じんもんこん2009覚書(4)2010-01-01

2010-01-01 當山日出夫

いよいよ「00年代」にわかれをつげたのだが、「じんもんこん2009」の整理の方が終わらない。はやく「09」を終わりにしたい。

初日の講演会。

The Sparrow Flitts Through : From Humanities Computing to the Digital Humanities

話しは、Geoffery Martin Rockwell さん(Alberta大学)。

「人文学とコンピュータ」の時代から「デジタル・ヒューマニティーズ」へ、ということにでも、なるだろうか。逐次通訳だったので、私でも、非常によくわかったのだが、これは言語についてのこと。内容になると、いまいち、よくわからない、いや、わかるのだが、今の日本の状況と比較して、ではいったいどうすればいいのかがはっきりと見えてこない、そんな印象だった。

話しの中心は、テキスト処理。大型計算機を使ったコンコーダンス作成の時代から始まって、現在のコーパス言語学への流れと理解すればいいだろうか。それに、WEBの利用が重なる。単に人文学研究にコンピュータをつかって「便利」になったという時代が、かつてあった。その時代から、量が質を変えるようになる……その結果、デジタル環境での人文学研究の確立へ、だいたいこのような流れだと理解した。

これは、日本でも同様といえばいえる。むかしの、(いまでは覚えている人も少ないだろうが)「テキストデータベース研究会」の時代から、現在への流れを見ると、単なるコンピュータを使った人文学研究、というレベルから変わってきたことはわかる。

ただ、日本の場合、欧米とちがうのは、それがいい意味でも、悪い意味でも、テキストを中心としないで、画像処理・GISなどをふくんだ多様な展開をしていることにあるだろう。これを、すばらしいと見るかどうか。

あえて否定的に見解をしめせば、日本の場合、「日本語」の特殊性もあって、日本語の自然言語処理という特殊分野が独立してしまった。そして、通常の人文学研究に、そのテキスト処理の技術が還元され活用されているとはいえない。これをマイナスに評価することもできよう。あくまでも人文学の中軸は、テキストの読解にあるのだ、という考え方がないわけではないのであるから。

しかし、その一方で、モーションキャプチャやGISをふくめて、デジタル・ヒューマニティーズ(強いていえば、「人文情報学」)が、なりたちつつある。テキストの呪縛からの解放と、積極的にプラスに評価することもできるだろう。

どのように評価するとしても、日本の場合、テキスト処理を軸にしての人文学でのコンピュータ利用で、革命的な変革がおこっていない、ということだけは確認してよいかと思う。

ところで、印象的だったことを記しておくと……講演において、グーグルブックサーチのことを、すでに大前提に話しをすすめていたこと、である。この点は、日本には該当しない。これは、やはり、日本の状況においては、不幸というべきではないだろうか。

膨大なテキストデータ(その代表が、グーグル)があることを大前提にしている欧米の「デジタル・ヒューマニティーズ」と、テキスト以外に多様な展開をしめしている日本の「人文情報学」。そして、日本からとおざかってしまったグーグルブックサーチという黒船。このようなことを、漠然と思いながら講演を聴いていた次第である。

當山日出夫(とうやまひでお)

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