「公表したものは共有財産」について (2)『古語雑談』など ― 2009-10-15
2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
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