近年と現在をめぐる視座2009-02-17

2009/02/17 當山日出夫

図書館関係で、最近、目についた話題。一つは、すでに触れた、閲覧履歴記録の問題。そして、もうひとつは、

かたつむりは電子図書館の夢をみるか

http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20090214/1234642662

近年の「近年」の隆盛と現在の「現在」の凋落

これは、図書館情報大学(昔の名称、今は、筑波大学と一緒になって名前が変わった、でも、それは、私の記憶容量でとらえきれないので、ゴメン)、での学生の論文で、テーマ設定が
(1)近年の・・・
(2)現在の・・・
のいずれであるかの、経年的な調査について、のべたもの。

端的にいって、時間や歴史のとらえかたの違いかと思う。
単純に、「近年」だと、過去10年ぐらい。「現在」だと、せいぜいここ2~3年ぐらいまで。

たとえば、先にのべた、図書館の閲覧履歴とレファレンスの問題などは、現代の(そして、未来の)問題であろう。これを、近年のというと、やや違和感を感じる。もちろん、その背景には、AmazonやGoogleの存在がある。いま、現在の課題だからである。

だが、もし、図書館レファレンスと閲覧履歴記録のことで、なにがしかの論考を書くならば、(わたしならば)「近年の・・・」を選ぶだろう。今、まさに現前で怒っていることを理解するためには、その少し前のことから背景をほりおこさないと理解できない。いきなり「クラウド化するライブラリ」では、なんのことだかわからないだろう(たぶん)。

たとえば、こんな感じ・・・「近年の図書館レファレンスサービスとデジタル技術の動向-閲覧履歴記録利用問題をめぐって-」(笑)

歴史から語らなければ、今まさにある現在のあり方が論じられない、それがたかだか10年ぐらいのことであっても、そのような時代にいまの時代はあるのかもしれない。それが、デジタルによる、急激なメディア変革の時代の特徴と言ってもよい。

當山日出夫(とうやまひでお)

『おまえが若者を語るな!』2009-02-17

2009/02/16 當山日出夫

後藤和智.『おまえが若者を語るな!』(角川oneテーマ).角川書店.2008

この本を読んで、感想を書こうと思っている。しかし、あまりまとまりそうにない。あまりに、論点が多岐にわたる。とりあえず、次のことを、確認しておきたい。

私は、世代論一般を否定するものではない。また、すべての言説が科学的でなければならない、とも思わない。そうでなければ、福澤諭吉も、夏目漱石も、マルクスも、語れないではないか。

世代論は、格差論・教育論・学力低下論などの方向に向かっていく。また、文化・社会・政治などの方向もある。それだけ、世代論のひろがりは大きい。

ただ、デジタル人文学を語ろうとするとき、ある意味で、世代論を避けてはとおれない。これには、二つの意味がある。

(1)
時代は、やがて、デジタルネイティブの世代になっていく。ゆえに、ほうっておいても、自然に、人文学もデジタルのなかに継承され、また、それなりに変容する。デジタルの人文学知として、次世代がになっていくであろう。デジタル人文学など、自明のことなのである。

(2)
たしかに、デジタルネイティブの人間は増えていくだろう。だが、それが、人文学知の変革にどうつながっていくかは不明である。場合によると、急激な変化によって、適切な人文学知の継承がなされないかもしれない。今でさえ、危機的状況にあるのに、どうしようというのか。ここは、冷静な現状の分析と、未来への道筋をしめすべきであろう。

さあ、いずれの立場にたつか・・・私は、基本的に(2)の立場。でなければ、デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)に与したりはしない。

とはいえ、いずれの立場にとっても、デジタルをキーワードにして、なんらかの世代論をふくむ。それを、あることばであらわすならば、「デジタルネイティブ」。しかし、私は、「デジタルネイティブ」を世代論としてとらえることいは、異論がある。このことについては、これまで、このブログで述べてきたとおり。

で、『おまえが若者を語るな!』のこと。個々の論点については、種々に意見があるであろう。ただ、一点だけ。「第三章 サブカルを使い捨てにした論者-インターネット論を食い物にする」。ここで展開されている、浅薄なインターネット論についての批判は、これはこれでよい。だが、現実にある、インターネットについて、著者(後藤和智)は、どう思っているのであろうか。

その一部は、章の末尾の「ベストセラーを斬る!」で、『ウェブ進化論』(梅田望夫)への言及。この『ウェブ進化論』は、インターネット肯定論の代表と言ってよいかもしれない。しかし、手放しの礼賛本ではない。問題をふまえたうえで、未来への希望を語った本として、私は理解している。

「デジタルネイティブ」を世代論として語ることへの疑念をいだく私としては、ここの最後の、次の記述には納得できない。

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今まで多くの情報化社会論者が「未来」についてあることないことを語ってきたことと、「若手」論者が青少年問題を語ることは表裏一体である。いずれも、自分が社会や青少年について抱いている妄想や偏見を「情報化社会論」で虚飾して正当化しているにすぎないからだ。(p.139)

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情報化社会論(たしかに、いくぶんいかがわしくはあるが)と、若手論者による若者論を一緒くたにして論ずるのは、どうかと思う。すべての情報化社会論を「妄想や偏見」として斬ってしまうのには、賛成できない。

また、教育と格差について論じるならば、ダメな論を批判するよりも。苅谷剛彦や竹内洋などの議論を、再検証することの方が有意義であるように思う。

當山日出夫(とうやまひで)

付記 2009/02/17
『ウェブ進化論』ほどではないにせよ、インターネットによる情報発信・交流に、なにがしかの意味を見出しているからこそ、この著者自身のブログがあるのでないのか。

新・後藤和智事務所
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/

『全国まずいものマップ』2009-02-17

2009/02/17 當山日出夫

清水義範.『全国まずいものマップ』(ちくま文庫).筑摩書房.2009

すでに刊行の、『猿蟹合戦とは何か』『インパクトの瞬間』に続く、「清水義範パスティーシュ100」のひとつ(3巻目)。順に、「一の巻」「二の巻」「三の巻」・・・「六」までつづく(らしい)。

それほどコアな清水義範ファンというわけではないが、『蕎麦ときしめん』以来、かなり読んできていることは確か。で、思うことは、次の二つ。

第一に、同じ時代に生きていてよかった、と思う。でなければ、「二の巻」の「インパクトの瞬間」のTVのCMを素材とした作品を、リアルに理解できない。また、最新の「三の巻」の「オッデュッセイア」の次のような記述、

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闘神モハンマドスとアントニーは、かつて見た者すべてが思わず金返せ、と言いたくなるような勝負をしたことのある仲だった。(p.294)

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わかる人は瞬間的に笑ってしまう、これを説明したら、何のおもしろみもない。いや、当時の雰囲気を知らないと、わからない。説明して、どうのこうのということではない。

だが、これに類することは、各世代によって、それぞれにあることだろう。ここでは、清水義範と同時代に生きてきた人間の特権としておこう。

第二に、「ことば」による表現・コミュニケーションの本質にせまっていると感じること。これについては、それぞれの作品ごとに書きたいことがある。それは、とりあえず、「六の巻」まで終わってからのことにしよう。

當山日出夫(とうやまひでお)