「公表したものは共有財産」について (3)校訂権など ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
学会でしばらく留守に ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
これからの予定
16日(今日)新横浜で午後からひとつ仕事 夜、東京に行って寝る(宿泊)
17日(明日)国立西洋美術館で、アート・ドキュメンテーション学会。これは役員だし、立命館からも何人か発表である、同志社からも。欠席するわけにはいかない。
http://www.jads.org/news/2009/1017.html
18日(明後日)東京大学山上会館で、訓点語学会。これは、研究発表。共同発表である。今回の私の立場は、全体のとりまとめ的なものであるので、実際に前に出て話しをすることはないが、やはり、一番の責任がある。緊張する。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kuntengo/
19日(明明後日)東京で、漢字の研究会。終わったら、帰る。
20日(さらにその次の日)我が家の近くの某施設で仕事。これは、仕方ないので、休講にした。公務、ということで。たまたま、補講はなんとか、都合がつく。
レッツノートは持っていくが、宿からブログ更新の元気があるかどうかは、微妙。むしろ、Twitterに向かう可能性がある。つかいわける方向に整理しないと、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
これからの予定
16日(今日)新横浜で午後からひとつ仕事 夜、東京に行って寝る(宿泊)
17日(明日)国立西洋美術館で、アート・ドキュメンテーション学会。これは役員だし、立命館からも何人か発表である、同志社からも。欠席するわけにはいかない。
http://www.jads.org/news/2009/1017.html
18日(明後日)東京大学山上会館で、訓点語学会。これは、研究発表。共同発表である。今回の私の立場は、全体のとりまとめ的なものであるので、実際に前に出て話しをすることはないが、やはり、一番の責任がある。緊張する。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/kuntengo/
19日(明明後日)東京で、漢字の研究会。終わったら、帰る。
20日(さらにその次の日)我が家の近くの某施設で仕事。これは、仕方ないので、休講にした。公務、ということで。たまたま、補講はなんとか、都合がつく。
レッツノートは持っていくが、宿からブログ更新の元気があるかどうかは、微妙。むしろ、Twitterに向かう可能性がある。つかいわける方向に整理しないと、と思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (4)公共性とは何か ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
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