行けなかった第5回ARGカフェ2009-08-26

2009-08-26 當山日出夫

第5回のARGカフェ、行きたかったが、他にどうしても用事があって欠席。しかし、いつものように、岡本さんが、まとめてくれているので、とてもありがたい。

ARG
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090826/1251216581

なかで、もっとも関心があったのは、三浦麻子さん(関西学院大学)の「学会公式サイトのあるべき姿とは!?-日本社会心理学会の(暗中)模索」である。

今、JADS(アート・ドキュメンテーション学会)のWEB担当役員ということになっている。実際に、担当してみると、HPの機械的な更新に追われてしまう。(いや、それ以前に、DREAMWEAVERのマニュアル本を読む時間が必要。ひととおり、htmlは分かってはいるつもりでも、DRAMWEAVERのように、自動的にやってくれるソフトをつかうと、逆にとまどうこともある。)

私の考えをまとめる意味もあって、ひとことだけ書けば、需要と供給の関係になるだろう。

学会としては、何を、提供(供給)すべきか。その相手は誰か。学会の会員だけか。あるいは、学会の活動に関心のある周辺のひとをふくめるのか。そして、それらのひとたち(学会、非学会員)は、学会のネット上での情報として何をもとめているのか。

おそらく、供給が需要を生み出す、ということになるのではなかろうか。

学会の研究会(今年の秋は10月17日)、それに20周年の記念フォーラム(12月4・5日)、これらは、非学会員でも参加できるものとして開催する。ただし、研究発表は基本的に会員であること。これは、通常の学会と同じ。

JADSの基本は、MLA連携。M(博物館・美術館)、L(図書館)、A(文書館)。社会的な制度としても、また、学問的背景も異なる分野の、総合的な連携が課題である。ひとも、実務の場にいる人もいれば、理論的な研究者の立場にいる人もいる。実にさまざま。

まずは、学会の側から情報を発信する(単なる、学会運営の事務連絡だけではなく)と思う。そこで、
第一に、これまで使われてこなかったメーリングリストの整理、運用。
第二に、学会としてのブログの開設。
ここまでは、どうにか。
第三に、ホームページの作り直し。これが一番の課題。さて、これからどうするか、である。

社会心理学会のホームページを見ながら、あれこれと考えている。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssp/

當山日出夫(とうやまひでお)

『気骨の判決』2009-08-26

2009-08-26 當山日出夫

清水聡.『気骨の判決-東条英機と闘った裁判官-』(新潮新書).新潮社.2008
http://www.shinchosha.co.jp/book/610275/

「市民」と「専門家」について、ちょっと考えてみた。

先日、HNKのドラマがあったせいか、本よりもこちらの方について言及したものが目につく。Googleで検索して、ざっとながめていって、ふと目にとまったのが、次のブログ。たまたま、であるが。

http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-814.html
津久井進の弁護士ノート
気骨の判決 = 命懸けの「法」律家精神

このなかの次の箇所。一部引用すると(一部、改行など改変)、

>>>>>

裁判の合議のシーンで,
「私は,市民ではなく,法律家として,法律の精神に則って判断する」
と静かに語る場面が出てきます。

(中略)

たいていは,「市民の視点」というと,「善」と捉えられがちです。

「市民が・・・」「世論が・・・」と言えば,トランプのジョーカーのようなオールマイティーパスのように,正当化の御旗となりがちです。
しかし,「市民的」というのは,ときに狂気であり,理性を欠いていることもあるわけで,それを,理性と正義でコントロールするのが「法」です。
(そういう精神が立憲民主主義です。)

<<<<<

なるほど、こういう考え方もあるのか、と思ったのが正直なところ。

大学は文学部で、日本・東洋の古典籍を学ぶようなことを勉強したせいか、実務的な法律の世界は、もっとも縁遠く感じる。しかし、このような説明に接すると、実際の「法」の運用の根底にある思想を感じる。

ところで、TVドラマで上記のような台詞があるということは、原作の本の主人公(吉田久)の生き方に重なると思える。吉田久は、帝国大学の法学部出身というのとは、まったく異なるルートで法律家になっている。裁判所での「小僧」をしながら法律を学び、いまでいう司法試験をうけている。これがTVドラマでは、(私の記憶では)「たたきあげ」ということで表現されていたが、実際にどのようであったかは、原作本に詳しい。淡々と記述してあるが、まさに壮絶としか言いようのない過酷な条件での猛勉強があった。

これをふまえて再度、上記ブログでの津久井進さんの「法律家」ということばの意味を考え直す。

そして、なぜ、このブログ記事が目にとまったか、自ら考えてみると、やはり、ARGでよく出てくること。「専門家」と「市民」という、ことに連なると思う次第。決して独善的にではなく、「専門家としての責務」ということも考えなければならない。

當山日出夫(とうやまひでお)