学術書出版とDTP(1)2008-11-12

2008/11/12 當山日出夫

昨日は、ARGのオフ会(でもって、立命館のグローバルCOEの火曜セミナーは、さぼってしまった。資料だけはもらってきた。)

オフ会について、いろいろ感想がある。が、ここから論じたいのは、そろそろおひらきにしましょうか、というところで、話題になったこと。

結論的なことを言えば、学術書出版において、フォント埋め込みPDFの完全原稿での出版の是非、をめぐる問題。

今、学術書出版は、マイナスのスパイラルの中にある。本が高い。売れない。買わない。著者(研究者)もあきらめてしまう。出版社も、売れない本を出そうとしない。

では、どうすべきか。

その前に確認しておきたいことがある。それは、「学術書」の出版と、通常の出版(小説・実用書・雑誌、など)とは、同じかどうか、である。

一般的な理解としては、読者が、研究者であり、専門的な内容であるかどうか、ということである、と推測する。これも、確かにある。

だが、私の考えるに、「学術書」が、他の一般の書籍と異なる点は、著者(研究者)が、その内容に、責任を持たなければならない、という、一点である。

これも、たしかに、通常の出版物にもあてはまる。観光ガイドブックに掲載の地図が、まちかっていたら、これは、大問題である。だが、このような一般的な意味とは違って、「学術書」は、書籍にする時点で、一定の「知の完結性」をそなえてしまう。その「知の完結性」について、著者(研究者)は、究極の責任を負うことができる、唯一の存在である。

であるならば、学術書・論文などにおいて、著者(研究者)が、版下(組版)にまで、責任を負える状態であるとき、すすんで、それを引き受けるべきではないだろうか。さらに、それが「文字」についての論集であるならば、その責務は、より重大であると、私は考える。

その他、学術書や図書館、書籍の作成から流通までめぐる問題が多々ある。追って、考えていきたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

幻想の康煕字典体2008-11-12

2008/11/12 當山日出夫

小形さんのブログで、さっそく速報されていた。もじのなまえ。

(新)常用漢字表の審議で、表外漢字の字体を採用か、という方向がしめされたよし。

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20081111/p1

これはこれでいいだろう、とは思う。一つの立場である。

私見を述べれば、なぜ、『康煕字典』であるのか? ということ。さらに言えば、どの『康煕字典』であるのか? ということ。

このあたりをきちんとふまえないで、ただ『康煕字典』が一人歩きしてしまうのは、問題があるという気がする。どういえばいだろうか、古めかしい表現になるが、共同幻想としての康煕字典体、とでもなるだろうか。

現実問題としては、現在の、規格「0213:04」をいじらなくてすむ。所詮、固有名詞をはずしてある現行の「常用漢字表」あるいは「(新)常用漢字表」(案)では、固有名詞(人名・地名)を含む、通常の日本語表記におて、字体の整合性で、問題が生じることは確か。ではどうすべきかというと、こまるのだが。

當山日出夫(とうやまひでお)

新常用漢字:やはり玉突き現象がおきるかな2008-11-12

2008/11/12 當山日出夫

安岡さんの日記で、「痩」「瘦」について、書いてある。

はっきりと、正直に言って、今、私が、この文章を書いているディスプレイでは、どこかどうちがうのか、わからない。わかるだけ、フォントサイズを大きくしなければ、議論できないテーマというのも、ある意味で現実離れしているのではないかと思える。

すでに、二焦点の眼鏡を必要とする私の視力では、印刷文字では、8ポでは、判別不可能。ぎりぎり、9ポで、眼鏡をはずして見て、わかるかどうかというところ。

実用レベル(実装フォント)では、どっちでもいいような気がしないでもない。その区別を確認するために、いちいち眼鏡をはずさなければならなとなると、もう、どうでもいい(あくまでも、私個人で識別可能かという観点から、独断である。)

それにしても、追加字体を、拡張新字体(康煕字典体)でとどめるならいいが、変更するとなると、まず、表外漢字を変更しなければならなくなる。そうなると、JIS規格も。ここは、7月の「WS:文字」で、小形さんが指摘していた、玉突き現象が、まず、国内問題として発生する。

あらためて述べたいが、「もじのなまえ」で紹介の委員の意見など見ると、「安定」という表現が出てくる。「安定」ということについて、「社会的に一般的である」ということと、「規格でそうきめる」ということ、これらは、違うと思うが、いかがであろうか。

先のメッセージで、幻想の康煕字典体、と言った。ここは、幻想は幻想のまま、つまり、ある種の曖昧性をもたせた方が、社会的に安定して運用できる、という発想はダメなのだろうか。

あるいは、すでに、パンドラのはこをあけてしまった……

當山日出夫(とうやまひでお)