元日の新聞の出版社の広告:リアルの本2009-01-01

2009/01/01 當山日出夫

今日から、2009。

元日の新聞の、トップ記事と、社説は、目をとおす。それから、かならず見るのが、出版社の広告。例年ならば、今年の企画……として、各出版社が、「~~全集」「講座~~」、など大きく掲げる。

しかし、今年の新聞(朝日新聞)では、なにもないにひとしい状態。新しい出版企画に代わって出ていたのが、リアルとしての本、という方向性。

ひとつには、出版不況(のみならず、世界的な不況)のなかで、大規模な新企画が出せないでいる、という閉塞的な状態があるだろう。だが、であるにもかかわらず、あるいは、逆説的に、そうであるからこそ、モノとしての本(リアルな書籍)の価値を、再認識することにつながるのか。

昨年末から、かかわりを持っているのが、『内村鑑三全集』のデジタル化、DVDでの刊行。データは、すべて入力済み。問題は、どうやって、それを、「価値」のあるものとして、世に出すか。

この「価値」には、二つの意味がある。

第一には、商品としての価値。簡単にいえば、いくらで売ればいいか。

第二には、資料としての価値。デジタル化したテキストの真正性を保証するものとして、紙の出版物としての『内村鑑三全集』がある。そして、今回の企画の特徴は、『内村鑑三全集』を、再現した文書データ(PDF、一太郎で作成、ルビつき)が、あること。

そして、今の時代、テキストデータそれ自身は、タダ(無料・無償)である、ということを基盤に考えないといけない。リアルの書籍と、テキストデータを媒介し、その真正性を保証するものとして、全集を再現した文書データ(一太郎で作成、PDF化)、がある。

さて、これから、どう考えようかというところ。なお、『内村鑑三全集』デジタル化・刊行の件については、岩波書店の了解をすでに得てある。

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字:文字の身体性というべきもの2009-01-02

2008/12/31 當山日出夫

もろさんのブログや、小形さんのブログでも、「絵文字」のことが話題になっている。

もろ式:読書日記

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20081231/p1

もじのなまえ

http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20081202/p1

ところで、以下の二つの文章を見て、どう感じるであろうか。

日本国民ハ、正当ニ選挙サレタ国会ニオケル代表者ヲ通ジテ行動シ、ワレラトワレラノ子孫ノタメニ、諸国民トノ協和ニヨル成果ト、ワガ国全土ニワタツテ自由ノモタラス恵沢ヲ確保シ、政府ノ行為ニヨツテ再ビ戦争ノ惨禍ガ起ルコトノナイヤウニスルコトヲ決意シ、ココニ主権ガ国民ニ存スルコトヲ宣言シ、コノ憲法ヲ確定スル。ソモソモ国政ハ、国民ノ厳粛ナ信託ニヨルモノデアツテ、ソノ権威ハ国民ニ由来シ、ソノ権力ハ国民ノ代表者ガコレヲ行使シ、ソノ福利ハ国民ガコレヲ享受スル。コレハ人類普遍ノ原理デアリ、コノ憲法ハ、カカル原理ニ基クモノデアル。ワレラハ、コレニ反スル一切ノ憲法、法令及ビ詔勅ヲ排除スル。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

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いうまでもなく、日本国憲法の前文の冒頭部分である。このアイデア、別に隠すことでもない。『猿蟹合戦とは何か』(清水義範、ちくま文庫)、によっている。実は、この作品は、『騙し絵 日本国憲法』(集英社文庫)で、すでに読んでいる。『二十一の異なるバージョンによる前文』

今回、ちくま文庫版における著者の解説には、次のようにある。

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(この作品は)平仮名を片仮名にするだけで大日本帝国憲法みないな印象になるね、(後略)(p.411)

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いろんな表現はできるであろうが、文字、というものの持つ、純粋な言語ではない側面。文字が、ある視覚的な形を得た時に獲得してしまう、なにものかがある、ということはいえそうである。(このあたり、特に、小松英雄や石川九楊に依拠しているわけではない。)

この意味では、絵文字というのは、文字がもっている、このような方向性を極端におしすすめていった先に現れるものである、と考えられる。さらに個人的には、絵文字については、甲骨文字などを視野にいれたアプローチがあると思う。少なくとも、文字をつくっている、のであるから。

逆に言えば、「純粋な文字」とは、あり得るのだろうか、という問いかけになる。こう考えると、「キャラ」「キャラクター」論になっていきそうである。

ともあれ、年頭にあたり、こんなことを考えてみた。

なお、上記の日本国憲法。オリジナルは、国立国会図書館のHPからコピーしたもの。

http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html

これを、MS-Wordの編集画面で、「平仮名」を「片仮名」に変換しただけ。もともと、日本国憲法に著作権はない。しかし、それを、片仮名で表記するとどうなるか、というアイデアは、清水義範のものである、ということは明記しておきたい。

當山日出夫(とうやまひでお)

日本の多様性はどこにいった2009-01-03

2009/01/03 當山日出夫

天の邪鬼な人間だから、このように考える、というわけでもないだろうが、時には、あえて、世間の流れに抵抗したくなる。

私の知見では、かつて、日本民俗学という学問は、「日本」を、一つの「民族」に帰一せしめんとした。と、同時に、その内部における「民俗」の多様性を、あきらかにした。

簡単にいえば、「日本」は一つではないのである。

たとえば、お正月に「もち」をたべる。これは、当たり前のことだろうか。そして、食べるとしても、その形が「まるい」か「しかく」であるのか、もはや、日本の人々は気にしなくなっているのかもしれない。

あいかわらずのTV番組など見ながら、このようなこと、ふと思った次第。なお、昨年に文庫本になった本。

網野善彦.『「日本」とは何か』(講談社学術文庫).講談社.2008.(原著は、2000年、講談社、「日本の歴史00巻」)

當山日出夫(とうやまひでお)

今月の研究会など2009-01-04

2008/12/31 當山日出夫

さて、お正月も済んだことだし(といって、特に、何をしたわけでもないのだが)、今月の研究会など。

●2009年1月11日 午後3時より 立命館 衣笠 末川記念館

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/sympo.html#kouenkai

「立命館白川静記念東洋文字文化賞」記念講演会

「漢字字体規範データベース(HNG)」について(仮題)

石塚 晴通(北海道大学名誉教授・漢字字体規範データベース編纂委員会)

※HNGをつかってまともに論文を書いている数少ない人間の一人であるし、石塚先生には、いろいろお世話になっているから、是非、行くつもり。ところで、末川記念館、無事にコンピュータが、インターネットにつながるといいのだが。私のレッツノートは、無線LAN設定済みであるので、持参するつもり。

●2009年1月22日 朝からエンドレス(?) 京都キャンパスプラザ

次期「じんもんこん」企画会議

※さあ、どれほどの人があつまるか。ところで、考えてみると、私も、ここで何か話しをしなければいけなかったような気がするのだが……

●2009年1月23日 京都キャンパスプラザ 朝9:40から夕方5:00

CH81研究会(情報処理学会・人文科学とコンピュータ研究会)

http://www.ipsj.or.jp/09sig/kaikoku/2008/CH81.html

※今回が、「紙」で冊子体が残る最後の研究会。で、頑張って、仲間内で協同で発表。ペーパーレス、というのは本当に便利になるのだろうか。

●2009年1月24日 朝9:40から、夕方6:00まで 立命館 衣笠 創思館

http://www.img.is.ritsumei.ac.jp/meetings/mocap/20090124/

国際シンポジウム モーションキャプチャ技術と身体動作処理

※これで、3日、連続になるが、頑張って出ることにしよう。八村広三郎先生主催の恒例の国際シンポジウム。情報社会論のような話しも好きだが、一方で、実際にコンピュータを使って動くものを見るというのも、楽しい。そして、この分野には、将来への夢がある。

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この間に、後期の授業があって、試験があって、レポートを集めて読んで、採点して、なんだかんだと。

當山日出夫(とうやまひでお)

参議院式速記が無くなる2009-01-04

2009/01/04 當山日出夫

この私のブログは、アサヒネットにつくっている。この会社が、昔、パソコン通信の会社だったころからの会員。その当時の人は覚えているだろう、「参議院式速記」のこと。(ちなみに、速記の方式は、参議院と衆議院とでは違う。)

パソコン通信のとき、一つのフォーラムを主催していたのが、この参議院式速記に実際にかかわっている方であった。

ネット版の読売新聞の記事では、参議院で、速記にかわって、パソコン(ワープロ)での入力に移行するとのこと。特殊な技術(速記)は要求されないが、単なる「テープ起こし」と考えるならば、ある程度の専門用語を知っていれば、通常の職員でも可能。

また、親指シフトキーボード(懐かしい言葉である)を使って、ある程度の訓練をつめば、ほぼ、リアルタイムで、話すとおり(聞いているとおり)に、文字化することが可能(らしい。)しかし、今では、多少おそくても、誰でもが出来る方式の方が、全体にとってメリットが大きいと判断できるのかもしれない。

時代の流れを感じさせる、新聞記事(ネット記事?)であった。

當山日出夫(とうやまひでお)

『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』2009-01-05

2009/01/05 當山日出夫

鈴木康之.『名作コピーに学ぶ読ませる文章の書き方』(日経ビジネス人文庫).日本経済新聞社.2008

かなり以前に書いた、この本のことにつき、たくさんの方がトラックバックなど送ってくれている。私自身は、広告業界とは何のかかわりあいもない人間である。普通の、新聞の読者、である。それでも、この本を読んでから、自分のうちで、何かが変わったなと思うことがある。端的にいえば、広告を読むようになった。

そして、もう一つは、評価以前に、まず、相手に読んでもらえるようにすること、ということを強く意識するようになった。プレゼンテーションであれば、まず、聴衆に、関心を持ってもらえるようにするには、どうすればいいか、を考えるようになった。

これは、特に広告についてだけのことではない。学生の書くレポートについても同じであると、考える。

学生には、いささか脅迫めくが次のようにいう。

「君たちが、提出したレポートを、教員が、すべて丹念に読んでいるなどと思ってはいけない。多人数の講義などで、何百枚もあるようなレポートを、丁寧に読んでいる時間などあろうはずがない。まず、表紙を見る。大学指定の所定の表紙以外の場合(自分で書く場合)、そこに、タイトル・氏名・日付・科目名(曜日・時間・担当教員名)などが、きちんと書いてあるかどうか。最後を見て、脚注や参考文献リストの書き方が、ルールにのっとっているかどうか。それから、中身をさっとながめる。各パラグラフが数行~十数行程度で、きちんとならんでいるか。最初と最後のパラグラフを見る。それが、適切に対応して、問題提起・まとめ・アブストラクト、になっているかどうか。で、ようやく中身を読んでみようか……(と、私なら考える。)」

『名作コピーに学ぶ……』は、広告として、人目をひきつける文章の書き方についての本。だが、このような文章が書けるためには、その前提として、ごく普通の文章がまともに書けないといけない。

学生のレポートであれば、人目をひきつける(教員の目にとまる)ためには、奇をてらう必要など無い。むしろ、逆に、徹底的にオーソドックスに、当該研究分野でのルールに従った ドキュメントであることが望ましい。たいていの学生は、それを知らない。また、多くの教員も強いて教えようとはしない。したがって、きちんとアカデミックなルールに従ったドキュメントは、それだけで、おのずから目立つ。つまり、読んでもらえる、のである。

このような考え方は、このブログでもとりあげた、次の本にも共通する。

酒井聡樹.『これから学会発表する若者のために-ポスターと口頭のプレゼン技術-』.共立出版.2008

なお、『これから……』について、上記のような書き方をするのは、主に、人文学系(日本文学とか日本史など)の分野の流儀。分野によっては、『書名』とは、絶対にしない。これだけで、もう、読んでもらえない可能性がある。

読んでもらえるドキュメントを書くのは、難しい、のである。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』356号の感想:福澤展2009-01-05

2009/01/05 當山日出夫

『ARG』356号を読んでの感想をいささか。

まずは、慶應の福澤展。今回の『ARG』では触れられていないが、福澤展のHPからリンクをたどって、「応援団募集」にいくと、展覧会へのリンクバナーが用意してある。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20081025/1224908268

私自身が慶應出身である。このあたりが、慶應のサービスの良さである。塾員として、150年、福澤展になんとか協力したい、という思いをうけとめる、受け皿を用意しておく。

岡本さんがICU(国際基督教大学)のことで、以前、話されていたこと。図書館の本には、卒業生や、あるいは、在学中に亡くなった学生のご遺族からの、寄贈が多くある。それには、「Memory Of ~~~」と、それぞれに記されているよし。

今、どこの大学も、経営的に苦しい状況にあるだろう。それを援助するのは、財政的な部分も大きい。だが、直接、金銭にかかわらないで、自分の出身校に対して、何かできるかもしれない、そのルートを多方面にわたって用意しておくことを、もっと考えるべきだろう。

この意味では、駒澤大学の「コマブロ」は、面白い試みだと思う。もちろん、指摘のように、単なるリンク集にとどまっているのは惜しい。(この点では、慶應の「応援団募集」における、一覧も、似たようなものではあるが。)自分の作ったブログやHPが、母校からリンクされている、ということが、その学校の出身者にとって、誇りと自信につながる、このような方向が、学校を基軸とした、ある種の共同体を形成していく。

以上のようなことを感じたのは、次の本の影響かもしれない。

竹内洋.『学問の下流化』.中央公論新社.2008

當山日出夫(とうやまひでお)

『学問の下流化』:校正おそるべし2009-01-06

2009/01/06 當山日出夫

すでに、あちらこちらのブログなどで、言及されている。いまさら、私のつけたすことはない、とは思うが、少しだけ書いてみる。

この本で、ナルホドと納得がいったのは、「校正おそるべし」の文章。もちろん、この言い回しは、なにほどか文章を書いた経験のある人間なら、身にしみて知っているはず。私がナルホドと感じたのは、「校正」についてではない。その箇所の文字について。

著者(竹内洋)が、自ら指摘しているのは、『丸山眞男の時代』(中公新書、2005)のある箇所。私は、この本の「初版」を持っている。読んでふと「?」を感じた箇所が、まさに、『学問の下流化』の「校正おそるべし」で言及の箇所。

ついでに言うと、CD『望郷のバラード』も持っている。これは、お気に入りのひとつ。

さて、『丸山眞男の時代』の新しいのを、買わなければならない。

竹内洋.『学問の下流化』.中央公論新社.2008

當山日出夫(とうやまひでお)

『学問の下流化』:大学の教科書2009-01-07

2009/01/07 當山日出夫

竹内洋(2008).『学問の下流化』.中央公論新社

読んで印象に残ったところをいくつか。

第3章の「大学改革のゆくえを考える」。これは、『大学改革の社会学』(天野郁夫、玉川大学出版部、2006)の紹介。このなかで、次のように書いてあるのが印象的。この本における指摘として、

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アメリカの大学は単なる企業モデルに終わるものではない。知の合理化をもとめる「知の企業体」でもあり、他方では大学人が必死に「知の共同体」を守り、そだててきたことをわすれてはならないという。(p.165)
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で、これにつづいて掲載が、「大学の「教科書」の昔と今」(pp.168-173)。

この最後につぎのようにある。

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最近の授業は、パワーポイントやビデオを併用しながらおこなっている教師も多い。だから、こうした視聴覚教材とも連動した、CDやDVDつきの新しい教科書があらわれてもよい時代となった。日本の大学の教科書は長い停滞の時代を経て、大きな改革の時代を迎えつつある。学生本意の教科書市場がみえてきたのである。(p.173)
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個人的な感想としては、やや楽観的にすぎるかな、と思ってしまう。だが、これも、分野にもよるにちがいない。特に、語学教科書は、このような方向に向かっていることは確か。

あくまでもオーソドックスな、旧来のアカデミックなスタイルにのっとったレポートや論文の書き方、あるいは、パワーポイントを使ったプレゼンテーションの方法、これらについての教科書は、まだまだこれから、という気がする。(今の学生に、論文や発表として、もとめるのは、独創性なのか、形式的なルールなのか、このあたりの基礎的議論が必要であろう。大衆化した大学教育のなかで、旧帝大のようなレベルで「卒論」をもとめるのは、無理がある、と私は思う。)

ビジネス関係のパワーポイントの使い方のマニュアル本は、たくさんある。しかし、特に人文学系の学生を対象とした、パワーポイントの使い方のテキストは、ほとんど無い。学生にパワーポイントを教えるための、パワーポイント教材、この種のものが無いわけではない。だが、うっかりすると、それこそ、はてしない「下流化」をまねく。場合によると、教室が、パワーポイント映写の劇場(無論、学生は、途中での入退出自由)になりかねない。

當山日出夫(とうやまひでお)

『内村鑑三全集』とオンラインシラバスのことなど2009-01-07

2009/01/07 當山日出夫

昨年から、かかわりを持っているのが『内村鑑三全集』のDVD化と、その公開(販売)。データの見本はもらってあるのだが、ここは、どうしても、自分自身で、全集を持っていないことには、話しにならない。

このような感覚は、「ふるい」のかもしれない。しかし、ある資料・文献のデジタル化にかかわる以上は、そのリアルな実物について、よく知っておく必要がある。

ということで、とにかく、インターネットで探して、全集を買うことにした。

とどいたはいいのだが、もう、持つのは無理。むかし、学生のころであれば、段ボールのミカン箱ひとつぐらいの本は、軽々と(?)はこんだものである。でも、ふりかえってみれば、これまで、ひっこしといえば、本の移動。そのたび、腰をいためてきたような気がする。

次にひっこす時には、本をどうしようか。そろそろ、本格的に考えないといけない。でも、その前に、『内村鑑三全集』を、置いておく場所を考えないと。

今日は、半日かけて、次年度のシラバスの入力。やはり、オンライン化すると、全体の通覧がむずかしくなる。学生にとっても、自分の勉強している分野の全体的な位置づけを確認する意味で、冊子体のものがあった方がよいだろう。他の学科や専攻のことを知っておくというのも、重要な「教養」のひとつであるにちがいない。

當山日出夫(とうやまひでお)