上村さんのコメントを読んで2008-09-23

2008/09/23 當山日出夫

かなり以前に書いた『かなづかい入門』に言及した記事について、上村知己さんから、コメントをいただいているので、思うところを、いささか。

2008年7月2日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/07/02/3606319/tb

現代日本語は、すでに、現代仮名遣い・当用漢字を、経たのちのものとして存在している。かなり厳しい、漢字制限であり、仮名遣いの強制であったとも、いえようか。

ところで、この時代(というよりも、個人的には、私が、初等教育の段階の時期である)は、日本語の標準化が、強く進行した時期でもある。簡単に言うならば、「方言を使わないで、標準語をつかいなさい」。

このような一時期を経験したうえで、当用漢字が常用漢字になり、また、標準語という名称から、共通語という名称の方が一般的になっていった。(この現象を、「国語」でとらえるか、「日本語」でとらえるか、これも、きわめて微妙であるが。)そして、今の日本語がある。

日本語の表記の歴史(漢字・仮名)を考えるとき、考慮しなければならないのは、次の2点であると思っている。

第一に、実際に、残された文献資料では、どのように日本語は書かれているか。(なお、この背景には、書かれない日本語ということを、忘れてはいけない。)

第二に、各時代のリテラシは、いったいどのようであったのか。漢文が自在に書けるレベルから、仮名ならどうにか、あるいは、まったくの非識字まで、さまざまにある。その社会での位置づけ、人口比率など。

通常は、第一の方を中心に考えるのが、日本語研究における、表記の歴史研究の普通のありかた。しかし、私は、それ以上に、第二の論点が、今後は、研究されなければならないと思っている。

今の、そして、これからの日本語がめざすべきは、識字率100%、であり、また、日本語を母語としない人の日本語使用である。このときに、漢字の字体や字種についての制度的な枠組み(新常用漢字表・人名漢字など)、表記法が、課題になる。また、仮名遣いの問題もある。

みもふたもないことを言うようであるが、言語の表記というのは、基本的に、書きやすいように書いて、それが、読みやすければ、それでいいのである。その「書きやすさ」「読みやすさ」の背景にあるのは、その時代ににおける、言語(日本語)の音韻であり、語彙である。そして、表記に使用する文字(漢字・仮名)である。

だが、そこには、社会の表記についての「慣習」や、「規範」についての意識が、介在する。だから、ややこしくなる。さらにいえば、「正しさ」を求めること、それ自体が、文化のひとつの要素かもしれない。「正しさをもとめる文化」とでもいえばいいだろうか。

日本語を母語としない人をふくめて、識字率100%を達成するとなると、どのような、表記のシステムがふさわしいのか。と、同時に、それは、異なる表記法(例えば、現時点では、旧字旧仮名など)と、どのように日本語の社会で運用されていくのか、このあたりに今の私の視点がある。

この意味では、基本的に、野村雅昭さんの考え方に近い。と、いうより、ほぼ賛成といってもよい。ただ、一つだけ言えば、「識字率100%」ということと、「正書法の確立・普及」ということとは、別の次元のことだと思う。このあたりは、野村さんとは、考えを異にする。

とりあえず、思いつくままに書いてみた。

當山日出夫(とうやまひでお)