NDLのコンテンツは誰のものか ― 2009-11-10
2009-11-10 當山日出夫
NDL(国立国会図書館)のオンラインサービスを考えていくと、最終的にいきつくところは、そのコンテンツは、いった誰のものであるのか、というあたりに行きそうである。
あらかじめ、ことわっておかねばならないのは、誰のものであるのか、ということと、何のために利用可能であるのか、ということは、とりあえず別の問題である。しかし、密接に関連する。
NDLのコンテンツという視点から見た場合、それは、国民のものだろう。少なくとも、いまの常識的判断からするならば。国家のものであるというよりも、主権者たる国民のものであり、それを集中的に管理する機関として、NDLがある……というのが、大方の理解であると考える。
ならば、誰でもが、それを使えるか。もちろん使える。利用規程によって、国民のすべてにひらかれている。
だが、これは、基本的に「本」に限られる。(保存が重要である貴重書もあるが、これも、基本は、公開と考えておくべきであろう。本来は公開しなければならないが、保存のために、あえて非公開の手段をとらざるをえない。)
では、それが、デジタルコンテンツとなった場合、国民すべてに、ひらかれているか……となると、問題が多い。もちろん、著作権の問題がからんでくるからである。
ところで、パブリックドメインのものがある。著作権のきれたもの、である。著作権のきれたものについて、たとえば、近代以降の出版物であれば、何も近代デジタルライブラリーばかりではない。他に、デジタル画像のコンテンツのサイトはある。
例:うわづら文庫
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura.html
それから、貴重書画像データ。特に浮世絵のたぐい。これにあまりに厳格な利用規程をあてはめるのはどうであろうか。版画である以上、同じものが、日本・世界に存在する。いくら、国会図書館が、厳重にガードしたとしても、ほぼ同一内容のものが、海外の美術館・博物館で、自由に利用可能、ということもないではない。まったく自由とまではいかなくても、かなり自由で、商業的利用も可能となった場合、日本で制作のコンテンツは、取り残される。
ただ、日本国内で、国内の規定で、作っているにすぎない。だが、だれも、利用しない(いや、利用しようにもできない。)
それが、芸術・創造活動にかかわるものであるとして、まさに、今の我々の時代に生きて、生活のなかに活用されてこそ意味がある。所蔵という名のもとにおける死蔵におわっては、何の意味もない。
コンテンツは誰のものであるのか。著作権者がその著作権を守るためだけにあるものである。これもひとつの考え方であろう。
一方で、著作権はまもりつつも、そのコンテンツが、より社会の創造・表現活動を活性化する方向に利活用できないものか、そうであってこそ、よりコンテンツの価値も高まる、このような発想もあっていいだろう。
ここで、いきなり飛躍していえば、グーグルブックサーチは、コンテンツ産業を衰退させるであろうか、いや、逆に活性化させるであろうか。その根底的な問いかけのなかに、NDLのデジタルコンテンツの有効利用の問いかけもある、と考える次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
NDL(国立国会図書館)のオンラインサービスを考えていくと、最終的にいきつくところは、そのコンテンツは、いった誰のものであるのか、というあたりに行きそうである。
あらかじめ、ことわっておかねばならないのは、誰のものであるのか、ということと、何のために利用可能であるのか、ということは、とりあえず別の問題である。しかし、密接に関連する。
NDLのコンテンツという視点から見た場合、それは、国民のものだろう。少なくとも、いまの常識的判断からするならば。国家のものであるというよりも、主権者たる国民のものであり、それを集中的に管理する機関として、NDLがある……というのが、大方の理解であると考える。
ならば、誰でもが、それを使えるか。もちろん使える。利用規程によって、国民のすべてにひらかれている。
だが、これは、基本的に「本」に限られる。(保存が重要である貴重書もあるが、これも、基本は、公開と考えておくべきであろう。本来は公開しなければならないが、保存のために、あえて非公開の手段をとらざるをえない。)
では、それが、デジタルコンテンツとなった場合、国民すべてに、ひらかれているか……となると、問題が多い。もちろん、著作権の問題がからんでくるからである。
ところで、パブリックドメインのものがある。著作権のきれたもの、である。著作権のきれたものについて、たとえば、近代以降の出版物であれば、何も近代デジタルライブラリーばかりではない。他に、デジタル画像のコンテンツのサイトはある。
例:うわづら文庫
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura.html
それから、貴重書画像データ。特に浮世絵のたぐい。これにあまりに厳格な利用規程をあてはめるのはどうであろうか。版画である以上、同じものが、日本・世界に存在する。いくら、国会図書館が、厳重にガードしたとしても、ほぼ同一内容のものが、海外の美術館・博物館で、自由に利用可能、ということもないではない。まったく自由とまではいかなくても、かなり自由で、商業的利用も可能となった場合、日本で制作のコンテンツは、取り残される。
ただ、日本国内で、国内の規定で、作っているにすぎない。だが、だれも、利用しない(いや、利用しようにもできない。)
それが、芸術・創造活動にかかわるものであるとして、まさに、今の我々の時代に生きて、生活のなかに活用されてこそ意味がある。所蔵という名のもとにおける死蔵におわっては、何の意味もない。
コンテンツは誰のものであるのか。著作権者がその著作権を守るためだけにあるものである。これもひとつの考え方であろう。
一方で、著作権はまもりつつも、そのコンテンツが、より社会の創造・表現活動を活性化する方向に利活用できないものか、そうであってこそ、よりコンテンツの価値も高まる、このような発想もあっていいだろう。
ここで、いきなり飛躍していえば、グーグルブックサーチは、コンテンツ産業を衰退させるであろうか、いや、逆に活性化させるであろうか。その根底的な問いかけのなかに、NDLのデジタルコンテンツの有効利用の問いかけもある、と考える次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
やっとネコの本の封筒を送った ― 2009-11-10
2009-11-10 當山日出夫
学会やあれやこれやで忘れてしまっていた、ネコの本(田中貴子さん)、昨日、ようやく、返信用封筒を送った。後は、無事にとどきますように……
ところで、我が家のよいこたち(黒ネコ、複数形)であるが、冬になって寒くなって、あたたかな、ほかほかカーペットのうえで、ならんで寝ている姿ほど、「平和」を感じるときはないのである。そう、ネコというのは、「平和」を実感させてくれる生き物なのである。
しかし、いくら「平和」であるからといって、あまりにも、だらしなく、の~んびりしすぎの状態となると「平和ぼけ」に近くなる……
當山日出夫(とうやまひでお)
学会やあれやこれやで忘れてしまっていた、ネコの本(田中貴子さん)、昨日、ようやく、返信用封筒を送った。後は、無事にとどきますように……
ところで、我が家のよいこたち(黒ネコ、複数形)であるが、冬になって寒くなって、あたたかな、ほかほかカーペットのうえで、ならんで寝ている姿ほど、「平和」を感じるときはないのである。そう、ネコというのは、「平和」を実感させてくれる生き物なのである。
しかし、いくら「平和」であるからといって、あまりにも、だらしなく、の~んびりしすぎの状態となると「平和ぼけ」に近くなる……
當山日出夫(とうやまひでお)
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