JSASアーカイブズ学会について思うこと(1) ― 2009-04-27
2009/04/27 當山日出夫
2009年4月25日(土)~26日(日)にかけて、2009年度の、日本アーカイブズ学会(於、学習院大学)に出席してきた。ついでに(?)、研究発表もしてきた。
JSAS 日本アーカイブズ学会
http://www.jsas.info/
これから、JSAS(日本アーカイブズ学会)で思ったことを、書いていこうと思っている。おそらく、この問題は、デジタル・キューレーション、デジタル・ドキュメンテーションをふくめて、広範囲に、デジタル・ヒューマニティーズにかかわる課題をふくんでいると、思うからである。
結論から、まず述べよう。以下、あえて苦言を呈する。
JSAS(日本アーカイブズ学会)は、「アーカイブズ学」によって、自縄自縛の状態にある。そして、「アーカイブズ学」は、基本的に、20世紀までの学問であり、輸入学問である。21世紀の、デジタルの時代に向けて対応しなければならないことは分かっていながら、では、どうすればいいのか、模索状態にある。私は、このように思う。
これからの、デジタル社会におけるアーカイブズ学は、旧来のアーカイブズ学を、超克するのでなければならない。そこを目指さない限り、日本のアーカイブズ学の将来は無い。
そして、今、公文書管理法がどうなるか、関係者の関心が集中している。これはこれで、十分になっとくできる。私自身としても、この法案の成立を願うものである。
だが、現実に学会に出て感じる雰囲気は、「アーキビスト」「アーカイブズ(狭義の公文書館)」のための、公文書管理法の成立であるように感じる。公文書管理法によって、逆に、アーカイブズが硬直する危険性はないのか。これは、単なる杞憂なのか。逆に、もっと、幅広いアーカイブズの視点が必要ではないのか。私には、このように思える。
アーカイブズは、三つの「み」からなる。
・みづから
・みんのために
・みらいにむけて
この理念には、私は賛同する。しかし、理念が正しさを実現するには、方法論がともなわなければならない。19~20世紀の、欧米でのアーカイブズの理論が、はたして、これから先、仮に100年後、21世紀のアーカイブズ理論と実践として有効である、という保証はあるだろうか。私には、そうは思えない。
デジタルとインターネットの時代、そして、デジタルネイティブなひとびとが社会の中枢をになうようになった時代、「国民国家」を、暗黙の前提とする、近代のアーカイブズ理論と方法は、十分に使命をはたしうるだろうか。国境を越えて情報が飛び交うグローバルな(あるいは、フラットな)社会をむかえて、近代的国民国家の存在意義も問い直されるだろう。すくなくとも、その業務において発生する文書の意味は、変容せざるをえない。
たとえば、政府のHP、各地方自治体のHPなどは、公的な性格のものとして残す必要はないのか。だが、ここには、アーカイブズ学でいう、原秩序などは、無い。あるのは、個々のコンテンツのリンク関係だけである。この、まさに今の現実に、アーカイブズ学は、どう対処できるのか。そして、今も、各種のHPは、作成され、同時に、消えつつある。
日本と世界の実情、そして、デジタルの環境に適合した、新しいアーカイブズ理論と実践が急務である。私は、アーカイブ学に期待する。しかし、公文書管理法の成立にのみ関心があるような、(狭義の、あるいは本来の)アーカイブズ学には、未来はない。もはや未来のないアーカイブズ学が、未来のために、資料(史料)を残すことに、貢献できるとは思えない。
確認しておく。私はアーカイブズ学から、学ぶべきものは多くあると思っている。そして、これからの社会において、アーカイブズ学は、ますます重要になるとも思っている。それにこたえるアーカイブズ学会であって欲しい。ゆえに、あえて苦言を呈した次第。
つづきは追って。まだまだ、苦言はつづく。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009/04/27
「アーカイブ」「アーカイブズ」を「アーカイブズ」に表記を統一。
追記(2) 2009/05/02
私は、アーカイブズ学を批判しているばかりではない。CH・DHが、アーカイブズ学から、何を学ぶべきかについても書いている。 このブログの、5月2日
アーカイブズから学ぶもの(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/05/02/4282741
2009年4月25日(土)~26日(日)にかけて、2009年度の、日本アーカイブズ学会(於、学習院大学)に出席してきた。ついでに(?)、研究発表もしてきた。
JSAS 日本アーカイブズ学会
http://www.jsas.info/
これから、JSAS(日本アーカイブズ学会)で思ったことを、書いていこうと思っている。おそらく、この問題は、デジタル・キューレーション、デジタル・ドキュメンテーションをふくめて、広範囲に、デジタル・ヒューマニティーズにかかわる課題をふくんでいると、思うからである。
結論から、まず述べよう。以下、あえて苦言を呈する。
JSAS(日本アーカイブズ学会)は、「アーカイブズ学」によって、自縄自縛の状態にある。そして、「アーカイブズ学」は、基本的に、20世紀までの学問であり、輸入学問である。21世紀の、デジタルの時代に向けて対応しなければならないことは分かっていながら、では、どうすればいいのか、模索状態にある。私は、このように思う。
これからの、デジタル社会におけるアーカイブズ学は、旧来のアーカイブズ学を、超克するのでなければならない。そこを目指さない限り、日本のアーカイブズ学の将来は無い。
そして、今、公文書管理法がどうなるか、関係者の関心が集中している。これはこれで、十分になっとくできる。私自身としても、この法案の成立を願うものである。
だが、現実に学会に出て感じる雰囲気は、「アーキビスト」「アーカイブズ(狭義の公文書館)」のための、公文書管理法の成立であるように感じる。公文書管理法によって、逆に、アーカイブズが硬直する危険性はないのか。これは、単なる杞憂なのか。逆に、もっと、幅広いアーカイブズの視点が必要ではないのか。私には、このように思える。
アーカイブズは、三つの「み」からなる。
・みづから
・みんのために
・みらいにむけて
この理念には、私は賛同する。しかし、理念が正しさを実現するには、方法論がともなわなければならない。19~20世紀の、欧米でのアーカイブズの理論が、はたして、これから先、仮に100年後、21世紀のアーカイブズ理論と実践として有効である、という保証はあるだろうか。私には、そうは思えない。
デジタルとインターネットの時代、そして、デジタルネイティブなひとびとが社会の中枢をになうようになった時代、「国民国家」を、暗黙の前提とする、近代のアーカイブズ理論と方法は、十分に使命をはたしうるだろうか。国境を越えて情報が飛び交うグローバルな(あるいは、フラットな)社会をむかえて、近代的国民国家の存在意義も問い直されるだろう。すくなくとも、その業務において発生する文書の意味は、変容せざるをえない。
たとえば、政府のHP、各地方自治体のHPなどは、公的な性格のものとして残す必要はないのか。だが、ここには、アーカイブズ学でいう、原秩序などは、無い。あるのは、個々のコンテンツのリンク関係だけである。この、まさに今の現実に、アーカイブズ学は、どう対処できるのか。そして、今も、各種のHPは、作成され、同時に、消えつつある。
日本と世界の実情、そして、デジタルの環境に適合した、新しいアーカイブズ理論と実践が急務である。私は、アーカイブ学に期待する。しかし、公文書管理法の成立にのみ関心があるような、(狭義の、あるいは本来の)アーカイブズ学には、未来はない。もはや未来のないアーカイブズ学が、未来のために、資料(史料)を残すことに、貢献できるとは思えない。
確認しておく。私はアーカイブズ学から、学ぶべきものは多くあると思っている。そして、これからの社会において、アーカイブズ学は、ますます重要になるとも思っている。それにこたえるアーカイブズ学会であって欲しい。ゆえに、あえて苦言を呈した次第。
つづきは追って。まだまだ、苦言はつづく。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009/04/27
「アーカイブ」「アーカイブズ」を「アーカイブズ」に表記を統一。
追記(2) 2009/05/02
私は、アーカイブズ学を批判しているばかりではない。CH・DHが、アーカイブズ学から、何を学ぶべきかについても書いている。 このブログの、5月2日
アーカイブズから学ぶもの(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/05/02/4282741
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