JSASアーカイブズ学会について思うこと(2) ― 2009-04-30
2009/04/30 當山日出夫
さきに書いた、第1回のつづき。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/04/27/4269302
JSAS 日本アーカイブズ学会
http://www.jsas.info/
について、思うこと(あえて苦言を呈する)である。
まず、確認しておきたい。私は、アーカイブズは、きわめて重要であると思っている。みらいのために、みんなのために、資料(記録)を残す、このことの意義は、ますます重要になってきている。
現代社会は、膨大な資料・データとともにある。それらの中から、選別・評価し、残すべきものを、きちんと残す。いまの時代の記録をどのように、将来に継承するか、重要なテーマである。
だが、そうであるがゆえに、今の「アーカイブズ学」には、いささかの不満がないわけではない。
私の認識を記すならば(まちがっているかもしれないが)、
アーカイブズ学は、近代の国民国家とともにあり(公的な公文書館)、「紙の文書」を主体とした記録管理を、暗黙の前提としている。
第一に、「紙の文書」の絶対量が少ないこと。これは、現代社会のデジタルのドキュメント(文書データや電子メール)にくらべてのこと。数が少ない「紙の文書」だからこそ、実現できたことであり、また、そのための、方法論・理論が、構築されてきた。これが、現代のアーカイブズ学であると思っている。
第二に、「紙の文書」という物理的なものを対象としたものであること。きわめて安定している。保存の処置さえきちんとしてあれば、数百年は残せる。(課題としては、酸性紙のことがある。このことは、図書館も同様の課題をかかえている。)
つまり、「数が少ない」「紙の文書」というもの、また、その基盤として、「国民国家」を前提としている「アーカイブズ学」(特に公文書)、これが、これからのデジタルの時代に、そのまま通用するかどうか、である。
「膨大な量のデジタルデータ」に対して、同じ方法論・理論が通用するかどうか。「出所原則」とか「原秩序」というものが、デジタルデータに、紙の文書と、同様に存在するだろうか。答えは、誰が考えても、否、であろう。
また、現用・非現用の区別も、判断が難しい。紙の文書のように、自分の事務机の上、オフィスの書棚、文書保管のための部屋、倉庫、ということはない。ハードディスクの容量の問題にすぎなくなっている(今、すでに、1テラで1万円)。
さらに、インターネットにつながるならば、もはや、自分のコンピュータにデータが存在する必要性さえない。世界中のどこかにあればいい。日本国内のオフィスで使用する文書のデータが、国境を越えて、アメリカのサーバにあっても、誰も気にしない。
19世紀的な紙のアーカイブズ学では、21世紀のデジタルの時代に対応できない。
では、どうするか。選択肢は限られる、
アーカイブズ学は、依然として、紙の文書だけを、それのみを、対象とするものとして、存続することをめざすか(デジタル資料は、信用できないとして無視する)。このゆきさきにあるのは、衰弱以外のなにものでもないであろう。
でなければ、デジタル資料をも扱える、方法論・理論を、構築するか。
アーカイブズ学会が、日本で誕生して5年、今年度から6年目になる。酸性紙の文書のように、そのまま朽ち果てる道をえらぶか。あるいは、デジタル社会のなかで、重要な位置をしめる新たな学知として、活路を見出すか。
いま、まさに、岐路にある。
まだまだ、書きたいことはあるが、後ほど。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009/04/30
私のもうひとつのブログ「明窓浄机」の方に、「新常用漢字表(仮称)」とアーカイブズについて、少し書いておいた。
http://d.hatena.ne.jp/YAMAMOMO/20090430/1241085793
公文書は「常用漢字」で書く。公文書の記録保存にかかわるアーカイブズ学は、このことに無関心でいいのだろうか。
さきに書いた、第1回のつづき。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/04/27/4269302
JSAS 日本アーカイブズ学会
http://www.jsas.info/
について、思うこと(あえて苦言を呈する)である。
まず、確認しておきたい。私は、アーカイブズは、きわめて重要であると思っている。みらいのために、みんなのために、資料(記録)を残す、このことの意義は、ますます重要になってきている。
現代社会は、膨大な資料・データとともにある。それらの中から、選別・評価し、残すべきものを、きちんと残す。いまの時代の記録をどのように、将来に継承するか、重要なテーマである。
だが、そうであるがゆえに、今の「アーカイブズ学」には、いささかの不満がないわけではない。
私の認識を記すならば(まちがっているかもしれないが)、
アーカイブズ学は、近代の国民国家とともにあり(公的な公文書館)、「紙の文書」を主体とした記録管理を、暗黙の前提としている。
第一に、「紙の文書」の絶対量が少ないこと。これは、現代社会のデジタルのドキュメント(文書データや電子メール)にくらべてのこと。数が少ない「紙の文書」だからこそ、実現できたことであり、また、そのための、方法論・理論が、構築されてきた。これが、現代のアーカイブズ学であると思っている。
第二に、「紙の文書」という物理的なものを対象としたものであること。きわめて安定している。保存の処置さえきちんとしてあれば、数百年は残せる。(課題としては、酸性紙のことがある。このことは、図書館も同様の課題をかかえている。)
つまり、「数が少ない」「紙の文書」というもの、また、その基盤として、「国民国家」を前提としている「アーカイブズ学」(特に公文書)、これが、これからのデジタルの時代に、そのまま通用するかどうか、である。
「膨大な量のデジタルデータ」に対して、同じ方法論・理論が通用するかどうか。「出所原則」とか「原秩序」というものが、デジタルデータに、紙の文書と、同様に存在するだろうか。答えは、誰が考えても、否、であろう。
また、現用・非現用の区別も、判断が難しい。紙の文書のように、自分の事務机の上、オフィスの書棚、文書保管のための部屋、倉庫、ということはない。ハードディスクの容量の問題にすぎなくなっている(今、すでに、1テラで1万円)。
さらに、インターネットにつながるならば、もはや、自分のコンピュータにデータが存在する必要性さえない。世界中のどこかにあればいい。日本国内のオフィスで使用する文書のデータが、国境を越えて、アメリカのサーバにあっても、誰も気にしない。
19世紀的な紙のアーカイブズ学では、21世紀のデジタルの時代に対応できない。
では、どうするか。選択肢は限られる、
アーカイブズ学は、依然として、紙の文書だけを、それのみを、対象とするものとして、存続することをめざすか(デジタル資料は、信用できないとして無視する)。このゆきさきにあるのは、衰弱以外のなにものでもないであろう。
でなければ、デジタル資料をも扱える、方法論・理論を、構築するか。
アーカイブズ学会が、日本で誕生して5年、今年度から6年目になる。酸性紙の文書のように、そのまま朽ち果てる道をえらぶか。あるいは、デジタル社会のなかで、重要な位置をしめる新たな学知として、活路を見出すか。
いま、まさに、岐路にある。
まだまだ、書きたいことはあるが、後ほど。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009/04/30
私のもうひとつのブログ「明窓浄机」の方に、「新常用漢字表(仮称)」とアーカイブズについて、少し書いておいた。
http://d.hatena.ne.jp/YAMAMOMO/20090430/1241085793
公文書は「常用漢字」で書く。公文書の記録保存にかかわるアーカイブズ学は、このことに無関心でいいのだろうか。
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