『中央公論』「活字メディアが消える」2010-05-17

2010-05-17 當山日出夫

『中央公論』の6月号の、特集のひとつが「活字メディアが消える」になっている。それを読んでの感想など、いささか。

特集と行っても、ちいさくて、三つのものからなる。

書籍の電子化は作家という職業をどう変えるか 平野啓一郎
〈アメリカに見る〉新聞がなくなった社会 河内孝
「グーグルベルグの時代」と本・読書の近未来形 対談:宮下志朗/港千尋

まずは、平野啓一郎氏の文章から。まあ、タイトルに「作家」とふくんでいるように、文学者から見ての電子書籍論である。ここで個人的な感想をいえば、電子書籍、デジタル本について語られるとき、ワンパターンで出てくるのが、文学と新聞である。世の中には、もっと他にも本がたくさんあるだろうと思うのだが、なぜか、文学作品、それに、新聞が、デジタル化の影響をうけるものとして登場することが多いようにおもえる。たとえば、教科書、つまり、デジタル教科書を本格的にあつかったような、デジタル書籍論は、あまり目にしないように思えるのだが、どうだろうか。

ここで、視点を新聞(ジャーナリズム)にかぎってみる。この場合、たとえば、佐々木俊尚氏のように、「ブログ論壇」の登場によって、既存の新聞はその存在意義を失ったという立場もあるだろう。

だが、これに対しては、どのような論考・考察・分析を加えるにせよ、そのための一次資料となる取材は、だれがどのようにしておこなうのか、の観点が重要ではないだろうか。この観点から見るかぎり、まだまだ、既存のジャーナリズム(新聞など)には、その一次情報の取材能力において、一般のブログなどがかなわない点があることは確かだろう。

だが、だからといって、そのうえに安閑としているようでは、ジャーナリズム(新聞)の将来はない。たとえば、次のような箇所、アリアナ・ハフィントンの発言として、

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私たちが今日、ここで議論すべきは、どうやって〈既存の〉新聞社を救うか、ではなく、どうやって多様なジャーナリズムを育成し、強化するのか、ということであるべきです。なぜならジャーナリズムの未来は新聞社の未来とは何の関係もないからです。(p.164)

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つまり、一次情報をあつかえるジャーナリズムが育ってくる環境さえととのえば、新聞社の機能は、必ずしも必要ではない、と理解する。

ここで、考えるべきは、新聞社の、通信社化であり、一次情報のニュースに、付加価値をつけて、将来のインターネット社会のなかで、商業的に生き延びるには、どのような方策があるのか、ということかもしれない。あるいは、新聞の論説誌化という方向もあるだろう。

ながくなりそうなので、つづきは次に。

當山日出夫(とうやまひでお)