デジタル化後の紙の本のゆくえ ― 2009-10-02
2009-10-02 當山日出夫
国会図書館 カレントアゥエアネス
デジタル化した後の紙資料をいつまで保存するべきか
http://current.ndl.go.jp/node/14753
一方で、
NY公共図書館のパブリックドメインの50万冊が、オンデマンドのデジタル化可能に
http://current.ndl.go.jp/node/14754
グーグルブックサーチでなんだかんだとやっているうち、さて、デジタル化はしたものの、その後の紙の本をどうするか、あまり議論されていなかったような。
私の考えとしては、デジタルライブラリになっても、紙の本は、残すべきである。いろんな観点がある。そのうちのひとつ。紙の本をつくるとき、出版社・編集者は、どの大きさの本、どんな紙、どんな活字(フォント)、どんな装丁、これまで考えているはず。これは、本が、一種の表現として持っている情報である。これを消してはならない、と私は考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
Twitter:yamamomo_htoym
長めの追記 2009-10-02
「本」のモノとしての性質に、私は、ある意味で「未練」があるのかもしれない。私のこれまでの経験のなかでも、活版印刷がなくなって、写植になっていったとき、何かを失ってしまったような印象を持ったものである。だが、今は、逆に、コンピュータ組版のシャープなフォントデザインが、ある意味での本の魅力の要素のひとつになりつつある。逆にいえば。昔の活字の本を、そのまま複製したオフセット印刷には、魅力を感じない。特に、岩波文庫の「復刊」のたぐい。
書籍というモノはひとつの表現である、という命題はなりたつと、私は考える。
版本という表現の有り様、あるいは、写本という一つの表現。ここには、単に「本」が「文字」のならび=テキスト、ではなく、どういうかたちの字で書くか、書芸術(というとおおげさかもしれないが)の要素がある。
古写経や、宋版本などは、私のような人間にとっては、まさに芸術である。だが、その芸術性は、実用の本とともにある。実用といっても、ただ、それを持っていることに意味があった写経と、実用的に読まれた本とは、いささか違うとすべきであるが。
本は表現でもありうる。だが、それが、永久につづくべきものかどうかとなると、考えてしまう。
デジタルで本は消えるか。私の文章は、このディスプレイで、このフォントで見て欲しい、このような「表現」としての要求に、「デジタルの本」は、こたえてくれるだろうか。(今、私は、メイリオで表示して書いている)。
というようなこと、例によって、
かたつむりは電子図書館の夢をみるか
http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20091001
トークセッション『言語とはなにか:書く、伝える、遺す』(長尾真×円城塔)
を眺めながら(ごめん、全部、熟読するにはあまりにも長すぎる)思ったことである。
以上、長めだけと、これぐらいなら読んでもらえそうな追記。
国会図書館 カレントアゥエアネス
デジタル化した後の紙資料をいつまで保存するべきか
http://current.ndl.go.jp/node/14753
一方で、
NY公共図書館のパブリックドメインの50万冊が、オンデマンドのデジタル化可能に
http://current.ndl.go.jp/node/14754
グーグルブックサーチでなんだかんだとやっているうち、さて、デジタル化はしたものの、その後の紙の本をどうするか、あまり議論されていなかったような。
私の考えとしては、デジタルライブラリになっても、紙の本は、残すべきである。いろんな観点がある。そのうちのひとつ。紙の本をつくるとき、出版社・編集者は、どの大きさの本、どんな紙、どんな活字(フォント)、どんな装丁、これまで考えているはず。これは、本が、一種の表現として持っている情報である。これを消してはならない、と私は考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
Twitter:yamamomo_htoym
長めの追記 2009-10-02
「本」のモノとしての性質に、私は、ある意味で「未練」があるのかもしれない。私のこれまでの経験のなかでも、活版印刷がなくなって、写植になっていったとき、何かを失ってしまったような印象を持ったものである。だが、今は、逆に、コンピュータ組版のシャープなフォントデザインが、ある意味での本の魅力の要素のひとつになりつつある。逆にいえば。昔の活字の本を、そのまま複製したオフセット印刷には、魅力を感じない。特に、岩波文庫の「復刊」のたぐい。
書籍というモノはひとつの表現である、という命題はなりたつと、私は考える。
版本という表現の有り様、あるいは、写本という一つの表現。ここには、単に「本」が「文字」のならび=テキスト、ではなく、どういうかたちの字で書くか、書芸術(というとおおげさかもしれないが)の要素がある。
古写経や、宋版本などは、私のような人間にとっては、まさに芸術である。だが、その芸術性は、実用の本とともにある。実用といっても、ただ、それを持っていることに意味があった写経と、実用的に読まれた本とは、いささか違うとすべきであるが。
本は表現でもありうる。だが、それが、永久につづくべきものかどうかとなると、考えてしまう。
デジタルで本は消えるか。私の文章は、このディスプレイで、このフォントで見て欲しい、このような「表現」としての要求に、「デジタルの本」は、こたえてくれるだろうか。(今、私は、メイリオで表示して書いている)。
というようなこと、例によって、
かたつむりは電子図書館の夢をみるか
http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20091001
トークセッション『言語とはなにか:書く、伝える、遺す』(長尾真×円城塔)
を眺めながら(ごめん、全部、熟読するにはあまりにも長すぎる)思ったことである。
以上、長めだけと、これぐらいなら読んでもらえそうな追記。
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