人文情報学ふたたび2010-07-16

2010-07-16 當山日出夫

考えてみれば、人文情報学といっても、あまりにも幅がありすぎるのだろう。そして、その中を個別に見ていくならば、非常なばらつきがある、という段階だと思う。

先に事例として出した韓国での口訣研究は、(くりかえしになるが)世の中にパーソナルコンピュータが登場して使われ始めたときと、その本格的な研究のなりたちが、並行する関係にある。したがって、期せずして、おのずと人文情報学になってしまっている。そうであるこことを、特に意識することなく。

資料がデジタル化され、共有化され、画像データ、釈文(解釈)もデジタルテキストとしてある、これが、当たり前のなかで、研究が構築されてきた。

一方、日本の訓点語学は、デジタルの遙か以前に、研究のピークをむかえている。(どんな研究分野でも、その領域における、勢いというか、たかまりをむかえる時期というものがある。)この意味では、これから、デジタル技術を使おうと思っても、新しい新発見の資料をどんどん電子化していくというのではない。むしろ、かつての研究業績としてある各種の資料(出版されたものなど)を、デジタル技術で、どのようにして、再考察するか、という方向になる。

口訣研究、訓点語研究という、非常にミクロな視点から見た場合、日本と韓国を比較すると、そこにすでにある人文情報学、という考え方になってしまう。それに対して、日本はどうであるか、ということになる。

このような観点から考えたとき、人文情報学のあり方というのは、それぞれの研究分野によるひらきの大きさということが、実際に大きな課題になるだろうと思っている。

デジタル化以前に、ある程度の達成のある領域。
新たに、新出の資料をデジタル化することが、すぐに研究に結びついている領域。
過去の研究業績をデジタル化しることによって、新しい角度から研究の方法を考えようとしなければならない領域。
様々な、微妙な、違いがそこにはあるだろう。

人文情報学の分野において登場する最先端の研究も大事だと思うが、それから、ある意味で取り残されている分野、というものもある。そのようなところまで、目をくばって考えなければ、トータルな意味での人文情報学の将来を考えることにはならないのでは、と思うのであるが、いかがであろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

コメント

_ 永崎 ― 2010-07-20 16時09分39秒

人文情報学を色々な面から広く考えるべきとのこと、まったくその通りだと思います。
つまり、「特に、人文情報学ということを言わないでいい時代が、(隣の国では)すでに来ている。このことも、はっきりと認識しておくべきであろう。」と書いておられたのは「特に、人文情報学ということを言わないで【もデジタルデータを利用した研究を展開できる】時代が、(隣の国では)すでに来ている。このことも、はっきりと認識しておくべきであろう。」という風に理解しておけばよろしいでしょうか。

_ 履歴書 ― 2012-09-15 10時08分57秒

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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