『中央公論』「活字メディアが消える」その二2010-05-18

2010-05-18 當山日出夫

ここで、『中央公論』を悪く言うつもりはまったくないが、どうして、こう新鮮みのない内容になってしまうのであろうか。いままで、さんざん、各種のブログやTwitterなどで、語られてきたことであるように思える。

強いて考えるならば、『中央公論』というような、総合雑誌であるからこそ、電子書籍というような新しいものについては、かえって、保守的で一歩おくれたような議論の場になってしまうのかもしれない。

気になったこと。一つだけ。
「グーグルベルグの時代」と本・読書の近未来形 対談:宮下志朗/港千尋

ここで、「出版社、図書館はいらない-文豪バルザックの直販方式」と題した箇所がある(p.173)

半分はナルホドと思ってよむのだが、しかし、半分は大事な部分が抜けているなと感じる。まあ、たしかに、本の直販方式というのは可能になるかもしれないが、それは可能性だけであって、実際に「本」(電子書籍であっても)にするには、
・編集
・組版(印刷・製本)
の問題がある。実際に「本」にする印刷業の役割を無視して、電子書籍のこれからははない、というのが私の持論。

いま、論じられているのは、主に、書籍の販売流通ルートについてのこと。これは確かに、電子書籍によって大きく変わるだろう。だが、根本的に変わるとすれば、その製作・執筆において、どのような変化がおこるかを視野にいれた議論のなかにおいてであろうと思われる。つまり、「印刷」を考えなければならない。

知的生産とししての電子書籍、この視点から、語られるようにならないと、本当に電子書籍が定着するとはいえないのではないか。ただ、「買って」「読む」ことだけの変化だけにとどまらないだろう。

その先にあるべき変化を「雑誌」の編集者はどのように考えているのだろうか。電子書籍の時代になっても、『中央公論』のような雑誌を編集する能力は出版社に残るのである…と、はっきりといいきれるのであろうか。このあたり、どうも、はぎれのわるい印象を持ってしまうのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

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