスリーヌ(他)/ 佐々木勉 訳/ 木村忠正 解説.岩波書店.2008

これは、もとがフランス語で、その翻訳。

『ウィキペディアで何が起こっているのか-変わり始めるソーシャルメディア信仰-』.山本まさき・古田雄介.オーム社.2008

これは、当初、九天社から出る予定だったのが、会社がつぶれてしまったので、急遽、オーム社に変更して刊行になったもの。

ざっと眺めたところであるが、いずれも、これから、ネットの集合知、それを代表するのがウィキペディア、について考えるときの基本的な本になると思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

星製薬のことなど2008-09-07

2008/09/07 當山日出夫

偶然ではあるが、本を読んでいて、なにかでつながっていることがある。

最相葉月『星新一-一〇〇一話しをつくった人』を、読んでいたら、宮田親平の名前がでてきた。

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宮田の父親は、東京の田端で薬局を開業していた(p.44)

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この薬局は、ホシチェーン、つまり、星新一の父親である星一の星製薬にかかわる薬局であったことになる。

また、この宮田親平の本は、

宮田親平.『毒ガス開発の父ハーバー-愛国心を裏切られた科学者』.浅し新聞社.2008

で読んだばかり。戦争における、生物化学兵器や麻薬などの関連において、星製薬が、太平洋戦争当時、阿片にかかわっていた可能性についても、出てくる。

そして、太平洋戦争当時における阿片の問題といえば、

佐野眞一.『阿片王-満州の夜と霧-』.新潮社.2005(最近文庫本になったので、昔、買ってあった単行本を探し出してきて読んでいる。)

ところで、私の記憶には、星製薬、のことがまったく無い。最相葉月の本では、全国展開した大規模チェーン店であると記してある。これほど、大規模な会社が、数十年の間に、まったく人々の生活のなかから、こうも簡単に消えてしまうものだろうか……と、不思議な感じがするぐらいである。残っているのは、星薬科大学のみ、であろうか。

私の年齢からすると(歳がばれるが)、子どもの時に、星製薬の看板などを目にしていているはずである。その記憶が、まったく無い。

記憶と歴史のはざまに、さまよいこんだような印象をもった次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』340号2008-09-15

2008/09/15 當山日出夫

ここしばらく、不調で、ほとんど何もできない状態でいたが、ともあれ、どうにか、じっと机に向かっての仕事はできそうなので、まあ、とりあえず。

ARG340号について、いささか。

読むべきは、冒頭の、中山貴弘さんの

「図書館から公開された「キク科の染色体数データベース」-その意義と大学研究成果の継承をめぐって」

である。大学図書館における、研究情報の蓄積・公開という視点から、興味深い。だが、私の関心から目にとまったのは、次の一節、

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図書館側としても、電子図書館でお宝的な貴重書を電子化公開するような、あまりアクティブではないコンテンツばかりを構築するよりも、神戸大学の独自性を目指す上で歓迎すべき仕事となった。

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ARGで紹介される、新発見の学術リソースとして、こう言っては失礼かもしれないが、「お宝的な貴重書を電子化公開」で、あるものが多い。これはこれで意義のあることではある。

私の思うところ、「お宝的な貴重書を電子化公開」は、いいとしても、それが、横断検索で探し出せる状態に無いと、ネットの中で埋もれてしまう、という危惧がある。知っている人は、知っているけれども………、というだけに終わってしまいかねない。

この問題は別にして、研究成果は、基本的に個人の研究者に帰属するとしても、そのもとになったデータ(たとえ、それが、研究文献リスト一覧であっても)それはそれとして価値がある。そして、これこそが、インターネットによってこそ、公開可能で、また、必要とされているものかもしれない。

著書とか論文であれば、その公開・共有のシステムは、ある程度、構築されていると言ってよいであろう。(ただ、中には、種々の事情で、公開されていない、学会誌などもあるが。)

神戸大学図書館の事例は、むしろ、アーカイブズの側の発想から見て、「研究資料アーカイブズ」のデジタル公開、ととらえるのが適当ではなかろうか。このような観点で見れば、それを、今後、誰がどのように継承すべきか、自ずと答えは見えてくるのではないだろうか。

さて、10月4日(土)である。日本アーカイブズ学会(私も会員)の「デジタル情報技術が拓くアーカイブズの可能性」には、できれば行きたい。でも、次の週には、別の学会で、発表しなければならないし、その準備もあるし、今回は、あきらめざるをえないかな、というところ。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』340:国家と言語と国旗のアイコン2008-09-15

2008/09/15 當山日出夫

ARGの340号を読んでの続き。

岡本さんは、「ささいだけど大切なこと」として、英語版サイトへのリンクを、どのアイコンで、示すかに問題提起している。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080914/1221377532

この問題、現・日本語学会(←旧・国語学会)の会員を、大学院生のときから続けている人間の一人としては、おろそかにできない。

同じ、ARG340号のイベント案内で、紹介の、ゲーテ・インスティテュートでのシンポジウム「日本とドイツの新たなトレンド」を見ると、

http://www.goethe.de/ins/jp/tok/wis/ja3566477v.htm

ここでは、明確に、日本語=日本の国旗(日章旗)、ドイツ語=ドイツ国旗、のアイコンで表示している。意外なところに、見つかったものである。(といって、ここで、日本のゲーテ・インスティテュートを、批判しようとは思わない。)

確かに、言語と国家・民族(さらには、宗教)、これらは、きわめて錯綜した関係にある。言語の専門家は、決して、「母国語」の用語は使わない。「母語」という。(このことは、学生にも、厳しく教えることにしている。)

とはいえ、ある言語を、何か視覚的なイメージで表せ(=アイコンをデザインしろ)となったとき、何も無いのも、一方での事実と認めざるをえない。

ここで、強いて採用するとならば、国旗であろう。

英語であれば、イギリス国旗(ユニオンジャック)か、アメリカ国旗(星条旗)になる。このうち、どちらかを選べと言われれば、私なら、ユニオンジャックの方を選択する。(その言語が、もともとどこで使用されていたか、という観点からであるが。)

だが、他言語(日本語から見て)のHPを見る人間ならば、その言語の名称を、その言語の文字で書いておけば済むことである。そもそも、読めなければ、見ないのであるから。

それにしても、分子生物学会は別にしても、埼玉大学・政治思想学会・九州大学附属図書館、などは、国語学会 → 日本語学会 への名称変更をめぐって、どのような動きがあったか、把握していなければならないはずである。国語学というか、日本語学というか。この問題、少なくとも、アカデミックな人文社会科学系の分野には、知られているかと思ったが、案外、そうでもないらしい。

當山日出夫(とうやまひでお)

『素晴らしき日本語の世界』2008-09-16

2008/09/16 當山日出夫

このての本がでれば、とりあえず買っておく、ということにしているので、買った本。

ざっと一読しての印象は、あいかわらずだなあ、ということ。さしずめ、文藝春秋版『文章読本』、とでも言っておけばいいか。と、シニカルな立場でばかりで見るわけにもいかないと思うので、感想をすこし。

「日本語」といいながら、扱われているのは、おおむね、文章として残っている日本語。表記された日本語、である。ここで、あえて、批判的に述べれば、書かれなかった日本語、音声言語としての日本語、これはどう考えればよいのか。あるいは、この種の「日本語」関係の本の企画において、書かれた日本語の文章がメインの対象になってしまうのか。これは、単なる、暗黙の了解と言ってしまえばそれまでだが、この感覚には、根深いものがあると感ずる。

日本語=書く

すぐれた日本語の文章の書き手=すぐれた人物

という図式が、暗黙のうちに形成されてしまっていると思うのは、単なる杞憂であろうか。日本語の歴史をたどるならば、書かれた日本語、というのは、話された日本語(書かれなかった日本語)に比べれば、ほんのわずかでしかない。

私の立場としては、日本語は、名文・文豪のためにあるのではない。日本語を母語としている(あるいは、第二言語としている)、大多数の人の、その生活のためにある。

また、日本語を書く、ということも、旧来の活字にする、という概念から離れていない。ネットでの日本語については、批判的な編集方針のようである。

この程度の本に、ここまで言うことはない、と反論されるかもしれない。しかし、「日本語=書く=書物」という図式が定着したなかで、「表記」や「漢字」の問題をあつかうと、どうなるか。ここのところに、いささかの問題を感じずにはいられない。

『素晴らしき日本語の世界』.文藝春秋SPECIAL.季刊秋号.文藝春秋.2008

當山日出夫(とうやまひでお)

『ゆらぐ脳』2008-09-17

2008/09/17 當山日出夫

どうにか仕事に復帰。書かないといけない論文、雑文、見ないといけない校正、作らなければならない後期の教材プリント……などなど、あるが、とありあえずは、目の前の締め切りの学会発表から。これを、どうにかしないと。

と、思いながら、気楽な気持ちで読んでみようと思ったのが、『ゆらぐ脳』(池谷祐二・木村俊介)。

読んで、気持ちがほぐれるかと思ったら逆に、気が重くなってしまった。

この本、基本的には、科学における研究の方法論、である。この意味では、科学(いわゆる自然科学)については、素人の私でも、読めるし、非常に面白い。

とはいえ、研究=プレゼンテーションの巧拙、となると、自然科学も人文学も区別はない。1回の研究発表に、どれほど練習するか……30回、などと書いてあると、これは、どうしようかと思ってしまう(はずかしながら)。

自分自身の各所での発表もある。また、後期からは、プレゼンテーション、要するにパワーポイントの使い方で、ひとコマ授業を予定している。さあ、どうしよう。

EOS5DMk2か、D700か、α900か、などということに悩んでいる時間がない、のである。

池谷祐二・木村俊介.『ゆらぐ脳』.文藝春秋.2008

當山日出夫(とうやまひでお)