Twitter雑感:ヤシガラ椀の外へ ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
まあ、凝り性といわれれば、それまでであるが、Twitterで、まずは、1000メッセージを目指してという状態。これぐらいつかうと、なんとなく分かってくる。単なる「つぶやき」でありながら、フォローと、#(ハッシュタグ)によって、コミュニティが生まれることを。
ホームページから、ブログへと移行したように、今年から、急激に、Twitterになだれこんでいるような印象をもっている。出版社、美術館などでも、Twitterとブログとメールマガジンとホームページと、相互に有機的に関連づける方向で、動いている。
たとえ、140字の「つぶやき」であっても、それが外に向かって開かれた自分というものを保証してくれるとき、その存在意義は大きいと言えるだろう。
まさに、
『ヤシガラ椀の外へ』.ベネディクト・アンダーソン.加藤剛訳.NTT出版.2009
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001986
につながると、直感する。ただ、『想像の共同体』とどう関連していくかは、これからのユーザによって決まってくるのだろうがとは、思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
まあ、凝り性といわれれば、それまでであるが、Twitterで、まずは、1000メッセージを目指してという状態。これぐらいつかうと、なんとなく分かってくる。単なる「つぶやき」でありながら、フォローと、#(ハッシュタグ)によって、コミュニティが生まれることを。
ホームページから、ブログへと移行したように、今年から、急激に、Twitterになだれこんでいるような印象をもっている。出版社、美術館などでも、Twitterとブログとメールマガジンとホームページと、相互に有機的に関連づける方向で、動いている。
たとえ、140字の「つぶやき」であっても、それが外に向かって開かれた自分というものを保証してくれるとき、その存在意義は大きいと言えるだろう。
まさに、
『ヤシガラ椀の外へ』.ベネディクト・アンダーソン.加藤剛訳.NTT出版.2009
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001986
につながると、直感する。ただ、『想像の共同体』とどう関連していくかは、これからのユーザによって決まってくるのだろうがとは、思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
寒くなってきた ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
今日あたりから急に寒い。書斎は、床を頑丈につくって、本棚優先のつくりなので、ゆかがポカポカというわけにはいかない。それに、ゆかには本の山の山の山~~~であるし。
しかたないので、机のしたに、ホカホカのカーペットをおいてある。ちょうど足をのせるだけのちっちゃいの。今日から、電源をつないでオンにした。
ま、ようするに、そろそろ「冬眠」のシーズンであって、のんびりせよとの、天の声であろうと理解する。
當山日出夫(とうやまひでお)
今日あたりから急に寒い。書斎は、床を頑丈につくって、本棚優先のつくりなので、ゆかがポカポカというわけにはいかない。それに、ゆかには本の山の山の山~~~であるし。
しかたないので、机のしたに、ホカホカのカーペットをおいてある。ちょうど足をのせるだけのちっちゃいの。今日から、電源をつないでオンにした。
ま、ようするに、そろそろ「冬眠」のシーズンであって、のんびりせよとの、天の声であろうと理解する。
當山日出夫(とうやまひでお)
カレーなべ異聞 ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
さて、どうでもいいような話し。こんなことを書いているのは、肝心の仕事がすすまないからでもある(^^;)
昨夜の晩ご飯は、「カレーナベ」。要するに、カレー味の鍋料理である。しかしながら、通常の「なべ」のごとく、うどんを入れて食するとなったとき、ふと思った。これって、「カレーうどん」とどうちがうのか。
食べた感触、食感というべきかは、まさに、カレーうどんそのものである。ならば、はじめから、具だくさんのカレーうどんにすればいいのではなかったろうか。
冬眠のシーズンには、カレーうどんがよく似合うのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
さて、どうでもいいような話し。こんなことを書いているのは、肝心の仕事がすすまないからでもある(^^;)
昨夜の晩ご飯は、「カレーナベ」。要するに、カレー味の鍋料理である。しかしながら、通常の「なべ」のごとく、うどんを入れて食するとなったとき、ふと思った。これって、「カレーうどん」とどうちがうのか。
食べた感触、食感というべきかは、まさに、カレーうどんそのものである。ならば、はじめから、具だくさんのカレーうどんにすればいいのではなかったろうか。
冬眠のシーズンには、カレーうどんがよく似合うのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
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