大学のアーカイブズを探す2009-03-07

2009/03/07 當山日出夫

京都大学の、研究アーカイブズ、大学アーカイブズが、「京都大学文書館」であることは、松田さんから教えてもらってわかったこと。では、他の大学ではどうだろうか。

東京大学だと、東京大学史史料室になる。このことは、知識としては知っていた。

小川千代子(ほか).『アーカイブズを学ぶ』.岩田書院.2007

知らない場合はどうするか。Googleで、「東京大学 文書館」で検索しても、出てこない。

東京大学のトップページからたどると、

東京大学案内 → 東京大学の歴史 → 東京大学史史料室

でたどりつく。これは、非常にわかりやすい。

しかし、京都大学文書館は、トップからメニューをたどって、たどりつけない。いろいろためしてみたけれど。

これからは、当該の大学がどのような、大学アーカイブズを持っているか、どう公開しているかも重要になるだろう。時間があれば、他の大学のも探してみたいが、その余裕はない。ARGで、どなたか調べて発表してもらえるとありがたい、と思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

書法における字体2009-03-07

2009/03/07 當山日出夫

文字の話し。漢字字体規範データベース(HNG)を使って論文を書いたりしている。そうすると、基本的に、
書体(楷書・行書・草書など)
 字体
  字形
という、階層概念を設定して、そのなかで、字体の歴史的変遷や、地域的な、あるいは、種々の位相的な差異を見ていくことになる。

ところが、この前、見てきた、法帖(書道博物館・東京国立博物館東洋館)を思い起こすと、この概念が適用できないことが、わかる。簡単にいえば、種々の技法はあるものの、昔の著名な書家の作品を、コピーして残す。そして、そのコピーをお手本として、書を学ぶ。

となると、字体も同時にコピーされる。

HNGから得られる知見では、唐代の開成石経から宋版へと字体が変遷していく。おそらく、科挙の試験では、「正字体」を書かねばならなかったのだろう。だから、『干禄字書』が必要になる。

だが、いったん、書法の世界にふみこむと、『干禄字書』・開成石経、より以前の文字の世界があらわれる。こう考えると、文字の規範とは何であったのであろうか。HNGについても、書道史という観点から、考えてみる必要があるように思う。

また、文字の規範というものをきちんと定義しないでは、今般、問題になる「新常用漢字」についても、議論できない。あ、そういえば、この前の、国立国語研究所での「ワークショップ:文字-文字の規範」、論集にするために、編集を考えないといけない。(第1回の時の論集は、もうじき本になるはず。)

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字における通信と表現(1)2009-03-08

2009/03/08 當山日出夫

絵文字については、種々の立場から、いろんな考え方があるだろう。とりあえず、グーグルおよび日本の携帯電話会社が、ねらっているのは、規格化、である。それも、現在、相互に互換的に運用している字種(?)に限って。

その一方で、現実のユーザの個々人からすれば、表現、の問題になる。

ふりかえって考えてみれば、いわゆる「JIS漢字」は、そもそも通信の規格である。それを、言語表現の視点から、ひとびとがとらえるようになったとき、JIS漢字批判の動きになる。少なくとも、私が理解している経緯としては、おおきくはこの流れになる。

端的には、森鴎外を、「区鳥」なんかで書きたくない、「區鳥」で書くべきだ、ということ。

JISの規格票としては、文字概念と、それに対応する、代表字体をしめしただけで、実装字体については、そう厳しく規定しているわけではない。97年版で、「包摂基準」が示されたが、これを「制限」と見るか、「自由」と見るかは、解釈がわかれるところかもしれない。

印刷標準字体で、簡易慣用字体、許容三部首がある。つまり、堂々と使っても、いっこうにかまわないはず……である。(このあたり、新常用漢字の問題ともからむ。)

さて、絵文字であるが、個々の個人は、「表現」として使っている。それに対してサービスするのが、携帯電話会社でありグーグルである、という方向になる。そして、表現というのは、規範に依拠しつつも、そこから離れて独自性を発揮しようとする。

絵文字の規格化(ユニコード)が、どういう方向にすすむかわからない。しかし、拡張への道を開いてしまったことは確かだと思う。現在までは、携帯電話どうしの約束事という制約のなかで、その互換性に依存せざるをえなかった。この段階では、拡張の要求は、なかなか主張しにくい。

しかし、コード化が可能となれば、拡張可能性の要求の方向が一つに定まる。つまり、新しい絵文字に対して、新しいコードポイントを与えればすむことになる。理論上は、であるが。

絵文字のコード化は、同時に、新しい絵文字拡張のルールを同時に定めるものでなければ、混乱を招くことになりかねないのではないか。

當山日出夫(とうやまひでお)

読んでいない本2009-03-08

2009/03/08 當山日出夫

花粉症のシーズンで、本を読むのがつらい。いま、考えていること、

「読んでいない『読んでいない本について堂々と語る方法』について堂々と語る方法」

は、いったいどのようなものであるか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『諸君!』と『朝日ジャーナル』2009-03-08

2009/03/08 當山日出夫

昨年(2008)から、今年(2009)は、どのような年として記憶されるだろうか。一般的には、100年に一度の大不況の時期、かもしれない。

個人的には、2008年は、筑紫哲也が亡くなった年。そして、2009年は、『諸君!』(文藝春秋)が、休刊となる年。

学生のころ、『朝日ジャーナル』を買って、同時に、『諸君!』を読んでいたりした。中間の、毒にも薬にもならないようなのは、無用。

ある人の死が、一つの時代を象徴する例が、個人的には、ある。その一人が、筑紫哲也。言論(ジャーナリズム)が消えた、と感じる。他には……吉田満(『戦艦大和ノ最期』の著者)もそう。戦後が終わった、と戦後生まれの私は実感した。

単なる、個人的な感傷であろうが。

當山日出夫(とうやまひでお)

東洋歴史地図元代彊域部2009-03-08

2009/03/08 當山日出夫

松田さん、どうもありがとうございます。さっそく、Googleで「京都大学 那珂通世」で検索をかけると、出ました。

近代教育掛図
東洋歴史地図 元代彊域部
那珂通世監修 第一高等学校蔵版

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kakezu/page/0301.html

當山日出夫(とうやまひでお)

公田耕一2009-03-09

2009/03/09 當山日出夫

朝日新聞の歌壇を読むなど、何年ぶりだろうか。むか~し、島戸一臣さん(このブログを作っているアサヒネットの前身、アトソンの最初の社長)の作品が掲載されたことがあったので、時折、目にした程度。

いま、ここでは、「公田耕一」の歌については触れないでおきたい。それよりも、朝日新聞の歌壇に載り、それを新聞記事であつかって、その流れをうけて、今、ネット上で膨大な言及がある。今朝の新聞に大きくとりあげられているので、それを見て、今晩にでも書き込んで、クローラが拾って、となると、明日以降は、さらに増えるだろう。

今朝の朝日新聞を見て、興味を持って、検索エンジンで調べる、という人はかなりいるだろう。良くも悪くも、「考えるより検索」の時代。これを、直接、「ブログ論壇」と結びつけることは、無理かもしれない。しかし、匿名の人の新聞の歌壇への投稿、新聞記事、ブログ、という流れは確実にある。

惜しむらくは、「公田耕一」が、ネット接続可能な環境にいてくれるかどうか、これが気がかり。

フリーな、そして、公的な、ネット接続施設があってよい。

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字における通信と表現(2)2009-03-09

2009/03/09 當山日出夫

現在の日本語の表記は、明朝体活字(ディスプレイでは、サンセリフ系になるが)と、通行の仮名字体で、ほぼ固定してしまっている。活字や、コンピュータのディスプレイ表示に限定せず、手書き文字まで視野を拡大するならば、文字を書くこと=表現、である。

絵文字について、何故、関心がたかいのか、いろいろ理由はあるだろうが、ユーザの表現への要求ということが根底にあると思っている。言い換えるならば、規格化された文字では表現しきれない何かがあるから、種々に、工夫を加える。

そのひとつが、顔文字。その最も初期のものは、 :-) 

個人的には、私は、顔文字は基本的に使用しない。文章(通常の文字)によっって伝えられる限りのことを、書きたい。

とはいっても、実際には、「?」「!」などは、使う。「?」「!」などは、文字であるのか、記号であるのか。さらには、印刷における、アンダーラインや、圏点、などはどうなのか。現に、ブログやHPなどでは、HTMLによって様々に表現に工夫を凝らしている。(文書の構造とは別にである。)

音声言語と対応する書記、ではとらえきれない何かが、文字で書くときにはあることは確かだろう。それを、書記言語における表現、と言っていいかどうかは、考慮の余地があるかもしれないとは、思う。

絵文字のユニコード化が、パンドラの箱をあけてしまった、という言説に異論はない。だが、人によって、そこから読み取る、箱の中身はいろいろだろう。私にとっては、言語の書記とはなんであるか、そこにおける、通信・記録といった客観性にすすむ方向と、個々人の表現という個別性に向かう方向と、改めて問いかけることになる。そして、これが、コンピュータ文字(記号)という、きわめて無機質に規格化されたなかで起こっていることである。

當山日出夫(とうやまひでお)

絵文字における通信と表現(3)2009-03-09

2009/03/09 當山日出夫

さきほど、「絵文字における通信と表現(2)」を書いて、アップロードして、ふと思って、Googleで「絵文字」を検索。すると、

デコメ絵文字も作成できる--ソニースタイル、ケータイ用アプリ「12Pixels」公開

というCNETの記事が目についた。日付は、3月4日。

私の理解した範囲では、自由に絵文字がつくれます、ということらしい。携帯電話の会社が提供している既存のデコメ絵文字では、不満、足りない、もっと自分らしいのが使いたい、という要求にこたえてのことであろう。

やはり、これは、表現への要求、ということで考えるべきだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ARG』365:日本から見た日本文化と外国からみた日本文化2009-03-10

2009/03/10 當山日出夫

「ARG」の365を読んでの感想をすこし。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20090304/1236123801

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さて、ここからは質問。特にこれをお読みの出版関係者や図書館関係者にう
かがいたい。あなたが北米の日本研究司書に伝えたいことは何だろう?ご教
示・ご示唆いただけるとありがたい。
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これは、先日の、DH国際シンポジウムでも感じたこと。大英博物館の担当者の方などが強く主張していたこと。外国から見た日本文化は、「アニメ」「マンガ」もふくむものであり、そのように展示も構成されている。

当日、かなりスケジュールが厳しく、会場での質疑応答というわけにまで発展しなかった(当日は、同時通訳があった。)

何をもって日本文化、そして、日本文化の研究書とするか、このあたりに、そろそろ明確な壁が生まれているように感じる。おそらく現在の日本では、現代日本文化研究の一部として「オタク文化」「サブカルチャー研究」があり、その中に位置づけられるだろう。たしかに、一部の大学では、「マンガ」「アニメ」などの授業もある。しかし、それは、文学部・人文学のメインではない。(古典的な意味でのリベラル・アーツからすると、少し外れると言っていいかもしれないが。)

整理すると、

欧米に限らずアジア各国における「日本文化」には、現在の「マンガ」「アニメ」をふくみ、場合によっては、古代の縄文時代から、琉球(かつては独立の王国であった)までふくむ。いや、むしろ、現在の「マンガ」「アニメ」から、日本文化への関心を持っているという方が大多数だろう。

しかし、日本において、大学や学術書出版は、伝統的な、講座・学科・専攻の枠組みのなかにある。『源氏物語』をあつかっても、平安時代の文学研究者の視野のなかに『あさきゆめみし』がはいっているかどうか。逆に、「マンガ」「アニメ」専攻の学生が、『源氏物語』をきちんと読んでいるかどうか(読めるだけの、古文読解力をもっているかどうか、まあ無理だろう)、あまり希望は持てそうにない。

『源氏物語』をふくむとしても、絵画、能楽、浮世絵、近世期の出版物、さらには、現代の「マンガ」「アニメ」まで、ふくむことになるかどうか。かなり幅広い知識と、柔軟な発想。少なくとも、自分では分からなくても、研究者間のダイナミックな交流、これが必要である。

では、このような状況に、日本の大学の組織、図書館、はどう対応できるか。研究者や図書館をマーケットとして、学術書の企画・出版もある。

もとにもどって、岡本さんの問いについての、私のこたえ・・・グローバルな環境における日本文化研究に、日本の、そして、外国の、図書館や学術書出版は、いかに対応していくべきなのだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)