図書館の本の廃棄について ― 2009-10-30
2009-10-30 當山日出夫
都立図書館の書籍廃棄について、最新の情報。
ポット出版 松沢呉一の黒子の部屋
お部屋1971/【必読】多摩図書館廃棄本についての正確な情報
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091030_011904493914868.html
図書館の本といっても多様である。1冊あればいい、というものではない、しかし、たくさんあればいいのかというと、そうでもない。
大学図書館などでは、学習用の基本図書は、複数が必要。アメリカの大学院教育なみに、予習・復習をかならず、というほどでもないにしても、基本的文献は、複数冊がそろえておく必要がある。でないと、学生の勉強に困る。
あるいは、公共図書館で、その時のベストセラー作品への需要が急激に増える場合など。対応のために、複数冊、必要ということもあるだろう。(この点については、図書館は、無料貸本屋でいいのか、という批判の論点になったりもする。)
しかし、いずれの場合にせよ、時間がたてば、それほどの冊数は、いらなくなる。テキストも古くなる。ベストセラーも読まれなくなる。このような場合は、処分(廃棄)もやむをえないだろう。これを、認めるにやぶさかではない。
では、複本がまったく必要ないのか、あるいは、他の図書館にあれば、それで十分であるのか、というと、私は、必ずしも賛成するものではない。
余裕があるなら、持っておくにこしたことはない。無くなってから(破損してから、所在不明になってから)では、遅い。複本を保存しておくためだけの書庫(倉庫)は、そんなにコストがかかるものなのだろうか。
東京都の図書館の事例でいうならば、廃棄するとしても、実際の本をみくらべて損傷の少ない方(きれいな方)を残す……これが、常識的判断だろう。それを、コンピュータの検索で重複しているからといって、強引に、実物を見ることなく、廃棄という処分は、乱暴であると思われる。
でなければ、1冊ごとに、実物をつきあわせるしかない。これにかかるコストと、ごっそりと保管しておくための書庫(倉庫)を建てて移管してしまうのと、いずれが、未来に対して責任のもてる行為であるか。また、現実的に、安くできるか。
基本的に、本を残すという行為それ自体に、社会的にどれほどの意義をみとめているか、だと思う。古いことばだが、「有害図書」であっても、「のこす」という文化的な基盤が必要と考える。個人コレクションの受け入れなども、である。
そのうえで、一方で、今回、東京都の図書館の事例が問題になったのは、昨今のあまりにも偏った文化行政のあり方への批判があるだろう。メディア芸術(マンガ・アニメなど)についても、「のこす」べきであるが、もっと別のアプローチがあるだろう。それに、減る一方である、教育研究関係の予算。図書館が本を買えないでいる。それなのに、棄てるとはなにごとであるか、と感じる人がいてもおかしくはない。
ともあれ、モノとしての本を「のこす」ことの基盤の無いところで、書籍のデジタル化を議論しても、著作権(=利権としての)の奪い合いで終わってしまうように思えてならないのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
都立図書館の書籍廃棄について、最新の情報。
ポット出版 松沢呉一の黒子の部屋
お部屋1971/【必読】多摩図書館廃棄本についての正確な情報
http://www.pot.co.jp/matsukuro/20091030_011904493914868.html
図書館の本といっても多様である。1冊あればいい、というものではない、しかし、たくさんあればいいのかというと、そうでもない。
大学図書館などでは、学習用の基本図書は、複数が必要。アメリカの大学院教育なみに、予習・復習をかならず、というほどでもないにしても、基本的文献は、複数冊がそろえておく必要がある。でないと、学生の勉強に困る。
あるいは、公共図書館で、その時のベストセラー作品への需要が急激に増える場合など。対応のために、複数冊、必要ということもあるだろう。(この点については、図書館は、無料貸本屋でいいのか、という批判の論点になったりもする。)
しかし、いずれの場合にせよ、時間がたてば、それほどの冊数は、いらなくなる。テキストも古くなる。ベストセラーも読まれなくなる。このような場合は、処分(廃棄)もやむをえないだろう。これを、認めるにやぶさかではない。
では、複本がまったく必要ないのか、あるいは、他の図書館にあれば、それで十分であるのか、というと、私は、必ずしも賛成するものではない。
余裕があるなら、持っておくにこしたことはない。無くなってから(破損してから、所在不明になってから)では、遅い。複本を保存しておくためだけの書庫(倉庫)は、そんなにコストがかかるものなのだろうか。
東京都の図書館の事例でいうならば、廃棄するとしても、実際の本をみくらべて損傷の少ない方(きれいな方)を残す……これが、常識的判断だろう。それを、コンピュータの検索で重複しているからといって、強引に、実物を見ることなく、廃棄という処分は、乱暴であると思われる。
でなければ、1冊ごとに、実物をつきあわせるしかない。これにかかるコストと、ごっそりと保管しておくための書庫(倉庫)を建てて移管してしまうのと、いずれが、未来に対して責任のもてる行為であるか。また、現実的に、安くできるか。
基本的に、本を残すという行為それ自体に、社会的にどれほどの意義をみとめているか、だと思う。古いことばだが、「有害図書」であっても、「のこす」という文化的な基盤が必要と考える。個人コレクションの受け入れなども、である。
そのうえで、一方で、今回、東京都の図書館の事例が問題になったのは、昨今のあまりにも偏った文化行政のあり方への批判があるだろう。メディア芸術(マンガ・アニメなど)についても、「のこす」べきであるが、もっと別のアプローチがあるだろう。それに、減る一方である、教育研究関係の予算。図書館が本を買えないでいる。それなのに、棄てるとはなにごとであるか、と感じる人がいてもおかしくはない。
ともあれ、モノとしての本を「のこす」ことの基盤の無いところで、書籍のデジタル化を議論しても、著作権(=利権としての)の奪い合いで終わってしまうように思えてならないのである。
當山日出夫(とうやまひでお)
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